2021年9月4日

歴史とは、そもそもが物語

唐辛子味のとっても辛い「暴君ハバネロ」(東ハト)というお菓子がある。

その商品名は、ローマ皇帝の暴君ネロから取っているのだろうが、ネロは実際に暴君だったのか。

今、ロンドンの大英博物館で「Nero: the man behind the myth」(ネロ:俗説に隠れた男)という展示会が開催されている。さまざまな出土品をもとに、ネロが実際はどういった皇帝だったかに想像力が刺激される。

https://www.britishmuseum.org/exhibitions/nero-man-behind-myth

第5世ローマ皇帝ネロというと、稀代の暴君として歴史にその名が残っている。ただ、彼のもともとの胸像や碑文は死後に削り取られ、多くの痕跡は消されている。ネロが今日暴君とされているもとになったのは、歴史家のタキトゥスらの著作に残された記述である。

ところが、ローマのコロッセオに隣接する地から掘り起こされ、復元がなされている当時の遺跡からはネロがきわめて有能な君主だった多くの証拠が見つかっているという。

また、ベスビオ火山の噴火で埋没してしてしまったポンペイの遺跡からは、その地を訪れたことがあるネロについての落書きが見つかっていて、そこには市民がネロを称える多くの言葉が書き残されていた。

ネロがとんでもない暴君だったとして挙げられる理由に、キリスト教徒への激しい弾圧がある。また、彼は市民からの受けはよかった一方で、元老院との関係が良くなかった。

先に書いたように、彼に関する碑文などは削られ消されてしまっているが、残っている他の記録によればネロの死後には丁重な葬儀が行われ、墓前には花が途切れることなく市民から手向けられていたという。

もし、ネロが当時の誰もが認める暴君であれば、葬儀などなされなかっただろうし、絶えず花が供えられることもなかったのではないか。

ネロの公式な評価は歴史家タキトゥスの著作によるものだが、タキトゥスはネロの存在を苦々しく思っていた元老院議員のひとりだったし、その後ローマの歴史を書き残してきたのは、のちにローマの国教として認められたキリスト教徒だった。

キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝は聖人として歴史に刻まれているが、実は自分の長男と2番目の妻、義父を殺害したような男だった。

ネロが非道な暴君で、コンスタンティヌスは聖人というのは一体どういうことだろうか。想像するに、ネロに関しては後にフェイクニュースが作られ、それが唯一の歴史になってこれまで残ってきた可能性があるということだ。

英語のHistory(歴史)は、His story(彼、つまり時の権力者の物語)だと言われる。ギリシャ語では、「歴史」も「物語」も 同じ ιστορία(イストリア)である。さすがはソクラテスを生んだ国だけあり、ギリシャ人はそのあたりをよく分かってる。

そういえば、我々が学校で教えられてきた「歴史」のなかにも、冷静に考えてみるとありえない話がたくさんある。

2021年8月31日

3時間のドライブだった

入り口でチケット買い、そこに記された3番シネマに向かう。扉のところでチケット確認をしているスタッフに、CMと予告編は何分かを訊ねると「この映画は、1分です」と彼女。

時計を見ると、予定の開演時刻ちょうど。これから予告編が始まり、1分後には本編の上映がスタートする。どうせ本編上映まで十数分あるだろうから、トイレで手をゆっくり洗ってから席に着きたいと思っていたのだが、そうはいかないようでそのまま席につくことにした。

映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』を原作にした映画。
 

映画の中で、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として登場する。ただの劇中劇として演じられるだけではなく、そのためのキャスティングから始まり、本読み、稽古、そして最後は劇場での舞台公演までが映画の中に登場する。舞台が作られていくプロセスが、この映画と併走する。

西島秀俊が演じる主人公の家福は、演出家で役者。彼は広島のある劇場から招かれ、演劇祭のためにこの芝居を作ることを依頼されている。

もう一人の主人公は、クルマで彼の送迎を担当することになった小柄な若い女性のプロドライバー、みさき。

いや、この映画にはもうひとつの主人公がいた。みさきが運転し、2人が移動に使う赤いサーブ900である。村上の原作では黄色いサーブ900になっているが、映画では赤いボディカラーで正解だったね。

