今朝、お隣のドアに張り紙を見つけた。小学1年生のケイタ君が書いたものだ。
家族でお盆で帰省するのだろうか。その間、朝顔の水やりを代わりにお願いしますというメッセージだ。彼がベランダで育てていたはずの鉢が2つ、水がいっぱいに入ったじょうろと一緒に玄関前の廊下におかれていた。
お安い御用だ。たくさん花が咲くといいね。
今朝、お隣のドアに張り紙を見つけた。小学1年生のケイタ君が書いたものだ。
家族でお盆で帰省するのだろうか。その間、朝顔の水やりを代わりにお願いしますというメッセージだ。彼がベランダで育てていたはずの鉢が2つ、水がいっぱいに入ったじょうろと一緒に玄関前の廊下におかれていた。
お安い御用だ。たくさん花が咲くといいね。
「国の借金」が6月末時点で1,255兆億円を越えた。国債や借入金、政府短期証券の残高は、日本の全人口で割って1人1,000万円では収まらなくなっている。
つまり今の赤ちゃんらは、自分が生まれた時からそうした借金を背負わされているということで、それは「財政的幼児(児童)虐待」と呼ばれる。尋常でない名称だが、そのくらい深刻な状況だということだ。
コロナ対策や東日本大震災への援助、復興のための予算が必要で国債を大量に発行してるのは理解できる。しかし政府は、その後なんでもかんでも国債を発行し、それを中央銀行に引き受けさせれば済むと考えているようにしか見えない。
調子よく引用するMMT(現代貨幣理論)を言い訳にして、国債を打出の小槌と考えている。下図は2001年と2021年の債務残高(GDP比率)を日本と他国で比較したものだ。国名の右の%は、この20年間でどのくらい経済成長したかの数値である。
日本は20年前(東日本大震災もコロナもまだ発生していない)、既に国の借金はGDP比150%と先進国でダントツだったわけだが、それが今では250%を越える。
それだけの借金をしながら、経済成長率は20年たってもわずか12%にとどまっている。経済政策の面だけから云えば、日本は発展性のないことに延々と金を借金して注ぎ、そしてその考えを改める姿勢もない。財務省によると、本年末に国の借金は1,411兆4,000億円まで増える。1人当たり1,130万円強だ。
虐待の度合は、ますます強化され続ける。「こんな国にどうして生まれてしまったのか」と子供たちが将来恨み言を吐くようにならなければよいと願う。
第2次岸田改造内閣が昨日発足した。今朝の新聞の第1面に20人の顔写真が並んでいた。どの省の大臣に誰が任命されたかなど、正直言うともう関心はない。
ただ、朝食をとりながら新聞を眺める習慣があるので、それらの写真が目に入ってくるとメシがまずくなるので困る。後ろの方の紙面に掲載を移してもらえないものだろうか。
ところで、前の内閣(第2次岸田内閣)は昨年11月10日から昨日までの9ヵ月だった。今度の内閣で何をやるか掲げる前に、まずは昨日までの内閣でそれぞれの大臣が何をどう成し遂げたのかを示す「成績簿」を公表してもらえないか。
われわれ国民は誰が大臣になるかではなく、その人物が何をやり遂げてくれるかに期待しているのだから。
ちなみに、第1次岸田内閣は昨年10月4日から同11月10日の38日間だった。日本の憲政史上もっとも短い内閣だった。38日間でも大臣だった政治家は、元大臣となる。
だが、実際はそうした期間で大臣としての自分なりの政策を考え実行することなど不可能。自分が担当する分野に関して正確な状況を理解するだけでも、それなりの時間はかかるはずだ。
大臣に誰がなったかなど(もちろん顔写真も)、実質どうでもいい。
20代、30代が中心を占める社会人大学院生が自分らをどう見ているか、あるクラスで学生らへのアンケート項目に「あなたを示す言葉として、以下のどれが最もフィットしていると思いますか? 1つだけ選択してください」という設問を入れてみた。
結果、62人中58名の回答(回答率94%)で一番多かったのが「ビジネスパーソン」の27.6%。続いて「会社員」25.9%、「ビジネスマン」20.7%、「サラリーマン」8.6%、「ビジネスウーマン」6.9%の順だった。
自分のことを「ビジネスなんたら」と答えた人の割合は、都合55.2%で半数を超えている。これって一般社会といささか、いや、かなり違っているんじゃないかという印象を受けた。
