2023年5月22日

「同一労働同一賃金」の議論はどこへ行ってしまったのか

たまたまラジオをつけたら、その番組のパーソナリティの大竹まことがリスナーからの手紙を読んでいた。

手紙を送ってきたのは64歳の女性。非正規公務員として22年間、地方の図書館に司書として勤めていた。正規職員との待遇の違いに不満を感じながら、一途に仕事に打ち込んだ。が、非正規であるがために結局認められないまま、職場を去ったことが縷々綴られていた。


正規、非正規という差別待遇がこの国から消えない。そもそも正規とか不正規とか、なんなんだろう。概念自体がよく分からないのだ。

正規は英語ではregular、だから正規社員はregular employeeなんだろう。だが非正規の英語は辞書では見当たらなかった。あえていれば、非正規社員はnon-regular employeeとなるのだろうか。

投稿者の彼女は22年間努めていて、それでもなぜノン・レギュラーなのか。これでは、人の能力や意欲に無関係な、かつての士農工商の身分制度と何ら変わりない。これが今も続くこの国の常識だ。彼女が投書の中で「やり場のない怒り」と言っていたのはもっともである。

しばらく前まで、同一労働同一賃金という言葉を方々で目にしたが、最近ほとんど聞かない。新聞でも目にしないなあと思い、新聞社のデータベースでちょっと調べてみた。

2000年から昨年まで、朝日新聞(朝夕)と日経新聞(朝夕)に「同一労働同一賃金」の言葉がどのくらい出現していたか。グラフにするとこんな感じだ。

朝日新聞では、1991年にはじめて日本国内の問題として同一労働同一賃金が、その5年前に施行された雇用機会均等法と絡めて記事になっている(それまでは外国でのニュースとして紹介されている)。そして、この時の「同一」とは男女間での同一である。「正規・非正規」の文脈で「同一労働同一賃金」が記事が掲載されたのは2005年のこと。

日経新聞では、1996年に中央大学の古郡鞆子教授が「やさしい経済学」で「同一労働同一賃金」について書いていた。一般記事として始めて掲載されたのは2004年。ただし、男女間の同一労働同一賃金でなく「正規・非正規間」のそれが取り上げられるのはもっと後になってから。

「同一労働同一賃金」の出現数のグラフをみると、両紙ともに2016年に急に掲載記事が増えている。それは、安倍政権下で厚労省が「同一労働同一賃金の実現に向けた検討会」を実施し、その年の暮れに「同一労働同一賃金ガイドライン」を発表したのが理由だ。
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-syokuan_339702.html

ところが、翌年から一気に新聞では見られなくなっている。問題がなくなったわけでもないのに。ただ熱が冷めてしまった。結局みんな、人ごとだから執着しないのだろう。見て見ぬ振りをしてやり過ごすのが大半なんだろう。

たまたま正規で職員になった(コネでもなんでも)者はそのまま正規、途中から非正規として働き始めた者は、いつまでたっても能力や意欲、成果に関係なく非正規のまま放っておかれる。柔軟性がなく硬直的。既得権が当たり前のようにすべてに立ち塞がっている日本の組織と社会。

これじゃ、この国の生産性はいつまでたっても上がるわけない。

2023年5月21日

違うからこそ面白いはずなのに

いま、日本と海外の双方で活躍している日本人俳優は少ない。渡辺謙や真田広之が思い浮かぶが、それ以外に誰がいるかすぐには思い出せない。

その渡辺謙が、自分の俳優人生を振り返ったドキュメンタリーがあった。その中で、渡辺は外国で仕事をすることの難しさや戸惑いについて語っている。
 
彼はイーストウッドが監督をした「硫黄島からの手紙」で主人公である栗林中将を演じ、それ以前には42歳の時、トム・クルーズと共演をした「ラスト・サムライ」でアメリカ映画に出演した。

