2025-07-30

やはりグーグルの仕業

昨日書いたテーマパークに関する口コミに関する件、ネット上の無数の「?」に押されたのか、グーグルが自分たちが「やった」と明らかにした。


「ポリシー違反」とかで、「実際の体験に基づかない不適当な投稿」だったからとしているが、実際に客が行ったかどうやったら分かるというのか。

具体的な投稿例すら示しもせず、不適切な「検閲」を裏でやるのは実に卑怯である。

2025-07-29

ここでも不可解なグーグルの検閲行為

つい先日、グーグルがネット空間上で行っている不可思議な操作についてここに書いたが、似た話はやはりあるもので、GoogleMapでもほぼ同様なことが行われていた。

今回はオープンしたばかりのテーマパークという話題の対象だったので、世間に知られるようになった。


https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2507/28/news100.html 

コトラー、94歳

今でもたまにメールのやり取りをすることがあるP・コトラーさんから「そろそろ雑事は切り捨てて、やりたいことだけに集中したい」というメールがあったのはいつのことだったろうか。

彼は1931年生まれ、8年目に亡くなった僕の父親と2つ違い。もうずいぶん長いこと会っていないが、かなりの高齢者であることは間違いない。
 
そんな彼がやっとKotler Impactとの縁を切ったようだ。良かったと思う。その中心として「営業」に猛進していた彼の弟が数年前に亡くなり、経営の中心が別の人に移ったのが契機になったのだろう。
 

彼の名前は今でも『コトラーのマーケティング5.0』といったタイトルの本の共著者として見かけるが、それは名義貸しで実質的な執筆はしていないはず。本を売らんがための、出版社によるコトラーブランドの「販促利用」だ。
 
共著ではないコトラーによる最近10年間の本(単著)は、Confronting Capitalism (2015)、Democracy in Decline (2016)、My Adventures in Marketing (2017)、Advancing the Common Good (2019)、My Life as a Humanist (2022) の5冊。
 
タイトルにMarketingとあるのは2017年のMy Adventures in Marketingだけで、しかもこの本はマーケティングに関して書かれたものではなく彼の自叙伝である。
 
すでに10年前から、彼の関心は近年の資本主義や民主主義のあり方、社会の中での共通善(Common Good)といったより大きなテーマに移っていた。https://4pkotler.medium.com/
 
今もFather of Modern Marketing(近代マーケティングの父)と呼ばれることがあるが、それは彼がかつてSelling(販売)の一手段としてしか考えられていなかったマーケティングを、組織の重要な経営機能の一つとして体系的にまとめあげたからだ。
 
その意味で彼の功績は大きく、マーケティング史、経営史に残るものである。
 
ただ、日本で出版されている彼の名を冠した本で、その帯などに「マーケティングの神様」と書かれているものを目にすると、それはちょっと違うだろうという違和感がある。
 
今度、彼に連絡をとるとき、あなたのことがThe God of Marketingと日本で本の惹句に書かれているぞと伝えてやろうかと思っている。一体、どんな反応が返ってくるか。「私はまだ死んじゃいないよ」とでも言われそうだ。

2025-07-28

ここでも〇〇ファースト

今度の日曜日に横浜市長選の選挙がある。先日の参院選と合わせてやってくれたらよかったのだが、まあしかたない。

前回の横浜市長選時は、山下埠頭(みなとみらい地区)にカジノを含むIRを誘致するという当時の林文子市長に対する信任選挙の意味あいが強く争点が分かりやすかったが、今回はそうしたものが何もない。

4年前のその選挙ではカジノ推進派の市長は落選。そして外資系カジノ企業は大阪市に標的をシフトした。

今回の立候補者は現職を含めて6名。ただでさえ国政選挙と違って情報が限られているので配布された選挙公報に目を通してみた。

6名中2名が、〇〇ファーストを謳っている。二番煎じだ。いや、三番煎じか。講道館柔道二段だという女性は<横浜市民ファースト>を掲げ、「市民の命を守る」と訴える。元甲子園給仕、いや球児の男性は<横浜市民第一主義!>を標榜し、「市長報酬カット」をトップの抱負に掲げる。

なんだかなあ・・・盛り上がらない

2025-07-27

SNSはASN(Anti-social Newwork)

参院選から一週間が過ぎた。今回の選挙は全体を通じて実に不愉快なものだった。

各候補や政党が発する情報の扱いについて、これほど考えさせられた選挙はなかった(たぶんこれがその始まりなんだと思うが)。

 「切り取り動画」なるものが無数にネット空間に流れ、人はそれを見て心を動かされ、投票行動に反映させた。ただし、そこで流されていた圧倒的な量の、自分たちの正当性を主張するメッセージも他者を批判する内容も真偽不明のままでお構いなしだった。

