2022年6月25日

小田嶋隆さんがなくなった

コラムニストの小田嶋隆さんがなくなった。65歳。面識はないが、同じ時期に大学の同じキャンパスにいたはずである。

訃報で「反骨のコラムニスト」「反権力のコラムニスト」と彼が呼ばれているのは、日本ではそうしたはっきりものを言う文筆家があまりに少ないから。

彼のことを詳しく知っているわけでも思想的な背景を理解してるわけでもないが、書かれたものを読む限り、彼は反骨ではあっても反権力を標榜したわけではないように思う。彼は、右も左も関係なく、ただ理屈に合わない考えやそれにもとづく言説を黙って認めることができなかったリベラリストであっただけ。

そうした彼に「反権力のコラムニスト」というレッテルを貼ったのは、恵まれた組織(大企業)内にいるがため直言したいが彼のようにはなれない、へたれメディア人たちである。

2022年6月22日

2年半ぶりの国際学会出張

コロナ前の2020年1月、ハンガリーのブタペストにいた。学会発表のためだった。

現地では学会後にサーカスを観に行った会場で、現地駐在の日本人夫婦の方と偶然に知り合い、その後食事を一緒したり、帰国後もメールのやり取りをしたりで、思いがけず記憶に強く残る旅になった。

それは一例だが、日本を出て海外に行くと、たいていは新たな出会いや発見がある。それもあって海外の学会に出かけることを続けていた。

だが、中国武漢発のコロナウイルスが一気に拡がり、海外への渡航は一切禁じられた。その後のことはここに書くまでもない。人の移動が制約され、ネット上で展開するヴァーチャルなコミュニケーションにいつの間にかわれわれは違和感を感じることがなくなった。

それから2年半が過ぎて、やっとまあまあ普通に海外に出かけられるようになった。最初は欧州の学会へ出かけようと思ったが、ここはまずはリハビリを兼ねて距離の近いアジアの国にしようと思った。

そこで今回のマレーシアである。マレーシアを訪ねるのは初めてだし、英国留学中に一緒だった友人がいることも背中を押した。

日本からの出国と現地への入国。そして、現地出国と日本への再入国。一番大変だった、というか翻弄されたのは現地からの出国の際の手続きだ。 

今回のフライトはJAL。現地への直通フライトを飛ばしているからだ。ただ、現地空港での乗客の搭乗手続きなどグラウンド作業は、提携先のマレーシア航空が受け持っていて、それが今回大きな問題のもととなった。

これはあくまでも個人的な評価だが、マレーシア航空のスタッフはとても真面目なのだが柔軟性に欠け応用力がなかった。しかも、以前の古い日本政府の感染防止策とその規制手段をいまも適用しようとするので、当然のようにこちらとは押し問答になる。

MySOSとかいう日本政府のアプリをスマートフォンにインストールしていないという理由で搭乗手続きを拒否された。ワクチン接種証明書も、さっき済ませたばかりのPCR検査の証明書があってもである。

そもそもMySOSというのは、もし機内で感染者が出た場合に、日本政府の検疫所がその飛行機に乗っていた他の乗客に連絡を取ることを目的としたもの。住所や名前、連絡先をデータをしていれるだけのアプリのようだ。感染拡大やその防止と関係ない。紙の用紙に渡航で利用した航空便と座っていた座席番号、日本での連絡先を記入して提出すれば済む。実際、最終的には僕はアプリをインストールするなどせず、成田空港で1枚の紙を記入しただけで済んだ。

こうしたことが、その目的を一切知らされず、また彼女らも考えることをしないので、ただただ教条的に以前言われたとおり、そのアプリがないと搭乗手続きを行わないと言い張るだけ。

結局、カウンター周辺にいた、つい10日ほど前に日本からやって来たという日本航空社員が取りなしてくれて搭乗手続きができて機内に入ることができた。彼がいなければ、僕はその便には乗機できなかった。

コロコロ変わる日本の厚労省の政策と未徹底な通達。意味を理解しようとせず、機械的にしか仕事をしない現地スタッフ。日本から着任したばかりで、そうした現地スタッフをまだ掌握できていない日本の航空会社の社員。と、今回の問題の所在は多層で多岐にわたっていた。