海外で働く上ではバランスを上手にとってやっていかなければならない大切さについて渡辺は話すとともに、海外での仕事場を「違うことが面白い」と語る。同じ映画を作っている人間といっても、ベースにある文化やそれぞれの現場での感覚も違うと。そこでの違いが面白いと言うのだ。違いを面白いと思う感覚。これがあるから海外で外国人スタッフと仕事ができるのである。

彼が言っているのは映画撮影の現場での日本とアメリカでの違いだが、そうした違いは意外とどこにでもある。そこで思い出したのが、僕が教える社会人大学院でのあるクラスの中での話。学生は60名強だったろうか。彼らをグループに分け、毎回授業の冒頭でそれぞれのグループごとにこちらが指示をしたテーマについてディスカッションをさせ、各グループごとに考えをまとめさせた。

同じグループだと考えが固定化し面白くないだろうと思い、まず学生たちにアンケートをとった。現在のグループ編成について(1)このままで良い(2)編成を変えた方がよい(3)どちらでも構わないの3択の質問に答えてもらった。

変えてほしいという2番目の回答が半分以上あった場合には、全体をシャッフルして新しいグループ編成にするつもりでいた。が、回答を見るとそう答えた学生はわずか1割ほど。

彼らがグループを変えて欲しいと思った理由は、おそらくメンバーに何らかの不満があったのか、もしくは不満がなくても新しい顔ぶれと討議をしたかったからだろう。別に不思議ではない。

そこで、グループを変えてほしいと希望してきた1割ほどの学生たちを別のグループに移行することにした。そうしたところ、当初、グループを変えてほしいと言ってたその何人かが「悪目立ち」するのが嫌だから元のグループに戻してほしいと連絡してきた。以前のグループのメンバーに対して自分が不満を持っていると思われるのが厭だという。

そのとき、「悪目立ち」と言う日本語を初めて聞いた。そんな言葉、いままで使ったことがなかったからね。不思議な言葉があるんだなぁと思いながら対応した覚えがある。

同調圧力、目立ちたくない、周りから浮きたくない、皆と違うと思われたくない。みんな、自分が思うところのコンフォート・ゾーンにいないと不安で仕方ないのだろう。

かつて渡辺謙は、自分の役者としての可能性を広げるために意を決して海外に出て行ったに違いない。そしてそこで、彼は「違うことが面白い」というひとつの感覚を得た。そのことが彼を世界で通用する俳優にした。

違うことを面白いと思えるか思えないか、その違いは日本の若いサラリーマンにとって思いのほか大きい。「悪目立ち」なんてものは、ないんだよ。

2023年5月20日

性犯罪と性的被害の違い

デーブ・スペクターが、藤島ジュリー景子の謝罪動画と今回のジャニー喜多川による出来事について語った「ニューズウィーク日本版」のインタビュー記事を読んだ。

彼は長年メデイアの内側にいるので、その体質や状況をよく知っている。しかも日米のことを比較しながら語ることができる。なるほど、と頷きながら読んだ。

そのなかで、メディアによって使われている「性的被害」という言葉を「性犯罪」に置き換えて考えてみるといいと語っていたのは慧眼だと思う。たしかにそうだ。これは、性加害問題ではなく性犯罪。響いてくる重みが違う。窃盗を万引きというのと同じで印象が大きく異なる。

こうしてある種のイメージ上のすりかえがなされていることに気がつかなかった。アメリカ人に日本語の使い方について教えられた感じだ。

2023年5月15日

ジャニーズ社長の小賢しい謝罪コメント

ジャニーズ事務所の藤島ジュリー景子社長が、動画と文書で創業者・ジャニー喜多川による性加害問題について謝罪した。今ごろになってやっと、という感じだ。

なぜきちんとした記者会見を開かないのか、という声が上がるのは当然だが、その1分少々の動画内のコメントで引っ掛かったのは、彼女の「被害を訴えられている方々に対して、深く深くお詫び申しあげます」という言葉の選び方だ。

社長の彼女が謝罪すべきなのは「被害を訴えている人たち」でなく、「すべての被害者」ではないのか。当時のことを表立って「訴えている」のは性被害を受けた(当時の)少年たちのごく一部に過ぎないはずだ。

