2022年10月1日

これは、羊をめぐる冒険だ

横浜で「LAMB/ラム」を観た。劇場は思った以上の混雑。週末ということと、月の初日で鑑賞料が安く設定されていたのもあったのかもしれない。

「ラム」は不思議な感触の作品だった。ホラーか、スリラーか、ミステリーか、おとぎ話かヒューマンドラマか。どれだっていいのだが、僕はビターなコメディーと受け取った。 

舞台はアイスランド。山間に住む夫婦のもとに不思議な生き物がやってくる。彼らが飼っている羊が産んだのだ。なんだそれは、と思うかもしれないが、そうしたストーリーなのだ。

妻の名前がマリア(イエス・キリストの母の名)なのは、なにか示唆しているのだろうか。 

登場人物は、人間3人(夫婦と夫の弟)と不思議な生き物だけ。限られた台詞。全体に青みを帯びてとらえられたアイスランドの風景。舞台は彼らが暮らす家とその周辺の農場が中心。背景にはアイスランドの山々が連なる。羊少年(少女)や羊男の造形がおもしろい。そのあたりのこだわりは、本作の監督が「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」などでの特殊効果をこれまで担当してきたコバルディミール・ヨハンソンならではだ。

いまだにこの映画のテーマが僕にはよく分からないのだけど、イソップの寓話と村上春樹の世界と手つかずの自然に覆われたアイスランドの風景をシェイクしたらこの映画ができた、といった印象。

アイスランドには古くからトロールといった怪物(妖精)と人間の合いの子が存在しているという伝説が残っているのも、この映画の舞台としてふさわしい。
https://tatsukimura.blogspot.com/2016/09/blog-post_4.html
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それと、僕が気になったのは白夜だ。アイスランドは北緯64度とかなり北極圏に近いので、夏のあいだはほとんど陽が沈まないはず。この映画では夜の時間や夫婦の寝室シーンが頻繁に描かれる。だが、いつだって明るく、ぼんやりしている。

日が暮れず、朝も昼も夜も明るい世界での物語は、なんだかずっと白昼夢を見ているような気分に。映画の最後の場面で流れてきたヘンデルのサラバンドが、うまく不思議な映画の余韻に溶け込んでいた。

2022年9月25日

非行少年たちを必要以上におとしめてはいないか

「ケーキを切り分けられない少年たち」ということばがキーワードとして流布されはじめたのは、いつの頃からだったろう。

今朝の新聞に『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮社) という本の書籍広告があった。下図は、その広告内に掲載されていたものだ。

これを見る限り、非行少年らに与えられた問いは「ケーキを三等分せよ」で、次の図か添えられていたはずだ。

あなたはこの丸を見せられ、「ケーキを三等分せよ」と問われて質問者の意図に応えるかたちで正確に回答できるだろうか。

僕は無理かも知れない。なぜならば、上の図は質問者が勝手に「これはケーキなんだぜ」と思っているだけで、僕にはケーキには見えないからだ。(実際、ケーキじゃない、単なる線画のマルだ)

被験者である少年たちは、ケーキという言語情報と与えられた線画が認知的に結びつかず、おそらく何について回答したらいいのか戸惑っただけではないか。 

もし与えられた図が以下のものだったらどうだろう。


そして問いが「三等分せよ」ではなく、意味が容易に分かるように「このケーキを3人に平等に分けるように切り分けよ」なら回答は変わったのではないかな。

その際、少年の回答はこうなったはずだ。


相手をミスリードさせるような 質問をあたえ、彼らの回答についてセンセーショナルに大変だ、大変だと世間をあおり立てているように思える。

そもそも表だって反論してくる可能性がほとんどゼロの「非行少年たち」を対象にして、彼らを侮辱しおとしめて本を売ろうとしているようにしか思えてならない。

非行少年少女たちのなかにこれまで適切な教育を受ける機会を持たなかったり、家庭や社会から受けるべきケアを欠いていた人たちがいて、それが認知機能上の問題の理由だと言いたいのだろうが、限定的な調査結果と訴えたい主張を短絡的に結びつけすぎてはいないか。

単純な質問票調査をやって、それだけで何か分かった気になるのは危険だ。

2022年9月24日

またしてもシステム障害

システム障害が起こり、全国のセブンイレブンの店頭でコンサートやスポーツ観戦のチケット発券ができないトラブルがまる一日以上発生した。

そもそも、最終的に紙で印字されるチケットを、なぜ客がコンビニ経由で面倒臭い手続きを経て入手しなければならないのか理解できない。

誰のどういう意図なのか。コンビニの運営会社が集客を目的にプロモーターやイベント会社に金を支払ってそうさせているのだろうか。そして、発券手数料とかシステム利用料とかの名目でそれを客に支払わせている。

