2022年10月9日

ZOOMで画面ミュートされると不快なわけ

昨日、ZOOMなどを用いて打合せをする際に、その相手とは初めてであるにもかかわらず画面をミュートにして参加する連中がいると不快に感じると書いた。

自分がどうしてそう感じるのか考えていたのが、分かった。ベンサムが考案したパノプティコン(panopticon)を頭のどこかで連想していたのだ。一望監視施設、あるいは一望監視塔と訳されている刑務所施設のことだ。

その監視塔にいる看守は独房内のすべての受刑者の様子を見ることができるが、看守の姿は受刑者からは見えない仕組みになっている。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』のなかでこのパノプティコンを「『見る/見られる』という一対を分離してしまう機構」であると分析している。

画面ミュートの参加者がいるZOOM打合せの不快感は、まさにそこにある。こちらからは顔の見えない看守から「監視」されている、なんとも言えない気持ち悪さだ。そうした状況、ほかの人たちは平気なんだろうか?

ベンサムの構想図

2022年10月8日

ZOOMでマスクをする理由

つい先日、あるコンサル会社とZOOMで打合せをした。その際、僕は大学の研究室かあるいは相手企業に出向いて打合せをしたかったのだけど、リモートでお願いしますと言われた。

グループ全体で30万人以上の社員を抱えるその通信会社系企業は、下記のように今も全社員が在宅勤務を続けているらしい。


それはそれで構わないが、その際にいくつか違和感を感じたことがある。

まず相手がどういった立場の社員か分からない。通常、初対面の相手と打合せを始める際には、まず名刺交換からスタートする。そこに書いてある所属部署名や肩書きでおおよそのあたりをつける。

名刺交換をしないとそれができない。相手はおそらく、ネットで私のプロフィールなどを調べているのだろう。だが、こちらは相手について知らない。初回に、相手が社内で何をしている人か尋ねたら部署名と肩書きを教えてくれはしたが、名刺を手にしていないとどうもピンとこない。

相手は複数人いたのだが、こちらと主に話すのは一人。残りは基本的にだんまり。私はそういった参加者のことを「のぞき」と呼んでいる。

そしてディスプレイに映る相手の顔は、マスクで半分隠されている。在宅勤務でいながら、いまだにマスクを外すという考えがないみたいだ。

ただ言えるのは、こうしたやり取りが打合せとして効果的とはとても思えないということ。この企業グループは、このまま今のようなやり方でリモートワークを続けたらどうなるのだろうね。人ごとながら心配になる。

一般的な話としてだが、ZOOM利用などのリモート会議においてマスク顔での参加ならまだいい方で、初回の打合せにもかかわらず相手側は一人だけが画面に顔を出して、相手企業の残りは全員が画面ミュートなんてのもよくある。

ビジネスの基本は、信頼関係。それが分かっていない。それとも、そうした会社は人様に見せられないような、よっぽど不細工な顔の集団なんだろうか。

2022年10月4日

死んでみた

先週末、死んでみた。いやいや、実際は病院の検査室で麻酔を打たれただけのことである。

看護師が、腕の血管に生理食塩水の袋がつながった針を刺した。そのまま診察台へ行くよう言われ、針の刺さった腕を下にしベッドに横たわり、からだの力を抜く。その後、医師が注射針の管に麻酔薬を注入すると、いつの間にか眠っていた。 

意識が戻ると、(当たり前だが)検査は終了していた。その間の記憶はまったくない。普段、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しながら自分のベッドで眠っているのとはまったく違う経験である。夢など見ていないし、完全に意識が止まっていた。つまり、自己の存在が消えていた。

目が覚めて思ったのは、「死んでいる」のはこうした状態であるということ。痛みも苦しみも何もないし、怖い閻魔様が出てくる訳でもない。

なあんだ、死ぬって簡単、らくちんだって思ったね。だからこそ、人は生きているあいだは生きていればいいんだ。

2022年10月3日

自然との一体感

作家の小川糸さんが、「屈斜路湖の恍惚」と題した文章を書いていた。彼女は昨夏の終わりごろ屈斜路湖畔の宿に泊まり、そして湖を裸で泳いだという。それを目当てに出かけたわけではなく、たまたまそうした機会があったということ。

