2023年7月25日

予告編は余計だ

夕方、東宝系のシネコンに映画を観に行った。トム・クルーズのバイク・ジャンプを見るためだ。61歳で驚異的なスタントを自ら行うトム・クルーズには驚きしかない。 

こうしたスペクタクルな映画はやはり大画面の劇場で観たい。だが劇場で閉口するのは、上映予定時間になってから流れる映画予告編とCMだ。今回は本編開始まで15分も続いた。これまでのなかでも最長の部類だ。一般的にシネコンは長い。単館系はもっとコンパクトだ。CMが入らないというのもあるのだろうが。

映画の予告編は、かつては今後上映される作品をそれで知ることができ役に立った。だが、いまでは劇場で無理矢理見せられなくても、YouTubeなどでいくらでもチェックできる。

鑑賞料を払って席に座っているのに、否応なくCMを見せられるのは不愉快。好きで見ている観客はまずいない。それなのに、なぜこうした顧客の意に沿わないことをいつまでも押し付けるのか。

それは、シネコン運営企業の経営者が、一般客に交ざって劇場内で映画を鑑賞しないからだ。自分が真に映画ファンで、試写室でなく一般上映館で映画を観ていたら何か感じるはず。彼らはそれをやっていない。あるいはそうしていても、顧客がどう感じるかを感じるセンスがないということである。

2023年7月23日

再販制度(再販売価格維持制度)は今どうなっているのか

昨日、急ぎの調べものがあり、そのためにアマゾンで書籍を1冊注文した。

実はその本は研究室のどこかにおそらくあるはずの1冊なのだが、週末で大学に行く予定はない。しかも先週で前期授業はすべて終了したので、わざわざ研究室に足を運ぶのは憚られた。

アマゾンの画面で表示されたその書籍の価格は、3980円。「新品」とある。随分以前に購入したものと同じものだが、微かに覚えているその本の造作から創造すると「ちょっと高すぎる」。

今日届いたその書籍、カバーを見ると定価(本体2200円+税)とある。2420円だ。ということは、先の価格は65%高い。

中古本の価格がいろいろあるのは分かるが、新品の本の価格は再販制度によって定価販売が基本のはず。ちなみに販売元は中古本の取扱店ではなく、アマゾン自身だ。

これは再販制度違反じゃないのかね。時間を見つけて調べてみようと思う。

2023年7月7日

学生の短冊

授業で7号館に入ったら、入口のホールに小さな笹の木が2本あり、そこに色とりどりの短冊が添えられていた。願いが叶うといいね。



2023年7月2日

カンヌ国際広告祭2023受賞作


グランプリを受賞したAppleのCM

可愛がってたトカゲが死んじまった。

やっぱ、悲しいよ。そんなメールをダチに送ったとおもったら、レオンの奴、生き返りやがった。

ヤッホー 

でも「生き返ったよ」ってメールを後で送ってやった方が相手は喜んだかもしれないけどね。

"Working with Cancer"

 


"The Last Performance"


2023年6月27日

日本の競争力が過去最低に。だが、これで終わりではないわけ

スイスの経営教育機関であるIMDが毎年発表している「世界競争力ランキング」の2023年度版で日本は35位、これまでの過去最低を記録した。

共同通信のサイトから
 
他のアジアの国を見ると、シンガポールは4位、台湾と香港はそれぞれ6位、7位、中国は21位で、マレーシア、韓国、タイがそれぞれ27位、28位、30位。主なアジアの各国から抜き去られた。インドネシアも日本より上位だ。

マジかと思ったが、安倍、菅、岸田の政権がトンチンカンな政治運営を営々と続けていたのを振り返ると、これもしかたないかと思えてしまう。ネポティズムのなかで日本という国の全体感は忘れ去られ、既得権者を維持することだけに政治リソースが使われた結果である。

企業は企業で、どこも「ごっこ」だ。トップは経営ごっこ、コンサルティング会社はコンサルごっこ、ビジネスマンはビジネスごっこに終始している。何かやってる気になっているだけに見える。

