新聞のサイトでGIGAスクール構想とやらの現実を映す写真を見て、思うところがあった。
GIGAスクール構想は、文部科学省が2019年12月に打ち出した全国の小中学校生に一人一台のパソコン(タブレット)端末を渡し、学校には高速大容量のネットワーク環境を設けるという政策だ。
この写真、教室内で子どもたちが授業の終わりに先生の板書内容を「一人一台」のタブレット端末で撮影している。前の児童の頭が邪魔なのか立ち上がり腕を伸ばして撮影しているようだが、みんながそれをやれば結局は同じ。
これはどこかで見た風景であり、僕が教える大学院(ビジネススクール)でも、数年前まで教室で「カシャッ」「カシャッ」という音が響いていた。
不愉快なので禁止にした。不満の声が出たが、こちらが話をしているときに不遠慮に聞こえてくる撮影音がノイズであるのはもちろんのこと、ノートを取るという作業を放棄して写真さえ撮っておけば安心、という学生の思考放棄に問題があると考えたからだ。
手を怪我していてノートが取れない、だからしかたなく黒板(ホワイトボード)を撮す、そしてちゃんと後で見返す。というのなら、もちろんOKだ。が、そうでもないのにホワイトボードやプロジェクタースクリーンをパシャパシャやって、それで「学んだ」気になっているだけなのが大半である。
確かにノートを取らないという学習スタイルはある。その時に自分の頭で考え、理解し、覚えるべきことは記憶できるという自信があればそれでいい。あるいは、理解することを主眼に据え、記憶も記録も自分には不要だと割り切れば、それもそれで構わないだろう。
だがそうした考えでノートを取らないのではなく、写真さえ撮っておけばなんとなく安心、と思っているのが窺える。
本来、ノートを取る、つまり自分の言葉で記録しておくためには、まず内容を理解し、残しておくために記録するべきことを峻別し、文字や記号などでそれを留めておくことが求められる。そうした当たり前のことをやっているかが問題だ。
ジャーナリストの故筑紫哲也さんは手考足思(もとは陶芸家、河井寛次郎さんの言葉)をつねづね語っていたが、タブレットのカメラでカシャッとやって済ますのは学習することとはほど遠い。
小学生の時からそんなことをさせてどうするのだ。彼らのノートパソコンやタブレットの中にはやがて大量の写真情報が蓄積されていく。しかしそれは、学ぶこととはまったく無関係。
そういえば、ムーンライダーズに『カメラ=万年筆』という傑作アルバムがあったが、これからの小学校は、さしずめ「タブレット=カメラ」と成り果てるのだろう。