前にも書いたが、特定の日にちの特定のイベントの特定のシートは1つしかない。シート番号はめったなことでは変わらない。だったら、予約完了と共にチケットを予約者へ直接郵送すればよい。

デジタルでできるからといって、無駄に客の手間を増やし、さらに追加的なコストを負わすようなことをこれからも続けるのだろうか。

2022年9月23日

日本企業はそろそろ気づかなければ

いくつかの学会で部分的に発表してきた内容を今回論文にまとめた。論文の主旨は、企業などにおけるNPS(Net Promoter Score)からPSJ(Promoter Score Japan)への切替え、あるいは両者の同時利用のススメだ。

僕がこの何年かの研究で明らかできたことは、日本企業(自治体やNPOなども)は合理性を欠いたNPSをこれ以上盲目的を使い続けるべきではないということ。客のためにも自分たちのためにもなっていない。

たんなる前例に倣い、見かけの権威に依り、思考停止のまま自分らを見直さない行動を日本企業はいつまで続けるのだろうか。

2022年9月20日

デルマー

ものを読むときに欠かせないのが、赤色のダーマトグラフだ。これで見出しに丸を付けたり線を引きながら読むのが習慣になっている。

別にサインペンでも何でもよいのだけど、記事を読むのに夢中になっているとインクが乾いてしまう。

ダーマトグラフは Dermatographと綴る。その名前と綴りからして、ステッドラーのようにドイツかどこかの国の文具と思っていたけど、調べて見ると日本の三菱鉛筆の登録商標だった。

これを他の用途で使うことはまずないのだが、それでも日々使っていると短くなってくる。で、新しいものをと思い、文具も扱っている近くの書店2軒に在庫があるかどうか聞いてみた。結果、両店とも扱っておらず、どちらの店員さんも「ダーマトグラフ」が何か知らなかった。

だけど「色鉛筆みたいなヤツで、芯が太くて柔らかくて、先の方からクルクル剥いて芯を出して使っていくんだけど・・・」などと説明すると「ああ、あれですね」と分かってくれる。商品自体は昔からあるからね。

80年代、広告代理店で働いていたとき、デザイナーの人が写真(ネガ)を選ぶときに使っていて、デルマーって呼んでいたのを憶えている。それとラジオCMの録音スタジオでは、ミキサーの人がオープンリール・テープ(懐かしい!)の編集位置をテープ上に記録するのに使っていた。

デルマーは筆記用具の1つ(紙巻き鉛筆)であるにもかかわらず、細かい文字を書くにはまったく向いていない。けれど、ガラスや金属、プラスチック、布など何にでも書け、どの向きでも使え、インキのように先が乾いて使えなくなることはなく、鉛筆削りやナイフを使う必要もなく使い続けられるスグレ物だ。

大手の書店でも扱ってないところをみると今ではあまり需要はないのかもしれないが、世の中からなくなって欲しくないもののひとつである。

2022年9月11日

十六夜の月

今日は十六夜。

雲がかかっている月も、それはそれで風情を感じる。月の左上(11時の方向)には木星が写っている。見えるかな?

2022年9月10日

中秋の名月

今日は満月。雲もなくよく晴れた空に月が煌々と輝いている。きれいだ。カメラを持ち出して撮影してみた。250mmだと、これが精一杯。空にカメラを向けるたび、もっと長いレンズが欲しくなる。


2022年9月9日

多住居生活を考えてみよう

日本の人口は、2010年以降一貫して減少している。1世帯当たりの人数が減ることで増え続けていた世帯数も、国立社会保障・人口問題研究所の推計で2023年に5420万世帯を記録したのち減少に転じる。

一方、日本の住宅総数は増えてづけている。2023年には、国内の住宅総数は6550万戸になる。つまり2023年には、国内で1100万戸の住宅が余っている計算になる。日本国中、空き屋だらけだ。

英国で生活していたときに驚いたのは、なんとヴィクトリア朝の頃に立てられた建物がいまもたくさん残っており、内部だけ近代的な設備に入れかえて当たり前のように利用されていることだ。石造りの建物だからできることなんだろう。

一方、日本の多くの家屋は構造が全く違う。日本の気候風土に合わせてということもあるのだろうが、概して耐久性に劣る。田舎にある良くできた古民家などは別として、戦後にこの国に建てられた家はスクラップ&ビルドを前提にして安く、早く、見かけだけそれなりを目的に開発され立てられてきたからだ。

