2018年1月30日

議論のネタ

朝日新聞の文化面「語る 人生の贈りもの」欄に椎名誠の話が連載されていて、これが面白い。

中国のタクラマカン砂漠、楼蘭への道中の様子が語られていたのだが、その途中のミーランという村での以下のような話が語られている。
オアシスの村・ミーランにたどり着くと、ポプラが揺れていて風が美しかった。ただトイレが男女一つずつしかないので行列ができる。前も横も仕切りがないので並ぶ人たちに見られながら用を足す。紙で拭くときに人格が崩壊するような屈辱感を抱く。なぜなのだろうと、夜みんなで議論しました。
中国のかつての(今も田舎はそうかもしれない)トイレ事情はよく聞かされるところだが、それをネタに撮影隊の連中と「議論」をするというのが愉快だ。

近頃は大学でさえ、人が集まって熱く議論するということは珍しくなったと思う。若い人たちはもっぱらネット上で上滑りで空虚なコミュニケーションに終始しているように思える。

そこでは人が本来持っている体温のようなものがまったく伝わらない醒めたやり取りだけが流れている。

いまの若者たちの周りにだって、議論のネタなどいくらでもあるはず。時には敢えて屈辱感に身をさらし、それをネタにみんなで議論したらどうか。

1月25日付け朝刊


2018年1月21日

紙と墨で1200年を超える

久々の暖かいいい天気の日曜日だった。その気候に誘われて昼食後、上野へ出かけた。

国立西洋美術館で行われている「北斎とジャポニスム」展を観に行ったのだけど、休日ということもあってか入館までの待ち時間が1時間ちかく。

そこは諦めて、東京国立博物館で 開催中の「仁和寺と御室派のみほとけ」展へ足を運んだ。仁和寺は御室桜で知られる真言密教の寺。888年に完成した寺院で、数々の国宝級の宝物が今に伝えられている。

仏像や絵画もすばらしかったが、今回とりわけ記憶に残ったのが、弘法大師(空海)が真言密教を伝える書物として中国(唐)で写経して持ち帰った経典だ。


三十冊あるところから「三十帖冊子」と呼ばれている、これも国宝である。空海の没年が835年なので、1200年近く昔に書かれ(写され)たものだ。それが今も墨のあと鮮やかに残っていて、私たちは展示ケースのガラス越しではあるけど、誰もがそこで読むことができる。

空海はそのとき、どこで何を想いながら教典を写経していたのだろうと想像させられ、またあらゆるデータがデジタルで記憶される時代ではあるが、記憶媒体としての保存性や閲覧性の面で「紙」にまさるものはないとしみじみ痛感させられた。

振り返るに、我が家には4、50枚のフロッピーディスクに加えてMOやMD、メモリースティック、スマートメディアなどが今も残っている。

早く中のデータを確認して必要なものは移行しなければと思ってはいるが、それらの中には既に再生するための機器(ドライブ)が手元になくなってしまったものがある。

はてさて、それらをどう処理するか・・・。

2018年1月16日

「ヤリタイホウダイ」と「イノチガケ」

昨日、大隈講堂で「劇的なるものをめぐってⅡ」の上映会があった。

早稲田大学の演劇博物館ーー最近いろいろと旗色が悪い早稲田だが、日本の大学で演劇関係の資料をこれだけ取り揃え、また演劇を支えようとする志を持つ演劇専門の研究機関、博物館はここ以外にはないーーが主催するイベントで、SCOT(元早稲田小劇場)の鈴木忠志が登場するということで、楽しみに出かけた。


上映された「劇的なるものをめぐってⅡ」は、早稲田小劇場の舞台の練習を映像記録したもの。撮影されたのはいまから50年近い昔で、鈴木曰く、誰が撮影したか分からない・・・。

主演は当時28歳、芝居を初めてまだ3年という白石加代子である。既にその独特の怪演ぶりを十二分に発揮している。白石あっての鈴木という印象もなきにしもあらず。

鈴木は1939年生まれ。大学に6年在籍、27歳の時に自分が主催する劇団を創設、37歳の時に富山県利賀村に活動の本拠地を移し、それ以来ずっとその地で演劇活動を行っている。

30年ほど前、ある多目的ホールをオープンする仕事に携わっていた頃、鈴木が主催する演劇祭「利賀フェスティバル」を観に冨山を訪ねたことがある。人口数百人という今でいう過疎の村で、村の民家に泊めてもらったことを思い出した。