気持ちよかった。皮膚の中に埋まっているひとつひとつの細胞が弾け、歓喜の雄叫びを上げる。それは、半世紀近く生きてきた人生の中で、最大の開放感だった。

というくらいだから、その気持ちよさはよっぽどだったに違いない。そして、

私というひとりの人間が、地球に解き放たれたかのようで、自然と一体になるというのはこのことだったかと納得した。

ほとんど恍惚とした宗教観のようだ。彼女は翌朝、夜明け前に起き出してもう一度屈斜路湖に裸で入った。

自分の中にうずくまっていた野生が、じょじょに目覚めるのを実感した。

いい経験をされたと思う。湖に裸で入り泳ぐだけのこと、ただそれだけで自分の中の何かが変わるのを実感でき、周りの自然との一体感を身につけ、そして野生へと還っていけるなんて素敵だ。

信じてもらえないかも知れないが、子どもの頃は早起きだった。夏休みなんかは、とりわけ毎朝すごく早起きしていた。そして、ときおり朝靄の中、家の裏手にある山に分け入り、自由勝手に歩き回っていた。その山あいの谷間に、周囲の山からの湧き水を称えた池があった。

よくそこで裸で泳いだ。そのときの冷たい水の気持ちよさは忘れられない。快感と少しだけいけないことをしているんじゃないかという罪の意識のようなものがあった。

水はエメラルド色で、広々とした池の底は見えない。池の真ん中あたりまで泳ぎくると、下から何か得体の知れないものが現れて、足首を捕まれて池底へ引き込まれるような感覚に襲われた。

快感と開放感、自然との一体感、孤独感とちょっぴりスリルも。だから、小川さんの屈斜路湖ひとり全裸水泳の文章に僕も思わず引き込まれてしまった。

2022年10月2日

マージナル・マンとしてのA・猪木

元プロレスラーのアントニオ猪木さんが昨日亡くなった。子どもの頃、毎週金曜日と水曜日夜8時からのプロレス中継を見て育ったわれわれ世代にとっては、大きなショックだ。残念だ。1999年にジャイアント馬場さんがなくなり、寂しい思いをしていたのに追い打ちを掛けられたような気分だ。

彼は2020年、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされ闘病生活をしていることを自身で明らかにし、闘病するそのベッドからも最後の姿をYouTubeで発信し続けていた。 

今朝は、毎日新聞、東京新聞、日経新聞のそれぞれの一面コラムで猪木さんが亡くなったことが書かれていた。書き手が、たぶん僕と近い世代なんだな。

プロレスというのは面白い競技だと思う。例えばプロボクサーは勝たなければ名前が上がらない。プロテニス選手も、プロゴルファーも優勝しなければ次へつながらない。だが、プロレスラーは必ずしもそうではない。リング上で観客の笑いを取り、力や技では相手選手に適わないにもかかわらず、それ以上の人気をはくす選手がいた。

プロレスは格闘技スポーツだが、ショービジネスとしてのエンターテインメント性も不可欠だ。「これ一本きり」では済まない。プロレスという競技がそうだけでなく、猪木自体もレスラーであり、プロモーターであり、経営者であり、そして参議院議員だった。そんなマージナルな存在にずっと引かれていたのだと、いま僕は気がついた。

10年ほど前、ニューヨークで猪木さんと至近距離で遭遇したことがある。当時、僕はマンハッタンのアッパー・ウエストサイドに住んでいた。ある日、1階に着いたエレベータから降りようとしたら、目の前に彼がすっくと立っていた。スーツに赤いネクタイ。そして、トレードマークの赤いタオルを首にかけていた。ちょっと疲れた、そしていくぶん寂しげな表情だった。その時、彼に連れはいなかったと思う。そこにNY滞在用の部屋を持っていたんじゃないかな。

