作家の小川糸さんが、「屈斜路湖の恍惚」と題した文章を書いていた。彼女は昨夏の終わりごろ屈斜路湖畔の宿に泊まり、そして湖を裸で泳いだという。それを目当てに出かけたわけではなく、たまたまそうした機会があったということ。
気持ちよかった。皮膚の中に埋まっているひとつひとつの細胞が弾け、歓喜の雄叫びを上げる。それは、半世紀近く生きてきた人生の中で、最大の開放感だった。
というくらいだから、その気持ちよさはよっぽどだったに違いない。そして、
私というひとりの人間が、地球に解き放たれたかのようで、自然と一体になるというのはこのことだったかと納得した。
ほとんど恍惚とした宗教観のようだ。彼女は翌朝、夜明け前に起き出してもう一度屈斜路湖に裸で入った。
自分の中にうずくまっていた野生が、じょじょに目覚めるのを実感した。
いい経験をされたと思う。湖に裸で入り泳ぐだけのこと、ただそれだけで自分の中の何かが変わるのを実感でき、周りの自然との一体感を身につけ、そして野生へと還っていけるなんて素敵だ。
信じてもらえないかも知れないが、子どもの頃は早起きだった。夏休みなんかは、とりわけ毎朝すごく早起きしていた。そして、ときおり朝靄の中、家の裏手にある山に分け入り、自由勝手に歩き回っていた。その山あいの谷間に、周囲の山からの湧き水を称えた池があった。
よくそこで裸で泳いだ。そのときの冷たい水の気持ちよさは忘れられない。快感と少しだけいけないことをしているんじゃないかという罪の意識のようなものがあった。
水はエメラルド色で、広々とした池の底は見えない。池の真ん中あたりまで泳ぎくると、下から何か得体の知れないものが現れて、足首を捕まれて池底へ引き込まれるような感覚に襲われた。
快感と開放感、自然との一体感、孤独感とちょっぴりスリルも。だから、小川さんの屈斜路湖ひとり全裸水泳の文章に僕も思わず引き込まれてしまった。