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2023年1月1日

『夢の砦』

大晦日に年越し蕎麦を食いながら読んだ(我ながら行儀がわるいね)2022年の最後の本が、矢崎泰久と和田誠の『夢の砦』だった。

稀代のジャーナリスト・編集者と天才イラストレーターが作った雑誌『話の特集』にまつわるさまざまな話や、そこに集った多彩な才能溢れる人たちを描いたゴキゲンな本だ。

『夢の砦』という名の本には、小林信彦が(たしか)1980年代の初頭に書いたものがあり、こちらも雑誌の編集と制作をめぐる素敵な本だったけどまったく別もの。

矢崎らのその本の最後に、矢崎が2019年に亡くなった和田への追悼文を書いている。もとは『ユリイカ』2020年1月号に掲載されたものだが、雑誌を一緒に作ってきた同志である和田への愛情溢れる文章と語りにほろりとしたと思ったら、けさの新聞で矢崎が暮れに亡くなっていたことを知らされた。

『夢の砦』の著者紹介には「卒寿を目前にした現在も生涯現役のフリーランス・ジャーナリストを志して健筆をふるう」とあったのに、残念である。

2022年12月23日

電子マネー時代に托鉢僧はどこへ行く

クリスマス気分で賑わう横浜。高島屋の前を通った際、托鉢をする坊さんを見かけた。新型コロナの感染拡大以来、そうした人は見かけたことがなかったので珍しかった。

2時間ほどのちに再度見かけた彼は、先ほどと寸分違わぬ場所に寸分違わぬ様子で立っていた。

脇にはキャリーバッグがある。どこから来たんだろうという興味がわき、幾ばくかの布施を喜捨し話しかけたところ、長野県の小布施町の臨済宗の寺からだという。

人々がスマホで支払いをするようになってきている今の時代に、托鉢で金を受け取れるのかどうか訊ねてみた。(余計なお世話だ)

彼は「お気持ちだけで」と応えた。それはそうなんだろうが、托鉢僧に紙幣を渡す通りがかりの人は多くないはず。実際、彼の持っていた器には紙幣はなく、100円玉と500円玉だけがそこにはあった。なぜか10円玉、50円玉は1枚もなかった。

・・・なんてことを考えながら帰宅後、托鉢について調べてみると、今日出会った坊さんはほぼ間違いなくニセ者だということが分かった。

まずは彼の装い、禅宗の僧が托鉢する際に身につける袈裟をまとっていなかった。着物の下にタートルネックのセーターを着込んでいた。読経をまったくしていなかった。そして、そもそも彼が言った臨済宗の寺は小布施町に存在しなかった。

この男は、何か理由があって托鉢僧を装って小遣い稼ぎ、あるいは生活費稼ぎをしていたのだろう。

騙されて金を渡してやったことになるが、寒風のなか立ち続けていたあの男には何か訳があったはずで、それを思うとそうしてやってよかったと思っている。

よく見ると、なりがおかしい。東京の合羽橋で買った托鉢セットだろう


ところで、お金が電子化されていく時代に托鉢僧が存在し続けるのか気になったことがきっかけだったのだが、托鉢はあくまで修行が目的の行為であることを考えれば、本来はお布施の有無など関係ないのだろう。つまり、本当の托鉢はなくならないってことだ。

今度は本物の托鉢僧にヒアリングしてみたい。でも、話しかけると修行の邪魔か。

2022年12月17日

Apple's Greatest Commercial

毎年12月3日は、国際障害者デー。障害者問題への理解促進、障害者が人間らしい生活を送る権利とその補助の確保を目的とした国際的な記念日だ。

それにタイミングを合わせてか、アップルが新しいコマーシャルを作った。「I am the greatest」と訴える音楽をバックにさまざまな障害者が登場する。どの障害者も活き活きしている。

仕事に向かう彼ら、化粧をする彼ら、クルマを運転する彼ら、アーティストとして作品作りに打ち込む彼ら、仲間と一緒に学校でチアリーディングをする彼ら、ステージで演奏する彼ら。

社会の中に溶け込んでいく障害者らの姿と、それをサポートするアップルのアプリ。障害者の姿を紹介するとともに、ボイスコントロールや音声認識、ドア検知などの最先端機能をうまく見る者に理解させている点でもよくできている。

歌の中で繰り返される「I am the greatest」は、モハメド・アリの言葉。そしてコマーシャルの最後のキメのメッセージ「I shook the world」も彼の言葉である。