コストなしで誰でもメッセージを発信できるということは、本当に危険なことだと思う。言論の統制をした方がよいと言っているのではない。ただ、自らの利益獲得のためにーーそれが投票行動であれネット広告からの収入であれーー明らかに間違った情報を拡散しようとしたものに対しては罰則が必要だろう。 

今さらながらだが、受け手の問題も大きい。「人は自分が信じたいものを信じる」生きものだから、簡単に誘導され騙される。そのための第一原則は、発信者が不明(無署名)な場合は、意識的にスルーすること。第二の原則は、内容について自分の頭で正しいかどうか考えて判断するしかない。

今回、東京選挙区で当選した皿だか竿だか知らないが、歌手を自称する女性は徴兵制の導入と日本の核武装を主張しているような人物である。

投票した人たち、特に若者たちはそれを理解しての選択なのだろうか。ならば、その女性と一緒にまずは自衛隊に入隊して訓練を受けろと言いたい。

今回の選挙戦の主な場はネットで、その主要ツールがSNS(Social Networking Service)だったわけだが、その今日的な意味はSocial(社会的)ではなくASN(Anti-social (反社会的)Newwork)にほかならなくなってしまった。

2025-07-26

グーグルによるセンサーシップ

先月、このブログの記事の多くがグーグル社によってそのインデックス登録をはずされたと書いた。

グーグル社から「バツ」を付けられたわけだが、彼らによるそうした「検閲」を確かめる目的で今回ブログサイトへ広告を掲載する設定にしてみた。

結果は想像したとおりで、広告掲載は不可だと言ってきた。

 
(クリックで拡大)

どのような審査だったのかは不明。相変わらずまったくのブラックボックスである。

おそらく、グーグルについての批判的コメントをいくつも掲載してあることが原因だろうと思っている。

というのは、以前、彼らからブログ上に広告を掲載するように推奨され、実際にネット広告を掲載していたことがあるから。

だけどその時は、広告収入といっても大した金額ではないし、またどんな種類の広告が掲載されるかコントロールできるわけではないので、ブログへの広告掲載はまもなく止めてしまった。

そうしたいきさつからも、今回の審査結果に対して僕は彼らに邪悪なものを感じる。

グーグルはそのポリシーを以下のように定めている(ChatGPTによるまとめ)。これらはすべて常識的なものばかり。このブログの記事をブロックする理由は一つも見当たらない。 

主なGoogleポリシーと違反例
1. Google 広告(旧AdWords)関連ポリシーの違反
    1-1 禁止されている商品・サービスの広告(例:偽造品、違法薬物)
    1-2 誤解を招く広告(例:虚偽の主張、不実表示)
    1-3 不正な広告行動(例:自動クリック、複数アカウントでの回避)

2. YouTubeのコミュニティガイドライン違反
    2-1 ヘイトスピーチや暴力的コンテンツの投稿
    2-2 著作権侵害(例:無断転載)
    2-3 スパムや詐欺的コンテンツの拡散
    2-4 子どもの安全に関わる違反行為

3. Google 検索に関するポリシー違反(検索スパム)
    3-1 キーワードの乱用(キーワードスタッフィング)
    3-2 クローキング(ユーザーと検索エンジンに異なる内容を表示)
    3-3 被リンクの不正操作(有料リンクやリンク交換など)

4. Google Play 開発者ポリシー違反
    4-1 マルウェアを含むアプリの配信
    4-2 ユーザーデータの不正な収集・送信
    4-3 無断で課金する仕組み

5. Googleアカウントの不正使用
    5-1 なりすましや偽名での登録
    5-2 不正アクセスの試み
    5-3 スパムメールの大量送信 

ネットの世界ですべてを自分の手でコントロールできると思っているグーグルは、自分たちを「神の座」に座っている存在と考えているのだろう。 

2025-07-24

渋谷陽一が亡くなった

2年前に脳出血で倒れ、その後リハビリを行っていたらしい。享年74歳。

渋谷が音楽評論家としてデビューしたのは、彼が19歳のとき。最初のレコード評は、グランド・ファンク・レイルロードの『サバイバル』についてだった。

その翌年に『rockin' on』を岩谷宏や橘川幸夫らと創刊している。確かまだ明治学院大の学生だったと思うけど。彼の論評スタンスは結構過激で、歯に衣着せずと言うか好き嫌いがはっきりしていたように思う。それが彼のロックへの向き合い方だった。

『ロッキング・オン』が誕生した頃の話は、橘川幸夫の『ロッキング・オンの時代』(晶文社)に詳しい。70年代のカウンターカルチャーの時代の空気が伝わってきて面白い。高度経済成長する時代を背景にした、懐かしく、思い切りのいい時代だった。 