あんな元気で、尖っていて、発信力のある人はそうそう出てこない。カッコよかった。1976年にはボクシング世界ヘビー級チャンピオンのアリと闘うなど、チャレンジ精神の塊だった。

ひとつの時代が終わってしまった。またあの「元気ですかーっ!」の声が聞きたい。 

2022年10月1日

これは、羊をめぐる冒険だ

横浜で「LAMB/ラム」を観た。劇場は思った以上の混雑。週末ということと、月の初日で鑑賞料が安く設定されていたのもあったのかもしれない。

「ラム」は不思議な感触の作品だった。ホラーか、スリラーか、ミステリーか、おとぎ話かヒューマンドラマか。どれだっていいのだが、僕はビターなコメディーと受け取った。 

舞台はアイスランド。山間に住む夫婦のもとに不思議な生き物がやってくる。彼らが飼っている羊が産んだのだ。なんだそれは、と思うかもしれないが、そうしたストーリーなのだ。

妻の名前がマリア(イエス・キリストの母の名)なのは、なにか示唆しているのだろうか。 

登場人物は、人間3人(夫婦と夫の弟)と不思議な生き物だけ。限られた台詞。全体に青みを帯びてとらえられたアイスランドの風景。舞台は彼らが暮らす家とその周辺の農場が中心。背景にはアイスランドの山々が連なる。羊少年(少女)や羊男の造形がおもしろい。そのあたりのこだわりは、本作の監督が「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」などでの特殊効果をこれまで担当してきたコバルディミール・ヨハンソンならではだ。

いまだにこの映画のテーマが僕にはよく分からないのだけど、イソップの寓話と村上春樹の世界と手つかずの自然に覆われたアイスランドの風景をシェイクしたらこの映画ができた、といった印象。

アイスランドには古くからトロールといった怪物(妖精)と人間の合いの子が存在しているという伝説が残っているのも、この映画の舞台としてふさわしい。
https://tatsukimura.blogspot.com/2016/09/blog-post_4.html
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それと、僕が気になったのは白夜だ。アイスランドは北緯64度とかなり北極圏に近いので、夏のあいだはほとんど陽が沈まないはず。この映画では夜の時間や夫婦の寝室シーンが頻繁に描かれる。だが、いつだって明るく、ぼんやりしている。

日が暮れず、朝も昼も夜も明るい世界での物語は、なんだかずっと白昼夢を見ているような気分に。映画の最後の場面で流れてきたヘンデルのサラバンドが、うまく不思議な映画の余韻に溶け込んでいた。

2022年9月25日

非行少年たちを必要以上におとしめてはいないか

「ケーキを切り分けられない少年たち」ということばがキーワードとして流布されはじめたのは、いつの頃からだったろう。

今朝の新聞に『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮社) という本の書籍広告があった。下図は、その広告内に掲載されていたものだ。

これを見る限り、非行少年らに与えられた問いは「ケーキを三等分せよ」で、次の図か添えられていたはずだ。

あなたはこの丸を見せられ、「ケーキを三等分せよ」と問われて質問者の意図に応えるかたちで正確に回答できるだろうか。

僕は無理かも知れない。なぜならば、上の図は質問者が勝手に「これはケーキなんだぜ」と思っているだけで、僕にはケーキには見えないからだ。(実際、ケーキじゃない、単なる線画のマルだ)

被験者である少年たちは、ケーキという言語情報と与えられた線画が認知的に結びつかず、おそらく何について回答したらいいのか戸惑っただけではないか。 

もし与えられた図が以下のものだったらどうだろう。


そして問いが「三等分せよ」ではなく、意味が容易に分かるように「このケーキを3人に平等に分けるように切り分けよ」なら回答は変わったのではないかな。

その際、少年の回答はこうなったはずだ。


相手をミスリードさせるような 質問をあたえ、彼らの回答についてセンセーショナルに大変だ、大変だと世間をあおり立てているように思える。

そもそも表だって反論してくる可能性がほとんどゼロの「非行少年たち」を対象にして、彼らを侮辱しおとしめて本を売ろうとしているようにしか思えてならない。

非行少年少女たちのなかにこれまで適切な教育を受ける機会を持たなかったり、家庭や社会から受けるべきケアを欠いていた人たちがいて、それが認知機能上の問題の理由だと言いたいのだろうが、限定的な調査結果と訴えたい主張を短絡的に結びつけすぎてはいないか。