夜間に屋外劇場で行われた芝居、確か鈴木版の「ディオニソス」だったと思うが、不思議な静かな熱狂感を感じたことを記憶している。

昨日の上映会の後は、鈴木と演劇評論家の渡辺保の対談があった。鈴木は79歳にして、傍目からは衰えることを知らぬ人物である。「ま、なんでも聞いてくれ」から始まったが、実にとうとうと、かつこんこんと自説をまくし立てる。 芝居への圧倒的な知識と経験、尽きぬ情熱が伝わってくる。

今の歌舞伎や能の役者に対して並々ならぬ不満があるようだが、そうしたことに話が流れようとすると渡辺が巧みに路線をもどす。演劇評論家として全方位を相手にしていたい立場からの「忖度」だろうが、そこが物足りなかった。

下記のリンクは鈴木が2015年に書いた文章のひとつだが、彼流のレトリックとはいえ、そこに書かれている「ヤリチホウダイ」やり、しかし「イノチガケ」で臨むその姿勢は今も健在であることを確認した夜。命がけという言葉について何年ぶりかで考えさせられた。

http://www.scot-suzukicompany.com/blog/suzuki/2015-09/#blog000221

終わって外に出たら、あたりは真っ暗だった


2018年1月14日

入試で人生は決まらないよ、君

昨日と今日、全国でセンター試験が行われた。

毎年思うことなんだけど、どうしてこんな時期にやるのだろう。

今年も大寒波で各地が雪に覆われ、交通期間が麻痺して試験会場に時間通り到着出来なかったり、雪で滑って怪我をしたり、寒さで風邪を引いて試験をあきらめたり、さまざまなトラブルが聞こえてきた。

1月のなかばに日本列島が、あるはその一部が寒波に覆われるのは自然現象であって、不思議でもなんでもないのである。 もっと気候のいい11月にでもやればいいと思っている。2ヵ月早めるだけでコンディションは格段に改善する。

ところで、テレビのニュースでセンター試験の受験生が、カメラに向かい「人生を決める試験なので頑張ります!」とインタビューに応えていた。気を引き締めてしっかりやろうというのは結構だが、思わず「入試や大学で人生は決まらないよ」と画面の向こうにいる若者に声をかけたくなった。

こんな当たり前の事が18歳になっても分かってないことに、ふと残念な気分にさせられた。いや、彼のせいではないのだろう。親か高校教師か分からないが、まわりの大人がそうした完全に時代遅れな発想を信じ、受験生に吹き込んできたのだろう。

世の中の大学も(私もその一部分であるが)そうした責任の一端を担っているとも言える。


2018年1月8日

写真は枚数か、手触りか

アマゾン・プライムの無料映画のなかから、映画「アンコール!!」を移動の途中で観た。

映画の原題は、Song for Marion。主演は、テレンス・スタンプとヴァネッサ・レッドグローブ。マリオンは、映画の中でのレッドグローブの役名だ。

妻のマリオンが癌で亡くなった後、アーサーは妻の衣装棚の下に置かれている小さな箱を手に取り、そっと蓋を開けてみる。その中にはアーサーとマリオンが結婚する前に交わした数通の手紙と何枚かの写真が収められていた。
2人の結婚式のスナップや幼い息子と一緒に写った写真・・・。白黒のものも何葉かあり、プリントのサイズもまちまちなのが、長い間のなか、その時々で写し現像された時間の経過を示してるように思えた。
デジタル・フォトは保存や整理は便利だけど、その規格性からは当然ながら、手触りもなければ時間の積み重ねのようなものもそこには感じることができない。
何よりもデジタルで写真を撮るようになってから数ばかり増え、これといった1枚が逆になくなった気がする。写真が本来持っていた力やありがたみがなくなった気がする。

年末年始の休みに、Google フォトで写真を整理した。使い勝手がよく、アルバムなどの編集も実に簡単にできるが、アプリが洗練されていて写真も思い出もただ流れて行ってしまうのが難点といえば難点。

2017年12月29日

ダブルでもトリプルでも好きにやればいい

新聞一面トップの見出しに「副業容認で社員育成」とあった。

それによると、副業を認める企業が日本でも増えてきたというのだが、なぜ今なのか不思議である。紙面では理由として能力の開発、ネットワーキングなどとある。

ならば、なぜ今ごろになって? そうした効用があると理解しているのなら、そうした日本企業はなぜこれまで認めてこなかったのか?

