2021年8月13日

映画は、好きか嫌いか

横尾忠則さんが書評でこんなことを書いていた。

書評は一冊の本を剽窃(ひょうせつ)する行為にも似て、創造から遠い。どんな膨大な書物も簡単に要約して気の利いたコメントを加えるが、これは絵を描くようなクリエイティブな行為ではない。クリエイティビティのカット&ペーストだ。書評は絵画における模写というコピーで、パスティーシュ(模倣や意図的に混成したもの)は創造とは言わない。
自分が書く書評を、いきなりこのように書き始める横尾は実にたいしたもんだと感心。

なるほど、確かに彼が言うとおりかも知れない。でもこれは書評に限らず、他の「評」、つまり映画評や音楽評、舞踏評などあらゆるクリティークに当てはまる気もする。

たとえば映画評をとって考えてみると、どう見ても映画会社や配給会社などが試写会時に用意した資料をもとに要約をしただけと思えるような映画評が多い。

その新作映画はまだ劇場公開されていないのだから、一般客はその評をありがたく信じて参考にするしかない。そこにあるのはクリティークではなく、単なる情報の非対称性の利用だけ。

僕が今も映画を選ぶ際に参考にしているものの1つが、週刊文春に昔から連載されている Cinema Chart 欄だ。毎週、2作品を5人の評者が星の数(☆5つが最高)と60字ほどの文章で評価する。

そこで中野翠と芝山幹郎の両者が高評価を与えているものは、僕が観ての評価も高い。これは理屈でも何でもなく、これまでの長年の経験則からだ。

以前、5人の評価者のなかに映画評論家のおすぎがいて、その頃は中野と芝山が高評価、一方でおすぎによる評価が低いものはほぼ間違いなく自分の趣味で高評価の映画だった。たまに彼ら3人が揃って高評価を与えていた作品もあったが、それらは僕には「まあまあ」だったりした。

いま、映画評でかつてのおすぎにあたるのはフランス文学者で映画評も書いているC氏で、彼が高評価を与えている作品は「よした方がいい」対象である。

でもこれは、趣味が合ってないというだけの問題。彼の高評価は「観ない方がいいよ」と教えてくれる、僕には貴重な情報。

その作品がいい映画かどうかは、自分が好きになれるかどうかだけだ。

2021年8月12日

1日5,000人 + 5,000人で密になる

緊急事態宣言下にもかかわらず、新型コロナの感染者拡大が止まらない。医療現場の状況も逼迫したままだ。

人流を5割減らすよう、そして県境をはさんだ移動を避けるよう、政府の新型コロナウイルス対策分科会が緊急宣言を出した。

今日現在の神奈川県の重傷病床の使用率は、96パーセントである。

そうしたなか、近くの横浜アリーナではジャニーズ事務所主催のコンサートイベントが開催中だ。お盆休暇をにらんでか、昼と夕方の2回公演が組まれている。

会場運営会社に公演について訊ねたら、「感染拡大を考慮して」5,000人の観客を入れて実施することになっていると言う。一日で1万人のファンが駅から会場のアリーナまでぞろぞろ移動してくる。


 

今週いっぱい、この調子でコンサート・イベントが開催される。

先週終わったオリンピックはすべての会場で無観客でゲームが行われたが、この開催をどう考えるか会場担当者に訊いたら「文化イベントは、国と県の所管機関に相談した上でルールに従って実施している」という。

そこで管轄である神奈川県くらし安全防災局危機管理防災課にこの時期の実施について考えを聞いた。すると、国(内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室)から収容人数の半分、あるいは5,000人を入れてのイベントの実施ができるとの通達を8月5日に受け、それにしたがって許可していると。

映画館や美術館を楽しむには言葉はいらない。だが、ジャニーズ事務所のコンサートはそうはいかないんじゃないか。

今週いっぱい、毎日5,000人+5,000人の2公演が行われる。県内はもちろん隣の東京都から多数のファンが押し寄せ、人流が一気に増え、密はどう見ても避けられない。コロナ感染者が急増しなければいいのだが・・・。

ワクチン接種の帰り、スターバックスでコーヒーを買って帰ろうと思ったら店のシャッターがおりていた。感染者が1人出たため、「お客様と従業員の安全確保を最優先とするため」一時休業していると。

今は、金儲けよりこうした姿勢が常識のはずだ。

2021年8月11日

確かにドレスはレインボーだが

今回のオリンピックの開会式、国歌「君が代」を歌ったMISIAが七色をあしらったドレスをまとっていたことで、それがLGBTQの多様性を表現しているとして多くの人が称賛した。