最後の最後、現地の空港でのやり取りは、今思い出しても腹がたつことばかり。もともとコロナがなければこんなこともなかったと自分を慰めるしかない。

ところで今回の学会では、最終日のセレモニーで僕の研究発表に対してDistinguished Academic Award(4名が受賞)が与えられた。こうしたことがなければ、もう2度と彼の地は踏んでやるかと怒り心頭だったはず。せめてもの救いかな。 

 

ペトロナス・ツインタワー。観光デッキに昇る予約は今も一週間待ち

  
ホテルの部屋から見えたKLタワー

ヒンドゥー教の聖地「バトゥ洞窟」から見下ろす

日本への直通便は夜便のみ。昼間の時間を使ってマラッカへ足を伸ばした。

2022年6月13日

男女役員数の均衡化義務の意味

日本の話ではない。まずはEU(欧州連合)を中心とした話をしよう。

EU各加盟国と欧州議会が、それらの地域において上場企業の女性取締役比率を増やすための規制案に合意した。

対象となる企業は、2026年6月末までに社外取締役での女性比率を40%以上にしなければならない。このことは、各国で2年以内に法制化することになっている。

また、社外取に限らず全取締役の枠組みで見ると、男女それぞれの取締役の比率を33%以上にするという方針になった。

男女平等、機会均等の考えのもと、女性が企業の取締役にとどまらず、あらゆる場で責任のあるポジションに就くのは大いに結構だと思う。

だが同時に、こういった単純極まりないクオータ(割り当て)の発想には、大いに疑問がある。

先のEUと欧州議会の合意だが、形式的に数字を作るのは阿呆でもできる。たとえば、社外取締役をすべて女性にする。そうすれば、社外取締役の女性比率40%以上も、また全取締役の女性比率33%以上もクリアできる。だが、それが果たして企業経営にとってプラスになるか。

なぜか。今回、そもそも上場企業に限ってのルール設定をしているのが、それが納得いかない。上場企業と非上場企業でなぜ線引きするのかの説明がなされていない。

また、日本企業の社外取締役に見る女性の状況は、以前から極端なインフレ状態にあると言われている。東証の基準をクリアすることを目的としているため、その多くは取締役の内実を伴わない形式優先との批判はあながち間違いではないだろう。

以前、建設機械メーカーであるコマツの相談役、坂根正弘さんと対談したときのことを思い出した。彼は「取締役に女性をつけるのは、難しいことではないんです。社外取締役は、どこかから探してくればすむ」「だが執行役員に女性をつけるのは、社員の採用から始まって、時間をかけて育成しなければならならず、一朝一夕にはいかない」と話してくれた。まさに正論だと思う。

形式要件を満たすために女性の社外取締役を増やす企業があとを絶たないが、その結果、そうした企業が今後どうなっていくか。

IMDなどの調査結果を見るまでもなく、日本企業の国際的な競争力が急低下してる状況の下で、こんな発想で見せかけのガバナンスを行っていることを「経営」だと思っているマネジメントが実に多い。

2022年6月12日

総長決定選挙

総長決定戦の投票締め切りを間近に控え、各候補の選挙活動が続いている。今回の総長戦に立候補しているのは、現総長を含め3名。

僕は来週から海外出張に出るので、その前に投票を済まさなければならない。といっても、レターパックで投票用紙を大学の選挙管理委員会宛に返送するという簡単なやり方だが。

誰に投票しようか決めかねている。前総長というのが一体何をやったか分からないような人物だっただけに、現総長が良く見えていたこともあった。が、本当に3人のなかで最適な選択なのかと迷っている。

勤務先の大学で教員を務める古くからの知り合いと電話で話したところ、その人は大学の執行部を務めたことがあるだだけあって僕なんかより学内の色んな情報を持っており、また大学サイトの選挙ページに掲載されている立会演説会などの動画をきちんと見ると良いとアドバイスされた。

大学というのは、一見、世間からは浮世離れした社会に思われがちな世界だが、ご多分にもれず人間の欲がそれなりに渦巻いているようだ。権力を求める人間の欲求は場所や環境に関係ないようだ。