だが彼女の姿勢は、週刊文春や英BBCなどのメディアに当時の被害を語った被害者には謝罪を言うが、それ以外は知らないよ、と聞こえる。

表に出てこない少年たちをないものと考えることで事件を矮小化しようとしている。

2023年5月14日

「言ったもん負け」に負けるな

品質不正問題を起こした三菱電機には、目に見えぬ「言ったもん負け」文化があるという。

誰かが気づいて改善の提案をすると、その人が取りまとめ役を任されることになる。それまでやっていた仕事はそのままで、「言った分だけ」仕事が単純に上乗せされることを意味している。

やがてそうした組織には、言われたことしかしない、余計なことはやらない、上司に異論をとなえない、変化を求めない、正義を口にしない社員しかいなくなるのは当然の理だ。

でも、そんな職場で一日何時間も、年に何百日も働いて何か楽しいのだろうか。楽しいわけないよな。組織の上に行けば、普通の社会とは違った別の意味で「楽しい」のかもしれんけど。

だけど、社員はなんで転職しないんだろう。

辞めたくても辞められないのか。我慢するだけの何か他の見返りがあるのか。あるいは、すでに何も感じなくなっているから問題ではないのか。

三菱電機だけじゃないのだろう。きっと、こうした企業って日本中にあって、珍しくもないのかもしれない。

2023年5月13日

点字ブロックを取りのぞけ

2023年5月10日撮影

これは新幹線・新横浜駅ホームの写真である。ホームドア開閉のための操作盤が突き出ているのが分かる。

もし視覚障がい者が点字ブロックに添って歩いたら、ぶつかってしまう。操作盤は金属製。怪我をするか、転倒のおそれもある。何年も前からJR東海に危険だからと改善を求めているが無視されている。その後JR側がやったのは、操作盤の角に黄色い緩衝剤を貼り付けただけ。

点字ブロックに沿って駅ホームを歩く盲導犬の訓練犬と訓練士
(日本盲導犬協会の会報誌から転載)

当初、リスクを指摘したときは「点字ブロックにはかかっておりませんから」というのが、JR東海側の返答だった。だが見れば分かるとおり、くっついている。危険なのには変わりない。そう伝えると、今度は「この操作盤の近くには常時駅員がいるので、安全の確保はできてます」と言う。しかし、写真が示すように、駅員がいるのは新幹線が到着するときだけだ。

点字ブロックは、盲人の安全を確保するためのものなのに、ここではそれを利用すると逆に彼らが怪我をする可能性がある。まずは暫定的措置として、盲人の安全確保のために操作盤の前後の黄色い点字ブロックを取り外すことが必要。パラドックスだ。

その後、ちゃんとした工事ももちろんやってもらわなければいけない。

以前、他の駅(たしか品川駅だったような)で撮った写真がスマホのなかから見つかった。同じ条件でありながら、こちらには視覚障がい者に対しての配慮が見られる。

2023年5月9日

生成AIは意外と役に立つ、かも

連休中からチャットGPTを使い始めた。

数ヵ月前からちょっとばかり長い原稿に取り組んでいて、その作業の効率化をチャットGPTで図れないかと考えて導入した。

こちらが書いた原稿をGPT-4で校正したり、ラフな編集するのに使っているのだが、うまくやれば人間の仕事の効率が上がりそうなのが分かった。

ただし、というか思っていた通り、オリジナルな原稿をAIが書くのは今はまだ無理で期待したクオリティのものは上がってこないことは確認できた。今できるレベルは、良くて程々のアシスタントである。

最初からこれに人の代わりとして何かやらせると(核となるアイデアを発案させるとか、人の代わりに文章を書かせると)お粗末な齟齬が生ずるだろう。なんとかとハサミは、ではないが、これも使い方しだいだ。

物書きでも、オリジナリティやクリエイティビティを問われない人たち、たとえばプレスリリースや官庁の記者会見をもとに記事をまとめているだけの新聞記者なんかは、間違いなくいなくなる。