個人的には、当時『ロッキング・オン』の渋谷陽一と『ニューミュージック・マガジン』の中村とうようがロック、ポップス、ブラック・ミュージックへの案内人だった。

渋谷は雑誌『ロッキング・オン』や『CUT』などを創刊したユニークな編集者であり、優れた音楽評論家であるとともに、リスナーを魅了するラジオDJだった。

雑誌メディアからスタートした渋谷は、僕にとっては「書く人」より「話す人」として記憶に残っている。NHKの『若いこだま』のラジオDJを彼が始めたとき僕は中学3年で、毎週ラジオに耳を傾けていたのを覚えている。NHK-FM『サウンドストリート』『ミュージックスクエア』など彼が英米のロックを紹介する番組も聴いていた。

僕が後年、FMラジオ局でラジオDJをやったのは、こうした番組をやっていた渋谷陽一とFM東京(現Tokyo FM)で「気まぐれ飛行船」をやっていた片岡義男の二人からの影響が大きい。

80年代前半、知り合いの勤める外資系広告代理店に「渋谷です」と言ってよく電話がかかってくるという話を聞いたことがある。彼女の職場の同僚が渋谷のガールフレンドらしくて、彼からの電話をよく取り次いだらしい。メールなんかなかった40年前のことである。

 

ちなみにGrand Funk Railroadは現在もバンド活動を続けている。まさにサバイバルだ。 

GFRの1974年のライブ。なぜか3人とも裸だ

 

2025-07-20

家電量販店の店頭掲示

友人が、都内の家電量販店で目にしたという店内ポスターの写真を送ってくれた。各フロアのレジに掲げられているらしい。

(クリックで拡大)

「STOP!  カスタマーハラスメント」の下には、「みなさまに気持ちよく過ごしていただくために」と書いてある。それにしては、まるで子どもに行儀を教えるかのように客に作法を説く。


掲示されたメッセージの受け取り方は人それぞれだろうが、ぼくは一読して嫌だなと感じてしまった。

上記のようなことを言わなきゃならないってことは、自分たちの客がそうしたレベルであるってことを言っているようなもの。そして、客にこのような言い方をする店側もまた、そうしたレベルであることを表している。 

ポスターの下の方に国土交通省、経済産業省、消費者庁、厚生労働省、法務省、警察庁、農林水産省の7省庁の名前をずらりと並べている。お上の名前で来店客を威圧しようというわけだ。

この家電量販店チェーンは、それほど悪質顧客に悩まされ続けているのかネ。

彼らが「カスハラ」と呼ぶものが年間どのくらいの件数発生してるのか、その会社の本社に問い合わせてみたら、「回答は拒否します」と言われた。その理由を問うたら、「それも拒否します」と返ってきた。

店頭の店員たちに気を遣ってやることはもちろん重要。だが、顧客も大切だという基本をこの企業は忘れているんじゃないか。

2025-07-18

相手は疑う、自分たちは信用してもらうしかない、とは

しばらく前、家族用のケータイの機種変更をKDDIで行った。料金プランは変えてない。

その後に郵送されてきた文書で料金プランの継続は確認済みだったのだが、先日届いた通話料の請求内訳を見るとなぜか料金プランが変更になっていた。

問い合わせたところ、相手は詳細を確認をして後日連絡するということで電話を切った。

本日知らない番号から着信があり、たまたま出たらKDDIだという。相手が私の名前を確認した後、私に生年月日を言え、という。

目的を尋ねたら「本人確認のため」。相手が言うには、本人になりすました第三者の指示で料金プランなどが変更されないようにするためだとか。だが、これはどう考えても失礼だし、おかしい。

電話をかけてきたあなたたちは自分が本当にKDDIの人間であることを先に証明すべきだろう、と言ったら黙ってしまった。で、信用してもらうしかないと。

だったら電話してきておきながら、相手に生年月日など言わせるなよと腹が立った。 

相手は疑ってかかる、だが自分のことはただ信用しろ、というのが彼らの考え。顧客を馬鹿にしてないか。

電話をかけてきた女性はその辺のことは分かっているようす。だが、そうしろと言われてやっている。こうした手続きをつくり、現場に押し付けている管理側の人間に問題がある。

料金プランが勝手に変わった原因はまだ分からない。 

2025-07-16

アメリカには今、スーパーヒーローが必要なんだろう

今日のニューヨーク・タイムスが歴代のスーパーマン6人を取り上げ、それらを詳細に比較した記事を掲載していた。

なんで? という印象だが、アメリカ人は今、こうしたスーパー・ヒーローをどこかで求めているからかもしれない。

などと思ってしまうのは考えすぎかもしれないが、自分のことを「キング」だと勘違いしているアメリカ一の、いや世界一の権力者でならず者がいるからね。 

僕が個人的に好きなのは、何と言っても映画の第1作目から4作目まで(1978ー87年)スーパーマンを演じたクリストファー・リーブである(写真左上)。 なんというか端正でハンサム、優男(やさおとこ)で女性にもてそうだ。