単純な質問票調査をやって、それだけで何か分かった気になるのは危険だ。

2022年9月24日

またしてもシステム障害

システム障害が起こり、全国のセブンイレブンの店頭でコンサートやスポーツ観戦のチケット発券ができないトラブルがまる一日以上発生した。

そもそも、最終的に紙で印字されるチケットを、なぜ客がコンビニ経由で面倒臭い手続きを経て入手しなければならないのか理解できない。

誰のどういう意図なのか。コンビニの運営会社が集客を目的にプロモーターやイベント会社に金を支払ってそうさせているのだろうか。そして、発券手数料とかシステム利用料とかの名目でそれを客に支払わせている。

前にも書いたが、特定の日にちの特定のイベントの特定のシートは1つしかない。シート番号はめったなことでは変わらない。だったら、予約完了と共にチケットを予約者へ直接郵送すればよい。

デジタルでできるからといって、無駄に客の手間を増やし、さらに追加的なコストを負わすようなことをこれからも続けるのだろうか。

2022年9月23日

日本企業はそろそろ気づかなければ

いくつかの学会で部分的に発表してきた内容を今回論文にまとめた。論文の主旨は、企業などにおけるNPS(Net Promoter Score)からPSJ(Promoter Score Japan)への切替え、あるいは両者の同時利用のススメだ。

僕がこの何年かの研究で明らかできたことは、日本企業(自治体やNPOなども)は合理性を欠いたNPSをこれ以上盲目的を使い続けるべきではないということ。客のためにも自分たちのためにもなっていない。

たんなる前例に倣い、見かけの権威に依り、思考停止のまま自分らを見直さない行動を日本企業はいつまで続けるのだろうか。

2022年9月20日

デルマー

ものを読むときに欠かせないのが、赤色のダーマトグラフだ。これで見出しに丸を付けたり線を引きながら読むのが習慣になっている。

別にサインペンでも何でもよいのだけど、記事を読むのに夢中になっているとインクが乾いてしまう。

ダーマトグラフは Dermatographと綴る。その名前と綴りからして、ステッドラーのようにドイツかどこかの国の文具と思っていたけど、調べて見ると日本の三菱鉛筆の登録商標だった。

これを他の用途で使うことはまずないのだが、それでも日々使っていると短くなってくる。で、新しいものをと思い、文具も扱っている近くの書店2軒に在庫があるかどうか聞いてみた。結果、両店とも扱っておらず、どちらの店員さんも「ダーマトグラフ」が何か知らなかった。

だけど「色鉛筆みたいなヤツで、芯が太くて柔らかくて、先の方からクルクル剥いて芯を出して使っていくんだけど・・・」などと説明すると「ああ、あれですね」と分かってくれる。商品自体は昔からあるからね。

80年代、広告代理店で働いていたとき、デザイナーの人が写真(ネガ)を選ぶときに使っていて、デルマーって呼んでいたのを憶えている。それとラジオCMの録音スタジオでは、ミキサーの人がオープンリール・テープ(懐かしい!)の編集位置をテープ上に記録するのに使っていた。

デルマーは筆記用具の1つ(紙巻き鉛筆)であるにもかかわらず、細かい文字を書くにはまったく向いていない。けれど、ガラスや金属、プラスチック、布など何にでも書け、どの向きでも使え、インキのように先が乾いて使えなくなることはなく、鉛筆削りやナイフを使う必要もなく使い続けられるスグレ物だ。

大手の書店でも扱ってないところをみると今ではあまり需要はないのかもしれないが、世の中からなくなって欲しくないもののひとつである。

2022年9月11日

十六夜の月

今日は十六夜。

雲がかかっている月も、それはそれで風情を感じる。月の左上(11時の方向)には木星が写っている。見えるかな?