2022年6月10日

気仙沼で漁師になった彼女

好きな声というのがあって、僕にとってのそうした声の持ち主の一人が松たか子だ。それが理由で、彼女がナレーションをしているNHK BSプレミアムの『新日本風土記』を見る。

今日のその番組だが、テーマは「気仙沼」。番組の冒頭で、いきなり知り合いの娘さんが画面に現れた。

実は、新聞のラテ欄で「気仙沼で都会から移住し漁師になった女性」という番組説明を見たとき、ひょっとしたら・・・、とは思っていたのだけど。

彼女は横浜生まれの横浜育ちのはずだ。大学卒業後は青年海外協力隊の隊員として何年間かアフリカのマラウイで活動をしていたと聞いていた。それだけで、突然「私、漁師になる」と言い出したとしても、なんとなく納得できそうな感じがする。

僕は彼女に直接会ったことはないのだが、彼女のお母さんにお世話になったことがあり、その子が震災復興のボランティアとして宮城でいろんな活動をしているとか、数年前から漁師になりたくて気仙沼の船頭のもとに通っていると話には聞いていた。

テレビに映る彼女は、華奢な見かけではあるがとても逞しく見えた。網やロープを日々扱う彼女の手がアップで映る。若い彼女の手は、カサカサで荒れ放題だ。爪のところから血が滲んでいる。彼女はそれを喜んでいるわけではないが、ちょっとした勲章のように感じている節も窺える。

番組終了後、彼女の母親に「NHKの番組、見ましたよ」とメールしたら、「日焼けがどうの、美白がどうのとおしゃれにばかり気をつけていた高校生時代とは全く違ってますね。なんだか母の私にも手の届かないところまで行ってくれたようで嬉しいです」と返信があった。

思いもしなかった夢を追いかける娘が心配で仕方ない一方で、親元から遠く離れ、親たちの想像を超えた逞しさで自分の生き方を突き進む娘に、大きな希望を感じているように僕には思えた。

そんな彼女には、赤の他人ながらとにかく元気で、思いっきりやってほしいと願っている。

2022年6月7日

株主総会招集通知も少しは進化したら

6月の下旬は上場企業の定時株主総会の時期。各社から「招集ご通知」が送られてくる。

どれも昔から同じスタイル。サニタイズされた表面的で型どおりな情報ばかり。決議事項は、だいたいどの企業も定款の一部変更と取締役/監査役の選任だけだ。だから代わり映えするわけない。

いつからか、取締役候補者のスキルマトリックスなる表を掲載する企業が出てきたが、それを見てもよく分からない。勝手な自己申告だろうから信憑性がなく、ほとんど意味を感じない。株主が判断する際の役に立つとは思えない。

取締役候補くらいは、ウェブサイトで自分がこれまで何をやってきたのか、どういう考え方で取締役に就こうとしているのかを株主などに語りかける動画くらい掲載したらどうだろう。

やろうと思えば簡単にできるはず。「前例がないからやりません」って? そーかい、だからあんたたちダメなんだヨ。総会をもっと爽快なものにしようという発想でも持ったらどうだ。

2022年6月6日

「なぜ日本は没落するのか」

ノーベル経済学賞候補と言われた森嶋通夫さんは、日本と英国を行き来しながら日本の行く末について考察していた。

その彼は、1999年に著した「なぜ日本は没落するのか」で50年後、つまり2050年頃の日本について「国際的発言力のない没落した国に落ちぶれている」と予言した。

なぜ50年後を彼は予言できたのか。あるいは、予言できると考えたのか。おそらく彼は、その当時の学生たち、二十歳前後の若者を見て50年後の日本の行く末を予言したのだ。 

日本では政治の世界においても経済の世界においてもリーダー的ポジションにいるのは60代後半から70代のオッサンが中心であり、50年後にどうなっているか、彼は当時の教育の場の状況とそこにいる若者らを見て予測したのである。

日本の戦後の学校教育は知識偏重で「価値判断を行う能力」「論理的思考で意思決定を行う能力」の涵養を疎かにしていて、そして50年後にはそれらの教育を受けた人間が政官財の指導者になっているはずだから日本は没落する、と考えた。

森嶋の基本的な認識は、現在の日本人は堕落したという点にある。それを断定的に述べることはここではできないが、政治はもとより経済においても、日本は没落した三流国家に成り下がってしまったのは事実だ。

彼が云う50年待たず、わずかその半分以下で到達してしまった。森嶋は、国が栄えるかどうかはその国民性にあるとしている。想像力に欠けた硬直化した発想と、右へ倣えの意思決定を範とする日本という国のスタイルがその典型である。

2022年6月4日

何ごとも訓練・・・

交通誘導員のための練習かな。近くの公園で見かけた、ちょっとのどかな風景。





2022年5月31日

リニアって本当に必要なのか?