この車は家福が15年乗り続けている車なのだが、芝居の製作中にもし事故があったらいけないという演劇祭の主催者の意向で、みさきが送り迎えを運転するのだ。

窓が大きく、「これぞクルマ」といった、いかにもオーソドックスなスタイルのこの車が映画にとてもよく似合ってた。

映画の終盤、家福はみさきの運転するサーブ900で、彼女が生まれ育った北海道の小さな町まで夜を徹した長距離のドライブをすることになる。

それは、2人がそれぞれに抱えてきた過去を振り返るとともに、そこにある種の諦めをも感じさせる、しかし未来へと続く価値を見いだす旅でもあった。赤いサーブ900は、その2人の再生を見届ける証人のようだ。

映画の中で「ワーニャ伯父さん」の舞台を作っていく家福。亡き妻との関係から自分を見つめ直さざるをえなくなる家福と、これまた捨てられない過去を心に潜めたみさきの2人が、まるで「ワーニャ伯父さん」の主人公たち、ワーニャとその姪のソーニャのように思えてくる。

上映が終わり、腕時計を見たら3時間が経っていた。後で調べたら、この作品の上映時間は179分とあった。つまり、上映前の予告編1分と合わせてちょうど3時間の、発見のドライブだったわけだ。

2021年8月30日

キャスターやるなら、ニュースとは何かよく考えた方がいい

8月30日、TBSの夜のニュース番組「ニュース23」に同局の国山ハセンというアナウンサーが、小川彩佳キャスターのサブとして登場した。

番組が始まっての第一声、彼の「国山ハセンです。みなさんに少しでもお役に立つニュースをご紹介していきたいと思っています」という自己紹介でスタートした。

おいおい、と思ったのは僕だけではないはず。頼むから「役に立つ」かどうかでニュースについて考えたり、選んだりしないでくれ。

視聴者はそうしたことを期待して、最近のタリバンによるアフガニスタン新政府発足に関するニュースに関心を向けているのではない。 

ニュース番組は、バラエティや情報番組とは違うはずだろう。えっ、今はもうそうじゃないのか。

2021年8月29日

日本の選挙は、車椅子ラグビーに倣うべし

この数日、車椅子ラグビーを見ている。

(一般社団法人)日本車いすラグビー連盟のサイトから

車椅子ラグビーには、男女別がない。一方、同じ車椅子によるコートでの団体競技でもバスケットボールは男性と女性で競技が分かれている。

コート上には各チームから4名ずつ、試合中は合計8名の選手が車椅子を器用に扱いながら走り回る。

ラグビーと言っても、元のラグビーとはルールはかなり異なる。ボールを前に投げてもいいし、当然キックはない。ボールを相手陣営のゴールに持ち込めば得点になる。ボールを運んでいる時は、10秒以内にドリブルかパスをしなければならない。

競技で忘れてはならないのは、厳密なポイント制度があること。選手たちは、それぞれの障がい度合によってポイントが決められていて、障がい度合が最も重いクラスは0.5点、最も軽いクラスは3.5点がつく。0.5点きざみになっている。

コート上に出ている4名の構成は、そのポイントの合計が8点以内でなければならない(女性選手が出場している場合は、1人あたり0.5点の追加ポイントが認められる)。https://jwrf.jp/about/ 

ゲームの公平さを担保するためである。このベースにある考え方は重要であり、他にも応用できる。

たとえば国会議員の選挙だ。まもなく衆院総選挙が行われるが、その際に立候補資格、あるいは得票数の換算にポイント制を導入するとかできると思う。

よく選挙ではジバン(地盤=支持者のいる地域)、カンバン(看板=知名度)、カバン(鞄=選挙資金)が必須と言われる。言い方を変えれば、ポッと出のボンクラ候補でも、これらがあれば当選できる確率は高い。

親が、そしてそのまた親が国会議員をやっていたケースだ。二世議員、三世議員と言われる世襲議員。

下記のサイトは、日本の政治家にいかに二世、三世(あるいは四世)が大量にいるかを示している。データは古いけど、今も状況は変わってない。
http://www.notnet.jp/data02index.htm

政治が、まるで歌舞伎や狂言のような伝統芸能と同様に世襲化している。

そこで選挙にあたっては、親が国会議員だった場合は●ポイント、じいさんがそうだった場合は■ポイント、曾じいさんは▲ポイント、またそれらが大臣経験者であった場合はポイントを2倍、そして首相経験者は3倍で計算する。