レインボーカラーは性的多様性を象徴するものとして用いられ、このドレスはそうした意味が込められている。

彼女の歌唱は素晴らしかったと多く人が賛辞を送り、LGBTの人たちは今回のドレスを見て感激した。

しかし、彼女が歌った歌詞の内容にあらためて意識を向けた人はいったいどれだけいたか。それは多様性とかけ離れた、むしろそれとは真逆のものだったんだよ。

歌詞、それはメッセージである。小さな時から聞かされているからと妙に納得したり、麻痺しないように気を付けなくちゃ。

2021年8月8日

彼女は生き返ってきたのか

注文していた本が入荷したと連絡があり、自転車で駅前のくまざわ書店へ。

ネット書店は便利だが、急がない本はできるだけ街の本屋で買うことにしている。

店のカウンターで本を受け取ったあと、いつものように書内をぐるりと回ってめぼしそうな本や雑誌をあたる。

入口近くの島には売れ筋の本がうまく並べられている。書店の中でも、おそらく売上が一番高いはずのこの売場には最新の注意を払って商品が陳列されているのが分かる。

平積みされたなかの一冊に、上野千鶴子『在宅ひとり死のススメ』(文藝春秋)があった。20万部突破とカバーに書いてある。そんなに売れている本はどんな本か、と手に取ろうとしたが、腕を引っ込めた。

だって、この著者、まだ生きてる・・・。

実際に<在宅ひとり死>をした経験から、「みなさん、やっぱ、在宅ひとり死はいいですよ!」って語ってるのなら興味あるけど。

それじゃあ落語だよな。

自分が知りもしないこと、それも人の生き死にに関わるような大切で、しかも個別性の高いことを「これが正しい」ともっともらしく説教されても困る。

上野

2021年8月6日

人のメダルをかじっちゃいけません

名古屋市長の河村氏が、選手が持ってた金メダルをガブリとやった。(写真)

朝日新聞2021年8月6日朝刊
 
メダルを持って表敬訪問をした後藤希友選手(ソフトボール)が所属するトヨタ自動車は、以下の抗議コメントを出した。

金メダルは、アスリートの長年にわたる、たゆまぬ努力の結晶であり、またコロナ禍においてメダル授与ですら、本人が首にかけるという状況下においての今回の不適切かつあるまじき行為は、アスリートへの敬意や賞賛、また感染予防への配慮が感じられず、大変残念に思います。河村市長には、責任あるリーダーとしての行動を切に願います。
トヨタ、怒ってるねー。

メダルを見るとかじりたくなる市長さんに、名古屋市役所の誰か、アマゾンで買えるこの金メダル(380円)を替わりにプレゼントしてやってちょ。


2021年8月2日

「私はこれが好き!」と「どの絵が売れてるんですか?」の違いが生むもの

ある会社が、自由ヶ丘で画廊のような商売をしていたときのこと。

場所柄、観光客を含む外国人も多く店を訪れていたらしいのだけど、そうした外国の人と日本人では絵を選ぶ際の行動がずいぶん違っていたという。
たくさんの絵がお店にありますので、「自分の好きな絵を見つけてください」と言ったときに、外国の方は、すぐに「私はこれが好き!」と選ぶのですが、意外と日本人は見つけられず、「どの絵が売れてるんですか?」と聞く人が多い。これはひとつに自分の中に自分の好きな美の基準がない。アートのようなものは、絶対的な基準はあるわけではなく、自分の好き嫌いでいいと言えばいいと思うのですが、おそらく教育の違いなのかもしれませんが、そういう経験がなく「この絵が自分はいい!」と言い切れる人が少ないのかもしれないなということでした。
教室で学生に対して何かを問うたとき、まっすぐな視線で自分の意見をさっと言える若者(だけじゃないけど)がとても少ないことにすっかり慣れていた僕は、これを読んではっとした。
 
他人はどうしているか、どう思うのかをまず知ろうとする。それを察知して、自分とさほど違わないということが分かってまず安堵する。 人が言っていることに追従してなら意見が出てくる。
 
