俳優の山崎努さんが、いま新聞で自分の来し方を振り返って語っている連載が面白い。
2022年8月25日
努くんと水木サン
2022年8月23日
25年間、足踏みを続けている
先週末、書棚を片付けていた際に見つけた一冊が『2020年からの警鐘 〜日本が消える〜』(日本経済新聞社)という古い本である。
処分する本を選んでいたのだが、つい手に取ってしまい、そうすると読みたくなるもので(いつものことなのだが)読み始めてしまった。同書の内容は、日経で連載していた特集記事がもとになっている。時期は1997年。橋本龍太郎が首相の頃だ。
眼を通して驚いた。そこに何か目新しいこと書かれていたからではない。内容のほとんどは既知のことばかり。驚いたのは、25年前にそこで問題として書かれたことが、見事にそのまま今も解決されないで残っていることである。
人口減少、経済成長率の低下、自然環境の悪化、エネルギー価格の上昇、労働力の不足、財政建て直しのために増す国民負担、日本社会の閉塞性、個人の格差ならびに地域格差の拡大、既得権益が妨げる日本の改革、リーダーの不在、調整型の政治のほころび、などなどである。
四半世紀前に、あらかたの診断はついていた。やるべきことは、具体的な解決策を策定して、責任者をはっきりさせ、期限を区切って実行することだった。そうすれば、間違いなく現在の日本の姿は今の実際のそれとは異なった(もっとマシな)ものになっていたはず。
問題が分かっていたのに、なぜ対応できなかったのか。改革しなければならない点が明らかだったのに、どうしてそのままで来てしまったのか。
クレイジーキャッツの植木等が「♪ 分かっちゃいるけど、やめられない ♪」とスーダラ節(青島幸男作詞)を歌い大ヒットしたのが1961年。今から60年前。
もうその頃から、あるいはそれ以前からずっと、日本人は分かっちゃいるけどやめられないままだったのがよく分かった。
いまこの国で皆してやっているのは、ゆで蛙の我慢くらべだ。
2022年8月20日
自動運転ではダメなわけ
ブライアン・ウィルソン、80歳。ビーチ・ボーイズの創設メンバーで「グッド・バイブレーションズ」「サーフィン U.S.A」「神のみぞ知る」など、そのほとんどのヒット曲を書いている。
映画「ブライアン・ウィルソン(原題 Brain Wilson: Long Promised Road)」は、その彼に密着したドキュメンタリー映画。雑誌「ローリング・ストーン」の元編集者のJ・ファインがインタビュアーとなり、2人はファインが運転するクルマでかつての録音スタジオやアルバムジャケットの写真撮影場所、その他ウィルソンのゆかりの場所を巡りながら会話を交わす。
誰もが聞いたことのあるビーチ・ボーイズのサウンドがどうやって生まれたのか、サーフィンをしたこともないウィルソンがなぜサーフィンをテーマにした曲を書いたのか、などファンならずとも興味を引く話が本人の口からでてくる。
若き天才ウィルソンがアルバム「サーフィン・サファリ」を出したのは、弱冠20歳のとき。ただ、その反面で彼は精神を病み、やがてドラッグに身を浸していく。長い苦闘の時間ののちに復活して音楽活動を再開。今も仲間たちとバンドで活動している。
インタビューのほとんどは、クルマの中でのやりとりだ。いいシチュエーションを考えたなと感心した。クルマのなかという2人だけの閉ざされた空間。2人は対面するのではなく、目の前に現れる光景を並んで眺めながら話をする。
寡黙なブライアンも車窓に流れる西海岸の方々の風景と、カーステレオから流れる自分たちの音楽を次々に聞きながら昔を思い浮かべ、ときに饒舌に、ときに思いに浸りつつ自分たちの音楽づくりについて、バンドの仲間について、亡くなった弟について語る。
最近だと「プアン」でも主人公2人がクルマでタイの方々を巡りながら車内で語り合うシーンが多用されていた。これらの状況、AIによる自動運転なんかじゃ生まれない空間である。