他社の真似と、ブームに多少乗って「我が社は従業員重視のやさしい企業」というイメージを付けたいだけじゃないのかと勘ぐってしまう。

そもそも、時間と避ける労働時間が限られている副業で、あらたな能力を身につけるのは容易なことではない。多くの場合は、せめて現業での専門性に自信のある人が、それを場を変えるなど横展開するのがせいぜいだ。

ただ、副業で稼ぐということは、ひとつの会社の事しか知らないサラリーマンが他流試合を行うようなもので、自分の甘さや視野の狭さ、足りない点に気づくにはよい方法だと思う。

その結果、自分の能力の棚卸しをすることができ、セルフラーニングの大切さに気付き実行するようになれば、確かに能力開発につながるかも。

我が身を振り返れば、ほとんど新入社員の頃から副業をやっていた。本業である広告会社でのコピーライター業に加え、アルバイトで企業の広告制作を頼まれてコピーを書いたり、企画書をまとめていた。付加的な収入もあるが、ただただそうした仕事をたくさんやっていたかったのが理由だ。

自分が「外の世界」でどれだけ人から評価されるか、今でいうエンプロイアビリティを磨きたかったからといえる。

仕事が好きだったのは、学生時代からのことだ。大学3年の時には、日本を代表する大手通信会社の正社員として働いていた。週に3日、夜8時から12時までの仕事だった。正社員だから賞与も出たし、健康保険証ももらっていた。組合にも入り、ストの時には赤い鉢巻きを巻いてシュプレヒコールをあげていたのは爽快だった。

その時は学生の身分が本籍としてあったので、企業での仕事を醒めた目でというか、自分なりに相対化して眺めることができたのが、今にして思えば大きな収穫だったように思う。つねに「ここではないどこか」を探して複数の仕事を重層的にやってきたそのきっかけは、こうした学生時代の就労経験にある。いずれにせよ、大学の授業があまりにつまらなくて始めた仕事だったが、その自分がいま大学教授をやっているのだから、何をか言わんやである。 

 ところで、先の新聞紙面によると「人材の流動性が高い欧米では、副業が定着している。米国では労働力人口の3割にあたる約4400万人が主な仕事とは別にフリーランスとしての収入を持っている。一方で、日本では副業を持つ人は数%にとどまる」とある。

そうした米国の労働者にとって、主な仕事とは別にフリーランスでも働くことは、色々な面で重要なセーフティネットなのである。働く場所も、財布も、ネットワークもひとつに絞らないための知恵だ。

人材の流動性が確保され、働き方も自由な米国では、残業過多が理由で精神的に追い込まれた社員が自殺するといったケースはほとんどないのではないか。その方が、よっぽど人間らしい。

日本では就業規則で副業を禁止している企業が多い。週末や休日、有給休暇の間や就業時間後もなぜ社員を管理しようとするのだろう。休みの日はゆっくり休んで英気を養い、また月曜から会社でバリバリ働けるように、との経営者の考えなのかね。


2017年12月16日

猫は平和の象徴のひとつ

YEBISU GARDEN CINEMAで「猫が教えてくれたこと」が上映中だ。こんなに面白い映画なのに、都内ではこの映画館を入れて今は2館、横浜で1館が上映しているだけなのが残念。


監督はトルコ人女性のジェイダ・トルン。そして舞台はトルコのイスタンブール。イスタンブールには、国際学会に出席するため今年の3月末から4月にかけて訪ねたばかり。映画にはその時の懐かしい風景がたくさん出てきたのも楽しい。

学会出張であっても、時間を見つけてはひとりでとにかく街を歩く。歩くというより彷徨うのがいつもの流儀。その時も繁華街から1本、2本と裏通りに入り、時間の許す限り地図とコンパスをポケットに歩いたが、時折野良(たぶん)猫に出会ったのを印象的に覚えている。