そのツケが回ってきている。空き屋は放置すれば、あっという間に建物は荒れて傷む。誰も住まなくなった家屋をどうするかという対応策は大きく3つ。居住者を見つけるか、改築して店舗や事務所などに転用するか、さもなければ解体して一旦更地にするか。

ただ、店舗など商業用に転用できる空き屋はごく1部だろう。また解体して更地にももどすには費用がかかるだけでなく、地目が変わり固定資産税が増す。二の足を踏む土地所有者が多い。

そして今後増え続ける空き屋をどうするかは、相続する所有者だけでなく、地域社会や自治体にとっても頭の痛い問題になっている。

まずは自治体が安く借り上げて、借りたい人に貸し出してはどうだろう。もちろん立地や環境にもよるが、セカンドハウスとして多住居生活をしてみたいと考えている日本人は増えているようだし、今後日本が移民を本格的に受け入れるようになれば、そうした人たちに使ってもらえる。移民政策の本格的導入は絶対に必要になるはずだ。

一旦建物の基礎がダメになった住居を修繕するのは大変だ。急いで官民で対応に動く必要がある。

2022年9月7日

国葬もスポンサー協賛でやったらいい

政府が昨日公表したところによると、安倍元首相の国葬費用が当初の予算額の6.6倍になった。

世論や野党からのやいのやいのという批判を受けて金額が今回公表されたわけだが、これとて多くの国民は信用していない。政府主催のこれまでの種々の儀礼にかけられた費用から推測すると、今回はさらに何倍にもなるはずだ。

僕は安倍元首相の国葬には反対だ。岸田首相がどうしてもというなら、われわれの税金以外でやって欲しい。

国葬開催費用をまかなうためのスポンサー企業でも募ればいい。ワールドワイド国葬パートナー、国葬ゴールドパートナー、国葬オフィシャルパートナー、国葬オフィシャルサポーターの4レベルできめ細かく選定すればいいんじゃないのかね(下図参照)。

出所:大会組織委員会公式サイト

協賛したスポンサー企業へ向ける国民(消費者)からの注目度は、今回の東京オリンピックの比ではないはず。

そのスポンサー獲得活動の総責任者は、電通の専務だった高橋治之元組織委員会理事(受託収賄罪容疑者)に任せたらどうだ。


↑ゴールドパートナー以上には、こんな感じの記者会見もありだ。

とにかく、円安の問題、コロナの問題、景気の減速、国民生活の逼迫、エネルギー確保など政治が取り組まなければならない問題が山積するなかで、こうした個人に係る儀式をやるやらないかの議論に必要以上の時間を費やすのやめてくれ。

2022年9月5日

下手なウソ

先日このブログで「紙で読むか、デジタルで読むか」と書いたが、今日届いた郵送物の中にある証券会社からの「郵送通知廃止等のご案内」という文書があった。

そこには「〇〇証券では環境保護や紙資源節約等の観点から・・・に係る通知の郵送廃止を実施致します」と書いてある。

そして今後は、必要ならその証券会社のサイトにログインして取引履歴画面で確認するようにとのお達しだ。 

環境保護? 紙資源節約? だったら今回のA4用紙2枚の文書はなぜ両面印刷にしないのだろう。そうするだけで紙の量は1/2で済む。

環境保護などただの建前で、実は費用を削減したいだけという本音が見える。

2022年8月29日

紙で読むか、デジタルで読むか

教育の現場では、生徒1人に1台のデジタル端末が導入されつつあるらしい。そして教科書は、まずは英語を皮切りに紙のものからデジタル教科書に移行していくとか。

広島大学などの研究チームが、今回デジタルと紙でどちらが読解力が発揮できるかの調査を小学生を対象に行った。https://www.saga-s.co.jp/articles/-/908299

結果は学年によって異なったものがでた。調査の精度がどの程度のものか分からないのでなんとも言えないが、今回、小学生を対象に紙とデジタルの読解力の差を初めて調べたというのにはちょっと驚いた。

というのも、教科書をデジタルに移行していくことを文科省は決定しているにもかかわらず、こうした基本的な効果検証に係る調査すら行っていなかったから。

では紙の教科書をデジタル教科書へという方針の根拠は何だったのか? 教科書が重そうで子供たちがかわいそうだから? デジタル版だと印刷や製本コストがかからないから? 紙を使わないことで地球環境保全を推し進めるため? 