2022年8月19日
顔写真入りの社説
新聞の社説欄に顔写真が挿入されていた。同紙の一面にもまったく同じ写真(こちらはカラー)が掲載され、それには「高橋治之容疑者」のキャプションがついている。
東京五輪・パラリンピック組織委員会の元理事が、受託収賄罪(7年以下の懲役)で逮捕された件だ。
やっぱりそうだったんだろうなと、大会組織委員会にはまったく縁のない僕ですら想像していた。先の五輪は噂にたがわず、不正な金まみれだったことがほぼ確定したようなものだ。
だとすると、あの年を何年にも跨いだ大騒ぎは我々にとって何だったんだろうと振り返らざるを得ない。もう終わったんだからいいじゃないか、と日本人らしさ全開で済ましてはならない。
オリンピックという誰もが知る世界最大の「お祭り」を利用して巨大なブラックボックスの中で一部の特権的な人間が金と欲を思う存分に啜っていた、その姿に気分が悪くなる。
有象無象のコネと政治力を盾に、まともなビジネスとはほど遠い傍若無人の金の儲け方をしていた広告代理店の存在が、昭和から続く日本の構造的腐敗臭を漂わせている。
そして、大会スポンサーとなった大手紳士服メーカーは、本来は企業のブランド価値を高めたかったのだろうが、前会長の贈賄容疑で世間からの信用は地に落ちた。巨額をかけ、労力をかけ、確かにAOKIという会社名は日本国中に知られることになったが、その結果、売上や利益が今後どうなるかはやがて分かるはずだ。
とまれ、大会後、こうして司直の手が入るまで事が公にならなかったのは、それを「見て見ぬ振りをする」のが周りの官僚やサラリーマンにとって常識になっていたことを示している。
ということは、またどこかで(これまで以上に巧妙に)同様のことがこの国では行われ続けるのだろう。
2022年8月18日
敵は昭和か
夕刊に「日本社会 なるか「脱・昭和」」という見出しの記事が掲載されていた。
ベースになっているのは、内閣府が6月に公表した「男女共同参画白書」。そこには「もはや昭和ではない」というフレーズが織り込まれ、昭和からの脱却が叫ばれている。
記事によれば、今の若い人たちが昭和について強い違和感や嫌悪感を感じている風潮がうかがえる。
全国の20歳から59歳の男女に訊ねたところ、昭和的な働き方のイメージとして「休暇が取りづらい」とか「働く時間が長い」「会社の飲み会は必ず参加しなければならない」「残業が評価される」「社内の飲み会が多い」といったものが挙げられた(下図参照)。
2022年8月17日
カセットに残された声とともに
映画「長崎の郵便配達」では、長崎の今の町並みやいくつかの行事が魅力的に描かれる。以前、友人を訪ねてその街を訪れた時のことを思い出す。
ファットマンと呼ばれれるプルトニウムを使用した原爆が長崎に投下されて77年。この映画の主人公の一人は、16歳の時にその原爆で被爆し、背中一面に大やけどを負ったかつての若い郵便配達人、谷口稜曄(すみてる)さん。治療のため1年9か月にわたり、うつぶせのままで病院のベッドに横たわっていた。胸に褥瘡ができた。
その後、彼は郵便配達の仕事を続けながら、一方では原爆被害を世界に示すひとつのシンボルとされ、また彼自身もその使命のようなものを深く受け入れて死ぬまで生きた。
その彼と、旅の途中の長崎で出会った英国の作家、ピーター・タウンゼント。第二次大戦中は英国空軍の軍人だった彼は、戦争被害者に強い関心を抱いていたことから谷口と知り合い、友人として交わることなる。やがてタウンゼントは、谷口のことを「The Postman of Nagasaki」というノンフィクション小説に書く。
タウンゼントを信頼していた谷口はその本の復刊を強く望み、そのことをこの映画の監督である川瀬美香が知る。復刊を欲する理由を、谷口は「許せないからだよ」と語ったという。いまだ世界に核兵器が無数に配備され、唯一の被爆国である日本は核拡散防止条約にも核兵器禁止条約にも参加していない。