その時、見かけた猫たち・・・

イスタンブールの裏街で会った猫たち(にゃん1)
にゃん2
にゃん3
こちらはトルコのカッパドキアの猫
接近して。。。

この映画を観て実は初めて知ったのは、イスタンブールは他でもない「猫の街」だということ。

地面すれすれの猫視線で、イスタンブールの街で生きる猫たちがとらえられている。岩合光昭の「世界ネコ歩き」をイメージしてもらうといい。


映画の中で、「猫は神の使い」という言葉が出てくる。自立し、自由で勝手、人に媚びることもなく生きているからかな。

街に住む人たちが、実に自然に猫に接してやっているのが微笑ましく、その関係に幸せ感がにじみ出ている。

2017年12月10日

鬼ヶ島とも呼ばれる青ヶ島

週末を使って青ヶ島(東京都青ヶ島村)へ行ってきた。

直通の交通手段はなく、八丈島まで全日空機で飛び、そこから東方航空のヘリコプターでわたる。なかなか人気のルート(島)らしく、ヘリの予約は取りづらい。

何年か前、取材で世話になった若者が青ヶ島小学校で先生をしていると聞き、訪ねようとしたことがあった。その時は天候のため八丈島で足止めをくらい、2日待って結局青ヶ島へは渡れず、八丈島の見学だけして本土へ帰ってきたことがあった。

雨や風はたいていのことでは平気らしいが、ヘリは有視界飛行なので霧のために視界がない日は飛行できないし。フェリーは海がしけると出港できない。

有人島としては伊豆諸島の最南端に位置し、東京都心からは360キロほどの距離。小笠原諸島などに比べればそれほどの距離ではないのだけど、アクセスがよくないために、離島中の離島といった印象がある。

島の周囲に浜辺はなく、ほとんどが垂直に近く切り立った崖で囲まれていて、近づき難いことから鬼が島とも呼ばれていたとか。


上の動画は大凸部と呼ばれる島の最高地点の展望台からの360度。ここから島最大の特徴である二重カルデラの地形がよく観察できる。北には八丈島が望める。

民宿で夕食を済ませた後、尾山展望公園に星空を眺めに出かけた。月の出が午後10時半過ぎの予定なのでそれまでは漆黒の空に星が観察できるはずだったのだが、そらの四分の一位を雲が覆っていたので、見上げる空中に満天の星とはいかなかった。

それでも冬の大三角形(おおいぬ座のシリウス、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン)がきれいに見え、流れ星をいくつも観ることができた。

2017年11月19日

厳然自粛?!

部屋の片付けをしていて出てきた雑誌のひとつ。2008年の「日経ビジネス」誌の別冊である。

その中に東芝の当時の社長、西田氏を取り上げた(ヨイショした)記事が掲載されていた。彼の写真のキャプションに「朝の6時半には出社して、戦略を練る。座右の銘は『厳然自粛』」とある。

厳然自粛とは、「厳然として自を粛す」との意。中村天風が好んだ「六然訓」の一節だ。

今となってはジョーク以外の何ものでもなく、即ゴミ箱に投げ入れた。

2017年11月10日

「クールジャパン」はクールじゃないよ。困ったね。

今週の初め、新聞の一面に「クールジャパン過半未達」という記事が掲載されていた。

クールジャパンは、国の成長戦略の1つ。日本の文化の輸出促進のために設定されたのが、クールジャパン機構という官民ファンドだ。

記事によると、発足から丸4年が経ったが、成果が振るわないと報告されている。投資案件24件のなか、その過半が成果を上げていないか、計画を達成することができていない。

なぜこれが官民ファンドの投資対象になったか、報道資料だけでは理解できないものも多い。

例えば、スカパーJSATが6割、クールジャパン機構が4割を出資いている「WAKUWAKU JAPAN」は、赤字続きで来年3月には減損の可能性がある。そもそも出資をしたクールジャパン機構の社長は、スカパー持ち会社の社外取締役を務めていて、彼が出資案件として持ち込んできた。ガバナンス上の問題はないのか。

ワクワク・ジャパンという企業名(サービス名)が、悲しいほど貧しいセンス。真面目に会社を設立したとはにわかに信じがたいのだが。

そもそも、自分で自分のことをクールと評する「鈍感さ」は、まったくクールではないと思ってしまうのは僕だけだろうか。クールジャパン、恥ずかしい。


日経新聞11月6日朝刊一面

2017年10月30日

不正そのものが競争力低下の原因ではない

日産自動車の国内のすべての工場で、無資格の従業員による新車の完成検査がなされていたことが明らかになった。

続いて神戸製鋼所で、取引先の求める基準に達していない製品の検査データを書き換えていたことも明らかになった。その後、日産と同様に、スバル自動車でも完成車の検査を無資格の検査員が行っていたことが表沙汰になった。