そして、選挙での候補者の得票数とそれらのポイントの逆数を掛けたものを「有効得票数」として認めることにする。

こうでもしなければ、世襲議員は選挙戦の必勝ツールであるジバン、カンバン、カバンを最初から握って選挙に出るんだから、公平公正な結果になるわけない。

2021年8月28日

映画館は、ネットフリックスから学べ

徒歩圏には映画館はないが、2駅先にはシネコンがある。4駅先にもシネコンがあり、5駅行けばさらに3館ある。新作映画は、これらの劇場でほぼカバーできる。

それはいいのだが、劇場で映画の本編上映前につまらないCMや映画の予告編を流すのは、そろそろ止めてくれないものか。その時間、13分から15分。結構長い。

入場料を払っているのに半ば強制的にCMを視聴させられるのは不愉快だし、新作の予告編は客が興味があれば自分でネットを探して見ることができる。

劇場に足を運んだ客がそうしたものを見せられどう感じているか、調査したことあるのだろうか。映画の興行会社は、少しは客の立場になって自分たちのサービスを振り返ったほうがいい。

ネットフリックスが、視聴者を惹きつけるためのマーケティングをどれだけ懸命にやっているかを少し真面目に学んだらどうだ。このままだと、じきに手遅れになってしまうぞ。

2021年8月27日

語り尽くせないホロコーストの事実

第二次世界大戦中、ナチスドイツが組織的に行ったホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)の犠牲者は600万人に上るといわれている。

なかでもポーランド南部にあった「アウシュビッツ強制収容所」にはユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者などが収容され110万人が虐殺された。

アウシュビッツには一度に2,000人が入れられたという4つの巨大なガス室があって、ユダヤ人たちはそこで10人のうち9人、全体で100万人以上が殺されたとされる。

第二次大戦中は、アウシュビッツでそうした虐殺が行われていたことはナチスによって厳重かつ巧妙に隠匿され、明らかになっていなかったことを映画『アウシュビッツ・レポート』で知った。

 
映画は事実がベースになっている。主人公は2人のユダヤ系スロバキア人。彼らは1942年に強制収容所に入れられ、44年4月10日に実際にアウシュビッツを脱走した。「中」で何か行われているのかを外に知らせるため、十数日かけて命を削りながら逃げていく姿が凄まじい。

その2人、ヴルバとヴェツラーは、収容所の内実を伝える32ページのレポートを作成した。後にアウシュビッツ・レポートとして連合軍に報告されることになるこのレポートには、収容所のレイアウトやガス室に関する詳細などが描かれていた。

収容者に送られた人たちは一列に並ばされ、最初に「右!」「左!」とナチの担当者によって2分される。一方は、病弱な人、妊婦、子どもなど、その場で殺される一群。肉体労働に耐えられる男たちは重労働を強いられた後、ガス室で殺されることになる。

ナチスドイツの連中はよくこんなこと考えるなというような様々な手段で、収容者は極限まで痛めつけられる。肉体的にはもちろん、精神的にも人間がボロボロになるまで追い詰める。

収容された人たちが山中で頭だけ出して地中に埋められ(これって、自分でその穴を掘らされたんだろう)、ナチスの伍長がそれをスイカ割りをするごとく棒でめった打ちにするシーンには背筋が凍る戦慄を覚えた。

所持品はすべて奪われ、丸裸で殺され、そのままゴミのように積まれて放置されている無数の亡骸の山が方々にある。地獄絵だ。

これが歴史的事実として認識されているアウシュビッツに関する出来事である。

ナチスドイツによるこれらの行為は、語り尽くすことができない。もうこれで十分というところには、たぶん永遠に行き着くことはないだろう。 

だから今回、東京オリンピックでその開会式の前日だったにもかかわらず、予定されていたショーディレクターの小林賢太郎がホロコーストをお笑いネタにしていた過去の行いから解任されたのは当然の判断だった。

もし彼を解任せず、オリンピックが始まったあとにその事が明らかになった場合、IOCとJOCに厳しい批判が寄せられただろうことは想像に難くない。

この解任の件で記者会見に臨んだ組織委員会の橋本聖子会長は「これは外交上の問題もあると思っている。早急に対応しないといけないと解任の運びになった」と理由を説明したが、理解しておかなければならないのは、これは「外交上の問題」ではなく「倫理人道上の問題」であるということ。