2023年5月6日

駅のホームから消える時刻表

西武鉄道やJR西日本、JR東日本の駅のホームから、時刻表が順次撤去されている。

それらの会社はコスト削減を理由にあげているが、時刻表を修正するのは基本的には年2回のダイヤ改正の時期だけ、しかも時刻表のフォーマットは既に決まっていて、ただ数字の表示を修正するだけ。
 
なぜそれほどまでに手間を惜しむのか。いざとなれば、手書きだってかまわないぞ。あるいは自分たちでできないなら、近所の小学校の子どもたちに時刻表を作ってもらったらどうだ。その方がイラスト付きで楽しそうだ。
 
鉄道会社は、「利用者たちはスマホを持っており、自分で時刻表を確認することができる」から大丈夫なのだと言うが、本当にそうなのか調査はしたのか。していないだろう。勝手に自分たちがそのように思いたいだけ、あるいはそうしたもっともらしい理由をつけているだけだ。
 
スマホを持っていない小さな子どもや、持っていても使い慣れていない高齢者はどうなのか。海外からの旅行者はどうする。
 
ぼくはスマホは持っているが、それをわざわざ取りだし、起動し、アプリを立ち上げ、路線を選び、駅名を選択し、上りか下りかを選び、時間帯が表示されるようスクロールして・・・バカバカしくてやってられない。
 
時刻表の撤去だけではない。コスト削減を目的に駅から時計やゴミ箱まで取り除いている。ゴミ箱がなければ、つまり捨てるところがなければ客はゴミを持ち帰ってくれる(少なくとも自分たちの駅から外へ持って出てくれる)と考えているからだ。
 
公共交通機関として鉄道運輸業を営んでいる自分たちが、利用者や社会にどのような価値提供しているのか、こうした鉄道会社の経営者たちは考えることがないのだろうか。小さなコストダウンに走るより、彼ら本来の社会性を保つことを重視した方がいい。
 
時刻表について言えば、彼らが今どき考えるべきことはそれをなくすことではなく、むしろ盲人でも利用できるように時刻表に点字をつけることではないのかね。

2023年5月5日

20年以上前に「繁殖していない」と言われたわれわれ日本人

今日は、こどもの日。総務省の集計によると、日本の子ども(15歳未満)の人口は1400万人あまり。その数は42年間継続して減少傾向にある。日本の総人口に占める割合はというと、なんと49年間連続で低下している。

今の政府は「異次元の少子化対策」を掲げたが、何が異次元なのかさっぱり分からない。いまさら何言ってるんだかという低次元であることは分かるが。見得を切った臭い決め言葉(にもなってないが)を振り回すみっともなさを感じる。それより、地に足の着いた科学的で納得感のある政策を考えてもらいたいものだ。

「ジェネレーション X」という言葉を生んだカナダ人作家、ダグラス・クープランドが書いた20年以上前の小説のなかに「日本人は繁殖していないようだ。そのうち、贅沢と静けさを好む老人ばかりの国になるだろう。日本は釣鐘曲線につぶされてしまうだろう」という語りが出てくる。

身も蓋もない言われ方だが、どうも日本はその通りになってしまっているみたいだ。


2023年5月4日

アウトプットがすべてではない

児童買春で逮捕されたジェフリー・エプスタインとの親密な関係からMITメディアラボの日本人初の所長を辞任した某氏が、Chat-GPTについて話していた。

そのなかで、教育での利用は大いに推し進めるべきだと彼は主張していた。根拠として、調べものでもレポート作成でもその速度が飛躍的に上がる点をあげていた。

ネット人らしいシンプルな発想である。効率よく物事をなすことを「善」と考えて生きてきた人にはそれが当たり前という感覚なんだろう。

山登りに例えれば、金持ちがヘリをチャーターして山頂に降り立ち、それで「登頂してきた」と言ってはばからないセンス。彼らから見れば、時間と労力を注ぎ込み、時として人生を賭けて自分の足でピークを目指す本当のクライマーなどアホとしか思えないんだろう。