日本を代表する製造業メーカー各社で、そうした不祥事が相次いでいるという報道が新聞などマスコミでなされ、そうした点が国際競争力を急速失いつつある日本の製造業の一つの象徴のように語られている。モラルハザードだと取り上げ、まるで貧すれば鈍す、といった論調なのだ。

しかし、実態はそうだろうか。日産自動車、神戸製鋼所、スバル自動車、いずれの企業もこうした不適切な検査体制やデータ改ざんは最近なって行われたのではなく、以前からなされていたのである。

日産において完成検査の不正は40年前から。スバルも30年以上前からずっと無資格検査員による検査が常態化していたという。神戸製鋼での製品の性能データ改ざんは、会社発表では10年ほど前と言っているが、元社員によれば少なくとも40年以上前からやっていたとされている。

いずれの企業においても長年にわたって行われてきていたが、ただそれらがこれまでは明るみに出なかっただけ。別に最近になって日本企業のモラルが急速に低下したわけではない。むしろ、以前は公にされなかったそうした情報が表に出てくるようになったのは、その面では好ましい方向に向かっていると言うことができる。

人は金槌を手にすると、釘を探す。マスコミはこれらの企業の不正という金槌を手にし、国際競争力の低下という目先の釘に早計に飛び付いてしまった。長年にわたって不正を続けるなど、彼らのモラルダウンはもちろん褒められたものではない。しかし、もの作りの競争力とは直接の関係はなかった。現場がそれだけ実際によいものを作っていたからだ。

近年、日本の製造業が外国の同業者に追い越されているのは、経営者の能力と戦略のなさが理由である。東芝などその典型だ。そこをもっと仔細に分析していかなければ、いつまで経っても表層を撫でているだけで事の本質に迫れはしない。

2017年10月26日

シリウス、輝く

このところ雨が多い。台風も次々と日本周辺を襲う。秋の長雨というが、それにしても毎日しとしとよく雨が降る。降らない日でもどんよりした曇り空の日々が続く。

今日はやっと秋らしい天気の一日だった。これがこのまま続いてくれるとうれしいのだけど、天気予報によると週末はまた雨だとか。

今夜は南の空におおいぬ座のシリウスがひときわきれいに輝き、明るい瞬きを見せている。今の季節、南向きのバルコニーからほぼ正面に見える。その右上にはオリオン座が輝いている。

天気のいい日には、毎晩寝る前にシリウスを眺めるのがここ数年来の僕の習慣。その星までの距離、8.6光年である。

2017年10月19日

「演奏すれば思い出すだろう」

昨晩、今年69歳になったジャクソン・ブラウンのコンサートを、雨のなか渋谷オーチャードホールへ聴きに行った。東京公演の最終日である。

髪の毛には白いものが混じっていて、それなりに年輪を感じさせるところもあったけど、髪型も体型も同じ。声の艶も衰えてはいない。ストーンズやマッカートニーを持ち出すまでもなく、ロックミュージシャンって息が長い。

観客は、オヤジとオバサンが圧倒的だ。70年代あたりに学生時代を過ごし、その頃からJBの曲をよく聴いていたという連中だろう。そういう僕もその一人。彼のコンサートはたぶん3回目。正確には覚えていないが、最初が20年ほど前で、次は10年ほど前だったような気がする。

席は2階席の最前列。ステージ全体が見回せて、意外と良かった。1階席は、オヤジ、オバハンにもかかわらずスタンディングで声援を送る観客たちがいて、もうちょっとそういうのには遠慮したい自分のようなファンには2階がちょうどいい。

バンド(特にギターのグレッグ・リース)もいいし、コーラスの女性2人も張りがあってとても良かった。

彼は日本公演は慣れたものだし、日本のファンがどういった連中かもよく知っていて、緊張感の中にもリラックスした雰囲気が伝わってきた。「ファーザー・オン」を歌い始めるときには、「演奏すれば思い出すだろう」と言って始めたくらい。