リニア中央新幹線の開業は、今から5年後の2027年が予定されているらしい。

地下トンネル工事を進めるにあたり、まだ地権者や住民の理解は完全に得られていないらしいが、これができると品川駅=名古屋駅間はノンストップ運行の場合、40分で結ばれるらしい。

ただし、リニア中央新幹線が走る品川駅から名古屋駅まで、途中の神奈川県、山梨県、長野県、岐阜県それぞれの県に新しく設けられる新幹線駅に止まるリニアの場合、品川駅から名古屋までは約1時間かかる。

東京駅を出発地とした場合、品川駅までは一区間だが東海道新幹線で移動するとしたとしよう。品川駅で降りてリニアへの乗り換えを行うとそこまでで20分程度の時間がかかるので、東京駅から名古屋駅まではリニア中央新幹線を使っても1時間20分程度という計算になる。

現在、東京駅から名古屋まで新幹線のぞみで1時間半だから、驚くような違いがあるとは思えない。

また、料金がどうなのか知らないが、7兆円を超える費用がかかっていることを考えれば、リニア中央新幹線は現在の東海道新幹線よりかなり料金が上乗せされるに違いない。そうしなければ費用の回収はできないのだから。

つまり、区間が品川駅から名古屋駅までという限られた移動手段であることに加えて、利用料金は増す。考えれば、それほど速くないだけではなく、品川駅が起点という事は既存の新幹線に比べて利便性は劣る。

さらに僕が個人的に気になるのは、リニアは路線の7割以上は地下を走るために車窓の景色を望むことはできないことだ。地下深く、真っ暗なチューブの中を走るわけだが、こんな移動が楽しいかネ?

そして忘れてはいけないのが、地震大国であるこの国で、もし地下深く走行しているときに大地震が起こったら、ということ。線区によるが、リニア新幹線は地下40メートルあたりを走るらしい。そんなところで地震が原因で新幹線が止まると、どこにも逃げ場がない。想像しただけで気が狂いそうになる。

リニア新幹線が走る箇所は、ちょうど南海トラフ大地震の発生が予想されているエリアと重なる。この地震は、30年以内の発生確率が87%と予想されているのに。

一旦計画し、作り始めてしまったから途中で止むにやまれず工事を今も続けているということだろう。かつての政治家と経営者が残した、まさに偉大なる負の遺産。慣性で人も組織も動いている。それを誰もリーダーが修正できない。

繰り返すが、品川から名古屋という限られた区間の移動に大工事を行い、7兆円もの費用を注ぎ込み、そしていくらかの移動時間の節約があるからといってそこにどれほどのメリットがあるのだろう。

静岡県知事が、自然環境への影響を理由にある区間の工事を県として認めていないが、それとは別の理由でリニアはいくら今さらと言われようが見直しを真剣に考えた方がいいと思う。

リモートワークになれてきた僕たちが、いまさらリニア新幹線を使っていかなきゃいけない必要性をどれだけ感じるかだ。

2022年5月30日

長寿を日本人の誇りとする

ロシアによるウクライナ侵攻は、長期化の様相を見せている。ウクライナは、自らの国家としての独立と誇りをかけて国を守り続けようとしているし、ロシアも諦めることなくしつこく攻め続けている。

プーチンがウクライナを併合したがっている理由の1つとして、ロシアの人口減少が指摘されている。かつてのソ連時代は2億人弱だった人口が、現在は1億4000万人。そして、ロシア人は他の先進諸国のなかで平均寿命が短い。人口が増えにくいのだ。

下図は、米国、EU、日本とロシアのそれぞれの国民の平均寿命の推移を示したものだ。2019年時点で日本が84歳、EUが81歳、米国が78歳に対して、ロシアは73歳である。