教科書というのはもっとも重要な教材なんだから、教育上の効果がどうなるかくらいの事前調査をしてから紙かデジタルかの議論をしなくちゃいけない。文科省らしく、ここでも理屈が抜けている。日本の子供たちの教育を真剣には考えてなんかいないんだろうな。

教科書は何度も何度も繰り返し読むもの(だったと思う)。何がどこに書いてあったかは、その書かれている(印刷されている)場所で覚えていたりする。しかもマーカーで線を引いたり書き込みをしたり。デジタルでもできるが、紙の方が簡単。

子供たちの教科書はまだ紙の教科書を基準にした方がいいと思っているのだが、自分が活字を読むとなるとデジタルも手放せなくなっている。

kindleは、旅先で読書をする際には欠かせないツールだ。本を何冊もバッグに入れて行くとそれなりに重いが、kindleなら何冊入っていようが重さに関係なし。それと、湯船に浸かりながら本を読むときはキンドルじゃないと。お風呂で紙の本を読むこともあるけど、その時は濡れないようにとか、指先が湯船につからないようにとか、気を遣うので疲れてしまう。

またiPadは画面拡大できるので、地図やガイドブックは紙のものより便利。もちろんデジタルだと検索できたり、辞書で言葉の意味をすぐに引けたりするメリットもある。

紙とデジタル、うまく使い分けていくしかない。

2022年8月27日

大道芸人と投げ銭

たまたま通りがかった大型商業施設内の屋外広場に、週末らしく子供連れの家族を中心に大勢の人が集まっている。人々が目を向ける先では、大道芸人がパフォーマンスを行っていた。


通りすがりがてら大道芸を目にしたときは、もう彼のステージングはほとんど終盤を迎えていた。大道芸人はパフォーマンスを終え、見物客から拍手を受けながらマイクの声をいちだんと張るように話し始めた。「皆さんのお気持ちを!」

今はまだコロナのせいで帽子を持って観客の人たちのところを回れない、だからもしショーが気に入ったのであれば、ここにおく帽子のところに持って来て欲しいと訴える。そして自分らは観客からいただけるそのお金で大道芸人として生活しているのだと。

話し方が深刻にならないように気を遣っているのが、声の調子から伝わってくる。こうした場面に遭遇すると、いつも胸が少し締め付けられるような気持ちになる。

彼はいくら集めることができるんだろうか、それは生計を立てるに十分な額だろうか、ここにいる人たちのどのくらいが投げ銭を出すのだろうか、と気になってしまうからだ。

見ていると(見ないでそのま去ればよかったのだけど)、週末で家族連れが多かったこともあるのだろう、子供にお金を持って行かせている親が結構いた一方、大人でお金を入れている人は数えるほど。

子供たちが親から手渡されたものは、だいたいは小銭のように見えた。みんな「赤い羽根募金」のような感覚が根強いようだ。でも大道芸人が期待するのはもちろん紙幣だ。

やがて、芸人がいくぶん哀切を感じさせるように、その場を立ち去ろうとしてる観客らにもう一度マイクで語りかけるも反応はあまりなかった。

以前ニューヨークに住んでいたとき、公園や広場、地下鉄のホームや地下通路などで演奏しているストリート・ミュージシャンは、いわば日常の光景の一部だった。

そこを通りかかるほとんどの人は足早に(ニューヨーカーはみな歩くのが速い)過ぎ去るが、チップを置いていく人は10ドルとか5ドル紙幣を楽器ケースに置いていく。僕も10ドル紙幣を自分のルールにした。なかには、こう言っては失礼かも知れないが、路上生活者とおぼしき連中までがしっかり紙幣をポケットから取り出し置いていく。

ひょっとしたら、人から施しを受けている路上生活者らしき人たちは「仲間」を放っておけないという意識が働いているのかも知れない。実際のところは、確かめたことがないので分からない。

一方で、立派なブリーフケースを下げ、仕立てのいいスーツを着たエリートビジネスマンらしき人は、まるでそうした路上ミュージシャンなどいないかのように完全に無視して通り過ぎる人が大半だったように思う。

日本との違いとしてチップの習慣があげられる。何かをしてもらったとき、相手の「サービス」に対して満足した気持をあらわすためにお金を払う。日本のようにサービスは決して「タダ」の別名ではない。

サービスに対する考え方、チップの習慣、そういったものが米国などとは異なる日本で、大道芸人が投げ銭(おひねり)で生きていくのはほんとうに大変なことだと思う。

もちろん小銭の投げ銭でもないよりはマシなんだろうが、今どきは集めた小銭を自分の預金口座に入れようとすると金融機関から手数料を取られるしね。コロナで芸を披露する場自体が激減しているはずだし、大道芸人にとって受難の時代だ。昔からずっとだ、と言われそうだが。