この位のゆとり感がいい。もう半世紀近く、ミュージシャンをやってる。その経験と自信があればこそ。
 

2017年10月14日

「増毛のために髪の毛を食べるようなもの」

国内の健康食品・サプリメントの市場規模は、年間1兆6000億円と推計されている。この金額は、日本の出版業界のそのを超える規模を示している。

サプリは病気を治すための薬ではないので、その効果のほどは感覚的なものになる。サプリが効くかどうかは、気分が重要である。

マーケティング的にサプリは、買い手がその商品やサービスに価値があるかどうかは、彼らがそう思うかどうか次第だという「信用財」だといえる。鰯の頭も信心から、の類だ。

だからなのか、グルコサミンサプリの販売で知られているのは、大手の製薬会社と大手のビール会社系のサプリ販売会社である。いずれも知名度だけは抜群の企業だ。それを最大限活かして、利益率もまた抜群にいいサプリを通販で売っている。

「グルコサミンは効かない!」と題する記事を目にした。グルコサミンは、膝や腰の痛みを和らげるとの効用で売られている成分サプリである。

グルコサミンが効くかどうかに関しては、以前から「効く」「効かない」の両論があった。だが、最新の研究でグルコサミンは効かないことが証明された。

研究者によれば「グルコサミンは糖分の一種で、大部分が腸内細菌のエサになって終わりです。一部が小腸で吸収されるかもしれませんが、それば損傷した関節へ到達し、軟骨成分になるとは考えられません」とある。

いわば、グルコサミンのサプリを飲んで関節痛を治そうとするのは「増毛のために髪の毛を食べるようなもの」なのである。これは、おまじないと同じ。

売れればいいのか。科学的に効果が証明されていない成分を、さも効くように表現し続けていいはずはない。病気に苦しむ多くの人たちの弱みにつけ込んでいる、まやかしビジネス。倫理的な問題を感じる。

2017年9月30日

休み方改革とロケット旅行

新聞で「社員の休み方改革加速」という記事を読んだ。

ある新聞社が実施した社長100人アンケートをもとにしたもので、対象となった企業の9割が社員の有給休暇取得率を引き上げる方向性であると回答している。

長時間労働是正が目的とされているが、当時新入社員だった女性が自殺した違法残業事件が起きた電通では、有給休暇取得を義務化する方向で進めているらしい。
そもそも有給休暇は、働く人たちの権利であって義務ではないはず。電通で起きたように実際になされた残業がその通り記録されていなかったり、上司からの圧力によって無理やり残業が行われていたといった点は会社側の責任によって改善がなされなければならない。
だが、そもそも有給休暇を取るかどうかは社員次第。決して義務ではないはず。あくまでも権利である。もし会社が有給休暇取得を義務と考えるのであれば、当初から会社の就業日数を減らせばいいのである。
なぜこんなちぐはぐなことが発生するのだろう。その社長アンケートとやらによると、改善すべき項目として管理職の意識改革が79%、職場風土の改善が78%といった数字が挙げられている。管理職の意識改革は確かに企業が行うべきことかもしれない、しかし職場風土の改善をその企業が自分たちでどのように行うのだろう。
「社員の休み方改革」という名称も変だ。もし企業の視点から言うのであれば、「社員の休ませ方改革」ということになるのだろう。しかし、それもどうもしっくりこない。休もうが休むまいがそれは社員の勝手である。
有給休暇の取り方までなぜ会社が、しかも会社のトップが考えなくてはならないのだろう。これはある意味で、未だ日本の企業では、多くの社員たちの生活のほとんどが会社に依っているということの証左だろう。
同じ新聞の見開き対向面に目をやると、びっくりさせられる記事が目に飛び込んできた。

小さな囲み記事だが、そのタイトルは「ロケットで海外旅行」とある。イーロン・マスクが率いる米国の宇宙開発ベンチャー、スペース X 社が最大240人収容できる超大型ロケットを使って2022年以降に長距離旅客輸送に進出することを発表した。

最高時速は2万7000km で、宇宙空間を通過し地球上の主要都市を30分程度で結ぶ。実現すれば、東京とアジアの主要都市は約30分前後で移動できる。ニューヨークとロサンゼルス間は25分。山手線で新宿駅から新橋駅まで移動するのと同じ時間である。

今後、大都市の沿岸に小規模な海上発着台を建設するという構想である。まさに夢のような話にも聞こえるが、2022年といえばわずか5年後の話。スペース X 社の社員や経営者は、社員の休み方改革など考えてる暇は微塵もないはずだ。

経営者がやらなければならないことは、社員の有給休暇取得率を気にしたりそれをいかに上げるかに時間を割くのではなく、グーグルのエリック・シュミットらがいう「スマート・クリエイティブ」という、新しいやり方を自分でつくり出すことができる人材を社内に増殖させること。そして彼らに責任と自由と彼らが楽しめる仕事を与え、思いっきりそれに没頭させることだ。

社長が社員の勤務形態を考えることに時間を費やしたり、出退管理を気にしていてはいかんのである。そんな企業は早晩市場から消えることになる。

2017年9月29日

文部科学省って天才?