2022年9月10日

中秋の名月

今日は満月。雲もなくよく晴れた空に月が煌々と輝いている。きれいだ。カメラを持ち出して撮影してみた。250mmだと、これが精一杯。空にカメラを向けるたび、もっと長いレンズが欲しくなる。


2022年9月9日

多住居生活を考えてみよう

日本の人口は、2010年以降一貫して減少している。1世帯当たりの人数が減ることで増え続けていた世帯数も、国立社会保障・人口問題研究所の推計で2023年に5420万世帯を記録したのち減少に転じる。

一方、日本の住宅総数は増えてづけている。2023年には、国内の住宅総数は6550万戸になる。つまり2023年には、国内で1100万戸の住宅が余っている計算になる。日本国中、空き屋だらけだ。

英国で生活していたときに驚いたのは、なんとヴィクトリア朝の頃に立てられた建物がいまもたくさん残っており、内部だけ近代的な設備に入れかえて当たり前のように利用されていることだ。石造りの建物だからできることなんだろう。

一方、日本の多くの家屋は構造が全く違う。日本の気候風土に合わせてということもあるのだろうが、概して耐久性に劣る。田舎にある良くできた古民家などは別として、戦後にこの国に建てられた家はスクラップ&ビルドを前提にして安く、早く、見かけだけそれなりを目的に開発され立てられてきたからだ。

そのツケが回ってきている。空き屋は放置すれば、あっという間に建物は荒れて傷む。誰も住まなくなった家屋をどうするかという対応策は大きく3つ。居住者を見つけるか、改築して店舗や事務所などに転用するか、さもなければ解体して一旦更地にするか。

ただ、店舗など商業用に転用できる空き屋はごく1部だろう。また解体して更地にももどすには費用がかかるだけでなく、地目が変わり固定資産税が増す。二の足を踏む土地所有者が多い。

そして今後増え続ける空き屋をどうするかは、相続する所有者だけでなく、地域社会や自治体にとっても頭の痛い問題になっている。

まずは自治体が安く借り上げて、借りたい人に貸し出してはどうだろう。もちろん立地や環境にもよるが、セカンドハウスとして多住居生活をしてみたいと考えている日本人は増えているようだし、今後日本が移民を本格的に受け入れるようになれば、そうした人たちに使ってもらえる。移民政策の本格的導入は絶対に必要になるはずだ。

一旦建物の基礎がダメになった住居を修繕するのは大変だ。急いで官民で対応に動く必要がある。

2022年9月7日

国葬もスポンサー協賛でやったらいい

政府が昨日公表したところによると、安倍元首相の国葬費用が当初の予算額の6.6倍になった。

世論や野党からのやいのやいのという批判を受けて金額が今回公表されたわけだが、これとて多くの国民は信用していない。政府主催のこれまでの種々の儀礼にかけられた費用から推測すると、今回はさらに何倍にもなるはずだ。

僕は安倍元首相の国葬には反対だ。岸田首相がどうしてもというなら、われわれの税金以外でやって欲しい。

国葬開催費用をまかなうためのスポンサー企業でも募ればいい。ワールドワイド国葬パートナー、国葬ゴールドパートナー、国葬オフィシャルパートナー、国葬オフィシャルサポーターの4レベルできめ細かく選定すればいいんじゃないのかね(下図参照)。

出所:大会組織委員会公式サイト

協賛したスポンサー企業へ向ける国民(消費者)からの注目度は、今回の東京オリンピックの比ではないはず。

そのスポンサー獲得活動の総責任者は、電通の専務だった高橋治之元組織委員会理事(受託収賄罪容疑者)に任せたらどうだ。


↑ゴールドパートナー以上には、こんな感じの記者会見もありだ。

とにかく、円安の問題、コロナの問題、景気の減速、国民生活の逼迫、エネルギー確保など政治が取り組まなければならない問題が山積するなかで、こうした個人に係る儀式をやるやらないかの議論に必要以上の時間を費やすのやめてくれ。