 
とりわけ寿命の短さは、ロシアの男性に著しい。ロシア人男性の平均寿命は68歳で、女性の78歳に比べて10歳も短い。理由はいろいろ考えられるのだろうが、ウォッカの飲酒が理由の1つだと聞いたことがある。

一方日本は、順調に平均寿命を延ばし、2019年のデータによると国別では世界一である(男女の性別で見ると男はスイスが世界一で、日本人男性は82歳で世界二位)。 われわれ日本人男性は、ロシア人男性よりなんと14歳も平均寿命で長生きしている。

今さらながらだが、こんな幸せなことがあるだろうか。メディアなどで人生100年時代と語られる際には、どうやってわれわれはそこまで「生きながらえるか」という悲壮感や不安感が裏側に貼り付いているが、考えるまでもなく、短命より長命である方が幸せに決まっている。

幸せとは心の状態。金銭的な豊かさや肩書きとは関係ない。そもそも歳をとると、肩書きにしがみついていることほどみっともないことはないし、金はあればあったで困りはしないが、なければないで仕方ないと思うしかない。

気分を高く持ち、幸せな気持ちを保ちながら生きていくことができれば、日本人は世界でもっとも恵まれた、ほかの国が憧れる国になることができる。

そのために必要なこと。それはとにかく社会的な不安感を払拭すること。そして個人が、競争だけでなく助け合いや分け合いの意義を理解し優先していく気持ちを普通に持てるようになること。それしかないと思っている。

2022年5月27日

「環境保護の観点から有料とします」の奇妙な理屈

KDDIから「紙請求書発行条件の変更に関するご案内」と題した文書が届いた。

 
目を通すと、冒頭から「環境保護の観点から紙請求書の発行を有料とさせていただきます」と書いてある。「環境保全と気候変動対策として紙請求書の削減」が必要だという。

ひと月にA4一枚の「利用料金のご案内」が環境負荷になるというのだが、これはあまりに利用者を阿呆扱いしている。

auの店に行くと、数え切れない種類のパンフレットが大量におかれ店頭で配布されている。僕はそれが悪いともおかしいとも思わないが、言うに事欠いて利用者に毎月送っている利用明細書1枚が環境負荷にあたると主張するのか。

彼らはただ印刷代と郵送料を省きたいだけなのは小学生にだって分かる。それなのに、環境保全という大義を振りかざして「1通220円」の手数料をペナルティとして客から取るらしい。

その追加収入は、森林整備や植樹費用にでも回すのかね。あり得ない。会社の利益として計上するだけだろう。

こうした見え透いたおためごかしが顧客に通じると思っているその発想が空々しく、貧弱すぎて情けなくなる。

2022年5月22日

何とかと煙は、高いところが好きだというから

ボートが加速すると背中のパラシュートが風をふくみ、体がすっーと浮きあがる。どんどん体が空に向けて昇っていく。

水面から70メートルほど上がっただけで、まわりは静寂さに包まれる。風がロープを切るいくらかの音だけが耳元を流れる。それ以外は一切音が聞こえないことに驚いた。

体験してみないと、やはり分からない。

風を受けて浮かび上がる
ほぼロープが伸びきった状態

はるか下のボートに曳航され静かに進む

周りには何もない。眼下には珊瑚礁が見えた

ボートのリアデッキに向け戻ってきたところ

2022年5月8日

日本の交通渋滞は、今も季節の風物詩だ

大型連休(ゴールデンウィーク)が終わった。GWにともなう高速道路の渋滞のニュースを聞くにつれ、「働き改革」なんてものは一向に進んでいないことが分かる。

「働き改革」は「休み方改革」であり「生き方改革」のはずだが、10年一日のごとく連休の始まりは高速道路の下り路線で、そして連休後半に差し掛かった頃からは上り路線で車が渋滞する。今年、その長さが40キロにものぼった高速道があった。

昔ながらの「官製休暇」にしたがって国民全員が休みをとるものだから、こうなるのは当然である。

オフィスに行かず、自宅や好きな場所で仕事ができるリモートワークは進んだが、好きな時に好きなように休みをとることはまだできないみたいだ。どうすれば、こうした一極集中をなくすことができるんだろうか。

GW、夏のお盆、年末年始の交通渋滞。コロナ禍の2年間を除き、何十年と同じことが繰り返されている。

これはもう日本の風物詩くらいに考えておいたほうがいいのかもしれないが。

2022年5月6日

日本人の「働きがいスコア」は56%か、それとも9%か?