川瀬が二人の交流を核に映画を制作しようと計画している最中に、谷口が亡くなった。
その後見つかった、タウンゼントが吹き込んだ10本のカセットテープをもとに映画はその娘イザベルを追って進行する。家族と暮らすパリから父親の足跡をたどって長崎を訪れた娘をカメラが追う。道しるべは、それら取材テープに残された父親が残したメッセージだ。
今はなき2人の男性の友情と信頼だけでなく。27年前になくなった父親を娘が再発見する物語にもなっている。
濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が広島の街を丁寧に描いていたように、この映画では長崎が魅力的に描かれている。長崎の街は静かで美しい。ただそこに暮らす人たちは、深い悲しみを底に秘めているようにも見えた。お盆の時期、精霊流しが行われる頃の長崎の風景だからかもしれない。
映画を見終わって、僕も映画のなかに登場するのと同じ赤い自転車に乗って家路を急いだ。
2022年8月15日
タイのカクテルは、甘いか苦いか
映画「プアン」の監督、バズ・ブーンビリヤはタイ映画界の新鋭と呼ばれているらしい。そして僕はタイ人監督の映画をこれまで観たことがない(おそらく)。ではこれは観なくてはと出かけた。
前評判では、方々で「ウォン・カーウェイが才能に惚れてプロデュース・・・」なんて惹句があちこちで流れていたが、そんなことは関係なし。確かにそうしたプロモーションもうまかったんだろう。本作はタイではたいそう人気を博したらしい。
映画のトーンは、かつての日テレ日曜夜8時の学園青春ものである。プロットの中心は、2人の若者と1人の女。時間と場所の流れのなかでの三角関係。そんなどこにでもあるシチュエーションを、年代物のBMWやカセットテープの音楽(キャット・スティーブンス!)、ラジオDJなど気の利いた小道具でカラフルに組み立ててみせたサービス精神は買っていい。
元々ニューヨークで知り合った2人の男。バンコクに戻った一方の男(ウード)が白血病で余命宣告を受ける。その彼は、今もニューヨークでバーを経営するボスに電話をする。死ぬ前に元カノを訪ねたいので運転手を頼みたいと。そして2人は、バンコクを基点にウードの父親の形見である70年代ものだと思える白いBMWでウードの昔の3人の彼女を訪ねて回る。
昔の女との再会と別れが、ウードにとっての人生の惜別として描かれる。ヒロイズムに浸る若者の思い上がりと自己憐憫が甘酸っぱい感傷を感じさせるのは、世界共通なのだろう。ただ、ウードが本当は気にしていたのは、ボスがNYでかつて一緒に暮らしていた女、プリムだった。
ウードとバズの両者が関わりを持っていたプリムは腕のいいバーテンダー。シェーカーを振る姿が様になっている。バズも自分のバーでシェーカーを振る。映画には気の利いた名前がつけられたオリジナルのカクテルがいくつも出てくる。
ウードの3人の元カノ、過去と未来、バンコクやチェンマイなどタイの街とニューヨーク、余命の限られたウードと未来を見つめるボス。これらがシャカシャカシャカといい音を立ててシェイクされ、いくつもの色鮮やかなカクテルとなってグラスに注がれる。
ところでここまで洒落のめすなら、映画の公開タイトルは「プアン」(タイ語で友だちの意味)というあまりに明らか過ぎるタイトルではなく、原題である「One for the Road 」(旅立ちの前の最後の一杯の意)にした方がよかった。
2022年8月14日
死と自己責任
横浜みなとみらいの映画館で「PLAN75」を観た。 早川千絵監督の初の長編映画である。
近い将来日本はこうなるかもしれないという、日本の高齢化社会の一面が描かれている。プラン75とは国の設定した制度で、満75歳以上になると申込ができる<安楽死>のための仕組みだ。