力強さはもちろんだが、知性も表現できた。それは役作りによるスーパーマン(クラーク・ケント)のキャラクターというより、リーブがそうした人だったのだろうと思う。経歴を見ると、彼はコーネル大を卒業した後、ジュリアードでも学んでいる。 

後年、乗馬中に落馬して脊髄を損傷。以降、障がい者として車椅子の生活を続けながら映画監督などを行った。自ら車椅子の主人公を演じたりもした。リーブは、エミー賞やグラミー賞まで受賞している多彩な人だった。

NYTで「原型」と評されたクリストファー・リーブのスーパーマン

2025-07-13

観天望気

このブログのタイトルに関してときどき質問を受ける。 

あらためて辞書で確認したら、観天望気とは「雲や風や空の色などを目で観察して,経験的に天気を予想すること」とあった。まあ、ざっとそんな感じか。

辞書の定義を少しだけ修正すると、観察するのは必ずしも目だけとは限らない。風や湿度や気圧の変化は視覚でなく体で感じて、その変化からこれからどうなるか推理を働かせる。

そうやって知識と経験と体の感覚すべてを使って天気を読むのは簡単ではないが面白い。

観天望気の技術を身につけたのは学生時代。何日も山に入っていると、先の天気がどうなるか分からない。しかも山の天気はただでさえ変わりやすい。安全に山行を続けるためには翌日、翌々日の天気がどうなるか正確に予見することがとても重要になる。

だから夜10時になると、テントの中でポケットラジオから聞こえてくる気象通報をもとに天気図用紙に日本各地の気圧、風向、風力、気温を書き込み天気図を描き、翌日以降の天気を自分で予測する。

天気の流れを知るためには、高気圧と低気圧の位置を知ることが大切だ。また等圧線のかたちも重要な情報になる。

陽が沈む夕暮れ前にはテントの外で空を眺めて雲の高さや空の色、風の具合も確かめておくことを忘れない。そうやって目に映る雲の状態のほかに、体で感じる気温、湿度、風から天気を読む。

実際に観天望気で分かるのは、せいぜい明日は一日雨に降られずにすみそうだ、とか、午後からは一雨来そうだというレベルだが、それでも貴重な情報であることには変わりない。

今、手元のスマホにウェザーニュースのアプリが入っている。無料版ながらアプリの「レーダー」でこれからの天気の変化が時刻ごとにピンポイントで分かる。

とても便利だが、気をつけなければとも思う。こうしたお天気アプリに慣れてしまうと、自分で空を見て天気を読む勘を失ってしまう。

それはクルマを運転するときに毎度ナビを使っているといつまで経っても道を覚えず、方向感覚や距離感覚が鈍っていくのと同じだ。

万一、そうした高度な技術ツールが使えなくなったとき、自分の体一つでどれだけ状況に対応できるかが人間に欠かせない力だと信じている。 

だから、このブログのタイトルは観天望気。周りの表層的な言説に左右されず、自分の感覚を頼りに社会という天気の先を読む。 

2025-07-12

ジェノサイドで儲ける世界的企業

未だに止まないイスラエルによるパレスチナへの攻撃。そのなかには病院や学校、子どもまで標的にした明らかに国際法に違反した攻撃が多い。食料の配給場所に集まった住民に向けてのイスラエル兵士による発砲まで行われている。

国連のフランチェスカ・アルバネーゼ特別報告者が、イスラエルによるパレスチナへの攻撃を可能にしている各種技術や情報の提供元を報告書で明らかにした。

2025年7月1日付の報告書「From economy of occupation to economy of genocide(占領の経済からジェノサイドの経済へ)」である。

そのなかで名指しされている主な企業の名前をあげる。多くは米国の企業だ。

🌑 軍需・防衛関連:
    Lockheed Martin
    Boeing
    General Dynamics
    Leonardo
    Oshkosh Corporation

🌑 重機・建設機器:
    Caterpillar

🌑 テクノロジー&クラウド:
    Microsoft
    Alphabet Inc.(Google)
    Amazon
    IBM
    Palantir Technologies
    HD Hyundai

🌑 航空宇宙・部品:
    Israel Aerospace Industries (IAI) 

🌑 金融・資産運用:
    Allianz(PIMCO)
    Barclays
    BlackRock
    BNP Paribas
    Pimco
    Vanguard