2022年12月3日

「朝の来ない夜はない」

これはある銀行の副頭取だった人物が、再建のために移った鉄道会社の経営者に就いた際に社内外で言っていた言葉とか。

よく耳にする言葉で、「いまは耐え忍ぼう、やがては希望の光が差してくる」と人を鼓舞するのにふさわしい言い回しだが、実際は必ずしもそうではない。

「More Very Finnish Problems」というペーパーバックをめくっていたら、When it's so dark you don't know whether you've overslept of underslept と題する文章が目に付いた。この本、ヘルシンキの空港で乗り継ぎの際に時間つぶしのためにキオスクで買った一冊。 

なぜフィンランドかというと、昨日、3年ぶりにフィンランドからサンタクロースがフィンエアーに乗って(トナカイではなく)成田空港に到着したニュースを見たからなのだけど。

毎日新聞社のサイトから

先の本によると、10月から3月までフィンランドの北部ラップランドでは日が昇らない。

そのためこの季節には、SAD(Seasonal Affective Disorder 季節性感情障害)に悩まされる人が多く発生する。うつ病のようなもの。症状としては、疲労感、睡眠過多、倦怠感、糖分欲求、悲壮感、罪悪感、自尊心の喪失、短気、社交の回避傾向などが現れる。

かなり深刻だ。だから、フィンランドに限らず、北欧諸国では長く暗い季節に自殺者が多く発生するんだろう。夜が過ぎてもいつまでたっても日が昇らないからだ。それも何ヶ月という期間にわたって。

「朝の来ない夜はない」が口癖の鉄道グループの経営者は、そうやって社員と自分を励ましているのだろうが、容易に朝がくるのを求めてしまうと症状はさらに悪化する。

何日も何ヶ月も日が昇らなくても平気の平左で生きていくしかないことだって、よくあるはなし。

そうした耐性が、これからの日本にも日本人にも強く求められるようになる。たとえ朝が来なくても、人は生きていかなければならない。気の利いた台詞は、時として状態を悪化させるだけである。

2022年11月19日

客にチップをはずまさせろ

長年にわたり髪を切ってもらっているOさんが自分の店を畳んで久しい。もうそれなりの歳だからで、今は昔からのお客さんの依頼があったときだけ美容師として働いている。

お客さんから依頼があると、知り合いの店の一画を借りて髪を切る。職人だから、はさみや櫛、カットケープなど自分の商売道具が入った袋を持ち運びさえすれば仕事ができる。

「包丁一本、サラシに巻いて」ではないが、道具さえあれば腕一本でどこでも、それこそ世界中どこででも仕事ができる人たちで、そうした連中をいつも尊敬してしまう。

人間の体に対してハサミという刃物を使う仕事だから、ロボットではそうそう代替できない。人の頭に髪の毛がある限り、われわれは彼らの世話になり続ける。

先日、彼に髪を切ってもらったあと、その日の次の予定まであまり時間がないなかで昼食を済ます必要があったため、髪を切ってもらった店の近くあったカレー屋に入った。大手のカレーチェーンだ。時間をかけずに食事をするのに向いている。

カウンター席は、1席ごとアクリルの板で仕切られている。コロナ感染防止のためだが、ニワトリのケージみたい。席に着くと目の前には小型のタッチパッドが置かれていて、それで注文する。カレーの種類と好みの辛さ、ご飯も盛り具合を選ぶくらいだから、簡単といえば簡単。

店にとっては、このコロナのタイミングでオペレーションを省力化したいのだ。客としてもスッと入って、パッと頼んで、サッと料理を出されて、ササッと平らげて、またスッと出て行くことができる。

ただ当然ながら、それ以外の外食の仕方もある。

これまた先日のこと、知り合いと4人で和食の店に入った。その日はメンバーの都合で早めの時間にということで集まり、われわれがその店の予約席に着いたときにはまだ先客はひと組もいなかった。

席に通されるや、案内してきた店員は「ご注文はこれでお願いします」とテーブルにおかれたタッチパッドを指さし立ち去った。2人ずつ向かい合わせに座ったテーブルに、10インチ程度のパッドが1枚。それで飲み物と料理を一覧した上で、人数分の注文をすることになっているようだ。

先の店員はというと、店の奥で他の店員とおしゃべりをしている。最初、パッドをくるくる回して向きを変えながら4人でメニューを見ていたが、当然ながらオジサンたちは自分らがやっていることがすぐに阿呆らしくなった。