そこで、組織で働く人を示す「会社員」「サラリーマンまたはOL」「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」「ビジネスパーソン」がメディアでどのように使われているか、ためしに朝日新聞のデータベースを用いて2000年から2021年までの年度ごとの掲載頻度の割合を調べた。
ただこれでは先の学生らが自分はそうだといった「ビジネスパーソン」の姿がまったく見えないので、「会社員」を除いて図にしてみたらこうなった。
「サラリーマンまたはOL」(グレー)が8割以上を占める。続いて「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」(オレンジ)。ここ数年になってやっと「ビジネスパーソン」(青)がちょこっと現れてきた。日本語でも看護婦を看護師に、保母さんを保育士さんにというように性差を示さない用語に呼び変える流れのなかで、ビジネスマンがビジネスパーソンと呼ばれるようになってきたのだろう。
そもそもビジネスマンって何か。オックスフォード英語辞典によれば、businessman (businesswoman, business person) とは、a man(woman, person) who works in business, especially at a high levelとある。またケンブリッジ英語辞典では、some one who works in business, usually having an important job と示されている。
本来の意味は、「実業(ビジネス)に携わる人で、特に経営者層」である。
実態とイメージの乖離だ。
新型コロナの感染が始まって以来受診していなかった市のガン検診を受診することにした。
市のサイトで、対象となる医療機関を調べ予約の電話をしたところ、検査日の予約をするためにまず来院して欲しいと言われた。窓口で問診票に記入してから実際の検査日の予約ができるとか。
事務的な手続きなのでネット上で済ませられるはずだと思いながらも、仕方ないので病院まで出向いた。今回、検診を受けることにしたガンは4種。そしたら病院の窓口で問診票が挟まれたクリップボードを4つ渡された。
それぞれ胃や肺などの検査用の問診票なのだが、それら4つすべて最初に名前、住所、連絡先、生年月日、年齢、性別を記入する欄がある。で、これまでの病歴や現在治療を受けている病気などの記入欄が続く。
なぜ名前や住所などの記入が1つで済まないのか看護師に訊ねると、「それぞれ担当機関がちがうんです」と。
解決法はそれほど難しくはないと思う。受診者は数年に1回しか利用しないからそのままになっているんだろうけど、なんとかした方がいい。
旧統一教会との関係を指摘された政治家らが記者会見などで示す、誠実さの欠片もない受け答えにゲンナリとさせられる。聞いていると蒸し暑さが増してくる。自民党を中心とする数々の国会議員、なかには現役の防衛大臣や環境大臣、さらには国家公安委員長までいる。
政治家としての身分を守るための言い逃れに、平気で国民のまえでウソをつける人たちである。安倍元首相以来、この国ではウソをつくことが一層軽くなった。
そうした政治家の胡散臭さ満載の姿を小さな時から見て育った日本の若者たちが、今の政治も政治家も信用せず、やがて選挙権者になっても投票所に行かない理由がわかるような気がする。
ウソと言えば、電通の元常務で五輪組織委員会の理事だった人物が受託収賄罪で捜査をうけているが、それでつい昨年だったにもかかわらずすっかり記憶から消えかかっていた東京オリンピックをにわかに思い出した。
オリンピック実施に当たって、当時の菅首相は何と言ったか。開催の大義として、こともあろうか「人類が新型コロナを克服した証として」と表明した。明らかにウソ八百だった。
コロナ克服どころか、WTOによれば今の日本はこの2週間続けて新型コロナの感染者数が世界最多を記録している。
ところで岸田首相は、来週の内閣改造に合わせて党名を自由民主党から自由統一党へ変更すると決めたらしい。 ウソ
寝屋川市の女性市議が、コロナ禍で収益が減った福祉・医療関係施設向けの公的融資を利用し、仲介を装って施設側に融資を受けさせ手数料を詐取したとして逮捕された。