焦点がなく、リスクを負おうとせず、過去の延長上でしかものを考えられないから真に新しいことにチャレンジしない。競争力の低下はたまたまではなく、因果の現れである。 

今後、フィリピンやベトナムにも抜かれるかもしれない。そんな日本にこれから留学したいとか、働きに行きたいと思ってくれるアジアの人たちはいるのだろうか。

やがて日本は、アジアの人たちの目からは一観光地として興味があるというだけの国になっていく気がする。

2023年6月26日

DXはドンクサイの略

ある女優の一人芝居を観に行きたくなりチケットを探した。東京公演はすでにすべて販売終了で、地方公演のチケットがまだ残っていたのでそちらを予約することにした。

前にも書いたことがあるが、ネットでのチケット予約にはどうも腑に落ちない点が多い。まず手続きが必要以上にややこしく、手数料も納得がいかない。すべてシステムで予約を受け付けるので、チケット販売のエージェントは素知らぬ顔なんだろう。我々にとって面倒だったり、プロセスがスムーズなものでなくても自分たちは痛くも痒くもないからだ。

利用者は、S席とかA席の括りで席を選ぶようになるが、その際、会場のシートマップが表示されないのはなぜなのか。システム的には簡単なはず。S席とA席の割合をどうするかなどは興行主の思わく次第だ。一列違えばSとAに分かれる。それで価格が30%異なる。
 
以前はS、A、B、Cと4種に分かれていた席種も、今は多くがSとAの2つなのも疑問。売り手が勝手をやってる。

ネットで飛行機のチケットを購入する時、多くの利用者はその機のシートマップからフライトの空き具合を見て、自分が座る席を選んで予約する。しかも飛行機のチケットは、予約後のキャンセルや変更が可能だ。購入した航空券は自宅でプリントアウトすれば済む。
 
ところが、芝居やコンサートのチケットはと言えば、自分がその会場のどこに座るかという基本条件すら示さず、しかも一旦予約したらキャンセルできない(返金しない)。チケットは自宅でプリントアウトすれば済むものを、なぜ客にコンビニまで足を運ばさせ、そこで発券手数料を課すのか。コンビニでの発券手数料を、後でチケット業者が按分させているとしか考えられない。手間も金銭的出費も、ツケはすべて利用者に回されている。

以前こんなことがあった。なるべくいい席を取りたいとS席を予約したところ、その席は広い会場の1番端っこだった。しかもS席ブロックの最後列だった。こんなことであれば、A席で真ん中あたりの席の方がよほどコンサートを楽しめたはずだった。

なぜ、こうしたことが起きるか。業者がとにかくチケットをさばき、一刻も早く入金させることしか考えていないから。訪れる観客がコンサートを楽しめるか、芝居を楽しめるかなんてことは一切気にしていない。期待する方が無理か。

チケット屋が扱っているのは、芝居やコンサートの「席」だ。文字通りの席(椅子)ではなく、ある日のある時間にその場所を所望している顧客がそこにいられる「権利」だ。モノではなく無形のサービスなので、ネット上での販売や決済にもっとも適している商材と言える。

にもかかわらず、日本のチケット業者のやっていることといったらこのようにお粗末極まりない状況である。やろうと思えば、顧客の納得感を得られる仕組み作りは簡単にできるはず。DXなんて言葉があったが(今もそうした言葉で仕事をねだってるコンサル会社もあるようだが)、チケット販売業者がやっているDXはドンクサイの意味としか思えない。

こんなことでこの国のパフォーミング・アーツのお客さんが増えていくとでも思っているのだろうか。この手の問題が解決されない理由のひとつが、こうした分野のジャーナリストにある。新聞や雑誌に提灯記事、いや失礼、劇評やコンサート評を書いているその分野の専門家とされる連中のこと。彼らは自分でチケットを買わない、自分でチケットを予約してコンビニ店頭で発券してもらわない。なぜなら、放っておいても主催者から招待されるから。
 
だから、実状を知らない。いや、知らないことにしているのだろう。それ故に発言しようとしないし、業界も変わらない。

2023年6月25日

町中の訓言

散歩の途中で見つけた工務店店頭のガラスケース。なかなかいいことが書いてある。立ち止まって一通り読んでしまった。


2023年6月24日

1日の閲覧数が1,000を超えた

このブログを始めたのは、2009年。当初は学会で海外に行ったときの記録、サバティカルでNYに暮らしていたときのメモ代わりとして書いていた。特に読者は想定せず、一切気にせず。

 一時だけ広告を掲載してみたことがあるが、目障りなのですぐに止めた。こんなことで小銭を稼いでも仕方がないし、グーグルからviewを稼ぐためにこんなことをやった方がいいとか、余計なことを言われるのも鬱陶しかったからね。