2022年9月5日

下手なウソ

先日このブログで「紙で読むか、デジタルで読むか」と書いたが、今日届いた郵送物の中にある証券会社からの「郵送通知廃止等のご案内」という文書があった。

そこには「〇〇証券では環境保護や紙資源節約等の観点から・・・に係る通知の郵送廃止を実施致します」と書いてある。

そして今後は、必要ならその証券会社のサイトにログインして取引履歴画面で確認するようにとのお達しだ。 

環境保護? 紙資源節約? だったら今回のA4用紙2枚の文書はなぜ両面印刷にしないのだろう。そうするだけで紙の量は1/2で済む。

環境保護などただの建前で、実は費用を削減したいだけという本音が見える。

2022年8月29日

紙で読むか、デジタルで読むか

教育の現場では、生徒1人に1台のデジタル端末が導入されつつあるらしい。そして教科書は、まずは英語を皮切りに紙のものからデジタル教科書に移行していくとか。

広島大学などの研究チームが、今回デジタルと紙でどちらが読解力が発揮できるかの調査を小学生を対象に行った。https://www.saga-s.co.jp/articles/-/908299

結果は学年によって異なったものがでた。調査の精度がどの程度のものか分からないのでなんとも言えないが、今回、小学生を対象に紙とデジタルの読解力の差を初めて調べたというのにはちょっと驚いた。

というのも、教科書をデジタルに移行していくことを文科省は決定しているにもかかわらず、こうした基本的な効果検証に係る調査すら行っていなかったから。

では紙の教科書をデジタル教科書へという方針の根拠は何だったのか? 教科書が重そうで子供たちがかわいそうだから? デジタル版だと印刷や製本コストがかからないから? 紙を使わないことで地球環境保全を推し進めるため? 

教科書というのはもっとも重要な教材なんだから、教育上の効果がどうなるかくらいの事前調査をしてから紙かデジタルかの議論をしなくちゃいけない。文科省らしく、ここでも理屈が抜けている。日本の子供たちの教育を真剣には考えてなんかいないんだろうな。

教科書は何度も何度も繰り返し読むもの(だったと思う)。何がどこに書いてあったかは、その書かれている(印刷されている)場所で覚えていたりする。しかもマーカーで線を引いたり書き込みをしたり。デジタルでもできるが、紙の方が簡単。

子供たちの教科書はまだ紙の教科書を基準にした方がいいと思っているのだが、自分が活字を読むとなるとデジタルも手放せなくなっている。

kindleは、旅先で読書をする際には欠かせないツールだ。本を何冊もバッグに入れて行くとそれなりに重いが、kindleなら何冊入っていようが重さに関係なし。それと、湯船に浸かりながら本を読むときはキンドルじゃないと。お風呂で紙の本を読むこともあるけど、その時は濡れないようにとか、指先が湯船につからないようにとか、気を遣うので疲れてしまう。

またiPadは画面拡大できるので、地図やガイドブックは紙のものより便利。もちろんデジタルだと検索できたり、辞書で言葉の意味をすぐに引けたりするメリットもある。

紙とデジタル、うまく使い分けていくしかない。

2022年8月27日

大道芸人と投げ銭

たまたま通りがかった大型商業施設内の屋外広場に、週末らしく子供連れの家族を中心に大勢の人が集まっている。人々が目を向ける先では、大道芸人がパフォーマンスを行っていた。


通りすがりがてら大道芸を目にしたときは、もう彼のステージングはほとんど終盤を迎えていた。大道芸人はパフォーマンスを終え、見物客から拍手を受けながらマイクの声をいちだんと張るように話し始めた。「皆さんのお気持ちを!」

今はまだコロナのせいで帽子を持って観客の人たちのところを回れない、だからもしショーが気に入ったのであれば、ここにおく帽子のところに持って来て欲しいと訴える。そして自分らは観客からいただけるそのお金で大道芸人として生活しているのだと。