比較すると、留学生らはもっとはっきりものを言う。他人のことなどあまり気にない。だから発言内容は別としても、彼らのそうしたすっきりした姿勢に僕は好感を持つ。

こうした状況では、世界を引っ張るビジネスモデルやサービスが、これからこの国で生まれてくることはないんだろうなと、ふと思う。
 

2021年8月1日

日本における顧客の推奨度指標は、今後はNPSからPSJに

先月、日経クロストレンドという経営系のネットマガジンが、僕が提唱する PSJ(Promoter Score Japan)を取り上げていた。

以下は3回の連載記事の2回目。僕の発表をもとにまとめられている。
https://waseda.box.com/s/xiuu0a2nhl4zsbafnib0i1f8iv0mg3z4

日本企業の経営者は、これを読んでいい加減に気づいて欲しい。いま彼らがやっているのは、自分の足にまったく合いもしない形の靴(NPS)を、舶来品のお土産でいただいたからといつまでも痛いのをやせ我慢してはき続けているようなもの。

そうした無駄な痛みを黙って我慢していると、麻痺して痛みが感じられなくなるだけでなく、自分の本来の足の形まで失っていく。

そのことに日本の経営者たち、そしてマーケティングの責任者らは、そろそろ気づかなければいけないと思う。

 

 

2021年7月31日

これからのオリンピックは、世界分散型の開催にしてはどうだろう

このところ、家にいるときはテレビをつけておく機会が多い。オリンピックの競技を見るためである。日本の選手やチームが出場する試合は、どうしても気になるものだ。

どのスタジアムも会場も一般の観客はおらず、参加チームの関係者などが観客席にいるだけで実に寂しいというかなんというか。ただ、これは致し方のないこと。

一般の観客がおらず、だから普通のスポーツ中継には必ず付きものの観客の応援風景も一切映らない。すっきりしたもんだ。

だから見ていると、ふと「これ、どこでやってんだっけ?」と思う瞬間がある。

もちろん「東京」オリンピック。東京を中心に日本国内のどこかの施設でやってるんだろうけど、これならどこだって同じ。ひとつの国に、すべての競技種目の選手や関係者が集まる必要性はないんじゃないかな。

ある一国が、その後どのように使われるかも分からない競技場や選手村など、さまざまな施設を多額の費用を投じて多数建設し、維持していくのは合理的な判断といえるだろうか。

今後のオリンピックだけど、分散型で世界のいろんな場所でやったらいい。例えば、柔道については毎回日本の武道館で、野球はアメリカで、レスリングはギリシャ、ゴルフは(なぜゴルフがオリンピック競技なのか分からないが)スコットランドで、サーフィンはハワイなんて具合だ。

3時間半もの開会式や聖火リレーはなし。もし何らかのセレモニーが必要ならば、それはオリンピック発祥の地であるギリシャで行えばいい。

そうこうするうちに、今のようなIOC(国際オリンピック委員会)は不要になっていく。これが一番重要なポイント。

2021年7月28日

いまだ大人になれないネット広告

先の東京オリンピック(1964年)の頃からずっとテレビは広告媒体の王者だったが、インターネット広告がその媒体費規模において2019年にテレビ広告を超えた。

青色の棒グラフがテレビ広告費、黄色がネット広告費の推移
 
日本でネット広告がビジネスとして立ち上がったのは、電通系のサイバーコミュニケーションズ社がヤフーのサイトの広告枠を取り扱い始めた25年ほど前のことだったと記憶している

あれから四半世紀。もうすっかり大人になったはずのネット広告のはずが、どうにも中身はいまだにガキそのままのようである。

先日、「汚染されたネット広告、大企業も関与 「バレなければ問題ない」2兆円市場の影」と題する記事を目にした。
https://www.j-cast.com/2021/07/04415242.html?p=all

25歳になり、体は父親(テレビ広告)を超えた。でも今も成熟しないばかりか、良し悪しの区別すら付かない子どものままでここまで来てしまった。

他の広告媒体にはできた単純な良し悪しの区別すら、なぜネットではできないのかが不思議でならない。そこに関わっている人間の問題か、それともネット世界が持つ独特の感覚がそうさせるのか。

量的には豊かになったネット広告。ポケット(銀行口座)には大金をジャラジャラ言わせながら、倫理的な面だけでなく質的にも痩せ細ってしまった。

広告の分野には、かつて「広告クリエイティブ」というそれなりに豊かな表現の世界があった。純粋なアートや文芸の世界とは違うところで見る人々の心の琴線に触れて、少しばかり視聴者や読者を気持ちよくさせたり、何かしら新たな気付きを与えていた。