そういえば、以前、麻生太郎副総理が「(改憲のために)ナチスの手法を学べばどうか」と語ったことで各方面から顰蹙を買った。なぜ解任されなかったのだろう? 不思議だ。

2021年8月26日

パラリンピックはいいね

24日のパラリンピックの開会式は、オリンピックのそれより格段によかった。

オリンピックの開会式はといえば、とにかくまとまりがなく、何を伝えたいのか分からなかった。そのコンセプトは「United by Emotion」だったとか。意味がわからない。

担当プロデューサーいわく、「世界へ向けたメッセージで、あえて和訳はつくっていない」。確かに恥ずかしくて日本語にできないよね。

例えば、唐突に海老蔵の踊りがショーに挿入されていたが、違和感しかなかった。荒事の演目を上原ひろみのピアノに合わせて演じ、途中で見得を切ってみせていたが、外連味が過ぎていて自己撞着してることに気づいていない。

それに比べて、パラリンピックの開会式はよかったよ。テーマがシンプルで、統一感が保たれていて分かりやすかった。

昨日は14歳のスイマー、山田美幸さんが競泳で銀メダルを取った。彼女は生まれつき両腕がなく、足にも障害がある。

腕がないので、足だけで泳ぐ。その力強い、彼女だけの独特の泳ぎ方はとてもクリエイティブだ。

そして何にも増して、両腕がなく身長も小さい彼女がそもそもプールに入りたい、泳ぎたいと思い、それを続けてきたことに驚かされる。半端な勇気じゃできないもの。

2021年8月25日

転がる石が、その動きを止めるとき

ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツが、8月24日に亡くなった。80歳。彼は50年以上にわたってストーンズの音楽を支えてきた。

ブルース・スプリングスティーンによれば、「ミックの声とキースのギター、それらに引けを取ることなくチャーリーのスネア・ドラムこそがストーンズの音だった」。

ロックバンドのドラマーは、華やかで重要なポジションだ。その音量もそうだし、ステージでは視覚的にも目立つ。曲の全体を通じてドラムは音を奏で、バンド全体を支える。だからか、髪を振り乱し、暴れ回って演奏するロック・ドラマーはたくさんいる。

チャーリーは違った。淡々とやる。かっちりと仕事をする。だからこそ、その前でミックもキースも自由にやれた。

チャーリーのドラミングの特徴に、リズムをわずかに後ろにずらす奏法がある。それがバンド全体の独特のリズム感やうねる感覚を作り出した。ソフトウェアのプログラムではできない、チャーリーのものだった。

バンドは不思議な生き物のようなものである。単なるパーツ(メンバー)の寄せ集めではない。

フレディ・マーキュリーが亡くなった後、フリーやバッド・カンパニーで活躍したポール・ロジャーズがクイーンのボーカリストとして一時参加したが、やはり「違った」。

ポール・ロジャーズが稀代のスーパー・ロック・ボーカリストであることは疑う余地がない。(僕も大好き)。だが、違ったのだ。

同様に、チャーリーなきストーンズは、もう転がり続けることはないだろう。

Amazonには、今から30年前に僕が日本に紹介した、フィリップ・ノーマンによるストーンズの本『ローリング・ストーンズ―その栄光と軌跡』(原題 The Life and Good Times of The Rolling Stones)がまだ売られていた。懐かしい。

2021年8月23日

やっと、カジノ誘致反対に向かうことができそうだ

昨日、横浜市長選挙があり、午後8時の投票終了とともに出口調査の結果をもとに山中竹春氏の当選が確定した。彼は48歳の元横浜市立大学の教授だ。

今回の市長選の投票率は、前回の市長選と比べて12%も高かった。市民の今後の市政に向けた関心の高さがこの数字から伺える。

今回は8名もの立候補者が立った混戦模様で、そのなかで現職の林市長を含む2名が今回の最大の争点であるカジノを含む統合型リゾート(IR)誘致の推進派、残りの6名がその誘致に対して反対の意見を打ち出していた。

当初、反対の声を上げる6名で票を食い合うのではないか、その結果、得票数では少ないIR推進派の現市長が4選されるのではないかと心配されたが、今回はなんとかそうした選挙の罠に陥らずうまくいった。