今日の新聞記事から。

文科省が本日、東京23区内の私立大学は学生の定員を増やすこともはまかり成らぬという正式の告示を出した。

その理由は、彼らによると「学生の過度の東京集中により地方大学の経営悪化や、東京圏周縁で大学が撤退した地域の衰退が懸念される」からとしている。

つまり、何だ・・・、東京の大学(それもなぜか私立大学だけ)の定員を抑えることで、若者を地方に留めおくことができ、ひいてはそのことで地方創成が実現できると考えているわけだ。

冗談のような話。発想がけちくさいというか。いつもながらに、文科省の役人らの思考回路はショートしている。

都内の大学の定員増分に入らなかった受験生たちが、なぜ地元にそのまま残ると考えるのだろうか。東京でなくても京都や大阪など、大学をたくさん抱える都市はたくさんあるしね。 

そのうち、文科省からの告示で、20歳未満の人が東京以外から都内に入る際には関所か何かが設けられ、そこで都内での滞在期間が明記された通行手形を見せることを要求されたり、そこで都内滞在日数に応じて通行料が課せられたりするようになったりして。

彼らの発想を敷衍するなら、東京都内から大学を無くしていけば人口の一極集中がなくなり地方が栄えていく、という話になるが、役人はどうしてこんな勘違いに自分たちで気がつかないのだろう。

都内への人口集中をそれほどまでして減らしたいのなら、まずはさっさと文科省の役人を束にして都内から地方へ放り出すことだ。どこもいらないというだろうが。

さらに付け加えるならば、都内の大学の定員増を認めないことで影響が出るのは、その追加定員分に入らなかった受験生である。あくまで入試学力の面だけで述べるが、その程度の学力の若者たちだ。

そうした若者を、東京の大学に入学できないようにしてまで地方に留めおいて何があるのか。地方の発展や隆盛を期待するのであれば、人物、学力とも第一級の若者を東京なり外国でしっかり学ばせ、仕事なども経験させた後、彼らが地元に戻ってきて活躍したいと思えるような地元の街づくりと施策を考えるべきではないか。

いずれにせよ、こうしたことは国がああだこうだということでなく、各自治体が知恵を絞るしかない。


2017年9月18日

死亡奨励金

今日は敬老の日ということで、ある新聞一面の見出しの一つは「65歳以上3514万人 過去最多、人口の27.7%」だった。
65歳以上の高齢者人口は前年より57万人増え、過去最高を記録。90歳以上は初めて200万人を超えたという。これは国勢調査を基にした人口推計である。
国立社会保障・人口問題研究所の推計では、第2次ベビーブーム世代が65歳以上になる2040年には総人口の35.3%が高齢者となる見通し。
つまり、これから20年あまり、毎年敬老の日の新聞の見出しは「65歳以上 3○○○万人 過去最多、人口の○○%」という見出しが続くことになるのだろうか。それとも新聞社がその記事のアホらしさに気づいて、途中で止めるだろうか。

本来、敬老とは老人を敬うこと。祝日法によれば、敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことが趣旨とされている。

しかし、今日の新聞記事にもあるように、高齢者人口の増加と一緒に必ず語られることは、医療費や介護にかかる費用が年々膨らみ続けていて下の世代にますますしわ寄せが来ていること、そしてこのままの制度は維持できないということ。老人への敬愛や長寿のお祝いなど、すっかり片隅に追いやられている。

人が年をとり高齢者になることは、もうおめでたいことではなく、歓迎されるものでもなくなってきている。高齢者=社会の負担ということか。

社会保障の内容が細っていくに従って自己負担額が増加し、これまでのような医療や介護を特に貧困者は受けられなくなる。 

そのうち高齢者になる65歳を境に、死んだら国から奨励金か何かが残された者に支払われるようになるかもしれない。もちろん早ければ早いほど制度的に優遇され、65歳死亡時での受給額が最大だ。