🌑 ロジスティクス:
    Maersk

🌑 コンサルティング:
    Boston Consulting Group

🌑 エネルギー:
    Chevron

🌑 航空・誘導兵器関連:
    Honeywell

米国の主要な軍需・防衛企業が登場するのは予想どおりだが、アマゾンやグーグル、マイクロソフトまでもかと・・・。ボストンなんたらというコンサル会社の名前も見える。報告書の中、日本企業ではファナックの名前が挙げられている。

https://www.theguardian.com/world/2025/jul/03/global-firms-profiting-israel-genocide-gaza-united-nations-rapporteur

https://www.reuters.com/business/aerospace-defense/lucrative-business-deals-help-sustain-israels-gaza-campaign-un-expert-says-2025-07-01/

https://www.bbc.com/news/articles/cx2039xpv87o

https://www.nytimes.com/2025/07/10/us/politics/gaza-francesca-albanese-sanctions.html?searchResultPosition=1

2025-07-11

あなたはどこまで「ファースト」か

今回の参院選で気になる動きの一つが「日本人ファースト」といった排外的な考えを前面に打ち出した党の台頭と、それを支援しようとする有権者たちである。

どの政党を支持するかは、それぞれの有権者の自由。ただ、「日本人ファースト」という考えを支持している人たちには、自分が「ファースト」として本当に処遇される側にいられると思っているのか問うてみたい。

「オレたち」と「アイツら」を二分することで人々の帰属意識をくすぐり、集団の傘の元へ引き寄せるやりかたは為政者による人心をつかむための常套手段である。

万が一、そうした考えに沿って日本にいる外国人を排斥したあと、何が起こるか考えた方がいいと思う。きっと次に起こるのは「エリート・ファースト」「富裕層ファースト」「既得権者ファースト」、つまるところは「権力者側の身内ファースト」だ。

「日本人ファースト」を政策とする政治家がやりたいことは、決して日本人すべて(1億2千万人の人口)をファーストな存在として取り扱うことでなく(そもそも不可能)、対立の構図をつくり人々を煽ることで自分たちに目を向けさせたいだけ。

外国人排斥に気持ちよさを感じるような人たちは、「日本人ファースト」で自分がファーストな扱いを受けられると思って歓迎しているのだろうが、次はそうした連中に向かってブーメランの先は向かっていく。 

2025-07-09

“調査によると「日経新聞」を信用していない若者が8割を超えた”

昨日の日経新聞のある記事に「都内では薬剤師の7割がカスハラにあったことがあるとの調査がある」という記述があった。

「調査」と書いてあるだけで具体的な調査名が示されていなかったので、それは何の調査なのか新聞社に問うてみた。

それに対して、同社カスタマーセンターから返信が届いた。

お尋ねの件ですが、読者の皆様にお伝えできるのは記事に書かれていることが全てでございます。お問い合わせされてきた方にだけ、記事に書かれていない詳しい内容や情報などを特別にお伝えすることは、できないことになっております。 

もし『週刊文春』が(別に文春でなくても他の週刊誌でも新聞でも構わないのだが)記事の中で「ある調査によると、日本経済新聞の記事の信憑性に疑問をもっている若いビジネスマンは8割を超えている」と書いたら、日経側はどう反応するか。

フツーに考えれば、彼らはその記事を掲載した雑誌社や新聞社に対して「その調査とは何なのか明らかにせよ」と求めるだろう。

それは至極当然のこと。というか、もしそのまま放置するようなら新聞社であることをやめた方がいい。であれば、なぜ先のような回答を読者に寄こして平気なのか。

「・・・との調査がある」という場合、それがどのようなサーベイなのか明らかにするのは報道機関としての基本的な責務である。それがなければ、「調査によれば・・・である」とした勝手な記事がいくらでも書けることになる。 

「お問い合わせされてきた方にだけ、記事に書かれていない詳しい内容や情報などを特別にお伝えすることは、できないことになっております」というなら、自社サイトに読者からの質問とそれへの回答を掲載すればいい。

記事に対しての無責任さ。そして、読者を見下したお粗末な新聞社の対応である。

2025-07-06

「なんでそうなるの」

今朝の日経新聞、その一面トップ記事に首を傾げた。

企業の経営計画を取り上げ、「数年単位の中期より10年以上の長期目線で経営に取り組む企業の方が、 利益の伸び率が大きいことが分かった」と書くのだがーー。

記事の書き手は、根拠として2024年にあずさ監査法人が行ったという調査をあげている。その調査結果では日本企業を将来の計画への時間軸の長さで区分けし、1年、3年、6年と答えた企業より10年以上としている企業の方が業績(過去5年間の営業利益の平均伸び率)が良かった(前者が18%、後者が52%)と述べている。示されているのは相関関係である。