価値観の違いとも言えるが、大学のレポートを「スマート」にChat-GPTを使って書く(書かせる)のはやはり本末転倒である。そこは、アリストテレスがいうところのエネルゲイア的な考え方に沿って取り組むしかないのだよ。

2023年4月30日

「週朝」休刊から広告のあり方を考える

「週刊朝日」が5月いっぱいで休刊になる。廃刊ではなく休刊と言っているのは望みを残しているということだろうか。ぼくは同誌については特集によって年に数回購入する程度だったけれど、いざなくなるとなると寂しい気がする。

今、多くの雑誌がその部数を落としている。新聞も同様だ。書籍も売れなくなっている。活字離れとか以前から言われているが、こと情報モノに関してはそうではない。ネットで読むようになっただけである。活字は読まれている。

それにしても「週朝」は、日本で最も長い歴史を持つ総合週刊誌で、創刊が1922年(101年前!)。その雑誌がなくなるのには、ちょっとした時代の転換感がある。発行のピークは1950年代で、当時の発行部数は150万部を超えていたらしいが、それが今は7万部代にまで減少していた。

編集長の渡部薫さんという方の発案で、終末を迎える雑誌のYouTubeチャンネルが開設された。このまま消え去るのが悔しいのか、会社の上層部へのうさ晴らしなのかわからないが、いなくなる前に自分たちの存在を残しておきたいのだろう。

 
「休刊の真実」と銘打ったクリップの中で、編集長は休刊に至った最大の理由として広告が入らなくなったことを強調している。広告が取れない雑誌は制作を続けるのが難しい。「暮らしの手帖」なんかは、きわめて特殊な例だ。

雑誌が売れるかどうかは読者次第だが、広告媒体としての価値は広告主である企業と広告代理店が決定する。もちろんその判断基準には発行部数があるから両者は切り離せないところはあるけど、広告部門はもっと頑張れなかったのか。

10年以上前になるが、ニューヨークで暮らしていたとき、現地で雑誌を5、6誌ほど定期購読していた。マンハッタンのど真ん中に住んでいたので外に一歩出れば雑誌はすぐに手に入ったが、定期購読は価格が圧倒的に安かったからだ。

年間購読なら送られてくる雑誌一冊当たりの価格は定価の10〜20%。定期購読者で安定して発行部数を確保し、広告収入で稼ごうという考えだ。日本でも低廉な価格が適用される第三種郵便物という制度があるが、そうした幾ばくかの変動費さえまかなえればそれでよし、という購読料金設定がなされていたのだと思う。 

企業の広告費の使い道がかつてのマス媒体からネットに移っているわけだが、ネット広告って企業のマーケティングに実際に役に立っているのだろうか。ネットユーザー<1人ひとり>の嗜好やこれまでの購入歴に合わせて商品を提示できるというけど、ただ鬱陶しいだけ、そして目障り。ネット上のほとんどの広告は「表現」にすらなってない。目をそらせたくなるモノばかり。

広告会社など関係している連中は表現をどう作り、どう見せるかをちゃんと考えるべきだろう。それができないなら、すべてA.I.にやらせた方がいい。無料でニュースページを見せているからといって、これ以上不愉快にさせられてはたまらない。

2023年4月28日

1年間、わずか1000円の贅沢

沢野ひとしさんに倣い、ぼくも毎朝10分の時間を区切り身の回りの片付けをすることにした。10分しかやらないのが秘訣。 

この際の片付けとは、あるものをあるべき場所に戻してやること、もしくはなくしてしまうこと。できれば後者で行きたいと思いながらの10分である。

ものを捨てるのは難しい。これは世界中で古来から思われていることに違いない。つまり、人間の性(さが)に強く根付いている。断捨離や、片付けに人生のときめきという表現が使われるのもそのためである。

身の回りがすっきりと片付いていた方がいいと思うか、雑然としていた方が落ち着くかは人それぞれ。どっちでもいいが、身の回りにどんなものがあって、それが必要かどうかくらいは分かっていた方がいい。だから、普段目が行かない本棚の棚にある書籍などを引き抜いてみる。