おしゃべりに夢中になっている店員を呼びつけた。通常の(手に取れる)メニューを持って来るように言う。一瞬、嫌そうな顔を見せるが、軽く睨みつけると「わかりました」と言ってメニューを1冊持って来た。

客が4人テーブルについているのに、メニューを1冊しか持って来ない。こ店にはまだ他の客はひと組もいない。メニューが足らないはずはない。客に対する気遣いが足らないのだ。足らないのではなく、完全に欠落している。 

例の店員をまた呼んで、あと3冊すぐに持ってくるように言う。で、飲み物と料理の注文はパッドではなく、その者にすべて申しつけた。そもそもその時点で、誰かが注文用のパッドを掘り炬燵の下へ放り投げていたし。

最近の飲食店だけど、彼らは客商売のはずなのにそれほど客と話をしたくないのだろうか。不思議だ。メニューにある「板長の今日のお奨め」や「獲れたて鮮魚」についてパッド上でつまらない説明を読ませて、客の気持ちが動くと思っているのかね。

こっちが思わず注文せずにはいられないような生きのいい口上のひとつも聞かせてみろよ、というのは無理な注文なんだろうか。

そうしたサービス経験には、我々しっかりチップをはずんでやるんだけどね。

日本じゃ無理か。

2022年11月11日

広告会社の経営者の発想はとても単純だ

広告業界世界最大手のWPP(英国)が日本での事業規模を向こう5年間で3倍にすると発表した。

同グループCEOのマーク・リードによれば「日本の消費者がデジタルに費やす時間は世界に比べて短い」とか。具体的には、「日本人の週あたりのネット利用時間は22時間38分、米国の46時間14分の半分以下」だそうだ。

だから、今後の日本の事業拡大を期待できると考えているのだろうが、このデータって本当だろうか? 週22時間38分なら、一日平均で3時間14分。そんなに普通の日本人がインターネットをやってるのだろうか。 米国人が平均一日6時間36分というのも信じられない。

いずれにせよ、国民のネット利用時間が長くなれば広告業のビジネスチャンスが拡大するというのは、今ではあまりにも発想が単純すぎる。

(追記)
国民生活時間調査(2020年度)の結果によれば、下図のように日本人のインターネット(+動画)利用時間は約1時間である。10代後半、20代が2時間を越えて他の世代に比べて長いが、それでも全体的にはテレビの視聴時間がいまだ圧倒的なのがわかる。


2022年11月6日

『写真はわからない』

『写真はわからない』は、カメラマンの小林紀晴が書いた優れた写真論である。

著者は写真は分からないというが、僕はこの本を読んで写真がわかった。もちろん全てがわかったわけではないけど、これまで写真について頭の中でモヤモヤしていたものが晴れたような気がしてすっきりした。

たとえば、写真は「窓」か「鏡」かという議論は、表現としての写真を見る際の明解な視点を与えてくれるし、写真に限らず多くの表現に共通している。だからか、これを読んで岡本太郎が芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、心地よくあってはならないと言った意味がわかった。

著者がわからないと言っているのに、読者の僕がわかったと言っているのは、そもそもがレベルがはるかに違うから。プロフェッショナルの彼はもっともっと高度のところで「まだ分からない」といっているのが、トーシローのカメラマンの僕は基本のキがわかっただけのはなし。

けれど本当は、何についても簡単にわかったらつまらない。簡単にわかったとしても、たぶんわかった気になっただけに過ぎない。だから、しつこくわかろうと努力を続けていくことでしか救われない。

小林は、これからも写真をわかろうとすることを続けていくという。そして、そのためには面白がることが重要だという。そしてこれもまた、面白がることが重要だというのは写真だけではない。何ごとにつけても気持ちとして分からない領域を残し、それを面白がりながら探索し続けることだと思う。

2022年10月20日

何ごとも応用力

今朝、新幹線が信号故障のため、東京駅への到着が20分ほど遅れた。

世界で最も安全で正確な交通手段は日本の新幹線だと考えているので、そのタイムテーブルに沿って移動後のスケジュールをたてる。

普段はもちろんそれで上手くいく。だが、ときおり、その新幹線も遅延する。予定がずれ込み困ったことになったりするが、それは仕方がないことだ。

東京五輪が開催される2年ほど前からか、新幹線の車内に英語のアナウンスが流れるようになった。それまでも列車名と行き先を告げる英語の録音アナウンスはあったが、それが車掌の肉声に変わった。