だが記事は、10年あるいはそれ以上の長期的目標を設定する方が企業は高い業績をあげられると結論づける。目標を中期ではなく長期的に持つことによって、長期的な人材教育や投資が可能になるからだと説明しているが、理屈が通っていない。 

これって、因果関係の説明が逆転してるのではないか。データの範囲内で解釈を試みるなら、幸いにして過去5年間の業績(営業利益の伸び率)が好調だったからこそ、長期的な目標設定をすることが可能な経営状態にあるというのが実態ではないのか。

そしてそれほど儲かっていない企業は、まずは3カ年程度の収益目標をたて、それをどうきちんと実現させるかに注力せざるを得ないのが実状だろう。

そもそも、それこそ10年以上前から10年超の長期計画を目標にしてきた企業と、従来の中期を目標にしてきた双方の企業群の業績を10年間遡って比較してみなければ記事が言っていることは証明できないはず。だが、そうした検証は行っていない。

記事を書いた人物は、経営者には長期的な視点こそが重要であり、長期的に人材教育を施し長期的な視点で将来へ投資する企業こそが成功する、と言いたいようだ。彼(女)はファクトではなく、自分がそう思う(思いたい)ことを書いている。そして、最近では中期経営計画は廃止する企業が出始めているとしている。

しかしそれは、未来を確実に予見できればの話。今後10年先に市場がどうなっているか、顧客がどこにいるか、主要な競争相手がどこか、さらには世界経済はどうなっているかなど、そうした種々のことが明確に分かっていれば超長期目標でやればよい。

だが、常識的に考えればそれはムリ。もしできるのなら、どうやって予見するのか教えて欲しい。超能力でもあるのか、あるいはAIが教えてくれるとでもいうのか。 

書き手の思い込みと誤った推論をもとにした典型的な記事である。

2025-07-02

ルノワール

映画「ルノワール」の主人公は11歳の少女。時は1980年代後半。主な登場人物はその少女フキ(変わった名前だ)とその母と父。

父親(リリー・フランキー)は闘病中で入院している。医師から余命宣告は受けていないが、入院先の出す薬を自分で調べて自分がガンだと知っていて、死ぬ覚悟はもう気持ちのなかでほぼできている。母親(石田ひかり)は仕事と家事、それにフキの世話に追われて神経が尖っている。

そうした家族環境の中での少女のある夏が、いくつかのエピソードをパズルのように組み合わせながら展開していく。

ぼくには11歳の少女の気持ちを想像することや、彼女の周りに起こるだろう日々の出来事を思い浮かべることはたやすいことではないけど、それにしても映画の中で起こる事件のような出来事はまるでスペインのファンタジー映画を観ているような印象だった。

そんななか、一つだけ日本的というか土着感を感じたのは、入院している父親が病院を抜け出して自宅のアパートに帰り、寝室の扉を開けると、そこに女物の喪服が衣紋掛けに駆けられていたシーン。

ゾッとするとともに、これってあるかな〜? えっ? なに? あるんだ。

早川千絵監督の「PLAN 75」はテーマがストレートで、いかにも(良くも悪くも)新人監督のメジャーデビュー作といったものだったが、「ルノワール」は難しい。
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/08/blog-post_17.html 

11歳だという少女の気持ちの変化や波打つ感情を、もう推測できなくなっているからかもしれない。 

2025-07-01

Amazonから Appleへ切り換え

音楽のストリーミングサービスをAmazon Music Unlimited(AMU)からApple Musicに代えた。

AMUはアレクサでも使えてまあまあだった。だが、iPhoneとiPadでは最後まで使えなかった。

海外に住んでいたとき、現地のアマゾンのアカウントをつくり書籍やアプリを購入していた。そのため今もアマゾンのアカウントが2つあり、それらが影響し合ってiPhoneやiPadでAMUが使えなくなっているというのがアマゾン側の説明。

それが本当かどうかは、残念ながら自分では調べようもない。ぼくの問題解決のためにアマゾンではエンジニアのチームが日夜解決方法を探っている、という返答を受け取ってから1年以上経つが、その後の連絡はなし。

残る解決法は、アカウントの一つを削除することらしい。だが、そうすればそのアカウント名で購入したアプリや書籍など一切が使えなくなってしまう。

ならばと、AMUを止めてApple Musicに切り替えることにした。

つい先日、ジェフ・ベゾスはヴェネツィアで結婚式を挙げたらしい。オーバーツーリズムを理由に多くの地元住民が反対の声を上げるなか、72億円の費用を投じて6月27日から3日続く結婚祝賀行事を行ったとか。