2022年8月25日

努くんと水木サン

俳優の山崎努さんが、いま新聞で自分の来し方を振り返って語っている連載が面白い。

そこで彼は自分を指し示すとき、ときおり「努くん」と呼ぶ。昔、「山口さんちのツトム君」という、みなみらんぼうが作詞作曲した歌が流行ったが、それが彼のアタマにあるのかもしれない。

たとえば「近年、努くんも物忘れがひどくなり、暮らしに必要な書類等はすべて壁にピンナップしている」(8月25日)というふうだ。

文章の中に出てくる「努くん」という言い方には、主観と客観が微妙なバランスで合わさっている。心の声として、俺もそうだけどそれって俺だけじゃなくて、俺と同じくらいの年代はみんなそうだろ・・・とでも言っているような。

自分のことをそのように呼ぶ人は他にもいて、漫画家の水木しげるさんは自分のことを「水木サン」と呼ぶ。私でも、俺でも、僕でも、自分でもない。

自分の事を水木サンと呼ぶことで、そこに本人の自我や主観を残しつつもその水木さんが考えた事を別の自分が客観的に観察している、といった印象が伝わってくる。そもそも、水木さんの本名は水木ではない。ペンネームだ。

ペンネームを使うことで、いっそう彼は自身から距離を取ることができたのかも。だから第三者的な視点で、自分が置かれていた想像を絶するような状況(たとえばそれは彼が従軍をしたニューギニア戦線・ラバウルでの体験)を映画の1シーンを見ているかのように表現している。

2022年8月23日

25年間、足踏みを続けている

先週末、書棚を片付けていた際に見つけた一冊が『2020年からの警鐘 〜日本が消える〜』(日本経済新聞社)という古い本である。

処分する本を選んでいたのだが、つい手に取ってしまい、そうすると読みたくなるもので(いつものことなのだが)読み始めてしまった。同書の内容は、日経で連載していた特集記事がもとになっている。時期は1997年。橋本龍太郎が首相の頃だ。

眼を通して驚いた。そこに何か目新しいこと書かれていたからではない。内容のほとんどは既知のことばかり。驚いたのは、25年前にそこで問題として書かれたことが、見事にそのまま今も解決されないで残っていることである。

人口減少、経済成長率の低下、自然環境の悪化、エネルギー価格の上昇、労働力の不足、財政建て直しのために増す国民負担、日本社会の閉塞性、個人の格差ならびに地域格差の拡大、既得権益が妨げる日本の改革、リーダーの不在、調整型の政治のほころび、などなどである。

四半世紀前に、あらかたの診断はついていた。やるべきことは、具体的な解決策を策定して、責任者をはっきりさせ、期限を区切って実行することだった。そうすれば、間違いなく現在の日本の姿は今の実際のそれとは異なった(もっとマシな)ものになっていたはず。

問題が分かっていたのに、なぜ対応できなかったのか。改革しなければならない点が明らかだったのに、どうしてそのままで来てしまったのか。

クレイジーキャッツの植木等が「♪ 分かっちゃいるけど、やめられない ♪」とスーダラ節(青島幸男作詞)を歌い大ヒットしたのが1961年。今から60年前。

もうその頃から、あるいはそれ以前からずっと、日本人は分かっちゃいるけどやめられないままだったのがよく分かった。

いまこの国で皆してやっているのは、ゆで蛙の我慢くらべだ。

2022年8月20日

自動運転ではダメなわけ

ブライアン・ウィルソン、80歳。ビーチ・ボーイズの創設メンバーで「グッド・バイブレーションズ」「サーフィン U.S.A」「神のみぞ知る」など、そのほとんどのヒット曲を書いている。

映画「ブライアン・ウィルソン(原題 Brain Wilson: Long Promised Road)」は、その彼に密着したドキュメンタリー映画。雑誌「ローリング・ストーン」の元編集者のJ・ファインがインタビュアーとなり、2人はファインが運転するクルマでかつての録音スタジオやアルバムジャケットの写真撮影場所、その他ウィルソンのゆかりの場所を巡りながら会話を交わす。


誰もが聞いたことのあるビーチ・ボーイズのサウンドがどうやって生まれたのか、サーフィンをしたこともないウィルソンがなぜサーフィンをテーマにした曲を書いたのか、などファンならずとも興味を引く話が本人の口からでてくる。

若き天才ウィルソンがアルバム「サーフィン・サファリ」を出したのは、弱冠20歳のとき。ただ、その反面で彼は精神を病み、やがてドラッグに身を浸していく。長い苦闘の時間ののちに復活して音楽活動を再開。今も仲間たちとバンドで活動している。