当初はたどたどしい英語でけっして耳障りの良いものではなかったが、それでも最近では車掌らも英語アナウンスに慣れたのか、当初のぎこちなさはそれほど気にならなくなった。

ところが今回、信号故障で新幹線が遅延し、そのためにノロノロ運転が断続的に続けられ、あるいは先行する新幹線がつかえているからと線路上にたびたび停車した。にもかかわらず、そうした状況について英語での車内放送は一切なかった。

日本語が分からない人が乗車していたら、いったい何が起こっているのか分からず不安を感じたはずだ。

電車の遅れがどのくらいになる予定なのか、その原因が何なのかくらいは中学生英語で説明できるはず。その程度の基本的な応用力がないのだろうか。それとも典型的な日本人らしく、間違うのが恥ずかしいのか。

東京五輪が終わり、そしてコロナで外国人客が激減して、もうどうでもいいと思っているのかもしれない。

2022年10月8日

ZOOMでマスクをする理由

つい先日、あるコンサル会社とZOOMで打合せをした。その際、僕は大学の研究室かあるいは相手企業に出向いて打合せをしたかったのだけど、リモートでお願いしますと言われた。

グループ全体で30万人以上の社員を抱えるその通信会社系企業は、下記のように今も全社員が在宅勤務を続けているらしい。


それはそれで構わないが、その際にいくつか違和感を感じたことがある。

まず相手がどういった立場の社員か分からない。通常、初対面の相手と打合せを始める際には、まず名刺交換からスタートする。そこに書いてある所属部署名や肩書きでおおよそのあたりをつける。

名刺交換をしないとそれができない。相手はおそらく、ネットで私のプロフィールなどを調べているのだろう。だが、こちらは相手について知らない。初回に、相手が社内で何をしている人か尋ねたら部署名と肩書きを教えてくれはしたが、名刺を手にしていないとどうもピンとこない。

相手は複数人いたのだが、こちらと主に話すのは一人。残りは基本的にだんまり。私はそういった参加者のことを「のぞき」と呼んでいる。

そしてディスプレイに映る相手の顔は、マスクで半分隠されている。在宅勤務でいながら、いまだにマスクを外すという考えがないみたいだ。

ただ言えるのは、こうしたやり取りが打合せとして効果的とはとても思えないということ。この企業グループは、このまま今のようなやり方でリモートワークを続けたらどうなるのだろうね。人ごとながら心配になる。

一般的な話としてだが、ZOOM利用などのリモート会議においてマスク顔での参加ならまだいい方で、初回の打合せにもかかわらず相手側は一人だけが画面に顔を出して、相手企業の残りは全員が画面ミュートなんてのもよくある。

ビジネスの基本は、信頼関係。それが分かっていない。それとも、そうした会社は人様に見せられないような、よっぽど不細工な顔の集団なんだろうか。

2022年10月2日

マージナル・マンとしてのA・猪木

元プロレスラーのアントニオ猪木さんが昨日亡くなった。子どもの頃、毎週金曜日と水曜日夜8時からのプロレス中継を見て育ったわれわれ世代にとっては、大きなショックだ。残念だ。1999年にジャイアント馬場さんがなくなり、寂しい思いをしていたのに追い打ちを掛けられたような気分だ。

彼は2020年、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされ闘病生活をしていることを自身で明らかにし、闘病するそのベッドからも最後の姿をYouTubeで発信し続けていた。 

今朝は、毎日新聞、東京新聞、日経新聞のそれぞれの一面コラムで猪木さんが亡くなったことが書かれていた。書き手が、たぶん僕と近い世代なんだな。

プロレスというのは面白い競技だと思う。例えばプロボクサーは勝たなければ名前が上がらない。プロテニス選手も、プロゴルファーも優勝しなければ次へつながらない。だが、プロレスラーは必ずしもそうではない。リング上で観客の笑いを取り、力や技では相手選手に適わないにもかかわらず、それ以上の人気をはくす選手がいた。

プロレスは格闘技スポーツだが、ショービジネスとしてのエンターテインメント性も不可欠だ。「これ一本きり」では済まない。プロレスという競技がそうだけでなく、猪木自体もレスラーであり、プロモーターであり、経営者であり、そして参議院議員だった。そんなマージナルな存在にずっと引かれていたのだと、いま僕は気がついた。