その詐欺の経緯などは報道されているとおりだが、僕が気になったのは「美し過ぎる市議」というメディアでの表現。
美しいかどうかは個人の主観だけど、あの程度で「美しすぎる」と言われたのでは全国の他の女性市議に失礼じゃないのかね。
そもそもこうした報道の根底には、議員になろうなんて女性が美人であるはずがない、という記者たちのお粗末な偏見がある。
メディアに携わる人たちは、そうした紋切り型の魯鈍な表現をいい加減にあらためるべきだ。
2002年、政府の閣議決定をもとに国土交通省がグローバル観光戦略を立ち上げた。そして「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の名の下で、海外から観光客を呼び込む活動が国を挙げて開始されたのが2003年だった。
かつて世界を席巻した半導体産業など日本の製造業はすでに見る影もなく、政府は外貨を稼ぐ最後の砦として観光産業に目を付けたわけだ。
しかしその後、訪日客数は10年間さほど伸びず、2012年頃まで日本を訪れる外国人観光客は多くてせいぜい年間800万人(フランスの10分の1)ほどだった。その後、とうとう外務省が中国人へのビザ発給要件を徐々に緩めるのにしたがって、その数は急上昇。つまり、増えた訪日客のおおかたは中国人観光客だった。
銀座の中央通りに中国人観光客を乗せた観光バスが何台も停車し、大勢の客が銀座の街に一挙に買い物に繰り出していた風景がいまでは懐かしいほどだ。
そして2019年に訪日客は3200万人弱を記録したが、2020年初頭からの新型コロナウイルス感染拡大で2020年は410万人、2021年は25万人にまで激減した。
JNTOのデータを元に作成 |
夢よもう一度ではないが、コロナが定常化したあかつきには、また「インバウンド」と呼ばれた外国からの観光客誘致策を検討していることだろう。
だが、それはかなり難しい。今のような感じで円安が進んでも難しいと僕は見ている。その理由のひとつは、場所によっては40度を越え、熱帯ともいえる日本の夏の暑さだ。
中国などアジア諸国からの観光客は知らないが、欧米人が夏のバカンスシーズンを利用してこの殺人的暑さの国にはるばる観光に来るとは考えられない。
実際、ヨーロッパでは人びとの旅行行動に顕著な変化が現れている。日本の猛暑のことを言ったが、暑いのは日本だけではない。英国で歴史上初めて40度を超える気温を記録したなど、各地がヒートウェイブに襲われている。
そのため人びとは、暑いローマではなく、比較的涼しいストックホルムやコペンハーゲンを選ぶ。暑さで避けられるようになったのは、なにもイタリアだけではない。スペイン、ポルトガル、ギリシア、フランスといった著名な観光地が軒並み敬遠される傾向がでている。
だが、「暑さ」ゆえに観光の目的地から外されるようになったローマの最高気温は華氏100度、つまり摂氏38度弱。確かに涼しくはないが、日本よりマシ。夏のバケーション・シーズンに、高温多湿の日本に観光にくる欧米人はいない。
春や秋といった過ごしやすい季節はあるが、それらの時期に訪れるのは中国や韓国といった近隣諸国からの短期の観光客だけ。
一般の日本人は、円安で海外旅行に出かけづらくなる一方、海外から観光旅行客を呼び込むのもこれまでのようには行かなくなるのがこれからの日本だ。
日本では第7次の感染拡大が止まらない。医療現場は逼迫し、治療を受けようとしても対応がままならなくなっている。高齢陽性者の介護の現場もこれまでになく疲弊している。
ところでこのおっさん、2020年3月に新型コロナの感染について、新聞のインタビューでこんなことを語っている。
「SARSは2002年11月に確認され、ピークは03年3~4月で同7月に終息宣言が出た。その例を考えると、今回は19年12月に始まったことから、20年4~5月がピークで、8月まで続くと推測する」
2年前の3月6日の記事
何言っているんだろう。「その例を考えると」って、類推の仕方が根本的に間違っている。いまも勝手な思い込みをもとに医療行政をミスリードしているんだろうか。
参照:https://tatsukimura.blogspot.com/2020/03/blog-post_5.html
IMDが調査、発表している各国のデジタル競争力ランキングで、日本は64ヵ国中の28位。3年で6つ下がった。
原因はどこにあるのか?