インタビューのほとんどは、クルマの中でのやりとりだ。いいシチュエーションを考えたなと感心した。クルマのなかという2人だけの閉ざされた空間。2人は対面するのではなく、目の前に現れる光景を並んで眺めながら話をする。

寡黙なブライアンも車窓に流れる西海岸の方々の風景と、カーステレオから流れる自分たちの音楽を次々に聞きながら昔を思い浮かべ、ときに饒舌に、ときに思いに浸りつつ自分たちの音楽づくりについて、バンドの仲間について、亡くなった弟について語る。

最近だと「プアン」でも主人公2人がクルマでタイの方々を巡りながら車内で語り合うシーンが多用されていた。これらの状況、AIによる自動運転なんかじゃ生まれない空間である。

2022年8月19日

顔写真入りの社説

新聞の社説欄に顔写真が挿入されていた。同紙の一面にもまったく同じ写真(こちらはカラー)が掲載され、それには「高橋治之容疑者」のキャプションがついている。


東京五輪・パラリンピック組織委員会の元理事が、受託収賄罪(7年以下の懲役)で逮捕された件だ。

やっぱりそうだったんだろうなと、大会組織委員会にはまったく縁のない僕ですら想像していた。先の五輪は噂にたがわず、不正な金まみれだったことがほぼ確定したようなものだ。

だとすると、あの年を何年にも跨いだ大騒ぎは我々にとって何だったんだろうと振り返らざるを得ない。もう終わったんだからいいじゃないか、と日本人らしさ全開で済ましてはならない。

オリンピックという誰もが知る世界最大の「お祭り」を利用して巨大なブラックボックスの中で一部の特権的な人間が金と欲を思う存分に啜っていた、その姿に気分が悪くなる。

有象無象のコネと政治力を盾に、まともなビジネスとはほど遠い傍若無人の金の儲け方をしていた広告代理店の存在が、昭和から続く日本の構造的腐敗臭を漂わせている。

そして、大会スポンサーとなった大手紳士服メーカーは、本来は企業のブランド価値を高めたかったのだろうが、前会長の贈賄容疑で世間からの信用は地に落ちた。巨額をかけ、労力をかけ、確かにAOKIという会社名は日本国中に知られることになったが、その結果、売上や利益が今後どうなるかはやがて分かるはずだ。

とまれ、大会後、こうして司直の手が入るまで事が公にならなかったのは、それを「見て見ぬ振りをする」のが周りの官僚やサラリーマンにとって常識になっていたことを示している。

ということは、またどこかで(これまで以上に巧妙に)同様のことがこの国では行われ続けるのだろう。

2022年8月18日

敵は昭和か

夕刊に「日本社会 なるか「脱・昭和」」という見出しの記事が掲載されていた。

ベースになっているのは、内閣府が6月に公表した「男女共同参画白書」。そこには「もはや昭和ではない」というフレーズが織り込まれ、昭和からの脱却が叫ばれている。

記事によれば、今の若い人たちが昭和について強い違和感や嫌悪感を感じている風潮がうかがえる。

全国の20歳から59歳の男女に訊ねたところ、昭和的な働き方のイメージとして「休暇が取りづらい」とか「働く時間が長い」「会社の飲み会は必ず参加しなければならない」「残業が評価される」「社内の飲み会が多い」といったものが挙げられた(下図参照)。

 
 
これらすべて、組織の中に蔓延しているネガティブな姿として取り上げられている様子だが、これらをただ昭和的だと言ってるだけでは何の問題の解決にもなりはしない。
 
休暇が取りづらいのであれば、どうすれば休暇を取りやすくできるかをまず自分で考える必要があるはず。そして何よりも、休暇を取りたければ取ればいいだけだ(これはあなたの権利だ)。
 
働く時間が長いと不満があるのであれば、どうすれは働く時間を短くできるか考えて、それを実行するために動くこと(これはあなたの義務だ)。
 
会社の飲み会は必ず参加しなければならない、ということに関しては、それが本当かどうか冷静に考えること。勝手にそう思い込んでいるだけじゃないのか。あるいは、周りとただ同調しているだけではないのか(これはあなたの習性だ)。
 