10年ほど前、ニューヨークで猪木さんと至近距離で遭遇したことがある。当時、僕はマンハッタンのアッパー・ウエストサイドに住んでいた。ある日、1階に着いたエレベータから降りようとしたら、目の前に彼がすっくと立っていた。スーツに赤いネクタイ。そして、トレードマークの赤いタオルを首にかけていた。ちょっと疲れた、そしていくぶん寂しげな表情だった。その時、彼に連れはいなかったと思う。そこにNY滞在用の部屋を持っていたんじゃないかな。

あんな元気で、尖っていて、発信力のある人はそうそう出てこない。カッコよかった。1976年にはボクシング世界ヘビー級チャンピオンのアリと闘うなど、チャレンジ精神の塊だった。

ひとつの時代が終わってしまった。またあの「元気ですかーっ!」の声が聞きたい。 

2022年9月5日

下手なウソ

先日このブログで「紙で読むか、デジタルで読むか」と書いたが、今日届いた郵送物の中にある証券会社からの「郵送通知廃止等のご案内」という文書があった。

そこには「〇〇証券では環境保護や紙資源節約等の観点から・・・に係る通知の郵送廃止を実施致します」と書いてある。

そして今後は、必要ならその証券会社のサイトにログインして取引履歴画面で確認するようにとのお達しだ。 

環境保護? 紙資源節約? だったら今回のA4用紙2枚の文書はなぜ両面印刷にしないのだろう。そうするだけで紙の量は1/2で済む。

環境保護などただの建前で、実は費用を削減したいだけという本音が見える。

2022年8月27日

大道芸人と投げ銭

たまたま通りがかった大型商業施設内の屋外広場に、週末らしく子供連れの家族を中心に大勢の人が集まっている。人々が目を向ける先では、大道芸人がパフォーマンスを行っていた。


通りすがりがてら大道芸を目にしたときは、もう彼のステージングはほとんど終盤を迎えていた。大道芸人はパフォーマンスを終え、見物客から拍手を受けながらマイクの声をいちだんと張るように話し始めた。「皆さんのお気持ちを!」

今はまだコロナのせいで帽子を持って観客の人たちのところを回れない、だからもしショーが気に入ったのであれば、ここにおく帽子のところに持って来て欲しいと訴える。そして自分らは観客からいただけるそのお金で大道芸人として生活しているのだと。

話し方が深刻にならないように気を遣っているのが、声の調子から伝わってくる。こうした場面に遭遇すると、いつも胸が少し締め付けられるような気持ちになる。

彼はいくら集めることができるんだろうか、それは生計を立てるに十分な額だろうか、ここにいる人たちのどのくらいが投げ銭を出すのだろうか、と気になってしまうからだ。

見ていると(見ないでそのま去ればよかったのだけど)、週末で家族連れが多かったこともあるのだろう、子供にお金を持って行かせている親が結構いた一方、大人でお金を入れている人は数えるほど。

子供たちが親から手渡されたものは、だいたいは小銭のように見えた。みんな「赤い羽根募金」のような感覚が根強いようだ。でも大道芸人が期待するのはもちろん紙幣だ。

やがて、芸人がいくぶん哀切を感じさせるように、その場を立ち去ろうとしてる観客らにもう一度マイクで語りかけるも反応はあまりなかった。

以前ニューヨークに住んでいたとき、公園や広場、地下鉄のホームや地下通路などで演奏しているストリート・ミュージシャンは、いわば日常の光景の一部だった。

そこを通りかかるほとんどの人は足早に(ニューヨーカーはみな歩くのが速い)過ぎ去るが、チップを置いていく人は10ドルとか5ドル紙幣を楽器ケースに置いていく。僕も10ドル紙幣を自分のルールにした。なかには、こう言っては失礼かも知れないが、路上生活者とおぼしき連中までがしっかり紙幣をポケットから取り出し置いていく。

ひょっとしたら、人から施しを受けている路上生活者らしき人たちは「仲間」を放っておけないという意識が働いているのかも知れない。実際のところは、確かめたことがないので分からない。

一方で、立派なブリーフケースを下げ、仕立てのいいスーツを着たエリートビジネスマンらしき人は、まるでそうした路上ミュージシャンなどいないかのように完全に無視して通り過ぎる人が大半だったように思う。

日本との違いとしてチップの習慣があげられる。何かをしてもらったとき、相手の「サービス」に対して満足した気持をあらわすためにお金を払う。日本のようにサービスは決して「タダ」の別名ではない。