本の間に挟まれて岩波書店の『図書』が出てきた。表紙をめくると沢木耕太郎のコラムとその号の目次があらわれた。きら星のような書き手がならんでいる。

定期購読のための払込み用紙が挟み込まれており、購読料は送料込みで1年間1000円。これって、ずいぶん昔から変わってないように思う。確実に赤字のはずだ。

そういえば先日、ある取引銀行が今後、取引明細書の送付を有料にすると言ってきた。「紙の使用を減らし、環境への負荷をなくすため」など相変わらず子供だましの理屈を書いていて、今後は毎月220円の手数料がかかるそう。こちらは年間2640円。

2023年4月22日

これも利用者サービスのひとつ

最寄りの駅に東急線が乗り入れ、渋谷方面に出るのが幾分楽になった。乗換なしで勤務先まで行けるようになったのは助かる。

それに合わせて、東横線沿線のいくつかの駅を以前より利用するようになり、その1つが沿線のある駅ビルの中の図書館だ。先日、図書カードを作るために立ち寄った。

カウンターで手続きをしているぼくの脇に女性が何人かならんでいる。みな、手には本を抱えている。彼女らの先にあったのは「除菌BOX」と書かれた金属製の箱だ。


この銀色の箱で除菌するらしい。図書館の本は誰が使ったか分からず、どんな菌がついているか分からないからだろう。

だがそこまで気にするかどうかだナ。図書館の本に限らず、書店の棚にある本だって誰が触ったか分からない。神経質になって気にし始めればキリがない。

ただ利用したい人は結構いるようで、そうした利用客からのリクエストでおそらくは設置されたんだろう。新型コロナの影響が大きいかもしれない。

ぼくは本をわざわざ除菌ボックスに入れる気はないが、せっかくだから何か入れたくなった。よく「人は金槌を手にすると、釘を探す」なんて言うが、それに近い。自分の頭を突っこんで除菌してもらおうかとアホなことを一瞬考えたが、扉が閉まらなければ除菌はできない。

そうだ、財布を入れてみようかーーやってみようとしたら、すぐそこにいた図書館スタッフに止められた。

2023年4月21日

立つ鳥は何を残すか

新学期が始まって3週間ほどが過ぎた。

民間企業などでは定年を迎えた人はその年齢に達した月に退職していくが、大学の場合は定年を迎えた年の年度末、つまり3月で退職になる。

その月になると退職していく教授の研究室が空き室となり、部屋に掲げてあったネームプレートが取り外される。 

昨年度、退職したある教授が自分の研究室にあった本を部屋の外に山積みにして去って行った。同僚や学生に、好きな本があったらどうぞ、という考えだったのだろう。積み上げられた古色蒼然とした本の山は傾き、いまにも倒れそうだった。そのままでどうするのかと思っていたらひと月ほどして、たぶん大学の指示でだろう、校舎の清掃担当部署が一気に片付けてしまった。

その人がやってきた研究テーマをそのままそっくり引き継いで研究をするというのでもなければ、研究古書をもらおうという人は今はいない。ただ清掃担当者らが余計な仕事をさせられて終わった。

この3月に退職したある元教授は、いまも研究室の外に山のように資料を積み上げたままにしている。いずれ片付けるのだろうが、「しばらく置かせておいてくれ」と言ってるらしい。見苦しさが山積みにされている。

これが企業などであれば、退職日を過ぎてオフィスに残っている私物はさっさと処分されておわりだ。

一方で、いつの間にか(おそらく休日などを利用して)研究室をすべて片付けて風のように去って行く人もいる。それが当たり前のことなんだろうけど、大学にいるとそうした人に人間としてのいさぎよさを人一倍感じる。

2023年4月18日

大阪でさっそく出たよ、インチキが

大阪へのカジノ誘致を目的に制作されたPR動画に、奈良美智さんの作品が無断で使われていたことが明らかになった。どこかの広告会社が請け負って制作したんだろうが、お粗末極まりない。

