先週ジャマイカで経験したことだが、土産物屋やレストランの店員に比べて、通りのポン引きたちは僕が日本人であることを見事に言い当てた。
その理由を考えてみた。一つには、真剣さの違いが挙げられる。昼飯を食いに店に入ってきた日本人を中国人と間違えようがどうしようが、売上にはほとんど関係しない。だから、学習する必要がない。しかし、ポン引きは違う。最初のつかみで決まるから、相手の出身国を間違えて声をかけたのではシャレにならない。つまり、真剣さが違うのだ。
もうひとつは、これまで経験してきた数だ。いくら真剣だからといっても、これまで見たことがない国出身の人物の国籍を言い当てることはできない。その場合、経験の数がものをいう。おそらく彼らも最初は、日本人と韓国人と中国人の見た目の違いなど判らなかったはずだ。ひとまとまりで「アジア人」という程度の見分け方しかできなかっただろう。しかし、経験値を高めることで自然と違いが分かるようになったに違いない。それは、誰もが自然と行っている認識能力の獲得の仕方だ。
僕が米国に来て3ヵ月近くになり、一つ変わったなと自分で思うのは、アメリカ人の顔が判るようになったことである。具体体にいうと、これまで見た目だけではなかなか判別出来なかった相手の知的レベルや性格が顔でなんとなく判るようになった(その正確さについての証明はできないけど、そう思える)。女はもともと判りやすかった。でも男は顔だけで推し量ることは難しかった。
「人は見かけによらない」という言葉があるが、人は見かけによるのだ。「人は見かけによらない」というのは、例外の存在を忘れないための戒めの言葉であろう。
ただしこのことは、例えば高級なブランド品を身につけているから中身も高級だとか、またその逆に粗末なものをまとっているから人物も卑しいに違いないといった浅薄な判断力のことを言っているのではない。値の張るブランド品を身につけた精神のコジキはたくさんいるし、その逆もまたしかり。しかし、顔つきはウソはつけない、と僕は思っている。
しかしだ。人は見かけによるとしたら、ポン引きに声をかけられた僕は、そういう顔をしていたということになる。