サービスに対する考え方、チップの習慣、そういったものが米国などとは異なる日本で、大道芸人が投げ銭(おひねり)で生きていくのはほんとうに大変なことだと思う。

もちろん小銭の投げ銭でもないよりはマシなんだろうが、今どきは集めた小銭を自分の預金口座に入れようとすると金融機関から手数料を取られるしね。コロナで芸を披露する場自体が激減しているはずだし、大道芸人にとって受難の時代だ。昔からずっとだ、と言われそうだが。

2022年8月25日

努くんと水木サン

俳優の山崎努さんが、いま新聞で自分の来し方を振り返って語っている連載が面白い。

そこで彼は自分を指し示すとき、ときおり「努くん」と呼ぶ。昔、「山口さんちのツトム君」という、みなみらんぼうが作詞作曲した歌が流行ったが、それが彼のアタマにあるのかもしれない。

たとえば「近年、努くんも物忘れがひどくなり、暮らしに必要な書類等はすべて壁にピンナップしている」(8月25日)というふうだ。

文章の中に出てくる「努くん」という言い方には、主観と客観が微妙なバランスで合わさっている。心の声として、俺もそうだけどそれって俺だけじゃなくて、俺と同じくらいの年代はみんなそうだろ・・・とでも言っているような。

自分のことをそのように呼ぶ人は他にもいて、漫画家の水木しげるさんは自分のことを「水木サン」と呼ぶ。私でも、俺でも、僕でも、自分でもない。

自分の事を水木サンと呼ぶことで、そこに本人の自我や主観を残しつつもその水木さんが考えた事を別の自分が客観的に観察している、といった印象が伝わってくる。そもそも、水木さんの本名は水木ではない。ペンネームだ。

ペンネームを使うことで、いっそう彼は自身から距離を取ることができたのかも。だから第三者的な視点で、自分が置かれていた想像を絶するような状況(たとえばそれは彼が従軍をしたニューギニア戦線・ラバウルでの体験)を映画の1シーンを見ているかのように表現している。

2022年8月12日

朝の新しい仕事

今朝、お隣のドアに張り紙を見つけた。小学1年生のケイタ君が書いたものだ。

家族でお盆で帰省するのだろうか。その間、朝顔の水やりを代わりにお願いしますというメッセージだ。彼がベランダで育てていたはずの鉢が2つ、水がいっぱいに入ったじょうろと一緒に玄関前の廊下におかれていた。 

お安い御用だ。たくさん花が咲くといいね。

2022年8月9日

君は「ビジネスパーソン」か?

20代、30代が中心を占める社会人大学院生が自分らをどう見ているか、あるクラスで学生らへのアンケート項目に「あなたを示す言葉として、以下のどれが最もフィットしていると思いますか? 1つだけ選択してください」という設問を入れてみた。

結果、62人中58名の回答(回答率94%)で一番多かったのが「ビジネスパーソン」の27.6%。続いて「会社員」25.9%、「ビジネスマン」20.7%、「サラリーマン」8.6%、「ビジネスウーマン」6.9%の順だった。

 
自分のことを「ビジネスなんたら」と答えた人の割合は、都合55.2%で半数を超えている。これって一般社会といささか、いや、かなり違っているんじゃないかという印象を受けた。

そこで、組織で働く人を示す「会社員」「サラリーマンまたはOL」「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」「ビジネスパーソン」がメディアでどのように使われているか、ためしに朝日新聞のデータベースを用いて2000年から2021年までの年度ごとの掲載頻度の割合を調べた。

 
上図は結果をグラフ化したもの。黄色い部分を指す「会社員」が9割を占める。企業組織で働く者の一般的名称は、会社員と推測してよさそうだ。

ただこれでは先の学生らが自分はそうだといった「ビジネスパーソン」の姿がまったく見えないので、「会社員」を除いて図にしてみたらこうなった。


「サラリーマンまたはOL」(グレー)が8割以上を占める。続いて「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」(オレンジ)。ここ数年になってやっと「ビジネスパーソン」(青)がちょこっと現れてきた。

日本語でも看護婦を看護師に、保母さんを保育士さんにというように性差を示さない用語に呼び変える流れのなかで、ビジネスマンがビジネスパーソンと呼ばれるようになってきたのだろう。

そもそもビジネスマンって何か。オックスフォード英語辞典によれば、businessman (businesswoman, business person) とは、a man(woman, person) who works in business, especially at a high levelとある。またケンブリッジ英語辞典では、some one who works in  business, usually having an important job と示されている。