3日ほど前のこのブログで、日本経済新聞で日本人ビジネスマンが仕事に働きがいを感じている比率が6割弱(正確には56%)と書かれていたことにふれた。

今日、テーブルの上を片付けていたら、同紙の2021年8月30日の記事が出てきた。「仕事の熱意、日本低く」という見出しの記事で、そこでは日本で働きがいを感じている人は9%だと書かれている。

昨年8月30日の同紙記事から

その記事によれば世界平均の値も35%であり、66%とした先日の記事と数値が大きくかけ離れている。

「日本人で働きがいを感じている人」の割合は56%なのか、それとも9%なのか? 個人的な感覚では、9%とするこちらの数値の方がずっと納得感がある。実際に企業で働いているひとなら、ほとんどがそう感じるんじゃないかと思うけど。

調査方法が違うのだろうが、それにしても差が大きすぎる。

2022年5月3日

「仕事に熱意」6割弱は上出来だと思う

これは2、3日前の日経朝刊一面の見出しである。なぜかこれが問題らしい。いや、問題にしたいらしい。

僕は、仕事に熱意を持っている人が6割弱もいるのは大いに結構なことだと感心するのだが、どうもこの新聞の論調はそうではないようだ。世界平均と10ポイントほど乖離しているのが気に入らないらしい。

それを示したのが下記の真ん中のグラフだが、奇妙なグラフである。「10ポイント差」を否が応でも読者に強調して見せたいらしい。縦軸の基点を55でなく、普通に0からとれば印象はまったく違ったものになる。

そもそも世界平均の半分とか3分の1というのなら、まだちょっと真面目にそのあたりの理由を考えてみようという気にもなるが、10ポイント程度の差で騒ぐのはどうかと思うし、その差はグラフを見る限りここ数年大きな変化は見られない。

調査で「会社に所属する誇りがあるか」だとか、「与えられた仕事以上に取り組む意欲があるか」だとか、こうした問いに対して<大いにある>と応える人の国民性とそうではない(日本人のような)国民性があるのを無視して「差が埋まらない」ことを嘆いても始まらない。

朝刊一面トップの、この10段抜きの記事が言っているのは、日本の労働者の総労働時間や残業時間は減っている、有給休暇の取得率は上がっている、したがって「働きやすさ」は大幅に改善した。ところが、「働きがい」のスコアは世界に見劣りしている。そして、「働くことに幸せを感じる」社員が多いほど、業績がいい。だから企業は社員の幸せ感を高めなければならない。ということらしい。

理屈がヘンだ。そもそも「働きやすさ」が何を指しているのか、分からない。勤務時間や残業が短かければ働きやすいとしているが、人々が感じる働きやすさは決してそれだけではないと思う。

また、「労働時間が短い」働きやすい職場の労働者は働きがいを感じるはずだという、理屈のわからない思い込みがあるみたいだが、人間はそれほど単純ではないのだよ。

そして一番下のグラフで、働く幸せを感じている人の比率が高い企業ほど、業績がよくなっていると指摘しているが、なぜそんな因果関係を勝手に思い浮かべるのか。

社員をハッピーな気分にさせさえすれば会社が儲かるのであれば、経営者の仕事はこの上なく楽だ(でもそうじゃない)。

社員の幸せ感と業績に相関関係があることが認められたとしても、それは業績が向上している会社はそうでない会社に比べて社内の雰囲気も悪くはないだろうし、またボーナスの増額でもあれば社員の幸せ感が上がるのは容易に想像できる。