横浜市では、昨年カジノの誘致を巡って市民の間で多くの反対意見が出てきた。その一つの表明が、IR誘致の是非を問う住民投票条例の制定を求めての市民運動であり、そこには19万筆を超える署名が集まった。僕も微力ながら、署名簿を手に知り合いを回った。

ところが、本年1月の横浜市議会で「住民投票で民意を問う段階には至っていない」などという自民党および公明党両会派の反対で条例案は否決された。

IRを誘致するかどうかを直接問う議論ではない。そこに地元の横浜市民の意見を入れるための住民投票を行えるようにするかどうかという、その条例を求めての議案だったにもかかわらずだ。

それに対して、この両党が反対をして否決に持ち込んだ。そしてあろうことか、その後、林文子現横浜市長の下でカジノの運営事業者を募集するなどIR事業は具体化に向けて舵が切られた。

そうしたやり方に対する市民の怒りは、両党の市議会議員らが思う以上に大きかった。それが今回、IR誘致反対の先頭に立つ候補を押し上げた最大の要因だったように思う。
 
今回の横浜市長選の結果について、総理大臣の菅義偉が「残念だ」とコメントしていたが、当選者は他でもない有権者らによって正統な選挙で選ばれている。それを尊重するどころか、自分の意向に沿わない結果だからって「残念だ」と言うのはおかしいだろう。明らかに市民軽視である。

2021年8月21日

感染者率1%

友人が「早稲田の感染者多いですね」といって、以下のサイトを送ってきてくれた。

https://www.waseda.jp/top/news/70079

これを見ると、8月19日現在で学生や教員、職員など同大学関係者の累積感染者数は600人程度と報告されている。総数のおよそ1%。

同日の日本国内での新型コロナ感染者数は、約123万人。総人口には乳幼児なども含まれているが、それらの約1%だ。 

参考までに米国での感染者数を見ると、同じ日の集計で約3,730万人。こちらは人口比の11%になる。

新型コロナによる死者数をみると、日本は感染者数の約1.3%、米国は同約1.7%である。

米国の場合、感染者や亡くなった人を白人か黒人か、ヒスパニック、アジア系などでの内訳をみるといろんなことが見えてきそうだ。民主党支持者(バイデン支持者)と共和党支持者(トランプ支持者)の違いにも興味ある。 

どこかにデータがありそうだけど、それはまた時間のあるときにでも調べてみたい。

2021年8月14日

今回のオリンピックでの最大の収穫

8月4日のオリンピックのテレビ放映は、スポーツ競技についての世の中の空気を確実に変えたと思う。スケートボード女子パークの試合だ。

それは、決勝戦というメダリストを決める試合だったのだが、それまで見てきた女子柔道や女子レスリングの決勝とはまったく雰囲気が違っていた。

12歳、13歳の女の子(としか表現できない)が、それぞれ個性的なパンツやシャツで現れ、緊張感を見せながらものびのびと滑っているのが見て取れたから。

そしてゲームをしながら、勝った、負けたではなく、それに増して選手たちがお互いのチャレンジを称え、スゴイ技が決まったら拍手を送り、失敗すれば悔しがる様子が新鮮だった。

お互いを蹴落とすために試合に来ているのではなく、みんなで楽しみ、スケボーを盛り立てようと思っているように感じた。それが、誰かにそう指導されたからでなく、自然とみんながそうした空気のなかでスケボーと付き合ってきているのだろうと思った。

これって、間違いなくこれまでのオリンピック感への強烈なカウンターパンチだ。
 


今後、「スケボー何とか」ってのが出てきそうだな。スケボー経営とかスケボー組織とか。

2021年8月13日

映画は、好きか嫌いか

横尾忠則さんが書評でこんなことを書いていた。

書評は一冊の本を剽窃(ひょうせつ)する行為にも似て、創造から遠い。どんな膨大な書物も簡単に要約して気の利いたコメントを加えるが、これは絵を描くようなクリエイティブな行為ではない。クリエイティビティのカット&ペーストだ。書評は絵画における模写というコピーで、パスティーシュ(模倣や意図的に混成したもの)は創造とは言わない。
自分が書く書評を、いきなりこのように書き始める横尾は実にたいしたもんだと感心。