大企業の役員や管理職を対象にした調査では、7割以上がデジタル化とDXの違いを「説明できない」と回答したとあった。
これって、すごく象徴的だ。
DXが「デジタル・トランスフォーメーション」の略だということくらいは、先の調査対象者は知っているはず。なのに、なぜデジタル化との違いすら自分で説明できなかったのか。
それは、自分の言葉になっていないものを人は理解しないし、できないからだ。デジタル化とDXの違いを「説明できない」と答えた被験者に、トランスフォーメーションって何?って聞いてみると分かる。彼らはまた、う〜ん、と唸るだけだ。
言葉が分かっていないのだ。だから、本来の意味が分かるはずもない。意味が分からなければ、説明できるはずがない。
じゃあ、どうするか。僕からの提案はすこぶる簡単。<横文字を使うのを止めてみる>に尽きる。DXだ、トランスフォーメーションだ、なんて聞かされた段階で、ほとんどの人は本人が意識しないうちに思考停止になっている。
だからこそ、苦労してでも日本語で言い換え、表現する。そこでやっと彼らはそれが何なのか理解できる。少しずつだろうが、問題や課題を自分のものにしていける。
よく聞く「DXが掛け声倒れになっている」という批判は、批判になっていない。実態は掛け声にすらなっていない、そして何も届いていないのが現実だからである。
訳も分かっていない役人や経営者や半端者のコンサルがDXだGXだ、SDGsだESGだなどと口先で吹聴している風潮を笑い飛ばすことから始めるしかないんじゃないかと思っている。
そのほかにも、パーパスだ、ウェルビーングだ、リスキリングだなど、薄っぺらい横文字をありがたがって振り回していても何も始まらない。
都内に出るとき、たいていは新幹線を利用する。東京駅まで18分ほど。ゆったり新聞を広げて読むことができる。車中で飲食もできる。
だから、これまでどのバッグにも新幹線のポケットサイズ時刻表を入れてあった。だが、コロナ以来、JR東海はその時刻表の作成と配布を止めてしまった。
新型コロナ感染拡大は始まった頃は、国中で不要不急の外出を止めようという機運があったから新幹線のダイヤも間引きされ、通常の運行ができなくなったためそれも仕方なかった。
でも今は通常の運行に戻っているにもかかわらず、その時刻表の製作はしないらしい。同じJRでもJR西日本は作っているんだけどね。
JR東海は、それを一旦なくして以来、客はなくてもそれに慣れていると思っているようだ。そして、費用の節約にもなるなあ、と感じたのだろう。
だが、このB7版よりさらに小さいポケットサイズの時刻表は、新幹線を走らせる鉄道会社にとって顧客との最大のタッチポイントとなるメディアであることを、どうもJR東海は知らないらしい。
魂になぜ鬼がいるのか、いまも考え続けていて答えが分からない。そしたら、本で目についた栖(すみか、ねぐら)はどうして西なのか不思議に思いはじめた。
『字統』では、栖は形声文字で「西は、鳥、巣上に在るなり」という記述がある。また「栖・棲は声義ともに同じ字であるが、栖の字を用いることも多く、またねぐらの意にはこの字が適している」とある。
だがよく分からない。 どうして西なんだろう。ねぐらは日が昇る東じゃなくて、古来日が沈む西に作られていたってことなんだろうか。
どうでもいいことなんだけど、昨日、布団の中で寝る前に本を読んでいるとき、「魂」という字に目が行って、とくに旁(つくり)の部分の鬼が気になってその後なかなか寝付かれなかった。
今朝起きた後すぐ、白川静さんの『字統』で調べてみた。
魂は会意文字、つまり二字以上の漢字を組み合わせて作られた漢字で、「云(うん)と鬼に従う」とあるがよく分からなかった。云は運気につながるらしい。そして魂の説明として「人の魂は運気となって浮遊すると考えられていた」と述べられているが、なんで「鬼」なのか分からなかった。