この映画で思い出すのは、1973年に公開されたリチャード・フライシャー監督の「ソイレント・グリーン」だ。舞台は2022年(今だ!)のニューヨーク。人口の急激な増加によって種々の資源は枯渇し、人々の間での格差が急拡大している。たとえば、肉や野菜を普通に食べることができるのは富める者だけで、そうでない人たちはプランクトンから作られるソイレント・グリーンと呼ばれるある種の加工食品を主食にする。
人口のさらなる拡大を抑制するため、そして貧しい人たちを日々の苦しさから救うためと称して「ホーム」と呼ばれる公営の安楽死施設が街には設けられ、そのホームでは死を選んだ高齢者たちが緑に包まれた草原や一面に広がる大海原といった映像に取り囲まれ、ベートーベンの田園交響曲が流れるなか静かな死を迎える。その後、死体は密かに工場に運ばれ・・・というものだった。
さて「PLAN75」では、倍賞千恵子さん演じるミチという78歳の女性は慎ましやかな一人暮らしを続けていたが、その年齢を理由にあるとき急に仕事を失ってしまう。その年齢ゆえに希望するような職に就くことができず思い悩む彼女。
ある時、何度電話をしても電話に応答しないかつての職場の同僚のアパートを訪ねた時、彼女はその友人が家の中で台所のテーブルにうっぷしたまま突然死しているのを発見する。明日の自分かも知れないと考えるミチ。それをきっかけに、彼女はプラン75に参加する決心をする。
映画の中で流れる、政府が作ったのであろうプラン75のCMがなかなかよくできている。人は生まれてくることは自分で決めることはできないけれど。自分の人生に幕を引く決定は自分でできるのだからとそのプランに申し込んだという女性が、おだやかな口調でにこやかに語る。実際にこんなCMが作られるかもしれないなと思わせる。
プラン75は義務ではなく、国民が該当する年齢を超えたときに自らの意思で選ぶことができる制度だ。それは緻密な計画をもとに策定され、巧妙に推奨することで人の心をその方向に徐々に押しやっていく。どうするかを選ぶのは国民であって、国が作った「姥捨て山」ではないとする、そこがポイントであり、そこが残酷だ。
現実問題として、国にしてみれば歳をとり生産性を期待できず、ただ国費支出の対象でしかない貧しい国民らは国の負担でしかなくなる。プラン75は、国家として対応が迫られた日本が考えつきそうなアイデアのひとつだ。
そうした時に我々が取るべき道は、どういったものだろう。まずは、こうした安楽死を自分で選択し一生を終えることは、現実に有り得るかもしれない。
もう一つは、国が高齢者らの面倒をみることができず、またみること拒否している以上、われわれ個人が周りの人に援助を求め、人の助けを受けながら生きていくことである。これまで人々は、その程度の違いこそあれ、年老いて社会的弱者になったときには家族や周りの人たちに頼り、その人たちからの力添えを受けながら残りの人生を過ごしていた人が多かったはずだ。
ただ、家族や周りの人に迷惑をかけるくらいなら一人でおとなしく死んでいった方がいい、と考える「自己責任」感をある頃からすり込まれるようになっているのも事実。それが日本人の一つのエートスになっていっているように思う。つくづく人のいい日本人たち。だからこそ、国はプラン75を実行することができる。
2022年8月13日
「それでも日本より借金は少ない」
ボリス・ジョンソンが7月に辞任し、その後任を決める英国与党保守党選の選挙活動でトラス外相が大差でリードしている。
トンデモ首相だったジョンソン |
議員投票の段階では、彼女ではなくスナク前財務相がずっとリードしていたが、トラスが自分が就任したらその日から減税を実施するとブチ上げて巻き返した。 国民保険料や法人税減税、光熱費に含まれる税の凍結などだ。