ユーザーが手元のデバイスから音楽を聴けないで不自由しているなんて些末なこと、彼にはまったく関心はない。

われわれにできることは、まずは顧客であることを止めることなのである。 

2025-06-30

今夜も電話をかける

海外小説の出版を事業の中心とする早川書房、その社長による「私の履歴書」の最終回は次のようなくだりで終わっていた。

買おうかどうか思案している本の版権はいくつもある。さて、今夜はどの出版社、どのエージェントに電話をかけようか。 

やはりそうなのだな、と思った。電話なのだ。

メールでも要件のやり取りはできる。しかし、相手の声を聞き、こちらも肉声で応える、いきなり要件に入るのではなく、ときには相手への気遣いやちょっとした気の利いたスモールトークで雰囲気をつくって、それからビジネスの話に入る。タイパが信条、などと言っている向きには理解できないだろう。 

これは手間がかかる、もったいぶったやり取りかもしれない。しかも、電話で話しあったことはメールなどで必ず確認しているはずだ。 

だけど、やっぱり電話するんだな。相手の住んでいる国の時刻を頭の片隅におきながら。

彼らが扱っている本という商材の特性もあるし、出版業という製造業やITなどとは違った肌合いのビジネスという背景もあるだろう。

ただ単に性能や特性、価格をもとにその場限りの売買を決めるではない、相手の顔を思い浮かべながら最終的に決めるというやり方。こうしたビジネスを今もやっている業界があるということに、なんだかほっとする。 

2025-06-28

ブログ記事の品質は誰が判断するのか

ブログを書き始めたのは2009年から。思ったことを勝手に書き綴ってきたが、どうもこれまで書いたブログ記事の多くがGoogleで配信されていないことが判った。


Google上でのインデックス未登録とされたものが多数あり、さらにひと月ほど前にその数が一気に急増していた。

なぜそれまで登録されていた記事まで未登録にされたのか理由は不明だ。手がかりを知ろうとそのグーグルで検索してみると、説明が記されたページにブログ記事の品質に関する記述が現れた。 


ページの品質が十分に高くなければいけません、だって!? 

だが、「品質」についての定義もその基準の説明もなく、やってることは相変わらずブラックボックス。

これまでグーグルという企業に対する不審と不信についてもこのブログで取り上げてきた。それが理由かもしれない、と思っている。

いま使っているこのbloggerというサービスだが、グーグルが運営していると知らずに使い始めてしまった経緯がある。他のブログサービスへの移行もできるが、それには手間がかかるし、どうしようかなと。 

2025-06-21

問題の本質は、マスクでなくマスキング(隠蔽)にある

安倍政権が2020年に全国に配布した「アベノマスク」に関し、業者との契約過程が不明だとしてそれを明らかにするよう神戸学院大の上脇教授が求めた裁判が、原告側勝訴で確定した。

業者との契約過程を記した文書の不開示決定の大半が取り消され、国に賠償金の支払いを命じた大阪地裁の判決に対して国は期限までに控訴しなかった。

地裁の判決はというと、マスクを調達する業者との記録が文書1枚、電子メール1通すら作成されないまま事業が行われたとは考えがたいとしたものだった。

今後、われわれが注意を向けるべき点は、彼らが「ない」と言っていたはずのどんな文書が出てくるかということにまして、原告側の開示要求に対して国が一貫して「記録は一切ない」と突き放したウソの回答をしていたことにある。

裁判に訴えた原告だけではない、すべての国民をなめていないか。 

日本全国の5,600万世帯へ配布するマスクの調達と発送を、コロナ時において業者と文書1枚、メール1通かわさないで(すべてを口頭だけで!)手続きするなど、小学生が考えてもオカシイのはあきらか。

そうなんだけど、国側はこともあろうか裁判の場でもそう言い放った。なぜか。その理由は簡単で、役人はこれまでも市民からの問合せに対して「そうした記録はない」と突き放して、それで済ませていたからである。

それが彼らの常套手段であり、突き放された市民側は「記録はない」と言われて引き下がるしかなかったから。いくら「それはおかしい。あるはずだ」と主張しても、役人側が「ないものはない」と譲らなければ、市民側はそれ以上は手の出しようがないからである。

これが役人の手口。強弁を続けてしらばっくれれば、やがて相手が引っ込むと思っている。だが、裁判ではそうはいかなかった。当たり前だけどね。 

役人にとっての常識が、いかに市民にとって非常識かが浮き彫りになったひとつの例だ。

だいたい、市民からの情報公開請求に対して役所がさっさと応えればすむものであって、裁判で争うようなものじゃないと思うんだが。 

2025-06-17

「世界の果てからこんにちは Ⅰ」

早稲田大学の南門通りにある早稲田小劇場どらま館がリニューアル10周年を迎えた。そして、もともとその地に芝居小屋「早稲田小劇場」を構えていた鈴木忠志がSCOT(Suzuki Company of Toga)を利賀に立ち上げてから50年目。