そうして「国民のみなさん、(高齢者になったら)早く死んだ方がトクですよ〜」と国が巧妙に国民へ刷り込みを始めるようになる。もちろん政治家や官僚、大金持ちは別枠で、そうした連中はいつまでも長寿を目指し権力に汲々とし続ける。

近い将来的には、金や権力を持つ者と持たない者の間で、新たな格差である寿命格差が生まれてくるに違いないと見ている。

2017年9月17日

東京の観光振興を考える有識者会議 8月

先月出席した東京都の会議の様子がYouTubeに掲載されているのを見つけた。



2017年9月9日

単なる欠陥駅では済まない

東横線&副都心線を通勤でよく利用する。そのため渋谷駅は通過はしているが、そこで降りることはめったにない。あまり降りたくないとも思っている。

だが、取材先の企業が渋谷にあれば、仕方なくそこで降りることになる。つい先日、ある企業を訪ねるため東横線の渋谷駅で電車を降り、構内見取り図で自分が目指す方面へ出る出口が15番であることを確認。掲示を探すと14から16の出口方面への矢印があったので、それに沿って進む。

ところが、14番出口の隣が16番になっている。15番出口がない。たまたま近くに東急電鉄の定期券売場を見つけたので、そこに飛び込みどうなっているのか聞いた。14と16とはまったくかけ離れた場所に15があることを案内された。なぜそうなっているのか尋ねたら、「この駅は迷路のようになってしまっていて、複雑すぎて僕たちにもよく分かりません」と言う。

駅員からしてこうだ。 それでも通勤や通学で毎日使用している客は、それなりに「慣れて」麻痺し、そんなものと思っているのかもしれない。

問題は、たまたまこの駅を利用した不慣れな客だ。特に、視覚障害のある人にとっては、この駅は間違いなく地獄である。

案内や表示が不備で統一感がなく、階層が地下何階にも分かれ、階段やホームが信じられないほど狭いこの駅を目が見えない状況で移動できたらオリンピックものだ。他線へのスムーズな乗換などまず不可能。初めて日本に来た海外からの観光客たちも、間違いなく途方に暮れる。

新宿駅や池袋駅、東京駅といった他のターミナル駅に比べて白杖の人や車椅子の人が極端に少ないのは、そうしたことが理由なのだ。彼らは自らのことであり、よく知っている。

構造が分かりづらく不親切なだけでない、視覚障害者用の点字ブロックの設置の仕方もおかしい。下の写真では、一般の歩行者用通路は左側通行で両方向の流れが設置されていて対面でぶつからないようにしているが、点字ブロックは片側に一本だけしかない。


しかも、杖を頼りにあるく盲人用の点字ブロックと建物の壁面は、50センチも離れておらず、危険極まりない。障害者は端っこを歩いてろ、と言わんばかりである。

バリアフリー? いちおうちゃんとやってまっせ、という電鉄会社の言い訳だけがそこに見える。

こうした駅の仕組みが視覚障害者などにとって不都合であることを具体的な例を挙げて駅員に説明したが、その時返ってきたのが先の「複雑すぎて、僕たちにもよく分かりません」という情けない返答だった。

こんなとんでもない駅が今どきあること自体が許せない気分だ。入場無料のStation Jazzも結構だが、その前にすぐにでもやることがあるだろう。

2017年9月3日

月を見てから寝床に入る

しばらく前から、睡眠を管理するためのアプリを使っている。

寝入りばなは静かなBGMで眠りを誘い、朝は設定した目覚まし時間を参考にしながらレム睡眠のタイミングで起こしてくれる。睡眠中の覚醒の波(度合い)も記録し、朝目覚めたときにその日の睡眠の快眠度を数値で示してくれる。

スマホは厳密な診断機器ではないので、いずれの値もどこまで正確なものかわからないが、自分の睡眠の質を改善していくための参考にはなると思っている。

そのアプリの診断のひとつが、月齢と快眠度の関係。僕の場合は、月齢で7から23あたりが快眠度が高いことがはっきりと分かる。三日月が上弦の月になる頃から下弦の月にいたる手前あたりである。


ただし、月の満ち欠けと人体の関係についての科学的な証明はなされていない。

スイスのバーゼル大学で行われた研究では、満月の時に人間の睡眠は乱されるとの研究結果が出ている。僕の場合は、満月の頃ぐっすり眠れているらしく、それとは傾向が逆だ。