そうした英国民への大盤振る舞いだが、財源はどうするのか。テレビ討論の際に司会者から問われると、彼女は「それでも日本やカナダより少ない」と英国はまだ健全なレベルなので心配ないと強調。
今後英国だけでなく世界のいろんな国で、国民からの支持を得たい候補者が「減税」を強調するに違いない、日本を引き合いに出して。日本を見ろ、それに比べればまだまだ俺たちは健全だというわけだ。ある種のモラルハザードが広がっていく。
2022年8月12日
朝の新しい仕事
今朝、お隣のドアに張り紙を見つけた。小学1年生のケイタ君が書いたものだ。
家族でお盆で帰省するのだろうか。その間、朝顔の水やりを代わりにお願いしますというメッセージだ。彼がベランダで育てていたはずの鉢が2つ、水がいっぱいに入ったじょうろと一緒に玄関前の廊下におかれていた。
お安い御用だ。たくさん花が咲くといいね。
2022年8月11日
財政的幼児虐待
「国の借金」が6月末時点で1,255兆億円を越えた。国債や借入金、政府短期証券の残高は、日本の全人口で割って1人1,000万円では収まらなくなっている。
つまり今の赤ちゃんらは、自分が生まれた時からそうした借金を背負わされているということで、それは「財政的幼児(児童)虐待」と呼ばれる。尋常でない名称だが、そのくらい深刻な状況だということだ。
コロナ対策や東日本大震災への援助、復興のための予算が必要で国債を大量に発行してるのは理解できる。しかし政府は、その後なんでもかんでも国債を発行し、それを中央銀行に引き受けさせれば済むと考えているようにしか見えない。
調子よく引用するMMT(現代貨幣理論)を言い訳にして、国債を打出の小槌と考えている。下図は2001年と2021年の債務残高(GDP比率)を日本と他国で比較したものだ。国名の右の%は、この20年間でどのくらい経済成長したかの数値である。
日本は20年前(東日本大震災もコロナもまだ発生していない)、既に国の借金はGDP比150%と先進国でダントツだったわけだが、それが今では250%を越える。
それだけの借金をしながら、経済成長率は20年たってもわずか12%にとどまっている。経済政策の面だけから云えば、日本は発展性のないことに延々と金を借金して注ぎ、そしてその考えを改める姿勢もない。財務省によると、本年末に国の借金は1,411兆4,000億円まで増える。1人当たり1,130万円強だ。
虐待の度合は、ますます強化され続ける。「こんな国にどうして生まれてしまったのか」と子供たちが将来恨み言を吐くようにならなければよいと願う。
顔写真など不要
第2次岸田改造内閣が昨日発足した。今朝の新聞の第1面に20人の顔写真が並んでいた。どの省の大臣に誰が任命されたかなど、正直言うともう関心はない。
ただ、朝食をとりながら新聞を眺める習慣があるので、それらの写真が目に入ってくるとメシがまずくなるので困る。後ろの方の紙面に掲載を移してもらえないものだろうか。
ところで、前の内閣(第2次岸田内閣)は昨年11月10日から昨日までの9ヵ月だった。今度の内閣で何をやるか掲げる前に、まずは昨日までの内閣でそれぞれの大臣が何をどう成し遂げたのかを示す「成績簿」を公表してもらえないか。
われわれ国民は誰が大臣になるかではなく、その人物が何をやり遂げてくれるかに期待しているのだから。
ちなみに、第1次岸田内閣は昨年10月4日から同11月10日の38日間だった。日本の憲政史上もっとも短い内閣だった。38日間でも大臣だった政治家は、元大臣となる。
だが、実際はそうした期間で大臣としての自分なりの政策を考え実行することなど不可能。自分が担当する分野に関して正確な状況を理解するだけでも、それなりの時間はかかるはずだ。
大臣に誰がなったかなど(もちろん顔写真も)、実質どうでもいい。
2022年8月9日
君は「ビジネスパーソン」か?