なるほど、確かに彼が言うとおりかも知れない。でもこれは書評に限らず、他の「評」、つまり映画評や音楽評、舞踏評などあらゆるクリティークに当てはまる気もする。

たとえば映画評をとって考えてみると、どう見ても映画会社や配給会社などが試写会時に用意した資料をもとに要約をしただけと思えるような映画評が多い。

その新作映画はまだ劇場公開されていないのだから、一般客はその評をありがたく信じて参考にするしかない。そこにあるのはクリティークではなく、単なる情報の非対称性の利用だけ。

僕が今も映画を選ぶ際に参考にしているものの1つが、週刊文春に昔から連載されている Cinema Chart 欄だ。毎週、2作品を5人の評者が星の数(☆5つが最高)と60字ほどの文章で評価する。

そこで中野翠と芝山幹郎の両者が高評価を与えているものは、僕が観ての評価も高い。これは理屈でも何でもなく、これまでの長年の経験則からだ。

以前、5人の評価者のなかに映画評論家のおすぎがいて、その頃は中野と芝山が高評価、一方でおすぎによる評価が低いものはほぼ間違いなく自分の趣味で高評価の映画だった。たまに彼ら3人が揃って高評価を与えていた作品もあったが、それらは僕には「まあまあ」だったりした。

いま、映画評でかつてのおすぎにあたるのはフランス文学者で映画評も書いているC氏で、彼が高評価を与えている作品は「よした方がいい」対象である。

でもこれは、趣味が合ってないというだけの問題。彼の高評価は「観ない方がいいよ」と教えてくれる、僕には貴重な情報。

その作品がいい映画かどうかは、自分が好きになれるかどうかだけだ。

2021年8月12日

1日5,000人 + 5,000人で密になる

緊急事態宣言下にもかかわらず、新型コロナの感染者拡大が止まらない。医療現場の状況も逼迫したままだ。

人流を5割減らすよう、そして県境をはさんだ移動を避けるよう、政府の新型コロナウイルス対策分科会が緊急宣言を出した。

今日現在の神奈川県の重傷病床の使用率は、96パーセントである。

そうしたなか、近くの横浜アリーナではジャニーズ事務所主催のコンサートイベントが開催中だ。お盆休暇をにらんでか、昼と夕方の2回公演が組まれている。

会場運営会社に公演について訊ねたら、「感染拡大を考慮して」5,000人の観客を入れて実施することになっていると言う。一日で1万人のファンが駅から会場のアリーナまでぞろぞろ移動してくる。


 

今週いっぱい、この調子でコンサート・イベントが開催される。

先週終わったオリンピックはすべての会場で無観客でゲームが行われたが、この開催をどう考えるか会場担当者に訊いたら「文化イベントは、国と県の所管機関に相談した上でルールに従って実施している」という。

そこで管轄である神奈川県くらし安全防災局危機管理防災課にこの時期の実施について考えを聞いた。すると、国(内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室)から収容人数の半分、あるいは5,000人を入れてのイベントの実施ができるとの通達を8月5日に受け、それにしたがって許可していると。

映画館や美術館を楽しむには言葉はいらない。だが、ジャニーズ事務所のコンサートはそうはいかないんじゃないか。

今週いっぱい、毎日5,000人+5,000人の2公演が行われる。県内はもちろん隣の東京都から多数のファンが押し寄せ、人流が一気に増え、密はどう見ても避けられない。コロナ感染者が急増しなければいいのだが・・・。

ワクチン接種の帰り、スターバックスでコーヒーを買って帰ろうと思ったら店のシャッターがおりていた。感染者が1人出たため、「お客様と従業員の安全確保を最優先とするため」一時休業していると。

今は、金儲けよりこうした姿勢が常識のはずだ。

2021年8月11日

確かにドレスはレインボーだが

今回のオリンピックの開会式、国歌「君が代」を歌ったMISIAが七色をあしらったドレスをまとっていたことで、それがLGBTQの多様性を表現しているとして多くの人が称賛した。