話し方が深刻にならないように気を遣っているのが、声の調子から伝わってくる。こうした場面に遭遇すると、いつも胸が少し締め付けられるような気持ちになる。

彼はいくら集めることができるんだろうか、それは生計を立てるに十分な額だろうか、ここにいる人たちのどのくらいが投げ銭を出すのだろうか、と気になってしまうからだ。

見ていると(見ないでそのま去ればよかったのだけど)、週末で家族連れが多かったこともあるのだろう、子供にお金を持って行かせている親が結構いた一方、大人でお金を入れている人は数えるほど。

子供たちが親から手渡されたものは、だいたいは小銭のように見えた。みんな「赤い羽根募金」のような感覚が根強いようだ。でも大道芸人が期待するのはもちろん紙幣だ。

やがて、芸人がいくぶん哀切を感じさせるように、その場を立ち去ろうとしてる観客らにもう一度マイクで語りかけるも反応はあまりなかった。

以前ニューヨークに住んでいたとき、公園や広場、地下鉄のホームや地下通路などで演奏しているストリート・ミュージシャンは、いわば日常の光景の一部だった。

そこを通りかかるほとんどの人は足早に(ニューヨーカーはみな歩くのが速い)過ぎ去るが、チップを置いていく人は10ドルとか5ドル紙幣を楽器ケースに置いていく。僕も10ドル紙幣を自分のルールにした。なかには、こう言っては失礼かも知れないが、路上生活者とおぼしき連中までがしっかり紙幣をポケットから取り出し置いていく。

ひょっとしたら、人から施しを受けている路上生活者らしき人たちは「仲間」を放っておけないという意識が働いているのかも知れない。実際のところは、確かめたことがないので分からない。

一方で、立派なブリーフケースを下げ、仕立てのいいスーツを着たエリートビジネスマンらしき人は、まるでそうした路上ミュージシャンなどいないかのように完全に無視して通り過ぎる人が大半だったように思う。

日本との違いとしてチップの習慣があげられる。何かをしてもらったとき、相手の「サービス」に対して満足した気持をあらわすためにお金を払う。日本のようにサービスは決して「タダ」の別名ではない。

サービスに対する考え方、チップの習慣、そういったものが米国などとは異なる日本で、大道芸人が投げ銭(おひねり)で生きていくのはほんとうに大変なことだと思う。

もちろん小銭の投げ銭でもないよりはマシなんだろうが、今どきは集めた小銭を自分の預金口座に入れようとすると金融機関から手数料を取られるしね。コロナで芸を披露する場自体が激減しているはずだし、大道芸人にとって受難の時代だ。昔からずっとだ、と言われそうだが。

2022年8月25日

努くんと水木サン

俳優の山崎努さんが、いま新聞で自分の来し方を振り返って語っている連載が面白い。

そこで彼は自分を指し示すとき、ときおり「努くん」と呼ぶ。昔、「山口さんちのツトム君」という、みなみらんぼうが作詞作曲した歌が流行ったが、それが彼のアタマにあるのかもしれない。

たとえば「近年、努くんも物忘れがひどくなり、暮らしに必要な書類等はすべて壁にピンナップしている」(8月25日)というふうだ。

文章の中に出てくる「努くん」という言い方には、主観と客観が微妙なバランスで合わさっている。心の声として、俺もそうだけどそれって俺だけじゃなくて、俺と同じくらいの年代はみんなそうだろ・・・とでも言っているような。

自分のことをそのように呼ぶ人は他にもいて、漫画家の水木しげるさんは自分のことを「水木サン」と呼ぶ。私でも、俺でも、僕でも、自分でもない。

自分の事を水木サンと呼ぶことで、そこに本人の自我や主観を残しつつもその水木さんが考えた事を別の自分が客観的に観察している、といった印象が伝わってくる。そもそも、水木さんの本名は水木ではない。ペンネームだ。

ペンネームを使うことで、いっそう彼は自身から距離を取ることができたのかも。だから第三者的な視点で、自分が置かれていた想像を絶するような状況(たとえばそれは彼が従軍をしたニューギニア戦線・ラバウルでの体験)を映画の1シーンを見ているかのように表現している。