少なくとも、僕が広告クリエイターを名乗っていたときにはそうした思いで仕事をしていた。ネット上の広告を作っている連中は、いま何を考えてクリエイティブに取り組んでいるのだろう。

2021年7月26日

339面体の東京オリンピック

この時期、ニュースのトップにオリンピックのメダリストが登場する。柔道、水泳、体操、スケートボードなど、日本選手が表彰台に立ったシーンとメダルを獲得した競技シーンが紹介される。

確かにいいもんだ。なんだか日本がメダル獲得のトップを行っているかのような気にさえなる。

だがリモコンでチャンネルをCNNに変えると、アメリカの選手が競泳や射撃、フェンシングでメダルを取ったシーンが紹介されるし、BBCでは高飛び込み、競泳、マウンテンバイクでメダルを獲得した英国の選手の活躍が紹介されている。

それらの国の人たちも、そうした自国選手の活躍を紹介する番組を見て興奮し、喜んでいるのだろう。

今回のオリンピックの競技は39、種目は339で、どちらもこれまでで最大だ。339の種目で金、銀、銅のメダルを獲得する選手がいる。つまり、1,017のメダリスト(チームを含む)が生まれる。

どこに焦点を当てて見るか、見せられるかでこのイベントの見え方はまったく異なってくる。もちろん日本、米国、英国だけではない。たとえば、中国は中国選手の活躍にフォーカスを当てた番組とその活躍の見せ方をしっかり工夫して国威高揚に余念がないはず。フランスも、ドイツも、国を問わずどこもかもがそうだろう。

これがオリンピックが各種の国際的な選手権とは違うところだ。339あるどの面に目を向けるか、それによってオリンピックというものの映り方がどうにでもなる、実に便利な装置だといえる。

もちろん、この秋に衆院解散・総選挙を控える現政権にとってもだ。

2021年7月22日

ホロコーストを嗤うか、芸術に昇華させるか

明日開幕される予定の東京五輪の開会式ショーディレクターを務めるはずだった小林なにがしが、解任された。 

ホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)の被害者をあざ笑うコントをやっていたことを、アメリカのユダヤ系人権団体から指摘されたことで明らかになった。

このきっかけには驚かされたが、それにしても不祥事クリエーターやディレクターが次から次へとよく出てくるもんである。

ナチスによるホロコーストといえば、つい先週亡くなった現代美術家のクリスチャン・ボルタンスキーは、その作品にホロコーストの影響を強く感じさせる作品作りをしていた。

彼は、両親からホロコーストの話を聞かされながら少年時代を過ごしたという。ユダヤ人だった父親は、ナチスに捕らわれるのを怖れて、1年半の間、床下に身を潜めていたというからその精神的圧迫たるや凄まじいものだったと思う。

そうした少年時代の記憶を背景に、ボルタンスキーの作品には生と死を感じさせるものがたくさんある。

トリエンナーレとして開催されている香川県の直島や豊島を中心とした「瀬戸内国際芸術祭」でいくつか出品されているのを観たのをきっかけに訪れた「越後妻有アートトリエンナーレ(大地の芸術祭)」(新潟県)もそうだ。

2015年に訪ねた時には、現地で廃校になった小学校を舞台として「最後の教室」などの作品展示があった。(以下はすべて同年8月30日撮影)


光が入らなくした教室の廊下を歩くと、拡声した心臓音が流れ、それにシンクロして天井のライトが点滅する。あるわけないのだけど、生まれる前の記憶のような、と思わせる展示の仕掛けがあった。