東京オリンピック、パラリンピックの話題が出始めた頃、五輪のシンボルマークの採用図案で盗用が明らかになった騒ぎを思い出す。

当事者の奈良さんは、以下のように自分の考えを表明している。

大きな犬の自作イメージが出てくるのだが、使用を許可したこともない、というか許可自体を求められたこともない。(中略)カジノとか、自分は基本的に好きではないです。

大阪府と市の担当者は記者会見で頭を下げたが、世界的な芸術家の作品を勝手に利用して著作権侵害を起こしているわけで、謝れば済むという話ではないだろう。

 
奈良の作品だけでなく、村上隆の作品もPR動画に無断で利用されていた可能性が高い。もしそうだとしたら、彼から損害賠償請求がでるかもしれないナ。

2023年4月16日

カジノができるらしいが

政府が、大阪府と大阪市が申請したIR(カジノを中心とする統合型リゾート)の計画を認定した。

この施設は2029年の開業が予定されており、大阪湾の人口島に建設される。初期投資だけで1兆円を越えるカネが投入されるらしく、関係者はウハウハだ。

計画によると、来場者数は年間2,000万人、売上高5,200億円(そのうち4200億円がカジノ)と表明されている。関西エリアの経済効果は年間1兆1,000億円、雇用創出は9万3,000人、大阪府と大阪市へ運営者から年間1,060億円の税金が見込まれるとか。

やけに話としては景気がいいが、当然、首をひねってしまう。

まず、年間2,000万人もの客をどうやって大阪の埋め立て地に呼び込めるのか。これから日本は人口が減少していく。かつてのような経済成長の勢いももうない。

好況期の1983年にオープンしたあの東京ディズニー・ランドですら、年間2,000万人の来場者を実現するのに20年かかった。2001年に隣接する地にディズニー・シーをオープンして、やっと年間来園者2,000万人を越えている。https://www.olc.co.jp/ja/tdr/guest.html

子どもからお年寄りまで年齢や性別を問わず来場者を集めることができ、ブランドとして超最強な「ディズニー」ですら20年かかったのである。大阪の埋め立て地のカジノへ、どう計算すれば年2,000万人が集まるようになるのか。中国人観光客だのみだとしても、常識的な推計を越えている。

開業後の経済効果が年1.1兆円あるとしているのもハッタリ、眉唾だと言っておこう。大阪府と市は、その計算式を明らかにし、きちんと説明することが必要だ。

捕らぬ狸の何とかで計画を認め、蓋を開けてみるとやっぱり思ったようには行かず、かといって止めに止められず、最後の最後、破綻して国民に多大な犠牲と負担をかけるようになるのではないのか。

どこかで見た風景が甦ってくる。

2023年4月14日

社長が持つべき知性と矜恃

汚職、談合など不祥事にまみれた先の東京オリンピックでは、数々の贈収賄事件が表に出た。そのひとつ、広告会社のADK元社長の公判が東京地裁で行われた。

スポンサー集めに困り、電通の元社員だった五輪大会組織委員会高橋元理事に賄賂を渡し、「助けてください」などと懇願した件である。

ADK元社長は検察に金の受け渡しを認めたうえで、金銭提供については「法律知識がまったくなかった」からと説明した。

社長が逮捕されたADKの社員らは複雑な思いでいることだろう。会社のお偉いさんが逮捕されたという事実にもまして、その人物が法律知識をまったく持っていないと述べたり、競合する広告代理店の出身者に「助けてください」と泣きついた男だという事実について情けないやら、いたたまれないに違いない。

この業界、どうしてこんなに劣化してしまったのだろうか。

かと思うと、同日、大阪万博の起工式が行われ、そこで岸田総理や西村経産相が会場予定地で「くわ入れの儀式」(!)を行った。

「セレモニーには公式キャラクターも登場して会場を盛り上げた」と報道されていたが、それにしてもキミョーなキャラクターだ。

そのうちまた、この万博でもキャラクター選定やらパビリオン設定、セレモニー運営で贈収賄を含む不祥事が出てくるんじゃないか。

2023年4月4日

坂本龍一と満月

丸一日、坂本龍一の音楽を聞きながら仕事をしていた。

手元にあった『新潮』に掲載されていた、彼の連載(インタビュー記事をもとに構成)「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」をあらためて読むと、坂本の脱原発(NO NUKES)への思いが筋金入りで並々ならぬものだったことが伝わってくる。