20代、30代が中心を占める社会人大学院生が自分らをどう見ているか、あるクラスで学生らへのアンケート項目に「あなたを示す言葉として、以下のどれが最もフィットしていると思いますか? 1つだけ選択してください」という設問を入れてみた。
結果、62人中58名の回答(回答率94%)で一番多かったのが「ビジネスパーソン」の27.6%。続いて「会社員」25.9%、「ビジネスマン」20.7%、「サラリーマン」8.6%、「ビジネスウーマン」6.9%の順だった。
自分のことを「ビジネスなんたら」と答えた人の割合は、都合55.2%で半数を超えている。これって一般社会といささか、いや、かなり違っているんじゃないかという印象を受けた。
そこで、組織で働く人を示す「会社員」「サラリーマンまたはOL」「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」「ビジネスパーソン」がメディアでどのように使われているか、ためしに朝日新聞のデータベースを用いて2000年から2021年までの年度ごとの掲載頻度の割合を調べた。
上図は結果をグラフ化したもの。黄色い部分を指す「会社員」が9割を占める。企業組織で働く者の一般的名称は、会社員と推測してよさそうだ。
ただこれでは先の学生らが自分はそうだといった「ビジネスパーソン」の姿がまったく見えないので、「会社員」を除いて図にしてみたらこうなった。
「サラリーマンまたはOL」(グレー)が8割以上を占める。続いて「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」(オレンジ)。ここ数年になってやっと「ビジネスパーソン」(青)がちょこっと現れてきた。日本語でも看護婦を看護師に、保母さんを保育士さんにというように性差を示さない用語に呼び変える流れのなかで、ビジネスマンがビジネスパーソンと呼ばれるようになってきたのだろう。
そもそもビジネスマンって何か。オックスフォード英語辞典によれば、businessman (businesswoman, business person) とは、a man(woman, person) who works in business, especially at a high levelとある。またケンブリッジ英語辞典では、some one who works in business, usually having an important job と示されている。
本来の意味は、「実業(ビジネス)に携わる人で、特に経営者層」である。
実態とイメージの乖離だ。
2022年8月8日
何とかしようとすれば、何とかできるはず
新型コロナの感染が始まって以来受診していなかった市のガン検診を受診することにした。
市のサイトで、対象となる医療機関を調べ予約の電話をしたところ、検査日の予約をするためにまず来院して欲しいと言われた。窓口で問診票に記入してから実際の検査日の予約ができるとか。
事務的な手続きなのでネット上で済ませられるはずだと思いながらも、仕方ないので病院まで出向いた。今回、検診を受けることにしたガンは4種。そしたら病院の窓口で問診票が挟まれたクリップボードを4つ渡された。
それぞれ胃や肺などの検査用の問診票なのだが、それら4つすべて最初に名前、住所、連絡先、生年月日、年齢、性別を記入する欄がある。で、これまでの病歴や現在治療を受けている病気などの記入欄が続く。
なぜ名前や住所などの記入が1つで済まないのか看護師に訊ねると、「それぞれ担当機関がちがうんです」と。
解決法はそれほど難しくはないと思う。受診者は数年に1回しか利用しないからそのままになっているんだろうけど、なんとかした方がいい。
2022年8月7日
自由民主党が党名変更を決定
旧統一教会との関係を指摘された政治家らが記者会見などで示す、誠実さの欠片もない受け答えにゲンナリとさせられる。聞いていると蒸し暑さが増してくる。自民党を中心とする数々の国会議員、なかには現役の防衛大臣や環境大臣、さらには国家公安委員長までいる。