別の事典が必要みたいだ。
先週、本年度上半期(第167回)の芥川賞および直木賞が決定した。芥川賞は高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』(群像1月号)だ。
34歳の勤め人(事務職)である高瀬さんの受賞会見を見た。とても落ち着いていて、きちんとした方だ。小説執筆の原動力は「むかつき」だという。もちろん、単にむかついた感情の発露として小説を書いているのではなく、こうした言い方をしている。
むかつきからスタートしているが、「これってむかつくよね」という愚痴だけで終わりたくない。このむかつきにはこんな理由もある、こんな考え方の人もいる、と受け取ってもらえたら。とても分かりやすくて納得感がある。正直な意見だと思う。
最近の風潮として、ムカつきや怒りの気持を表に出すことは、とりわけ若い連中にとっては恥ずかしいことだったり、みっともないことになっているように感じていた。
それを受けて、どうやって怒らない気持ちを持つかについてコツを語った本なんかがベストセラーになっていた。
でもそれって、つまんない我慢を自分に強いているようで違和感があった。
だから、むかつくことからスタートして小説を書いている高瀬さんには大きな拍手を送りたいと思っている。
そういえば、前回(第167回)芥川賞を『ブラックボックス』で受賞した砂川文次さんは、受賞会見でこんなスピーチをした。
海の向こうで戦争が起こっていて! くそみたいな政治家がたくさんいて! そういうものに怒りを感じながら書いていたような気もしますし、そうじゃない気もします。よく聞かれるんですけど、怒ってない気持ちがないわけないじゃないっすかあ! っという気持ちです。
そのほかにも、壇上で国際情勢や政治への怒りを絶叫した。
とみにわれわれの日常から真っ当な怒りやムカつきが(少なくとも表面では)消し去られているなか、表現者が正当な怒りをこうしたストレートな形で口にするのを見てほっとする。
この写真は、ロンドンのトラフィルガー広場でのスナップだ。
この夏、英国では歴史上経験したことのない40度という気温を記録した。
英国の普通の家には冷房器具、つまりエアコンがない。夏と言ってもそれほど暑くなんかならないからだ。少なくとも、僕が以前英国で暮らしていたころはそうだった。
パブで飲むビールも、年中生ぬるい。日本のようなキンキンに冷えた生ビールなど出さない。それも、マイルドな暑さの英国の天候が理由だ。
だが、今年は違う。
英国の友人に「大丈夫か?」と連絡したら、「生きている」と返ってきた。
異常気象が世界中で続く。
上のタイトルは、今朝のある新聞記事の見出しだ。
昨日、政府は萩生田経産相をGX担当大臣に兼任で任命すると発表した。<カーボンニュートラル>を実現するために「総合的な対策を推進すべく、行政各部の所管する事務の調整を担当する」という。
GXのGは、グリーンらしい。つまり政府が意図するGXは「グリーン・トランスフォーメーション」だとか。
岸田首相は、「GXの実行は、新しい資本主義実現のための最重要の柱の1つ」と関係閣僚らが集まる「GX実行会議」でぶち上げた。そんなに重要なものなら、国民の前でしっかりと説明してほしい。
また、先の新聞記事によると、記者が経産省にGXの意味を問うた際の担当者の答えはというと、「一言で表すのは難しい」だった。首相が最重要項目の1つと言っているの一方で、所管官庁の担当者が定義すら分かってない。
またこれだよ。やれDXだとかGXだとか、口先だけで意味を説明することすらできない用語を振り回して、「やってる感」だけを見せて空回りしてる。つまりは、ただの目くらましだ。国民を心底バカにしてる。
そもそも環境保護に関することなら、本来は経産省ではなくて環境省が考えて推進することなんじゃないのか。そこに岸田政権の本音(原発の再開と推進)がはっきり浮かんでいる。