本来の意味は、「実業(ビジネス)に携わる人で、特に経営者層」である。

実態とイメージの乖離だ。

2022年8月2日

時刻表は、鉄道会社にとって最大の広告メディアなのに

都内に出るとき、たいていは新幹線を利用する。東京駅まで18分ほど。ゆったり新聞を広げて読むことができる。車中で飲食もできる。

だから、これまでどのバッグにも新幹線のポケットサイズ時刻表を入れてあった。だが、コロナ以来、JR東海はその時刻表の作成と配布を止めてしまった。

新型コロナ感染拡大は始まった頃は、国中で不要不急の外出を止めようという機運があったから新幹線のダイヤも間引きされ、通常の運行ができなくなったためそれも仕方なかった。

でも今は通常の運行に戻っているにもかかわらず、その時刻表の製作はしないらしい。同じJRでもJR西日本は作っているんだけどね。

JR東海は、それを一旦なくして以来、客はなくてもそれに慣れていると思っているようだ。そして、費用の節約にもなるなあ、と感じたのだろう。

だが、このB7版よりさらに小さいポケットサイズの時刻表は、新幹線を走らせる鉄道会社にとって顧客との最大のタッチポイントとなるメディアであることを、どうもJR東海は知らないらしい。

2022年7月30日

原動力の持ち方

先週、本年度上半期(第167回)の芥川賞および直木賞が決定した。芥川賞は高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』(群像1月号)だ。

 
その受賞作はまだ読んでいないが、来週あたり届くはずの月刊「文藝春秋」9月号で読めると思っている。

34歳の勤め人(事務職)である高瀬さんの受賞会見を見た。とても落ち着いていて、きちんとした方だ。小説執筆の原動力は「むかつき」だという。もちろん、単にむかついた感情の発露として小説を書いているのではなく、こうした言い方をしている。

むかつきからスタートしているが、「これってむかつくよね」という愚痴だけで終わりたくない。このむかつきにはこんな理由もある、こんな考え方の人もいる、と受け取ってもらえたら。
とても分かりやすくて納得感がある。正直な意見だと思う。

最近の風潮として、ムカつきや怒りの気持を表に出すことは、とりわけ若い連中にとっては恥ずかしいことだったり、みっともないことになっているように感じていた。

それを受けて、どうやって怒らない気持ちを持つかについてコツを語った本なんかがベストセラーになっていた。

でもそれって、つまんない我慢を自分に強いているようで違和感があった。

だから、むかつくことからスタートして小説を書いている高瀬さんには大きな拍手を送りたいと思っている。

そういえば、前回(第167回)芥川賞を『ブラックボックス』で受賞した砂川文次さんは、受賞会見でこんなスピーチをした。

海の向こうで戦争が起こっていて! くそみたいな政治家がたくさんいて! そういうものに怒りを感じながら書いていたような気もしますし、そうじゃない気もします。よく聞かれるんですけど、怒ってない気持ちがないわけないじゃないっすかあ! っという気持ちです。

そのほかにも、壇上で国際情勢や政治への怒りを絶叫した。

とみにわれわれの日常から真っ当な怒りやムカつきが(少なくとも表面では)消し去られているなか、表現者が正当な怒りをこうしたストレートな形で口にするのを見てほっとする。

英国では前代未聞の熱波

この写真は、ロンドンのトラフィルガー広場でのスナップだ。


彼女らは、日焼けも気にせず、それより脳ミソがオーバーヒートするのをなんとかしようとしている。

この夏、英国では歴史上経験したことのない40度という気温を記録した。

英国の普通の家には冷房器具、つまりエアコンがない。夏と言ってもそれほど暑くなんかならないからだ。少なくとも、僕が以前英国で暮らしていたころはそうだった。

パブで飲むビールも、年中生ぬるい。日本のようなキンキンに冷えた生ビールなど出さない。それも、マイルドな暑さの英国の天候が理由だ。

だが、今年は違う。 

英国の友人に「大丈夫か?」と連絡したら、「生きている」と返ってきた。

異常気象が世界中で続く。

2022年7月25日

人手不足でそのうち閉店か

駅前に野暮用があって出かけ、それらを片付けたあと、あるチェーンの定食屋に寄った。

隣のテーブルで学生らしき娘がスマホを塩と胡椒の容器に立てかけて、イヤホンを耳にYouTubeの映像を見ながらメシを食っている。

目の前のテーブルのOLらしき女性は、ヴィトンのバッグをテーブルのうえにドンと置き、それを鎮座させたままテーブルに両肘をついて背中を丸めた格好で生姜焼き定食を食らっている。小さい時、親から食事の仕方を教わらなかったのか。