あくまでも自分の記録として書いていたら、先日、一日の閲覧数が1,000を超えた。誰がどういう思いで読んでいるのか知らないが、何か人の役に立ってるなら嬉しいことである。

2023年6月19日

「俳優」と「女優」の違い

性平等のための是正策として、これまでの職業名が言い換えられている。例えば看護婦は看護師に、保母さんは保育士に、スチュワーデスは客室乗務員に。

それはそれでいいのだが、その理由としてそれまでの呼び名が女性蔑視だとか性差別というのはどうも理解できない。どこまで気にするかは人によるけど、〇〇マンが女性蔑視だからだめで、〇〇パーソンと言い換えるべしというのは言葉遊びをしているように思える。

ある自治体のサイトから

上の表では「サラリーマン・OL」を「会社員」と置き換えなさいと言っているが、会社員以外のサラリーマンはどうなるのか。会社員以外でサラリーを対価に働いている人たちも世にたくさんいる。

ビジネスマンはビジネスパーソンに呼び名を変えた。 ではサラリーマンは「サラリーパーソン」か。そもそも「マン」は「男」の意味だけではなく、総称的に「人(男女問わず)」を表す。

こうした世の中で女優を俳優と言い換えることが多くなっているが、なかには「女優」を堂々と名のるひとたちもいる。今朝の新聞に通販生活の折り込みチラシが挟まっていたが、そこに「女優 香山美子」さんの名前を見つけた。俳優ではなく女優とした意思があるに違いない。

週刊文春に「私の読書日記」を書いている橋本愛も「女優」を名のっている。彼女の意思だと思う。

性差を感じさせない呼び名に変更することが、自分がそれなりの意識系の人間だということを示す「お作法」になっていることを感じて、おそらくちゃんと考えたうえで「女優」を標榜しているのだろう。それはカッコいいと思う。

2023年6月11日

ただただ、驚き感心する

6月9日、アマゾン地帯のジャングルに墜落した小型飛行機からの生存者として、子どもたち4人が現地で救助された。13歳、9歳、4歳、そして1歳の兄弟だ。残念ながら、彼らの母親やパイロットら大人3人は5月1日の墜落現場で死体として見つかっていた。

頭から地面に激突する形で墜落した飛行の前部座席には大人3人が、4人の子どもたちは後部に座っていたのが幸いした。しかし、何よりも驚かされたのは、墜落したあと、子どもたちが40日間を自分たちだけでジャングルの中で生き延びたことだ。1歳の赤ん坊も含めて。

彼らは、Huitoto Indigenous communityというコロンビアの先住民族の子どもたちで、周りから密林で生きながらえていく術を教えられ身につけていたのだろう。1歳の赤ん坊を皆で守らなければという強い気持ちが兄弟のなかにあったことを指摘する専門家もいる。 

食料をどう得るか、水は、寝る場所は・・・自分たちで考え、行動しなければならないことだらけだったはず。年齢から考えると、実際に動けたのは13歳と9歳のふたりだろう。その2人が力を合わせて下の2人を守った。

いまや近くにコンビニがなければ生きていけないような日本人(ぼくも含めて)には到底できない、人間の知恵と力だ。

2023年6月4日

週刊朝日 ついに休刊

「週刊朝日 ついに休刊」の見出し。朝日新聞ではなく、他紙の記事である。そうだ、と思いだし、近隣のコンビニを覗いたが在庫がない。行きつけの駅前の書店いくつかにも電話したが、売り切れと言われた。

最終号の中吊り広告

新聞専売所ならあるかなと思い連絡したら、手元には残っていないが「重版をかけるそうです」とか。正確には増刷だろうが、珍しい。最終号ならではだろう。なくなるとなれば、名残惜しいと思う読者がたくさんいるのだろう。専売所に届いたら配達してもらうようお願いした。

あらためて雑誌の役割のようなことを考える。雑誌ってなんだろうって。「雑」の字を白川静の『字統』で引いてみると「もと色彩のある織物を組み合わせる意」「他に組み合わせ、混合したものを雑といい、学にも雑学・雑識がある」とある。

組み合わせたもの、混合したもの、というのが雑誌のオリジンのようだ。つまりは、「編集」ということか。ただの断片的な情報を編集して見せることで、より面白く、新しく、別の価値をつくり出すということ。

そうした価値を届けてくれる雑誌は大切なメディア。ネット上にもその類は数え切れないほどあるが、信頼できるかどうかはまったくもって危うい。署名もないサイトは信用しないのが知恵だと思っている。