昔懐かしい「用務員室」なんてプレートも掛かっていた。


2021年7月18日

スマホで星座も撮れる

梅雨が明け、猛暑の夏が訪れたようだ。

日中はなかなか外を出歩けなかった分、日が沈んでから外の空気が吸いたくなる。

夜8時半、東の空に夏の大三角形が現れた。どうせ映んないだろうと思いながらiPhoneのカメラを向けてみた。

そしたら、ちゃんと映っていた。すごいね iPhone。


墨ベタのようだけど、下の星座アプリの画面を参考にすると、ほら「夏の大三角」が写っているのが分かるでしょ。


それにしても、新型コロナの感染拡大が心配されているオリンピックだが、この猛暑が選手や大会に与える影響は大丈夫だろうか。

2021年7月16日

39年間走り続けるモノコックバス

テレビで道北を走るモノコックボディのバスが紹介されていた。

士別市(旭川市から北へ50キロ)の士別軌道が運行する日野自動車製のバスだ。


いまでは日本全国で4台が残るのみ。部品は修理したり全国を回って見つけてきたりでメインテナンスが大変らしいが、今も立派に北の地を走っている。

ただ、1982年製造なのでもう交換できるエンジンはなく、エンジンがダメになったときは廃車にするしかないらしい。

それにしても、バスは普通の乗用車と違って日々の走行時間も走行距離も格段に長いはず。それが39年間走ってきたってことは凄いなと思う。

なんでこんな古い田舎のバスのことを書こうかと思ったかというと、つい先日、僕の勤める大学のITヘルプデスクから連絡があったからだ。

大学が貸与しているThinkPad を返却せよとのこと。理由はOS(確かWindows 7)のサポートが終了しているため、セキュリティ更新ができず安全な使用ができなくなっているからと。

で、返却した後はどうするのか訊ねたら、「ご返却いただいたPCは適切な管理のもと保管した後、専門業者による廃棄を行います」。廃棄処分にしちゃうんだ。

もともとそのPCはサブ的にしか使ってはいなかったが、それでも中には個人データも入っているし、PCそのものが廃棄物として処理されるというのもなんか抵抗がある。

毎日北の大地を元気に走り回っているバスが40年間近く現役で使われているのに、研究室に置いたままのPCがなぜ十数年で廃棄処分にされるのか。

この比較ってヘンかね?

もしマイクロソフトが、セキュリティ更新にコストがかかるからというなら、利用者にそれを課金すればよい。

PC本体はプロセッサーやメモリーを入れかえ、OSをアップデートして継続的な利用はなぜできないのだろうか。

機械音痴の素人考えなのかも知れないが、テレビで古いバスが元気に北海道を走っているのを見たら、ついそんな疑問が沸いてきた。

2021年7月15日

鰯雲

例年より早い梅雨明け間近、今日は空に鰯雲が浮かんでた。


2021年7月13日

米マスターカードのTrue Name Card

宇多田ヒカルが、インスタグラムのライブ配信で「日本でどれくらい広まっているか知らないけど、私はノンバイナリーってのに該当するな」と語ったのが話題になっている。

それを聞いて思いだしたのが、今年のカンヌ広告賞(カンヌライオン)で受賞したマスターカードのCMである。

このカード、True Name カードという。担当者は、どの銀行も作らないから私たちは自分でつくったと語る。カード表面にエンボス加工される名前は実名(Real Name)でなくていい、あなたが選んだ自分にとっての本当の名前(True Name)でいいと。 


トランスジェンダーやノンバイナリーの人たちは、クレジット・カードやデビット・カードに記された名前と見た目が異なることで、相手から奇異に見られたり、侮辱されたり、カードの使用を認められなかったり、犯罪者と疑われたり、そうした数々の被差別的な問題やときに生命の危機におよぶような問題を抱えてきたに違いない。

それらに対応するためのマスターカードの試みは、真に多様性を尊重するアメリカらしい発想じゃないか。

日本の社会でも「ダイバーシティー」や「インクルージョン」と言ったカタカナ言葉が跋扈しているが、そこには思想はない。いつものとおり、口先だけだ。日本の金融機関で同様のやり方を取り入れるところがはたして出てくるかどうか・・・まずない。

先月末、日本の最高裁は夫婦別姓を認めない民法の規定が憲法に違反しないという判断を示した(裁判官15人のうち11人が合憲とした)。この国では、選択的夫婦別姓制度の導入すら認められなかった。

この日米の感覚の違いは、ほぼ永遠に埋まることはないんだろう。永遠とまで行かなくても、僕が生きている間には無理だろうな。

試しに、日本で同様のカードを発行する予定があるのかどうか、カード会社に問い合わせてみた。回答は「情報がない」、「分からない」だった。それ以上は話にもならなかった。

2021年7月12日

「欲しがりません勝つまでは」

今日、東京都に緊急事態宣言が発令された。

といっても、文字通りの緊急性を感じる人は少ないように見受ける。

だってそれはそうだろう。「緊急」事態宣言が出されるのが決まったのは、先週の木曜日のこと。あらかじめ 4日も前もって決められた政策を「緊急」と呼ぶのが奇妙だ。

だから都民が緊急性を感じないのは当然のこと。政府や役人らは、自分たちが「緊急」と名付けたのだからこれは緊急なんだよ、分かってんのかお前らは、と思っているんだろうけどそれは無理ってもんだ。