レインボーカラーは性的多様性を象徴するものとして用いられ、このドレスはそうした意味が込められている。

彼女の歌唱は素晴らしかったと多く人が賛辞を送り、LGBTの人たちは今回のドレスを見て感激した。

しかし、彼女が歌った歌詞の内容にあらためて意識を向けた人はいったいどれだけいたか。それは多様性とかけ離れた、むしろそれとは真逆のものだったんだよ。

歌詞、それはメッセージである。小さな時から聞かされているからと妙に納得したり、麻痺しないように気を付けなくちゃ。

2021年8月8日

彼女は生き返ってきたのか

注文していた本が入荷したと連絡があり、自転車で駅前のくまざわ書店へ。

ネット書店は便利だが、急がない本はできるだけ街の本屋で買うことにしている。

店のカウンターで本を受け取ったあと、いつものように書内をぐるりと回ってめぼしそうな本や雑誌をあたる。

入口近くの島には売れ筋の本がうまく並べられている。書店の中でも、おそらく売上が一番高いはずのこの売場には最新の注意を払って商品が陳列されているのが分かる。

平積みされたなかの一冊に、上野千鶴子『在宅ひとり死のススメ』(文藝春秋)があった。20万部突破とカバーに書いてある。そんなに売れている本はどんな本か、と手に取ろうとしたが、腕を引っ込めた。

だって、この著者、まだ生きてる・・・。

実際に<在宅ひとり死>をした経験から、「みなさん、やっぱ、在宅ひとり死はいいですよ!」って語ってるのなら興味あるけど。

それじゃあ落語だよな。

自分が知りもしないこと、それも人の生き死にに関わるような大切で、しかも個別性の高いことを「これが正しい」ともっともらしく説教されても困る。

上野

2021年8月6日

人のメダルをかじっちゃいけません

名古屋市長の河村氏が、選手が持ってた金メダルをガブリとやった。(写真)

朝日新聞2021年8月6日朝刊
 
メダルを持って表敬訪問をした後藤希友選手(ソフトボール)が所属するトヨタ自動車は、以下の抗議コメントを出した。

金メダルは、アスリートの長年にわたる、たゆまぬ努力の結晶であり、またコロナ禍においてメダル授与ですら、本人が首にかけるという状況下においての今回の不適切かつあるまじき行為は、アスリートへの敬意や賞賛、また感染予防への配慮が感じられず、大変残念に思います。河村市長には、責任あるリーダーとしての行動を切に願います。
トヨタ、怒ってるねー。

メダルを見るとかじりたくなる市長さんに、名古屋市役所の誰か、アマゾンで買えるこの金メダル(380円)を替わりにプレゼントしてやってちょ。


2021年8月2日

「私はこれが好き!」と「どの絵が売れてるんですか?」の違いが生むもの

ある会社が、自由ヶ丘で画廊のような商売をしていたときのこと。

場所柄、観光客を含む外国人も多く店を訪れていたらしいのだけど、そうした外国の人と日本人では絵を選ぶ際の行動がずいぶん違っていたという。
たくさんの絵がお店にありますので、「自分の好きな絵を見つけてください」と言ったときに、外国の方は、すぐに「私はこれが好き!」と選ぶのですが、意外と日本人は見つけられず、「どの絵が売れてるんですか?」と聞く人が多い。これはひとつに自分の中に自分の好きな美の基準がない。アートのようなものは、絶対的な基準はあるわけではなく、自分の好き嫌いでいいと言えばいいと思うのですが、おそらく教育の違いなのかもしれませんが、そういう経験がなく「この絵が自分はいい!」と言い切れる人が少ないのかもしれないなということでした。
教室で学生に対して何かを問うたとき、まっすぐな視線で自分の意見をさっと言える若者(だけじゃないけど)がとても少ないことにすっかり慣れていた僕は、これを読んではっとした。
 
他人はどうしているか、どう思うのかをまず知ろうとする。それを察知して、自分とさほど違わないということが分かってまず安堵する。 人が言っていることに追従してなら意見が出てくる。
 
比較すると、留学生らはもっとはっきりものを言う。他人のことなどあまり気にない。だから発言内容は別としても、彼らのそうしたすっきりした姿勢に僕は好感を持つ。

こうした状況では、世界を引っ張るビジネスモデルやサービスが、これからこの国で生まれてくることはないんだろうなと、ふと思う。
 

2021年8月1日

日本における顧客の推奨度指標は、今後はNPSからPSJに

先月、日経クロストレンドという経営系のネットマガジンが、僕が提唱する PSJ(Promoter Score Japan)を取り上げていた。

以下は3回の連載記事の2回目。僕の発表をもとにまとめられている。
https://waseda.box.com/s/xiuu0a2nhl4zsbafnib0i1f8iv0mg3z4