手に取り、パラパラと一気にめくれるのも紙の雑誌ならではの楽しみなんだけどね。

以前も書いたが休刊に追い込まれた一番の要因は、広告収入が確保できなくなっていたから。ネットに持って行かれてしまった。でもネットの広告ってどれだけ広告主の役に立ってるんだろう。ターゲティング広告なんていっても、だからそれをどうビジネスに活かしているのか。読んでいる人の属性が推測できるから? どんな記事に興味がありそうか分かるから? それで?と言いたい。

企業の広告担当者は、自分が予算を使って何を実現したいのか、企業(製品)にとってどんなマーケティング・コミュニケーションが必要なのか、ちゃんと考えているか。

2023年5月30日

教育の場では、生成AIは生産性を上げない

先日、このブログで生成AIは意外と役に立つと書いた。それに間違いはない。ただし、自分がそれ、つまり自分ではなく生成AIが「これ」をやったと知っている限りだ。

教育の場で問題になるのは、そこのところの対称性が確保されていないこと。たとえば、学生がレポートを生成AIで作成して提出するのは造作もない。

それで終わりならいいが、本来的にはレポートは読まれ、評価される対象である。生成AIで書かれたレポートを生成AIに読ませ、その真偽(本人が書いたか、生成AIが書いたか)を判断し評価まですることは無理だ。

だとするとそれは人間が読み、判断するしかない。すでに僕の元には生成AIを使って課題を提出してきた学生のレポートがある。ほぼ間違いなく、それらは彼ではなく生成AIが作成したものだと見て取っている。

なぜなら、生成AIには知性はない。AIにあるのはずば抜けた計算能力だけ。確率的に相応しい言葉を選びながら文章を構成していくだけだ。だから、表面的にはもっともらしく、それらしい論理の筋道もあるが、人間ならではの、例えば勘違いからの突飛な発想や思い込みがない。ただネット上にある情報を「何も意味を考えず」つなぎ合わせたものに過ぎない。 

これまでその学生が書いてきたもの、話してきた調子と「路線」が違うのだ。たとえば、それまでずっとJ-POPだったのが、いきなりバッハになったら誰でも変だと判る。

だから読めば、これは生成AIが書いたレポートだと判断できる。ただし、それを「生成AI作」と断定する客観的なデータはいまのところない。あくまで主観的な推量と判断の域を出ない。

そのため必要となるのが、提出されたレポートをもとに口頭で質問をして即答させること。そうすれば間違いなく判る。だが、価値を生まないそうしたことに時間を割いてられるだろうか。

そこに生成AIを教育現場に持ち込む現時点での最大の問題点がある。ただ無駄な仕事を増し、関係者全員にストレスを与えて混乱させるだけだ。

現場を知らない人間が、したり顔して「まずは拒絶せず取り入れて、学生が生成AIを使いこなせられるようにすることが好ましい」などとノー天気なことをいうのはやめるべきだろう。

2023年5月29日

都職員を全員、非正規職員にしてみたらいい

都営地下鉄は、その名の通り、東京都が運営する地下鉄である。その半分以上の駅で「偽装請負」という法令違反が行われていた。

それらの駅では都の職員と派遣社員が働いている。関係者以外はそんなことは知らないはずだ。なぜなら、派遣職員も都職員と同じ制服を着用し、同じ業務内容に携わっているから。

だが、働く条件は異なる。都職員の年収は30歳モデルで約440万円、40歳モデルで約550万円だ。一方、派遣で働く人たちはというと、ある男性(年齢は示されていない)の年収は350万円で、昇給はなし。退職金もなしという。

同一労働同一賃金など、どく吹く風だ。

偽装労働は労働者派遣法でも職業安定法でも禁じられている。違法性はもちろん、倫理的にも許されるものではない。東京都は何をやっているんだろう。

だが、この国ではつくづくこうした問題の解決は難しい。解決の方法としてシンプルで効果的な案がある。それは、「都職員を全員、非正規職員にすること」。それしかないだろう。

