正月2日は、清水ミチコ リサイタル@日本武道館。今年のテーマは「カニカマの夕べ」。
ばかばかしくも楽しく、大いに笑った。ユーミンならぬユーミソなど、擬き(カニカマ)としての自信あふれるステージだった。
毎年、元旦に経済団体のお偉いさんへの年頭インタビューが公開される。
今年のそれだが、 経団連会長の十倉というおっさんが「企業の研修や教育だけでなく、個々人に届くようなリスキリングのやり方も考える必要がある」と述べていた。
かつては、経団連の会長は何かと言えば「イノベーション」と威勢よく言っていたのがいささか様変わりしたものである。イノベーションからリスキリングへ、大言から足下への転換か。ただどちらにしても意味をちゃんと理解しているようには思えないけど。
大晦日に年越し蕎麦を食いながら読んだ(我ながら行儀がわるいね)2022年の最後の本が、矢崎泰久と和田誠の『夢の砦』だった。
稀代のジャーナリスト・編集者と天才イラストレーターが作った雑誌『話の特集』にまつわるさまざまな話や、そこに集った多彩な才能溢れる人たちを描いたゴキゲンな本だ。
『夢の砦』という同名の本に、小林信彦が(たしか)1980年代の初頭に書いたものがあって、こちらも雑誌の編集と制作をめぐる素敵な本だったけど、まったく別もの。
矢崎らのその本の最後に、矢崎が2019年に亡くなった和田への追悼文を書いている。もとは『ユリイカ』2020年1月号に掲載されたもので、雑誌を一緒に作ってきた同志である和田への愛情溢れる文章と語りにほろりとしたのだが、けさの新聞で矢崎が暮れに亡くなっていたことを知らされた。
本の著者紹介には「卒寿を目前にした現在も生涯現役のフリーランス・ジャーナリストを志して健筆をふるう」とあったのに、残念である。
学生時代からの友人であるシンガポール人のHから、日本人のクリスマスの過ごし方についての記事が送られてきた。
「クリスマスにKFCで食事をするという、日本人のこの習慣は本当なのか。実に面白い」と彼のコメントがついていた。
BBCのウェブサイトの記事だ。そこには、毎年、日本では360万もの家族がクリスマスにケンタッキー・フライド・チキンの店に押し寄せると紹介されている。
日本人はKFCが大好きらしく、クリスマス・シーズンには何週間も前から店を予約しておかねばならず、予約がないと何時間も彼らは列にならぶことになる、とも書いてある。
日本にある1100店あまりの中にはそうした店もあるのかも知れないが、それが一般的とは思えない。KFC1店あたり平均3300家族がクリスマスに訪れるというのは、誇張されてないか。
英国人にしてみれば、キリスト教徒ではない日本人が宗教的意味を考えることもなくクリスマスを単なる商業主義の行事にしているのが不可解、そして不愉快なんだろう。
彼らのそうした感情は分からないではないが、こう誇張して面白おかしく書きたてるようなものではないと思う、とHに返信しておいた。
自動車ディーラーに行き、これからの季節に備えてタイヤをスタッドレスに替えてもらった。
ガレージで作業をしてもらっている間、いつもすぐ近くにある園芸店で買い物がてら時間を潰すことにしている。
その店の雑貨コーナーに展示していたおにぎりを逆さにしたような形の時計に目がとまり、面白いなと思い、つい購入した。
ディーラーでタイヤ交換の受付を待っている間、テーブルの上にあったメーカー発行の冊子をめくっていたところ、そこにそのメーカーがかつて開発していたロータリー・エンジンの特集記事が掲載されていたのだ。
その独特のおにぎり型をしたエンジンのローターが無意識のうちに頭の片隅にあり、園芸店で時計に手を伸ばさせたのだろう。なるほどである。
ネットフリックスで「グラス・オニオン」が公開されている。ばかばかしくも目が離せないジェットコースター気分が味わえる映画。
舞台はギリシャのとある島。イーロン・マスクをモデルとしている超富豪が所有するそのプライベート・アイランドへ8人の男女が招かれ巻き起こるさまざまな騒動が描かれている。
ストーリーの節々で使われる「アイテム」が気になる。FAX、昆布茶、ビートルズ、D・ボウイ、ヒュー・グラント、ヨー・ヨー・マ、セリーナ・ウィリアムズ、ジャージパンツ、iPad、Googleアラート、The Innovator's Dilemma、紙ナプキン、Disruption、そしてモナリザ。
世の中的にはもう終わってしまった通信機器と考えられているファクスが効果的に使われている。これはSNSやDXなんて考え方へのカウンターなんだろうが、この映画を観ていてファクスの面白さ、使い勝手をあらためて再確認した。 ファクス、いいじゃない。