政治家としての身分を守るための言い逃れに、平気で国民のまえでウソをつける人たちである。安倍元首相以来、この国ではウソをつくことが一層軽くなった。
そうした政治家の胡散臭さ満載の姿を小さな時から見て育った日本の若者たちが、今の政治も政治家も信用せず、やがて選挙権者になっても投票所に行かない理由がわかるような気がする。
ウソと言えば、電通の元常務で五輪組織委員会の理事だった人物が受託収賄罪で捜査をうけているが、それでつい昨年だったにもかかわらずすっかり記憶から消えかかっていた東京オリンピックをにわかに思い出した。
オリンピック実施に当たって、当時の菅首相は何と言ったか。開催の大義として、こともあろうか「人類が新型コロナを克服した証として」と表明した。明らかにウソ八百だった。
コロナ克服どころか、WTOによれば今の日本はこの2週間続けて新型コロナの感染者数が世界最多を記録している。
ところで岸田首相は、来週の内閣改造に合わせて党名を自由民主党から自由統一党へ変更すると決めたらしい。 ウソ
2022年8月6日
彼女の詐欺より、美の基準の方が気になる
寝屋川市の女性市議が、コロナ禍で収益が減った福祉・医療関係施設向けの公的融資を利用し、仲介を装って施設側に融資を受けさせ手数料を詐取したとして逮捕された。
その詐欺の経緯などは報道されているとおりだが、僕が気になったのは「美し過ぎる市議」というメディアでの表現。
美しいかどうかは個人の主観だけど、あの程度で「美しすぎる」と言われたのでは全国の他の女性市議に失礼じゃないのかね。
そもそもこうした報道の根底には、議員になろうなんて女性が美人であるはずがない、という記者たちのお粗末な偏見がある。
メディアに携わる人たちは、そうした紋切り型の魯鈍な表現をいい加減にあらためるべきだ。
2022年8月5日
「インバウンド」は、遠い記憶に
2002年、政府の閣議決定をもとに国土交通省がグローバル観光戦略を立ち上げた。そして「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の名の下で、海外から観光客を呼び込む活動が国を挙げて開始されたのが2003年だった。
かつて世界を席巻した半導体産業など日本の製造業はすでに見る影もなく、政府は外貨を稼ぐ最後の砦として観光産業に目を付けたわけだ。
しかしその後、訪日客数は10年間さほど伸びず、2012年頃まで日本を訪れる外国人観光客は多くてせいぜい年間800万人(フランスの10分の1)ほどだった。その後、とうとう外務省が中国人へのビザ発給要件を徐々に緩めるのにしたがって、その数は急上昇。つまり、増えた訪日客のおおかたは中国人観光客だった。
銀座の中央通りに中国人観光客を乗せた観光バスが何台も停車し、大勢の客が銀座の街に一挙に買い物に繰り出していた風景がいまでは懐かしいほどだ。
そして2019年に訪日客は3200万人弱を記録したが、2020年初頭からの新型コロナウイルス感染拡大で2020年は410万人、2021年は25万人にまで激減した。
JNTOのデータを元に作成 |
政府は第7次とも呼ばれる感染拡大に半分目をつむり、「社会経済活動」にいかに国民を仕向けようかと考えている。
夢よもう一度ではないが、コロナが定常化したあかつきには、また「インバウンド」と呼ばれた外国からの観光客誘致策を検討していることだろう。
だが、それはかなり難しい。今のような感じで円安が進んでも難しいと僕は見ている。その理由のひとつは、場所によっては40度を越え、熱帯ともいえる日本の夏の暑さだ。
中国などアジア諸国からの観光客は知らないが、欧米人が夏のバカンスシーズンを利用してこの殺人的暑さの国にはるばる観光に来るとは考えられない。
実際、ヨーロッパでは人びとの旅行行動に顕著な変化が現れている。日本の猛暑のことを言ったが、暑いのは日本だけではない。英国で歴史上初めて40度を超える気温を記録したなど、各地がヒートウェイブに襲われている。