そうすれば、自分ごとになる。何とかしなけりゃと思う。

2023年5月26日

「非正規社員」という言葉をなくすところから始めよう

先日、同一労働同一賃金について書いた。同一労働同一賃金が是正されていないことは以前から問題であり、またそのための本格的な動きも見られない。

それと深く関わるのが<正規・非正規>の区別である。少し調べて見ると、非正規社員の定義すらはっきりしていないのが分かる。そうした点が、いかにも日本的なのである。

下記は朝日新聞に初めて「非正規社員」という言葉が登場した記事からの引用だ。1990年1月の名古屋版の記事で、弁護士の大脇雅子さんという方の同紙へのコメントから。

 --現在のパートタイマーの地位はどうなっていますか。
 大脇:そもそもパートタイマーとは、1日8時間フルに働く人に対して、短時間しか働かない人を指します。しかし、日本でパートタイマーというと非正社員、という意味になっています。労働省の調べでも、女性パートタイマーの1割は1日8時間近く働いています。結局、正社員と区別して、安く使う手段なんですね。
 --パートタイマーにも正社員並みの権利を、ということですね。
 大脇:そうです。昨年夏、訪れたスウェーデンでは、パートタイマーの時間給が差別されていませんでした。幼児のいる男性社員は育児に協力出来るようにパートタイマーとして1日6時間働けばいい、といった制度も設けるなど、いろいろ工夫しています。昇進や退職金、福利厚生などでも、正社員とパートタイマーという身分差別はありません。7年ほど前、全国レベルで労使が話し合い合意したそうです。
 --日本の現状を変えるのは容易ではありませんね。
 大脇:パートタイマーの権利向上は意外に早く進むと見ています。労働省は昨年6月、パートタイマーの労働条件について指針を出し、また国際労働機関(ILO)はパートタイマー保護基準の制定を議題にすることを昨秋、決めました。90年代後半には、何らかのパート保護法が国内でもできるでしょう。
パートタイムの労働者=非正規社員と呼ばれていたわけだ。パートタイムはフルタイムの対義語。フルタイムが1日8時間であるのに対して、それより短い時間働く者がパートタイムである。大脇さんの話からすると、1990年にはもうパートでありながらフルタイムと同じだけ働いてる人たちがいた。ここで既に、何かがズレている。

毎日新聞に「非正規社員」が初めて登場するのは1995年。その年の『労働白書』の紹介記事。そこには、「パート、派遣社員、季節工といった非正規社員」という言葉がでてくる。単純に1日当たりの労働時間で括ることができなくなっていて、実質的に差別的な労働条件のもとで働いている人たちを非正規と言っているように受け取れる。問題の根は深い。

そもそものところだが、フルタイムとパートタイムは働き方の違いを示している。ところが、正規社員と非正規社員の違いは、働き方の違いではない。正規採用(考えてみれば、この考えがそもそもヘンだ)の制度に則って採用されのが正規社員、そうでないのはすべて非正規社員。同じ仕事を同じようにやっても処遇が違うという「身分制度」だ。

非正規(つまりは、正規に非ず)という言葉を、社員とか職員といった「人」の修飾語として用いるのをやめた方がいいと思う。非正規何とかって、その人を半端者って言ってるような響きがある。

一般財団法人雇用開発センターが運営するサイトに「正規社員と非正規社員の違い」が記されていた。https://www.hiraku-navi20.jp/about_us/index.html

正規社員と非正規社員の違い
(1)正規社員とは
正規社員の定義について、法律で明確にされてはいませんが、一般的には、会社内で正社員と呼ばれ、期間の定めのない雇用契約で働いている社員をさすことが多いようです。
(2)非正規社員とは
非正規社員の定義について、法律で明確にされてはいませんが、一般的には、契約社員やパートタイマー、アルバイト、派遣社員のように期間を定めた雇用契約により、正規社員と比べて短い時間で働く社員をさすことが多いようです。

労働法でも明確化されていないわけだ。使っている言葉が曖昧だから、問題の輪郭がいつまで経ってもはっきりしないままになる。なぜ定義づけしないのだろう。そうすることで不利益を被るグループがあるからだろうな。

2023年5月25日

生徒思いで、だけど世間知らずの先生たちに出会った

新横浜駅から上りの新幹線に乗る。乗るのは東京駅での乗り換えを考えて、いつも15号車と16号車の間のデッキだ。

昨日、新幹線に乗り込もうとしたら、そこに男女が3人。降りるつもりのお客さんかと思ったら、そうではない。だけど、何かへんな様子。3人で僕の方をじっと見ている。

デッキに乗り込むと、その中で一番若そうな30台半ばの男がぼくに向かって言った。「席はどこですか?」。車掌でもない人間に答える必要はないので無視したら、もう一度聞いてきた。やけに真剣そうに聞いてくるので、「席はとってない」と返すと、「この2両(15号車と16号車のことだろう)は我々の貸し切りなので、ほかの車両に行ってください」と言ってきた。