そんな点も含め、この映画にはジョン・レノンが「グラス・オニオン」の歌詞に込めた諧謔と悪戯の精神がたっぷり込められている。
クリスマス気分で賑わう横浜。高島屋の前を通った際、托鉢をする坊さんを見かけた。新型コロナの感染拡大以来、そうした人は見かけたことがなかったので珍しかった。
2時間ほどのちに再度見かけた彼は、先ほどと寸分違わぬ場所に寸分違わぬ様子で立っていた。脇にはキャリーバッグがある。どこから来たんだろうという興味がわき、幾ばくかの布施を喜捨し話しかけたところ、長野県の小布施町の臨済宗の寺からだという。
人々がスマホで支払いをするようになってきている今の時代に、托鉢で金を受け取れるのかどうか訊ねてみた。(余計なお世話だ)
彼は「お気持ちだけで」と応えた。それはそうなんだろうが、托鉢僧に紙幣を渡す通りがかりの人は多くないはず。実際、彼の持っていた器には紙幣はなく、100円玉と500円玉だけがそこにはあった。なぜか10円玉、50円玉は1枚もなかった。
・・・なんてことを考えながら帰宅後、托鉢について調べてみると、今日出会った坊さんはほぼ間違いなくニセ者だということが分かった。
まずは彼の装い、禅宗の僧が托鉢する際に身につける袈裟をまとっていなかった。着物の下にタートルネックのセーターを着込んでいた。読経をまったくしていなかった。そして、そもそも彼が言った臨済宗の寺は小布施町に存在しなかった。
この男は、何か理由があって托鉢僧を装って小遣い稼ぎ、あるいは生活費稼ぎをしていたのだろう。
騙されて金を渡してやったことになるが、寒風のなか立ち続けていたあの男には何か訳があったはずで、それを思うとそうしてやってよかったと思っている。
よく見ると、なりがおかしい。東京の合羽橋で買った托鉢セットだろう |
ところで、お金が電子化されていく時代に托鉢僧が存在し続けるのか気になったことがきっかけだったのだが、托鉢はあくまで修行が目的の行為であることを考えれば、本来はお布施の有無など関係ないのだろう。つまり、本当の托鉢はなくならないってことだ。
今度は本物の托鉢僧にヒアリングしてみたい。でも、話しかけると修行の邪魔か。
毎年12月3日は、国際障害者デー。障害者問題への理解促進、障害者が人間らしい生活を送る権利とその補助の確保を目的とした国際的な記念日だ。
それにタイミングを合わせてか、アップルが新しいコマーシャルを作った。「I am the greatest」と訴える音楽をバックにさまざまな障害者が登場する。どの障害者も活き活きしている。
仕事に向かう彼ら、化粧をする彼ら、クルマを運転する彼ら、アーティストとして作品作りに打ち込む彼ら、仲間と一緒に学校でチアリーディングをする彼ら、ステージで演奏する彼ら。
社会の中に溶け込んでいく障害者らの姿と、それをサポートするアップルのアプリ。障害者の姿を紹介するとともに、ボイスコントロールや音声認識、ドア検知などの最先端機能をうまく見る者に理解させている点でもよくできている。
歌の中で繰り返される「I am the greatest」は、モハメド・アリの言葉。そしてコマーシャルの最後のキメのメッセージ「I shook the world」も彼の言葉である。先日、ニュースから高齢者の年収について書いたが、それで思い出したのがOECDの調査による平均賃金の主要国比較である。
1990年からの推移をみると、日本はこの30年間ほぼフラット。その理由は、上の図を見れば推測できる。図に示された6つの国と比較すれば明らかだろうが、経済的にこの30年間成長していない。
日本は30年前から、つまりZ世代が生まれる前から経済的にはずーとその場で足踏みを続けている。その場で足踏みどころか、高度成長期を懐かしがって後ろを向いたままかもしれない。
ところで、国民一人当たりの名目GDPを見てみると、日本のそれは今年台湾に、来年韓国の後塵を拝するようなると予測されている(日本経済研究センターの昨日の発表)。アジアのなかで、日本はすでにシンガポールと香港に一人当たりGDPで抜かれている。
2021年の日本の一人当たりGDPは世界ランキングでは第27位。2000年のそれは(今では信じられないが)下図が示すとおり世界第2位だった。
かつて世界第2位の経済大国を謳歌し、「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」と称えられた国の自分たちが直面する<ダメになった自分たち>をどう受け入れて進んで行けるかである。
