アッパー・ウエスト・サイドにあるリンカーンセンター内の劇場で『真夜中のカーボーイ』を観る機会があった。
初公開は1969年。40年以上前だ。1960年代終わりから70年代にかけて作られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品の一つで、学生時代に高田馬場にある早稲田松竹で『イージー・ライダー』との二本立てで観たのが最初だったと記憶している。
実は監督のジョン・シュレジンジャーが英国人だということは、今日まで知らなかった。てっきり米国人と勝手に思い込んでいた。そう考えてみると、どこか Englishman in New York の視点で描かれているような気がしてくる。
ニューヨークを舞台にしていながらエンパイヤステート・ビルなど摩天楼のショットやセントラクパークを映した場面などは登場しない。マンハッタンを上から見下ろした空撮など一つもない。ニューヨークという街に対する共感の度合いが実に低いのである。
ゲイの中年男性や売春婦、マリワナパーティなどの風俗も描かれているが、英国人であるシュレジンジャーがその当時のニューヨーク、あるいはアメリカに見たのは、社会の底辺で喘ぐ下層階層と中産階級の対比だったのではないかと思った。その時すでに自由の国アメリカは、英国と変わらぬ階層社会だったわけだ。
この映画のなかでもっとも気持ち悪かったのは、ラストの場面で主人公の2人がマイアミ行きのバスの中で乗り合わせる他のアメリカ人乗客たちである。異端者である2人に向ける冷ややかで醒めた視線が、映画が撮影された当時のアメリカ社会の目だったのかどうか分からないけど、シュレジンジャーにはそう写ったのだろう。
アメリカでこの映画が公開された5か月後、『路上』の作者ジャック・ケルアックがフロリダで孤独のなか47歳の生涯を閉じている。