デッキから車両内を覗き込むと、中学生らしい男女で埋まっている。修学旅行の団体なんだ。ぼくは新幹線の乗降扉が開くまで、ずっとホームで読みかけの本に集中していたので車内の様子にまったく目が向いてなかった。

それにしても、さっきのものの言いから推測すると、僕のことがよほど目障りな存在に見えたか、あるいは不審者に映ったんだろう。失礼な!と思い、「そんなに怪しい者に見えるか?」と少し強い調子で若い男に言うと、やや間があって「いえ」と答えた。「おれは東京までの18分、いつもこれで通ってんだ」と言うと、3人はただ黙ってしまった。

生徒のことを心配しているのかもしれないが、それにしても随分失礼な連中である。「あなたたちはどこの旅行代理店の添乗員だ?」ときくと、またもや、やや間があって「教師です」と。引率でやって来た先生たちだった。

車内に座っている生徒らを見ると、遊びたい盛りの子どもたちのはずが、みんなやけに真面目というか、驚くほど静かに座っている。旅先でもおとなしくしているよう強く指導されているのだろう。先生らは先生らで、大きな責任感を感じてプレッシャーに半分あっぷあっぷしている様子。

東京駅への到着間近、教師らに学校名を尋ねたが教えてくれなかった。話してるアクセントから「あなた方、関西からですよね?」と聞くと「神戸から」とだけ答えた。

やがて東京駅に到着。ドアが開き始めたとき、「じゃあ、東京を楽しんで」と先生らに声をかけたが、彼らの頭の中はもうそれどころではない。生徒たちに向かって、一斉に立ち上がれとか、荷物は胸の前に抱えろとか、忘れ物がないように周りを見回せとか、憶えておいた舞台台詞を話しているような感じでトーンが上がっている。

おつかれさん、と胸の中で小さく呟いて先に下車した。先生たち、最初は仕方ないけど、ずっとその調子だと生徒たちが疲れるよ。せっかくの修学旅行なんだから、あまり抑圧しないでもっと解放してやって欲しいと余計な事をつい考えてしまった。

生徒のみんな、修学旅行でいい思い出ができるといいね。

2023年5月22日

「同一労働同一賃金」の議論はどこへ行ってしまったのか

たまたまラジオをつけたら、その番組のパーソナリティの大竹まことがリスナーからの手紙を読んでいた。

手紙を送ってきたのは64歳の女性。非正規公務員として22年間、地方の図書館に司書として勤めていた。正規職員との待遇の違いに不満を感じながら、一途に仕事に打ち込んだ。が、非正規であるがために結局認められないまま、職場を去ったことが縷々綴られていた。


正規、非正規という差別待遇がこの国から消えない。そもそも正規とか不正規とか、なんなんだろう。概念自体がよく分からないのだ。

正規は英語ではregular、だから正規社員はregular employeeなんだろう。だが非正規の英語は辞書では見当たらなかった。あえていれば、非正規社員はnon-regular employeeとなるのだろうか。

投稿者の彼女は22年間努めていて、それでもなぜノン・レギュラーなのか。これでは、人の能力や意欲に無関係な、かつての士農工商の身分制度と何ら変わりない。これが今も続くこの国の常識だ。彼女が投書の中で「やり場のない怒り」と言っていたのはもっともである。

しばらく前まで、同一労働同一賃金という言葉を方々で目にしたが、最近ほとんど聞かない。新聞でも目にしないなあと思い、新聞社のデータベースでちょっと調べてみた。

2000年から昨年まで、朝日新聞(朝夕)と日経新聞(朝夕)に「同一労働同一賃金」の言葉がどのくらい出現していたか。グラフにするとこんな感じだ。

朝日新聞では、1991年にはじめて日本国内の問題として同一労働同一賃金が、その5年前に施行された雇用機会均等法と絡めて記事になっている(それまでは外国でのニュースとして紹介されている)。そして、この時の「同一」とは男女間での同一である。「正規・非正規」の文脈で「同一労働同一賃金」が記事が掲載されたのは2005年のこと。