そのため人びとは、暑いローマではなく、比較的涼しいストックホルムやコペンハーゲンを選ぶ。暑さで避けられるようになったのは、なにもイタリアだけではない。スペイン、ポルトガル、ギリシア、フランスといった著名な観光地が軒並み敬遠される傾向がでている。
だが、「暑さ」ゆえに観光の目的地から外されるようになったローマの最高気温は華氏100度、つまり摂氏38度弱。確かに涼しくはないが、日本よりマシ。夏のバケーション・シーズンに、高温多湿の日本に観光にくる欧米人はいない。
春や秋といった過ごしやすい季節はあるが、それらの時期に訪れるのは中国や韓国といった近隣諸国からの短期の観光客だけ。
一般の日本人は、円安で海外旅行に出かけづらくなる一方、海外から観光旅行客を呼び込むのもこれまでのようには行かなくなるのがこれからの日本だ。
2022年8月4日
賀来満夫は、まだいたのか
日本では第7次の感染拡大が止まらない。医療現場は逼迫し、治療を受けようとしても対応がままならなくなっている。高齢陽性者の介護の現場もこれまでになく疲弊している。
NHKのニュースを見ていたら、東京感染症対策センター(東京 i CDC)座長だという賀来満夫が、またまたまた感染拡大防止についてもっともらしいことを都の会議で語っていた。正確には誰かが書いたのであろう原稿を始終読んでいただけなのだが。
ところでこのおっさん、2020年3月に新型コロナの感染について、新聞のインタビューでこんなことを語っている。
「SARSは2002年11月に確認され、ピークは03年3~4月で同7月に終息宣言が出た。その例を考えると、今回は19年12月に始まったことから、20年4~5月がピークで、8月まで続くと推測する」
2年前の3月6日の記事
何言っているんだろう。「その例を考えると」って、類推の仕方が根本的に間違っている。いまも勝手な思い込みをもとに医療行政をミスリードしているんだろうか。
参照:https://tatsukimura.blogspot.com/2020/03/blog-post_5.html
2022年8月2日
掛け声倒れ、いや、掛け声にすらなっていない
IMDが調査、発表している各国のデジタル競争力ランキングで、日本は64ヵ国中の28位。3年で6つ下がった。
昨年9月1日にデジタル庁が設置され、多額の国家予算が割り振られたうえで、官民を挙げてDX推進の大合唱がなされた挙げ句である。掛け声倒れになっていないかとの批判の声が多い。
原因はどこにあるのか?
大企業の役員や管理職を対象にした調査では、7割以上がデジタル化とDXの違いを「説明できない」と回答したとあった。
これって、すごく象徴的だ。
DXが「デジタル・トランスフォーメーション」の略だということくらいは、先の調査対象者は知っているはず。なのに、なぜデジタル化との違いすら自分で説明できなかったのか。
それは、自分の言葉になっていないものを人は理解しないし、できないからだ。デジタル化とDXの違いを「説明できない」と答えた被験者に、トランスフォーメーションって何?って聞いてみると分かる。彼らはまた、う〜ん、と唸るだけだ。
言葉が分かっていないのだ。だから、本来の意味が分かるはずもない。意味が分からなければ、説明できるはずがない。
じゃあ、どうするか。僕からの提案はすこぶる簡単。<横文字を使うのを止めてみる>に尽きる。DXだ、トランスフォーメーションだ、なんて聞かされた段階で、ほとんどの人は本人が意識しないうちに思考停止になっている。
だからこそ、苦労してでも日本語で言い換え、表現する。そこでやっと彼らはそれが何なのか理解できる。少しずつだろうが、問題や課題を自分のものにしていける。
よく聞く「DXが掛け声倒れになっている」という批判は、批判になっていない。実態は掛け声にすらなっていない、そして何も届いていないのが現実だからである。
訳も分かっていない役人や経営者や半端者のコンサルがDXだGXだ、SDGsだESGだなどと口先で吹聴している風潮を笑い飛ばすことから始めるしかないんじゃないかと思っている。
そのほかにも、パーパスだ、ウェルビーングだ、リスキリングだなど、薄っぺらい横文字をありがたがって振り回していても何も始まらない。