3年ほど前に学生たちとゼミ合宿で中国の深圳を訪れた折、現地のBYD(EVの大手企業)のショールームを見る機会があり、その時まず思ったのは製品(EVカー)のバリエーションの多さだった。今思えば、そこに彼らの並々ならぬ本気度が現れていたのだと気づく。
日本の公共交通機関でエコカーの導入が急速化しているが、その中核を占めているのがその中国BYD製のEVバスである。
日本は、経済産業省が先導してEVバスではなく水素バスの開発に舵を切ってきた。バス製造メーカー各社は開発を急いでいるようだが、実現できていない。結果、戦略が完全に裏目に出た。
経産省が2017年に説明した水素基本戦略では、2020年までに100台、30年までに1200台程度の導入とある。水素は燃料充填の時間が短くて済み、航続距離が長い点が優位だと説明されていた。
しかし、水素は調達コストが高く、燃料供給のインフラ整備にも時間を要するなど、EVの充電設備設置の方が現時点ではコスト面でも時間の面でも優れている。
結果、水素バスは思わく倒れとなり、世界中で中国メーカー製のEVバスが席巻している現状になった。わが国においてもそうだ。
技術力の差というより、発想力(長期的な戦略思考)の差の表れの典型例だ。
駅前に野暮用があって出かけ、それらを片付けたあと、あるチェーンの定食屋に寄った。
隣のテーブルで学生らしき娘がスマホを塩と胡椒の容器に立てかけて、イヤホンを耳にYouTubeの映像を見ながらメシを食っている。
目の前のテーブルのOLらしき女性は、ヴィトンのバッグをテーブルのうえにドンと置き、それを鎮座させたままテーブルに両肘をついて背中を丸めた格好で生姜焼き定食を食らっている。小さい時、親から食事の仕方を教わらなかったのか。
それはそうと、店員が午後7時半で店を閉めると言ってきた。ずいぶんと早い。
さっきから店内を見ていると、結構広い店のフロアで注文を取ったり、配膳、下げ膳、テーブルの片付けしているのは男女の二人しかいないのに気づいていた。まったく人手が足りないのだ。
迷惑にならないよう、店員が近くに来たおりに、なぜそんなに早い閉店なのか聞いてみた。「(働く)人がいないんです」と言う。やはりそうか。
「私もたまたま友人から紹介されてここでバイトしているんですけど、人が入ってこないんです」「隣のマクドナルドに取られて・・・」
その店の隣には24時間営業のマックがあって、いつもけっこう賑わっている。だからか、時給はそちらの方がいくぶん高い。
マーク・ライデル監督の映画が観たくなり、『黄昏』を観る。描かれるのは、湖畔の山荘での家族の夏の日々。主な登場人物は、6人のみ。まるで舞台劇のようだと思ったら、やっぱりもとはブロードウェイでかかっていた芝居だった。
映画版が素晴らしかったのは、湖やそれをとりまく自然の美しさだ。原題の On Golden Pondを映し出したのも、映画ならでは。しっとりとしたデイブ・グルーシンの音楽もストーリーと映像によくマッチしていた。
この作品では、主役のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンの2人がそろってアカデミー主演男優賞、女優賞を受けた。キャサリン・ヘプバーンは4度目、ヘンリー・フォンダは76歳での初めての受賞だった。
で、ヘンリー・フォンダの『怒りの葡萄』を続けて観ることに。原作はスタインベックの小説で、ピューリッツァー賞を受賞し、のちにノーベル文学賞を彼が受賞する理由になった作品。
オクラホマからカリフォルニアに仕事を求めて移動する貧農の一家。いまからまだ80年足らず前のアメリカでの、土地を持たない農家がおかれた厳しい状況とそれに抗う逞しい人たちの姿は、今のアメリカからは想像できないほど。
ただ、搾取する側と搾取される側がはっきりと線引きされた社会の構図は、いまも何ら変わってはいない。