彼は見ることができなかったけど、明後日4月6日は今年にはいって4度目の満月である。今日は十三夜、雲がなく空が晴れていたのでベランダから夜空にカメラを向けてみた。

F8、1/250、ISO100で撮影

2023年4月3日

なぜ今も入社式を行うのか、という疑問

日本の経営の特性、あるいは日本企業の硬直化を示す概念として、年功序列、終身雇用とならんで新卒一括採用があげられる。

同質化した社員がみんなで一緒に、同じ仕事を同じようにやることが組織のパフォーマンスをあげることにつながった高度経済成長期の製造業モデルである。

学校を卒業した学生が実社会に入る最初の儀式が、入社式。そこからスタートして、彼ら彼女らは年功序列や終身雇用、男性優位といった、すでにその合理性に綻びが出ている社内規範に組み込まれていく。

今日、多くの企業で入社式が行われた。報道でそうした写真を見たが、ほとんどはこれまで通りのいわゆる入社式である。新入社員の服装は、昔から変わらぬ紺色スーツ。社長らのスピーチも代わり映えしない。日本の「ザ・入社式」は不滅のようだ。

社長が若い人たちを一同に集め、壇上から「おれが社長」「おれが雇用主」「この会社はこういう会社」「お前らはその構成員」と喋りたいことから儀式としての入社式は始まった。ただそれだけである。

「多様性を尊重した職場で、個性を大いに生かして活躍して欲しい」とある大手電機メーカーの社長が壇上から挨拶しているのを見ても、多様性や個性がその会社で本当に尊重されているとはどうも思えない。

小学校、中学校、高校、大学と入学式が行われているから、その次は会社の入社式という日本的なひとつの惰性のなかの習慣である。たしかに学校は6、3、3、4という区切りがあり、ひとつのステージとして成立している。しかし、会社は違う。定年まで40年間そこにいる人もいれば、半年後には転職している人もいるだろう。 

4月に入社した新卒と呼ばれる若者だけを対象にそうした儀式が行われるのも、考えてみればヘンではないか。新卒とか中途とかの境は設けない方がいいとぼくは思っている。同じ組織のなかで仕事をしているのは変わらないのだから。また非正規で働く人たちは、ここでも完全に透明化されている。

入社式は「社長が直接、社員に語りかける貴重な機会だから」や「同期の結びつき、結束を固めるためのよい機会」「人生の節目としてたいせつ」などという言葉が返ってきそうだけど、どれも勘違い。社長は入社式じゃなくてもつねに社員に考えを伝える必要がある。社長ならば、その手段はいくらでももっているはずだ。

同期の結束というのは、本人たちにとってはひとつの安全弁かもしれないが、年功序列意識を構成するベースになっている気がする。

入社の際のセレモニーが人生の節目と考えるかどうかは個人の考えであり、それが好ましいと思う人は家族や友人とプライベートで祝えばよい。

そもそも諸外国では、学校ですら入学式自体がない。オリエンテーションが行われ、続いて授業が始まるだけ。その代わり、卒業式は盛大に祝う。なぜなら、卒業はひとつのAchievement(達成)を示すからだ。それに対して、入学はただのスタート。お祝いする理由がない。

入社式で社長が入社してきた人に向かってうやうやしく「新入社員の皆さん、入社おめでとうございます」などと挨拶するのは本来はヘンなのだ。

あなたの周りにはいないだろうか。いつからそこにいるか本人以外誰も憶えておらず、もちろん入社式も歓迎会もなくそこで働き始め、いまではあなたの部署で欠かせない仕事をしてくれている、実は派遣や任期付きの契約で働いている人たちが。