2022年8月23日

25年間、足踏みを続けている

先週末、書棚を片付けていた際に見つけた一冊が『2020年からの警鐘 〜日本が消える〜』(日本経済新聞社)という古い本である。

処分する本を選んでいたのだが、つい手に取ってしまい、そうすると読みたくなるもので(いつものことなのだが)読み始めてしまった。同書の内容は、日経で連載していた特集記事がもとになっている。時期は1997年。橋本龍太郎が首相の頃だ。

眼を通して驚いた。そこに何か目新しいこと書かれていたからではない。内容のほとんどは既知のことばかり。驚いたのは、25年前にそこで問題として書かれたことが、見事にそのまま今も解決されないで残っていることである。

人口減少、経済成長率の低下、自然環境の悪化、エネルギー価格の上昇、労働力の不足、財政建て直しのために増す国民負担、日本社会の閉塞性、個人の格差ならびに地域格差の拡大、既得権益が妨げる日本の改革、リーダーの不在、調整型の政治のほころび、などなどである。

四半世紀前に、あらかたの診断はついていた。やるべきことは、具体的な解決策を策定して、責任者をはっきりさせ、期限を区切って実行することだった。そうすれば、間違いなく現在の日本の姿は今の実際のそれとは異なった(もっとマシな)ものになっていたはず。

問題が分かっていたのに、なぜ対応できなかったのか。改革しなければならない点が明らかだったのに、どうしてそのままで来てしまったのか。

クレイジーキャッツの植木等が「♪ 分かっちゃいるけど、やめられない ♪」とスーダラ節(青島幸男作詞)を歌い大ヒットしたのが1961年。今から60年前。

もうその頃から、あるいはそれ以前からずっと、日本人は分かっちゃいるけどやめられないままだったのがよく分かった。

いまこの国で皆してやっているのは、ゆで蛙の我慢くらべだ。

2022年8月20日

自動運転ではダメなわけ

ブライアン・ウィルソン、80歳。ビーチ・ボーイズの創設メンバーで「グッド・バイブレーションズ」「サーフィン U.S.A」「神のみぞ知る」など、そのほとんどのヒット曲を書いている。

映画「ブライアン・ウィルソン(原題 Brain Wilson: Long Promised Road)」は、その彼に密着したドキュメンタリー映画。雑誌「ローリング・ストーン」の元編集者のJ・ファインがインタビュアーとなり、2人はファインが運転するクルマでかつての録音スタジオやアルバムジャケットの写真撮影場所、その他ウィルソンのゆかりの場所を巡りながら会話を交わす。


誰もが聞いたことのあるビーチ・ボーイズのサウンドがどうやって生まれたのか、サーフィンをしたこともないウィルソンがなぜサーフィンをテーマにした曲を書いたのか、などファンならずとも興味を引く話が本人の口からでてくる。

若き天才ウィルソンがアルバム「サーフィン・サファリ」を出したのは、弱冠20歳のとき。ただ、その反面で彼は精神を病み、やがてドラッグに身を浸していく。長い苦闘の時間ののちに復活して音楽活動を再開。今も仲間たちとバンドで活動している。

インタビューのほとんどは、クルマの中でのやりとりだ。いいシチュエーションを考えたなと感心した。クルマのなかという2人だけの閉ざされた空間。2人は対面するのではなく、目の前に現れる光景を並んで眺めながら話をする。

寡黙なブライアンも車窓に流れる西海岸の方々の風景と、カーステレオから流れる自分たちの音楽を次々に聞きながら昔を思い浮かべ、ときに饒舌に、ときに思いに浸りつつ自分たちの音楽づくりについて、バンドの仲間について、亡くなった弟について語る。

最近だと「プアン」でも主人公2人がクルマでタイの方々を巡りながら車内で語り合うシーンが多用されていた。これらの状況、AIによる自動運転なんかじゃ生まれない空間である。