それはそうと、店員が午後7時半で店を閉めると言ってきた。ずいぶんと早い。

さっきから店内を見ていると、結構広い店のフロアで注文を取ったり、配膳、下げ膳、テーブルの片付けしているのは男女の二人しかいないのに気づいていた。まったく人手が足りないのだ。

迷惑にならないよう、店員が近くに来たおりに、なぜそんなに早い閉店なのか聞いてみた。「(働く)人がいないんです」と言う。やはりそうか。

「私もたまたま友人から紹介されてここでバイトしているんですけど、人が入ってこないんです」「隣のマクドナルドに取られて・・・」

その店の隣には24時間営業のマックがあって、いつもけっこう賑わっている。だからか、時給はそちらの方がいくぶん高い。

2022年7月12日

乱入せよ、さもなくば乱入させよ

夕方、大学正門前の大隈講堂で「村上春樹 presents  山下洋輔トリオ 再乱入ライブ」と題した催しがあった。

開演15分前の午後6時15分、研究室のある11号館の11階でエレベータに飛び乗ろうと思ったら、エレベータホールでN先生とばったり。実は彼とは大事な打合せがあってそれに誘われたのだけど、時間が迫っていたので失礼させてもらった。

このイベント、ネットで申込み、抽選そして当選、チケット引き取りなんかをして9千数百円はたいて出かけたが、何のことはない。普通のコンサートだった。

それとは別に、今回のチケット購入のプロセスはまったくの噴飯物だった。いま思い出しても腹が立つ。客を何だと考えているのかと。

クレジットカード情報を含む個人情報をサイトに打ち込んでチケットの申し込みをすると、「仮登録」という返信メールがシステムがら届き、そこにあるリンクから今度は「キョードー東京メンバーズ」とやらに登録を求められる。当選した際にチケット受け取るため、メールとパスワードを登録して「マイページ」を作らされる。

抽選にするという理由のひとつは、一人でも多くの個人情報を取ることだろう。小銭稼ぎにどこかに流すつもりか。そうでもなければ、当選するかどうか分からない申込者全員のクレジットカード番号を含む個人情報を取得する必要はないはず。

チケットはといえば、抽選結果の連絡を待たされ、当選の連絡を受けたあとはコンビニでの引き取りの準備ができるまで連絡待ちをさせられ、その後、イベント直前にチケット販売業者指定の特定コンビニでチケット実券を受けとることになる。

コンビニ店頭ではいったん店内の機器に予約情報を入力し、プリントされてきた用紙を今度は同店のカウンターまで持参して、やっとチケットが手渡される。あまりにまどろっこし過ぎる。

本来はこれまで通り、申込の先着順で席を決めてチケットを客に郵送する。それで済むはずだ。郵送料なら84円で済むなのに、システム利用料(なんだこれ?)220円とコンビニの発券手数料110円がチケット代金に加算される。客に不必要な手間をかけ、不必要な個人情報をはき出させ、時間を無駄に使わせ、余計な支出をさせている。

キョードー東京が客に負わせたこの一連の手続きは、数々の点で間違いなく最低かつ悪質だと言っておく。

イベントを大隈講堂でやれば、学生を含めて大学関係者が観客として多数来ることは容易に予測できるし、またそれをひとつの目当てにして「早稲田大学共催」となっているはず。大学も安易な名義貸しをせず、もう少ししっかりを吟味しなくてはいけない。

当日の演奏自体は良かった。第一次山下洋輔トリオのメンバーであるドラマーの森山威男とサックスの中村誠一の演奏もすこぶるパワフルで、フリージャズの面白さとダイナミックさを満喫させてもらった。前座の早稲田大学モダンジャズ研究会の演奏も愉しめた。

だが期待したイベント性はほとんどなく、仕掛け人の東京FMがその番組用にカラ宣伝したとしか思えなかったのが残念。観客席に京大元総長の山極寿一さんがいて、山下さんが山尾三省さんと知り合ったいきさつについて質問したのが興味深かったくらいで、他にイベントらしきものは見るものなし。主催者の企画力のお粗末さが露呈していた。

それはそうと、山下洋輔さんには1989年に、中村誠一さんにはそれ以前の1987年ごろか、僕が広告代理店に勤務していた頃にそれぞれあるイベントとCMの仕事をご一緒したことがあり、それから30年以上になるけど、お二人とも「古びてなかった」。