残業が評価されるとあるが、残業したくないのであれば残業しなければいい。それだけだ(これはあなたの自由だ)。
 
社内の飲み会が多い、ということに対する不満については、参加したくないものには参加しないのが一番だと言っておこう(これはあなたの勝手だ)。
 
人は自分の思い通りにいかない時、何か理由となる敵を探す。だが、それは言い訳できる状況を欲してるに過ぎない。
 
上司が昭和アタマで嫌だと思ってるだけでは何も変わらないよ。自分が嫌なことは、なぜそれが嫌か相手に伝え、嫌な事はやらないようにすること。なんとしてでもだ。相手が変わってくれないからとないものねだりを続けるだけでは、それは昭和のおじさんと何も変わらない。 
 
「脱・昭和」を真に求めるなら、昭和生まれの人に変化をもとめるだけでなく、彼らを他山の石としながら平成の意地を見せる時ではないのかな。

2022年8月17日

カセットに残された声とともに

映画「長崎の郵便配達」では、長崎の今の町並みやいくつかの行事が魅力的に描かれる。以前、友人を訪ねてその街を訪れた時のことを思い出す。

ファットマンと呼ばれれるプルトニウムを使用した原爆が長崎に投下されて77年。この映画の主人公の一人は、16歳の時にその原爆で被爆し、背中一面に大やけどを負ったかつての若い郵便配達人、谷口稜曄(すみてる)さん。治療のため1年9か月にわたり、うつぶせのままで病院のベッドに横たわっていた。胸に褥瘡ができた。

その後、彼は郵便配達の仕事を続けながら、一方では原爆被害を世界に示すひとつのシンボルとされ、また彼自身もその使命のようなものを深く受け入れて死ぬまで生きた。 

その彼と、旅の途中の長崎で出会った英国の作家、ピーター・タウンゼント。第二次大戦中は英国空軍の軍人だった彼は、戦争被害者に強い関心を抱いていたことから谷口と知り合い、友人として交わることなる。やがてタウンゼントは、谷口のことを「The Postman of Nagasaki」というノンフィクション小説に書く。

タウンゼントを信頼していた谷口はその本の復刊を強く望み、そのことをこの映画の監督である川瀬美香が知る。復刊を欲する理由を、谷口は「許せないからだよ」と語ったという。いまだ世界に核兵器が無数に配備され、唯一の被爆国である日本は核拡散防止条約にも核兵器禁止条約にも参加していない。

川瀬が二人の交流を核に映画を制作しようと計画している最中に、谷口が亡くなった。

その後見つかった、タウンゼントが吹き込んだ10本のカセットテープをもとに映画はその娘イザベルを追って進行する。家族と暮らすパリから父親の足跡をたどって長崎を訪れた娘をカメラが追う。道しるべは、それら取材テープに残された父親が残したメッセージだ。

今はなき2人の男性の友情と信頼だけでなく。27年前になくなった父親を娘が再発見する物語にもなっている。

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が広島の街を丁寧に描いていたように、この映画では長崎が魅力的に描かれている。長崎の街は静かで美しい。ただそこに暮らす人たちは、深い悲しみを底に秘めているようにも見えた。お盆の時期、精霊流しが行われる頃の長崎の風景だからかもしれない。

映画を見終わって、僕も映画のなかに登場するのと同じ赤い自転車に乗って家路を急いだ。

2022年8月15日

タイのカクテルは、甘いか苦いか

映画「プアン」の監督、バズ・ブーンビリヤはタイ映画界の新鋭と呼ばれているらしい。そして僕はタイ人監督の映画をこれまで観たことがない(おそらく)。ではこれは観なくてはと出かけた。


前評判では、方々で「ウォン・カーウェイが才能に惚れてプロデュース・・・」なんて惹句があちこちで流れていたが、そんなことは関係なし。確かにそうしたプロモーションもうまかったんだろう。本作はタイではたいそう人気を博したらしい。

映画のトーンは、かつての日テレ日曜夜8時の学園青春ものである。プロットの中心は、2人の若者と1人の女。時間と場所の流れのなかでの三角関係。そんなどこにでもあるシチュエーションを、年代物のBMWやカセットテープの音楽(キャット・スティーブンス!)、ラジオDJなど気の利いた小道具でカラフルに組み立ててみせたサービス精神は買っていい。 

元々ニューヨークで知り合った2人の男。バンコクに戻った一方の男(ウード)が白血病で余命宣告を受ける。その彼は、今もニューヨークでバーを経営するボスに電話をする。死ぬ前に元カノを訪ねたいので運転手を頼みたいと。そして2人は、バンコクを基点にウードの父親の形見である70年代ものだと思える白いBMWでウードの昔の3人の彼女を訪ねて回る。 

昔の女との再会と別れが、ウードにとっての人生の惜別として描かれる。ヒロイズムに浸る若者の思い上がりと自己憐憫が甘酸っぱい感傷を感じさせるのは、世界共通なのだろう。ただ、ウードが本当は気にしていたのは、ボスがNYでかつて一緒に暮らしていた女、プリムだった。 