一番気を付けなければならないのは、経済指標の数字などではなく、アイデンティティと自信を失い、今以上に現状維持へのバイアスを強くしていく脆弱な日本国民の姿とその将来だ。雪崩を打って坂道を転がり落ちていく姿が浮かんでくる。
日銀が金融緩和策を継続することで円安が続き、こうした将来予想が一気に早まっている。
昨日、厚生労働省が後期高齢者の医療保険料の引き上げ方針を決めた。
発表によると年収によって保険料が増加するタイミングが異なっている。年収211万円を越える人は2024年度からだが、年収211万円以下の人は1年だけ「猶予」措置がなされて2025年度からとなっている(年収80万円の人は増加額なし)。
気になったのは、「低所得者層は据え置き、年収200万円程度の中間層は負担増を一年猶予する」との説明。
年収200万円の人を国は「中間層」と考えているようだが、これって月収にすると17万円弱。これは、<すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する>と定めた憲法25条に適合しているのだろうか。
確かに最低限度は満たしているかもしれないが、真に健康的で文化的を長期的に営むことが可能になっているかは疑問だ。この年収を中間層だとして社会保障の負担増を押し付けるのは問題ではないのか。
八王子で都立大の宮台真司が暴漢に襲われた件で、犯行から2週間過ぎてやっと犯人と思われる人物の写真が公開された。
公開された写真は、講義後の宮台が駐車場に向かう途中のカメラが捕らえた犯人とおぼしき男の画像だ。警視庁捜査一課によれば、身長が180〜190センチ、オレンジ色のニット帽を被り、黒っぽいジャンパーとズボンを身につけ、リュックサックを肩にマスクをしているとか。
これで犯人の糸口が見つかると警視庁は考えているのか。犯人の身長は犯行から2週間たってもかわらないけど、ニット帽もジャンパーもリュックもすでに処分されてるだろう。
自分たちの捜査が思うように進まず糸口がこのままでは見つけられないからと、やっと公開捜査に踏み切った。遅きに失している。適切な初動判断が行われなかった結果だ。
これで真犯人が見つかるのだろうか、実に心許ない。
映画『あのこと』は、2022年度のノーベル文学賞を受賞したフランスの作家、アニー・エルノーの自伝的小説 L'événement が原作。日本では「事件」という題名で出版されている。英語版はEvent。
先日の『アムステルダム』とは対照的にテーマとストーリーは極めてシンプル。1960年代のフランスで予期せぬ妊娠をした一人の女子大生が、いかにして堕胎をするかというのがすべて。
当時のフランスでは人工妊娠中絶は違法。本人だけでなく医師も、それを幇助した者も罰せられることになっていた。
未婚の母になれば学業を続けることは無理。自分が思い描いた将来は遠のいて行ってしまう。かといって医師らは罪に問われるのを避けるため中絶手術を拒む。彼女は、最後には自分自身で片を付けることになる。
この作品は、どうしようもなく痛かった映画。これほど身を固くして観た映画は他にちょっと思い出せない。
今年6月、米国において共和党支持者が半数以上を占める連邦最高裁が、それまで合憲としてきた人工妊娠中絶を違憲とした判決を行ったことを否が応でも思い出す。
この作品は焦点を中絶に絞ったうえで、法律が人の生き方を不条理に縛っていること、社会が個人を抑圧し、その自由と未来を奪う同調圧力に満ちていることをシンボリックに表している。省みられなければならない社会的規範はその他にもたくさんある、ということだろう。
本作でオードレイ・ディヴァン監督はベネチア映画祭金獅子賞を獲得した。
映画『アムステルダム』は、錯綜するストーリーを負うだけでも大変だった。原作は1933年に米国で発覚した実際の政治陰謀事件を題材にしているとはいえ、日本では満州事変の勃発から2年後という90年ほど前の時代であり、正直言ってそうした背景にリアリティを持てなかった。
人種問題や富豪の腐敗、忍びこむファシズムの空気などを現代に結びつけて提示しようという意図もありそうだが、いかんせん話が入り組んでいる。重要な役回りの退役軍人の集まりなんてのも、日本とは状況が違う。
戦場で目を負傷して義眼をいれた主人公のクリスチャン・ベールは真面目に演じているのか、コメディタッチでやっているのか。全体的にエンターテイメント色を醸し出そうとしながらも入り組んだストーリーラインを観客に追わすことで、笑いが表から引けてしまっていた。