つまり、因果関係の矢印を引くとすれば、それは新聞記事の主張と逆方向と考えるのが常識的だろう。

2022年4月24日

これぞ、反マーケティング

吉野家の常務取締役なる人物が、早稲田大学が主催する社会人向けのマーケティング講座で放った言葉が世間を騒がした。

「生娘をシャブ漬けにするための戦略」という、「田舎から出てきた世間知らずの若い女性客を牛丼中毒にする」アイデアを受講者にチームで考案させる講座である。

吉野家の経営陣の一角を担うその人物は、自社の商品にまったく愛情を持っていないように思える。また同様に、自分たちの顧客にも愛情の片鱗すら感じていないようだ。

生娘、シャブ漬け、という身の毛がよだつ言葉を教室内で聞きながら、「講義の流れがあったから」などとうそぶいて、牛丼常務をその場で諫めなかった大学の人間の体たらくにも腹が立つ。

そうした今回の残念な出来事のなかでひとつだけ救いだったのは、件の発言に関して運営サイドにきちんと苦情を申し入れた受講者がいたことである。

その受講者は、その後のメディアの取材に対して以下のように語っている。
酷い性差別であるのはもちろん、覚醒剤で苦しんでいる人もいるのに、冗談にして笑って話して良いことだとは思えません。男性客に対しても『家に居場所のない人が何度も来店する』という趣旨の発言がありました。 
企業の社会的価値が求められる時代に顧客を中傷する発言をすることに強い怒りを覚えましたし、その発言が教育機関でなされたことにも驚きました。 
また、本心は分かりませんが教室にいた受講生の中には笑っている人もいて、温度差を感じました。
また彼女は、その時のことを振り返って次のようにも述べている。
社会にも企業にも学校にも、当たり前に年齢も性別もバックグラウンドも多様な人がいます。けれどこうした偏った発言の1つ1つが、日本社会から多様性を排除していると思います。
こんな言葉は下の世代には絶対に聞かせたくない、その思いを誰かに理解して欲しくて抗議しました。高い意欲を持って学びの場を活用されようと考えていた、他の受講生の方には申し訳ない気持ちもあります。

私自身は、講座はスタートしたばかりですが続けることを迷っています。マーケティングや授業よりも、人権意識を持つことの方が大切だと感じるので。
とてもまっとうな感覚であって、多くの人の共感を得る考えだと思う。教室の中には笑っている受講者もいたという情けなく呆れた状況で、このような思いをきちんと言葉で発してくれる人がいたことが、せめてもの救いだ。
 
吉野家の牛丼は、日本人の国民食のひとつと言っていい。早くて、安くて、旨い。それがいまは、例の常務取締役の発言とは何の関係もないアルバイトの人たちが店頭で客から嫌がらせを言われているという。
 
多くの顧客を不愉快な気持ちにし、社内で働く人たちも傷つけている。典型的な反マーケティングの一例だ。 
 
早稲田大学に講師として呼ばれたこの人物の発言については他にも色々言いたいことはあるが、とにかくまず言っておかなければならないと思うのは、こんなのは本来のマーケティングでも何でもないということ。これだけは、はっきりさせておかなきゃいけない。

2022年4月23日

1969年8月15日とは、どんな日だったか

夕方、陽気に誘われて散歩に出たついでにkino cinema 横浜みなとみらいまで足を伸ばした。そこでは映画「ベルファスト」をまだ上映していたと思ったので。

物語は、1969年8月15日のベルファストの街角からスタートする。プロテスタントの武装集団がカトリックの一般住民への攻撃を始め、ベルファストの人々、特にプロテスタントとカトリックが入り交じり暮らしているエリアでの暮らしは平穏さをなくし大きく変化していく。

英映画「ベルファスト」は、北アイルランド・ベルファスト出身の監督ケネス・ブラナーの自伝的作品である。ブラナーはこの映画の脚本で今年のアカデミー賞脚本賞を受賞した。
 
 
9歳の主人公バディはブラナー自身の少年時代がモデルになっていて、バディを演じている少年もベルファストではないものの、北アイルランド出身だ。

モノクロの画面が、ブラナーの記憶の底をなぞっている。北アイルランドでのカトリックとプロテスタントの争いはその後30年も続き、1998年に和平合意がなされるまでにおよそ3600人が闘争で命を落としている。

少年の家族の日々の暮らしは典型的な労働者階級のそれで、決して豊かではない。が、家族の絆はつよく、家族そろって映画館に行くシーンが度々出てきて微笑ましい。そこだけカラーで映し出される数々の映画は、実際にケネス・ブラナーが1969年当時のベルファストで観た映画なのだろう。