ウードとバズの両者が関わりを持っていたプリムは腕のいいバーテンダー。シェーカーを振る姿が様になっている。バズも自分のバーでシェーカーを振る。映画には気の利いた名前がつけられたオリジナルのカクテルがいくつも出てくる。

ウードの3人の元カノ、過去と未来、バンコクやチェンマイなどタイの街とニューヨーク、余命の限られたウードと未来を見つめるボス。これらがシャカシャカシャカといい音を立ててシェイクされ、いくつもの色鮮やかなカクテルとなってグラスに注がれる。

ところでここまで洒落のめすなら、映画の公開タイトルは「プアン」(タイ語で友だちの意味)というあまりに明らか過ぎるタイトルではなく、原題である「One for the Road 」(旅立ちの前の最後の一杯の意)にした方がよかった。

2022年8月14日

死と自己責任

横浜みなとみらいの映画館で「PLAN75」を観た。 早川千絵監督の初の長編映画である。

近い将来日本はこうなるかもしれないという、日本の高齢化社会の一面が描かれている。プラン75とは国の設定した制度で、満75歳以上になると申込ができる<安楽死>のための仕組みだ。

この映画で思い出すのは、1973年に公開されたリチャード・フライシャー監督の「ソイレント・グリーン」だ。舞台は2022年(今だ!)のニューヨーク。人口の急激な増加によって種々の資源は枯渇し、人々の間での格差が急拡大している。たとえば、肉や野菜を普通に食べることができるのは富める者だけで、そうでない人たちはプランクトンから作られるソイレント・グリーンと呼ばれるある種の加工食品を主食にする。

人口のさらなる拡大を抑制するため、そして貧しい人たちを日々の苦しさから救うためと称して「ホーム」と呼ばれる公営の安楽死施設が街には設けられ、そのホームでは死を選んだ高齢者たちが緑に包まれた草原や一面に広がる大海原といった映像に取り囲まれ、ベートーベンの田園交響曲が流れるなか静かな死を迎える。その後、死体は密かに工場に運ばれ・・・というものだった。

さて「PLAN75」では、倍賞千恵子さん演じるミチという78歳の女性は慎ましやかな一人暮らしを続けていたが、その年齢を理由にあるとき急に仕事を失ってしまう。その年齢ゆえに希望するような職に就くことができず思い悩む彼女。

ある時、何度電話をしても電話に応答しないかつての職場の同僚のアパートを訪ねた時、彼女はその友人が家の中で台所のテーブルにうっぷしたまま突然死しているのを発見する。明日の自分かも知れないと考えるミチ。それをきっかけに、彼女はプラン75に参加する決心をする。

映画の中で流れる、政府が作ったのであろうプラン75のCMがなかなかよくできている。人は生まれてくることは自分で決めることはできないけれど。自分の人生に幕を引く決定は自分でできるのだからとそのプランに申し込んだという女性が、おだやかな口調でにこやかに語る。実際にこんなCMが作られるかもしれないなと思わせる。

プラン75は義務ではなく、国民が該当する年齢を超えたときに自らの意思で選ぶことができる制度だ。それは緻密な計画をもとに策定され、巧妙に推奨することで人の心をその方向に徐々に押しやっていく。どうするかを選ぶのは国民であって、国が作った「姥捨て山」ではないとする、そこがポイントであり、そこが残酷だ。

現実問題として、国にしてみれば歳をとり生産性を期待できず、ただ国費支出の対象でしかない貧しい国民らは国の負担でしかなくなる。プラン75は、国家として対応が迫られた日本が考えつきそうなアイデアのひとつだ。

そうした時に我々が取るべき道は、どういったものだろう。まずは、こうした安楽死を自分で選択し一生を終えることは、現実に有り得るかもしれない。

もう一つは、国が高齢者らの面倒をみることができず、またみること拒否している以上、われわれ個人が周りの人に援助を求め、人の助けを受けながら生きていくことである。これまで人々は、その程度の違いこそあれ、年老いて社会的弱者になったときには家族や周りの人たちに頼り、その人たちからの力添えを受けながら残りの人生を過ごしていた人が多かったはずだ。

ただ、家族や周りの人に迷惑をかけるくらいなら一人でおとなしく死んでいった方がいい、と考える「自己責任」感をある頃からすり込まれるようになっているのも事実。それが日本人の一つのエートスになっていっているように思う。つくづく人のいい日本人たち。だからこそ、国はプラン75を実行することができる。