マイク・マイヤーズが出ているのを見られたのが収穫。
これはある銀行の副頭取だった人物が、再建のために移った鉄道会社の経営者に就いた際に社内外で言っていた言葉とか。
よく耳にする言葉で、「いまは耐え忍ぼう、やがては希望の光が差してくる」と人を鼓舞するときに用いられる言い回しだが、実際は必ずしもそうではない。
『More Very Finnish Problems』というペーパーバックをめくっていたら、When it's so dark, you don't know whether you've overslept or under-slept(こんなに暗いと、寝坊したのか寝不足なのかわからなくなる) と題する文章が目に付いた。
この本、フィンランドのヘルシンキ空港で乗り継ぎの際に時間つぶしのためにキオスクで買った一冊。
なぜフィンランドかというと、昨日のニュースで、3年ぶりにフィンランドからサンタクロースがフィンエアーに乗って(トナカイではなく)成田空港に到着したというのを見たから。
毎日新聞社のサイトから |
先の本によると、10月から3月までフィンランドの北部ラップランドでは日が昇らない。
そのためこの季節には、SAD(Seasonal Affective Disorder 季節性感情障害)に悩まされる人が多く発生する。これは、うつ病のようなもの。症状として疲労感、睡眠過多、倦怠感、糖分欲求、悲壮感、罪悪感、自尊心の喪失、短気、社交の回避傾向などが現れる。
かなり深刻だ。だから、フィンランドに限らず、北欧諸国では長く暗い季節に自殺者が多く発生するんだろう。夜が過ぎてもいつまでたっても日が昇らないからだ。それも何ヶ月という期間にわたって。
「朝の来ない夜はない」が口癖の某鉄道グループの経営者は、そうやって社員と自分を励ましているのだろうが、容易に朝がくることを求めてしまうと症状はさらに悪化する。
何日も何ヶ月も日が昇らなくても、平気の平左で生きていくしかないことだってよくある。
そうした耐性が、これからの日本人には強く求められるようになる。たとえ朝が来なくても、人は生きていかなければならない。気の利いた台詞は、時として状態を悪化させるだけである。
現実から目を背けた、一見「気の利いた」台詞によるマネジメントは、周りの未来を狂わせることになる。
俳句は技術だと俳人・夏井いつきは言う。
すぐみんな言うんだよ
「感性」とか「感覚」とか「センス」とか
それの部分がないとは言わないけど
でも言葉を組み立てていく作業というのは
もう単なる技術
技術は身につけられるんです
先日見たNHKの番組のなかでの彼女のコメント。その通りと膝を打った。俳句だけじゃない。詩も短歌も技術がいる。どれもセンスだけじゃだめだろう。
だけど、その技術を身につけられるかどうかは、センスのあるなしに左右される。
一方、経営はセンスだ。マーケティングもセンスだ。知識は基本的なところで必須だが、知識をいくらノー味噌に詰め込んでもセンスのない奴はやっぱりだめ。
だから、記憶力自慢の偏差値秀才が経営学をどれだけ学んでも、それだけでは優れた経営者にはなれない。輝くマーケターにもなれない。
もし知識と技術だけでいい経営やいいマーケティングができるなら、早晩、生身の人間はいらなくなるはず。だけど絶対そうはならない。だから面白い。
昨日、誕生日だった。カッパ年齢で36歳になった。カッパ年齢は、わが家が用いている独特な年齢の数え方。https://tatsukimura.blogspot.com/2012/11/k46.html
わが師、スピノザ |
企業が行う採用試験のウェブテストを大学4年生の替え玉として受検したという電力会社の社員が逮捕された。
その男、ウェブテスト代行を掲げるサイトで「京都大学大学院卒/元外コン勤務/ウェブテ請負経験4年、1人で4000件以上、通過率95%以上・・・」と掲載していたが、外コンというのは外資系コンサルティングのことか。ウェブテとはウェブテストのことか。文字数の制限があるわけでもないのに妙に縮めて言うやつは、まず胡散くさい。
その容疑者の実績(?)は、4年間で4000件以上を替え玉したというからスゴイ。これだけ数をこなせば、間違いなくベテランだ。どうせテスト業者が作問する内容など似たり寄ったりだろうから、慣れてしまえば目をつむっていても解答できるに違いない。通過率95%は嘘じゃないかもしれない。