日本企業の経営者は、これを読んでいい加減に気づいて欲しい。いま彼らがやっているのは、自分の足にまったく合いもしない形の靴(NPS)を、舶来品のお土産でいただいたからといつまでも痛いのをやせ我慢してはき続けているようなもの。

そうした無駄な痛みを黙って我慢していると、麻痺して痛みが感じられなくなるだけでなく、自分の本来の足の形まで失っていく。

そのことに日本の経営者たち、そしてマーケティングの責任者らは、そろそろ気づかなければいけないと思う。

 

 

2021年7月31日

これからのオリンピックは、世界分散型の開催にしてはどうだろう

このところ、家にいるときはテレビをつけておく機会が多い。オリンピックの競技を見るためである。日本の選手やチームが出場する試合は、どうしても気になるものだ。

どのスタジアムも会場も一般の観客はおらず、参加チームの関係者などが観客席にいるだけで実に寂しいというかなんというか。ただ、これは致し方のないこと。

一般の観客がおらず、だから普通のスポーツ中継には必ず付きものの観客の応援風景も一切映らない。すっきりしたもんだ。

だから見ていると、ふと「これ、どこでやってんだっけ?」と思う瞬間がある。

もちろん「東京」オリンピック。東京を中心に日本国内のどこかの施設でやってるんだろうけど、これならどこだって同じ。ひとつの国に、すべての競技種目の選手や関係者が集まる必要性はないんじゃないかな。

ある一国が、その後どのように使われるかも分からない競技場や選手村など、さまざまな施設を多額の費用を投じて多数建設し、維持していくのは合理的な判断といえるだろうか。

今後のオリンピックだけど、分散型で世界のいろんな場所でやったらいい。例えば、柔道については毎回日本の武道館で、野球はアメリカで、レスリングはギリシャ、ゴルフは(なぜゴルフがオリンピック競技なのか分からないが)スコットランドで、サーフィンはハワイなんて具合だ。

3時間半もの開会式や聖火リレーはなし。もし何らかのセレモニーが必要ならば、それはオリンピック発祥の地であるギリシャで行えばいい。

そうこうするうちに、今のようなIOC(国際オリンピック委員会)は不要になっていく。これが一番重要なポイント。

2021年7月28日

いまだ大人になれないネット広告

先の東京オリンピック(1964年)の頃からずっとテレビは広告媒体の王者だったが、インターネット広告がその媒体費規模において2019年にテレビ広告を超えた。

青色の棒グラフがテレビ広告費、黄色がネット広告費の推移
 
日本でネット広告がビジネスとして立ち上がったのは、電通系のサイバーコミュニケーションズ社がヤフーのサイトの広告枠を取り扱い始めた25年ほど前のことだったと記憶している

あれから四半世紀。もうすっかり大人になったはずのネット広告のはずが、どうにも中身はいまだにガキそのままのようである。

先日、「汚染されたネット広告、大企業も関与 「バレなければ問題ない」2兆円市場の影」と題する記事を目にした。
https://www.j-cast.com/2021/07/04415242.html?p=all

25歳になり、体は父親(テレビ広告)を超えた。でも今も成熟しないばかりか、良し悪しの区別すら付かない子どものままでここまで来てしまった。

他の広告媒体にはできた単純な良し悪しの区別すら、なぜネットではできないのかが不思議でならない。そこに関わっている人間の問題か、それともネット世界が持つ独特の感覚がそうさせるのか。

量的には豊かになったネット広告。ポケット(銀行口座)には大金をジャラジャラ言わせながら、倫理的な面だけでなく質的にも痩せ細ってしまった。

広告の分野には、かつて「広告クリエイティブ」というそれなりに豊かな表現の世界があった。純粋なアートや文芸の世界とは違うところで見る人々の心の琴線に触れて、少しばかり視聴者や読者を気持ちよくさせたり、何かしら新たな気付きを与えていた。

少なくとも、僕が広告クリエイターを名乗っていたときにはそうした思いで仕事をしていた。ネット上の広告を作っている連中は、いま何を考えてクリエイティブに取り組んでいるのだろう。