日経新聞では、1996年に中央大学の古郡鞆子教授が「やさしい経済学」で「同一労働同一賃金」について書いていた。一般記事として始めて掲載されたのは2004年。ただし、男女間の同一労働同一賃金でなく「正規・非正規間」のそれが取り上げられるのはもっと後になってから。

「同一労働同一賃金」の出現数のグラフをみると、両紙ともに2016年に急に掲載記事が増えている。それは、安倍政権下で厚労省が「同一労働同一賃金の実現に向けた検討会」を実施し、その年の暮れに「同一労働同一賃金ガイドライン」を発表したのが理由だ。
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-syokuan_339702.html

ところが、翌年から一気に新聞では見られなくなっている。問題がなくなったわけでもないのに。ただ熱が冷めてしまった。結局みんな、人ごとだから執着しないのだろう。見て見ぬ振りをしてやり過ごすのが大半なんだろう。

たまたま正規で職員になった(コネでもなんでも)者はそのまま正規、途中から非正規として働き始めた者は、いつまでたっても能力や意欲、成果に関係なく非正規のまま放っておかれる。柔軟性がなく硬直的。既得権が当たり前のようにすべてに立ち塞がっている日本の組織と社会。

これじゃ、この国の生産性はいつまでたっても上がるわけない。

2023年5月21日

違うからこそ面白いはずなのに

いま、日本と海外の双方で活躍している日本人俳優は少ない。渡辺謙や真田広之が思い浮かぶが、それ以外に誰がいるかすぐには思い出せない。

その渡辺謙が、自分の俳優人生を振り返ったドキュメンタリーがあった。その中で、渡辺は外国で仕事をすることの難しさや戸惑いについて語っている。
 
彼はイーストウッドが監督をした「硫黄島からの手紙」で主人公である栗林中将を演じ、それ以前には42歳の時、トム・クルーズと共演をした「ラスト・サムライ」でアメリカ映画に出演した。

海外で働く上ではバランスを上手にとってやっていかなければならない大切さについて渡辺は話すとともに、海外での仕事場を「違うことが面白い」と語る。同じ映画を作っている人間といっても、ベースにある文化やそれぞれの現場での感覚も違うと。そこでの違いが面白いと言うのだ。違いを面白いと思う感覚。これがあるから海外で外国人スタッフと仕事ができるのである。

彼が言っているのは映画撮影の現場での日本とアメリカでの違いだが、そうした違いは意外とどこにでもある。そこで思い出したのが、僕が教える社会人大学院でのあるクラスの中での話。学生は60名強だったろうか。彼らをグループに分け、毎回授業の冒頭でそれぞれのグループごとにこちらが指示をしたテーマについてディスカッションをさせ、各グループごとに考えをまとめさせた。

同じグループだと考えが固定化し面白くないだろうと思い、まず学生たちにアンケートをとった。現在のグループ編成について(1)このままで良い(2)編成を変えた方がよい(3)どちらでも構わないの3択の質問に答えてもらった。

変えてほしいという2番目の回答が半分以上あった場合には、全体をシャッフルして新しいグループ編成にするつもりでいた。が、回答を見るとそう答えた学生はわずか1割ほど。

彼らがグループを変えて欲しいと思った理由は、おそらくメンバーに何らかの不満があったのか、もしくは不満がなくても新しい顔ぶれと討議をしたかったからだろう。別に不思議ではない。

そこで、グループを変えてほしいと希望してきた1割ほどの学生たちを別のグループに移行することにした。そうしたところ、当初、グループを変えてほしいと言ってたその何人かが「悪目立ち」するのが嫌だから元のグループに戻してほしいと連絡してきた。以前のグループのメンバーに対して自分が不満を持っていると思われるのが厭だという。

そのとき、「悪目立ち」と言う日本語を初めて聞いた。そんな言葉、いままで使ったことがなかったからね。不思議な言葉があるんだなぁと思いながら対応した覚えがある。

同調圧力、目立ちたくない、周りから浮きたくない、皆と違うと思われたくない。みんな、自分が思うところのコンフォート・ゾーンにいないと不安で仕方ないのだろう。

かつて渡辺謙は、自分の役者としての可能性を広げるために意を決して海外に出て行ったに違いない。そしてそこで、彼は「違うことが面白い」というひとつの感覚を得た。そのことが彼を世界で通用する俳優にした。

違うことを面白いと思えるか思えないか、その違いは日本の若いサラリーマンにとって思いのほか大きい。「悪目立ち」なんてものは、ないんだよ。