そうした暮らしに覆いかかる血なまぐさい宗派間の争いには理不尽さを超えて、寂寥感を感じる。もともと多神教で、宗教間や宗派間の激しい衝突を抱えていない現代の日本人にはちょっと理解し難いところがあるが。

ところで、ちょっと気になって調べてみたら、やっぱり1969年8月15日というのはウッドストック(ロック・フェスティバル)の初日だった。この日、この映画が示したように北アイルランドでは流血の闘争が始まり、一方でアメリカ・ニューヨーク州のウッドストックでは<ラブ・アンド・ピース>の世紀のロック・フェスが始まっていた。
 


2022年4月19日

11歳男児の父。39歳。

いやいや、これは僕のことではない。

今日の朝刊、健康に関する悩みを専門医に相談できるサイトをビジネスとして立ち上げた人を取り上げた記事内で、彼女のプロフィールがポートレイト写真の下に以下のように紹介されていた。


この人がもし、<にのみや・みまお>という男性だったら、はたして記者はこのプロフィール・キャプションを「11歳男児の父。39歳」と書いただろうか? 

この欄の記者は署名からすると女性だが、彼女はなぜこう書いたのだろう? そしてこの記事を事前に読んだはずのデスクや校閲も、なぜ疑問を感じないのだろう。

2022年4月1日

Codaが作品賞を受賞

 
「コーダ」は劇場公開からふた月がたっているが、今回の米アカデミー賞作品賞を受賞したからなのか、近くのシネコンでいまも上映していて間に合った。Apple TV+は契約していないし、ネット配信してても映画はできれば劇場で観たいからね。

タイトルのCODAは、Children of Deaf Adultsの略。両親がろう者の子供のことを指す言葉らしい。主人公、17歳の高校生ルビーがそうだ。両親も兄もろう者で、家族の中で彼女だけが健聴者だ。
 
アメリカ東海岸の街で漁師を営む一家の物語だが、うまいキャスティングと練られたシナリオが観るもののこころを打つ物語を見せてくれる。決してお涙頂戴ではなく、まっすぐで、そしてユーモアにも支えられている。

ルビーの両親、そして兄を演じたのは実際にろう者の俳優たちだ。母親役のマリー・マトリンは『愛は静けさの中で』の主演でアカデミー賞を受賞している。そして、父親役のトロイ・コッツァーが本作品でアカデミー助演男優賞を受賞した。

この映画は、ルビーがその歌の才能を高校の音楽教師から認められて音楽大学を目指すという青春物語でもあり、また音楽映画でもある。中心に据えられている曲は、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」。シックスティーズ!
 
この曲の原題は、Both Sides Now。ルビーのおかれている、ろう者の世界と健聴者の世界、一家に欠かせない「通訳」としての自分と未来を自らの手でつかみたい自分、そうした2つの領域で揺れている彼女の思いを反映しているかのようだ。
 
高校を卒業した後、ろう者の家族を支えて漁師の仕事を続けることは彼女にとって不幸な選択ではなかったが、必ずしも心底望むことではなかった。音楽教師(いいキャラクターだ)の強い勧めでバークリーで勉強をしたいと考え、ある日、家族に相談する。母親は「あなたがいないと困る」と進学に反対する。
 
母親はルビーにこんな話をもらす。ルビーが生まれたとき、母親はその赤ん坊が健聴者であると知って失望したと。なぜなら、自分たちとは違う世界に行ってしまうと感じたからだと話す。この映画の重要なメッセージがその一言に込められている。
 
映画の結末部分、ルビーは家族の祝福を受けてバークリーのあるボストンに向けて旅立っていく。映画のタイトルであるCodaは音楽記号でもあり、それは楽曲において主題とは別につくられた終結部を示す。ルビーの家族からの旅立ちのように。 
 
冒頭で流れるのはブルースシンガーだったエタ・ジェイムズの曲で、それ以外にもマービン・ゲイやデビッド・ボウイが流れる。選曲のセンスがいい。後で、この映画での音楽は LA LA LANDで音楽を担当した人だと知った。