今日から40日間あまり、飲食店は酒の提供ができない。その間、閉店することになった店は多い。今回もだが、なぜアルコールの提供が目の敵になるのか。

テレビのニュースに映る居酒屋の店主や酒店の社長などが「こんなやり方、どう考えてもおかしい。理不尽だよ。だけど我慢するしかない」と怒りを押し込めて語る。

先の戦時中に大政翼賛会が国民の間に広めた「欲しがりません勝つまでは」という標語を思い起こす。もちろん、僕自身はそのときはいなかったけど。

みんな不条理な我慢を強いられ、自由を謳歌できるその日を夢見て自分を殺し、人間性も普通の常識も曲げて、ただひたすら非人間的な日常を生きていた。

僕には今がそれと同じように見える。将来はよくなるはずと期待して不条理な我慢を重ねたあげく、われわれ国民を待ち受けていたのは敗戦後の別な不条理な毎日だった。

今の僕らを待ち受けているのも、同じように思えてならない。

2021年7月11日

夏の大三角

このところ雨が多い。梅雨の季節だからといっても、九州での例年にない大雨続きは心配である。

天気予報で、線状降水帯という言葉をよく聞くようになった。

気象庁によれば、それは「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することで作り出される、線状に伸びる長さ50 - 300 km程度、幅20 - 50 km程度の強い降水をともなう雨域」となっている。

簡単に言うと、それは複数の積乱雲の集合体。なぜ発生するかというメカニズムは解明されていないらしいが、日本ではとりわけ九州と四国で多く発生している。もちろん日本国中どこでも発生する。

そんな雨模様がつづくなか、昨夜は久しぶりに空が晴れていたおかげで星が見えた。といっても見えるのは、一等星だけだが。南の空に木星が大きく輝き、その西には土星が。

さらにその西にはベガを頂点として、アルタイル、デネブが形づくる夏の大三角形が見えた。

ベガは織姫星、アルタイルは彦星と呼ばれている七夕の星である。

2021年7月10日

まるでブラック校則みたい

五輪の組織委員会が作成した観客の行動ルールについての指針に首をかしげる。

一都三県の会場は、無観客での試合運営をすると決まったが、他県で観客を入れで実施する際には種々の制約が観客に与えられるようだ。

例えば、マスクの着用。大きな声で応援しない(応援に行ってるのに) 。アルコール類の持ち込みは厳禁で、会場内でも販売しない(真夏の空の下での観戦なのにビールが飲めない)、グループで食事しない、通路で食事しない、、、

なかでも一番あきれたのは、直行直帰をするようのとにお達しである。

小学生の時、学校の先生から、買い食いをしちゃだめとか、寄り道をしないでまっすぐ家に帰りなさいと言われたのを思い出したよ。

応援している選手やチームが振るわなかったら直行直帰した方がいいかしれなけど、そうじゃなかったら誰が直行直帰なんてできるんだろう。 

そんな必要以上に折り目正しいというか、生真面目すぎるというか、阿呆な行動を国民がとれると彼らは思っているのだろうか。

2021年7月9日

聖火とは「神に捧げる神聖な火」

東京五輪の組織委員会が、東京及び首都圏三県での競技場を大会中も無観客にすると決めた。

いろんな考えや思わくがあって決定が遅れたのだろうが、種々の連鎖的影響を考えればあまりに遅すぎ、身勝手である。各自治体はもちろん、競技場周辺の施設や店舗は一様に戸惑っている。

無観客での五輪大会開催は、当然外国のメディアでも大きく報道されていた。それらのなかでは、聖火が東京に今日着いたとのニュースもあわせて報道されてたのだが、それらのニュースで聖火は Olympic Flame(オリンピックの炎)って呼ばれていた。あるいは Torch(松明)と。

そこには「聖」(sacred, holy)の意味付けはない。

いったい日本でいつからOlympic flame が聖火と呼ばれるようになったのか知らないが、そうした妙なニュアンス付けが単なるスポーツゲームであるオリンピックに添えられてしまったことで、それを意味もなく神聖化し、合理的で速やかな意思決定を始終阻んでいるように思うのは僕だけだろうか。

辞書によると、聖火とは「神に捧げる神聖な火」らしいが、今の政府や五輪組織委員会にとっての「神」とはいったい何を指すのか。

それは、今回の大会によって全世界で少なくとも約30~40億ドル(3300億円~4400億円)という途方もない放送権料を得る国際オリンピック委員会(IOC)だ。