2023年4月3日

なぜ今も入社式を行うのか、という疑問

日本の経営の特性、あるいは日本企業の硬直化を示す概念として、年功序列、終身雇用とならんで新卒一括採用があげられる。

同質化した社員がみんなで一緒に、同じ仕事を同じようにやることが組織のパフォーマンスをあげることにつながった高度経済成長期の製造業モデルである。

学校を卒業した学生が実社会に入る最初の儀式が、入社式。そこからスタートして、彼ら彼女らは年功序列や終身雇用、男性優位といった、すでにその合理性に綻びが出ている社内規範に組み込まれていく。

今日、多くの企業で入社式が行われた。報道でそうした写真を見たが、ほとんどはこれまで通りのいわゆる入社式である。新入社員の服装は、昔から変わらぬ紺色スーツ。社長らのスピーチも代わり映えしない。日本の「ザ・入社式」は不滅のようだ。

社長が若い人たちを一同に集め、壇上から「おれが社長」「おれが雇用主」「この会社はこういう会社」「お前らはその構成員」と喋りたいことから儀式としての入社式は始まった。ただそれだけである。

「多様性を尊重した職場で、個性を大いに生かして活躍して欲しい」とある大手電機メーカーの社長が壇上から挨拶しているのを見ても、多様性や個性がその会社で本当に尊重されているとはどうも思えない。

小学校、中学校、高校、大学と入学式が行われているから、その次は会社の入社式という日本的なひとつの惰性のなかの習慣である。たしかに学校は6、3、3、4という区切りがあり、ひとつのステージとして成立している。しかし、会社は違う。定年まで40年間そこにいる人もいれば、半年後には転職している人もいるだろう。 

4月に入社した新卒と呼ばれる若者だけを対象にそうした儀式が行われるのも、考えてみればヘンではないか。新卒とか中途とかの境は設けない方がいいとぼくは思っている。同じ組織のなかで仕事をしているのは変わらないのだから。また非正規で働く人たちは、ここでも完全に透明化されている。

入社式は「社長が直接、社員に語りかける貴重な機会だから」や「同期の結びつき、結束を固めるためのよい機会」「人生の節目としてたいせつ」などという言葉が返ってきそうだけど、どれも勘違い。社長は入社式じゃなくてもつねに社員に考えを伝える必要がある。社長ならば、その手段はいくらでももっているはずだ。

同期の結束というのは、本人たちにとってはひとつの安全弁かもしれないが、年功序列意識を構成するベースになっている気がする。

入社の際のセレモニーが人生の節目と考えるかどうかは個人の考えであり、それが好ましいと思う人は家族や友人とプライベートで祝えばよい。

そもそも諸外国では、学校ですら入学式自体がない。オリエンテーションが行われ、続いて授業が始まるだけ。その代わり、卒業式は盛大に祝う。なぜなら、卒業はひとつのAchievement(達成)を示すからだ。それに対して、入学はただのスタート。お祝いする理由がない。

入社式で社長が入社してきた人に向かってうやうやしく「新入社員の皆さん、入社おめでとうございます」などと挨拶するのは本来はヘンなのだ。

あなたの周りにはいないだろうか。いつからそこにいるか本人以外誰も憶えておらず、もちろん入社式も歓迎会もなくそこで働き始め、いまではあなたの部署で欠かせない仕事をしてくれている、実は派遣や任期付きの契約で働いている人たちが。