さらに驚いたのは、依頼した方の学生は企業23社のウェブテストを彼に替え玉させたこと。23社(あるいはそれ以上)も受けるんかい。たいへんだな〜。
企業での導入が始まって20年ほどになるらしい。今では上場企業の約8割がウェブテストを実施しているとか。
そして企業へのアンケートの結果によると、採用担当者の約6割がこの種のテストに関して不正行為の懸念があると回答しているが、彼らはSNS上にウェブ受検代行を謳うサイトが溢れているのも知っていながらそのやり方を延々と続けている。
テストを実施する理由を企業の担当者は、入社後の適切な配属のための貴重な情報などと言っているが、そうであれば採用後に行えばいい。
結局、問題を作成したり、その実施を請け負っている就職関連企業が儲けているだけのはなし。企業は恰好のカモになり、学生は不要で面倒な手間を負わされているのが実態だ。
人事部による4月の一括採用なんかやっているからだろうな。発想を変えて、人を必要としてる部署が人を募集する。「こんな奴が欲しい」ときちんと考えている現場担当者が候補者を選ぶようにすればいい。人事部門は面倒な手続き等のサポート業務を行う。そして採用後は、インターンとしてある一定期間その人物の働き方を見て、本採用の条件等を判断すればいい。
旧弊から抜け出せず、抜け出そうともせず、誰もがヘンだと感じながらぬるま湯から出ようとしない。採用する企業、採用されたい学生、その間で儲けようとする就職関連業者、学生につけ込むテスト代行者、どれもこれもだ。
えっ? 大学はどうなってるのかって?
そうだね、そもそも企業がこうしたテストを大学卒業予定者に課すのは、大学の成績証明書の中身が社会で信用されていないから。
確かに大学の成績など信用できないのが、昔からの一般的な日本の現状だ。わが国の大学教育の構造的問題。そこを少しずつでも変えていかないことには始まらない。
「リスキリング」って言葉が今話題らしい。用語としての「リスキリング」が文字通り意味するところは、スキルを再取得することなのかね。こうしたカタカナ言葉ってウサン臭さプンプンでいいね。
で、われらが岸田ソーリが目玉施策のひとつに掲げ、「今後5年間で1兆円を投資する」とか。つくづく何考えてるんだろうと思う。大人の学びは千差万別。だから実体があるかどうかなど関係なく何でもありになってしまい、そこに触手を伸ばす有象無象の業者による刈り取り場になる。
その1兆円、全国の小中学校の給食無料化や、介護施設で働く人たちへの所得補償に充ててくれたらいいのに。きちんとした給食は、子供たちの体だけでなく心も育てる大切なもの。日本の将来のために一番必要なことだから。
介護従事者への所得補償は、われわれの社会にとって不可欠な仕事であるにもかかわらず、全国の労働者が得ている所得に比較して低く抑えられ、しかも制度にがんじがらめにされ、またその仕事の特性から資本の論理がはたらかない領域だから。
需要と供給だけで介護ビジネスのすべての価格が決まるわけではないし、またそうなってはいけない。だから国の協力的介入が必要なのである。
さてリスキリングだが、リスキリングをいま声高に叫んでいる人ほど、日々の中で学びから遠かった人たちが多い。大人になってからの学習や読書を少なくとも意識的にやって来なかった連中だ。
一方、リ・ス・キ・リ・ン・グ、だなんて力まなくても、僕の周囲のまとも人たちはみんないつだって学んでいる。日々の読書を楽しみ、新聞に目を通し、話題になっているトピックをもとに人と議論し、映画館や美術館、劇場に時間を見つけて足を運び、一日の終わりには日記と向き合い内省を忘れない。自分に求められる具体的な技能があると気づけば、金と時間を注いで集中的に身につけることをいとわない。
こうしたことは、当たり前のこと。彼らはみんな、何十年も前から変わらずそうした習慣を続けている。朝起きて歯を磨くのとおなじ。
いまさら国が「リスキリングが重要」だなんて、まるで「健康に気を付けましょう」とか「規則正しい生活をしましょう」などと言われているようで、まったくもって大きなお世話。
新聞などでは、リスキリングは必ず括弧付きで「学び直し」と表記されている。肝心なのは、<学び直し>(Re-skilling)じゃなく、<継続的学び>(Continuous Learning)なのだ。
そもそもこの数年間、何かあるとイノベーション、イノベーションと叫んでいたのが、今ではリスキリングか。ずいぶんとスケール・ダウンしたもんだ。