その節目の年ということで、早稲田小劇場どらま館で「世界の果てからこんにちはⅠ」の映像上映会が行われた。

早稲田小劇場どらま館

今回の記録映像は2023年の利賀での同作品の上演風景。ステージの後ろに広い池が配置され、そのさらに背面には利賀の山なみが控える円形劇場である。むかし演劇際(利賀フェスティバル)を現地に観に行った夏のことを思い出す。

「世界の果てからこんにちは Ⅰ」

昨年暮れは帰国していた折に「世界の果てからこんにちはⅢ」を都内の劇場で観る機会があった。が、鈴木演出の芝居は室内ではなく、利賀の屋外劇場で観るのがやはり一番と再認識した。 

2025-06-14

Anselm Kiefer + 京都二条城

昨年日本で公開された「アンゼルム 傷ついた世界の芸術家」は、戦後ドイツを代表する芸術家であるアンゼルム・キーファーを主人公とした、ヴィム・ヴェンダース監督によるドキュメンタリー映画だった。

1945年、第二次大戦のさなか、実家が爆撃された日に生まれたという。今年80歳になるこの芸術家を僕はその映画を観るまで知らなかった。

この映画で一番印象に残っているのは、パリの郊外にあるという彼のアトリエ。まるでジャンボ・ジェット機の格納庫を思わせるような巨大な空間におびただしい数の作品が収納されいて、キーファーがそのなかを自転車で悠然と動き回るシーンがおもしろかった。

ヴィム・ヴェンダースが製作した映画ということもあり、以降、キーファーにも興味を持っていたところ、京都の二条城で彼の展覧会が開催されていることを知った。

 
二の丸御殿台所を舞台にした会場に足を踏み入れて、まず最初に目に飛び込んできたのは、彼の代表作の一つである「ラー」と名付けられた例の翼だ。

二条城の空間に不思議とマッチしている

ほぼ想像していた通りの大きさに嬉しくなる。今回、展覧会に足を運んだのは彼の作品の実際の大きさとそれぞれの作品の質感を確かめたかったから。

だが、それ以外の作品はといえば、個々のものはそれぞれ興味深かったのだけど、残念ながら展示作品の点数が限られていて、その少ない点数を「二条城」という別の作品で補っている展覧会という感じだ。 

ところで今回、展示を見るために二条城のかつて台所だった建物の中に靴を脱いで上がるのだ、展示作品を見ていた連れが会場スタッフに声を掛けられた。

ストッキングと裸足はダメで、スリッパを履いてくれという。チケットを購入したホームページの注意事項にはそうした文言はなかったと返したら、先ほどチケット窓口でそう伝えてあるはずだと。

チケット窓口に並んだのは僕だから、ストッキングのことなんか言われても当然ながら知った事じゃない。右から左だ。 

これは、建物のなかでは帽子を取ってくれ、というような事とは違う。ストッキングがダメなら靴下を履いてくるように事前にサイトで注意を促しておくべきだが、そうしたことがなされてなかった。

結局、建物からいったん外に出て、別に設えられた売店でスリッパを買わされることになった。

これはやり方が間違っている。万が一、ストッキングの女性に対してスリッパを履くことを求めるのであれば運営側が用意したものをそこで差し出すべきである。主催者の極めてお粗末な運営をうかがわせた。 

展覧会のあとは、キーファーの作品からふと連想した銀閣寺を訪ねた。断続的に雨が降り続いていたがそのためか思ったほど人はおらず、広い境内のなかをゆっくり回ることができたのが良かった。

雨に濡れた緑のなかの観音殿(銀閣)

2025-06-12

ブライアン・ウィルソンが亡くなった

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが82歳でなくなった。

薬物中毒に苦しんだり、精神を病んだり、彼の人生は大変な苦痛の波に何度も襲われていた。死去する前は認知症を患っていたらしい。

ただ3年前に公開された映画「ブライアン・ウィルソン 約束の旅路」の中の彼には、そうした印象はまだ見受けられなかったのだけど。
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/08/blog-post_21.html  

間違いなく不世出のミュージシャンだった。これから世界中の多くのミュージシャンからトリビュートが寄せられることだろう。 

ところでビーチ・ボーイズというバンド名は、彼らが自分たちで付けたものではなく、レコード会社が勝手に命名したもの。彼らにはもともと別のバンド名があったが、レコード会社によって製作されたレコード盤には見たこともない名前が印刷されていた。そのときメンバーは全員驚いたが、すでに遅かった。

ビーチ・ボーイズの、というか、ブライアン・ウィルソンの曲にはサーフィンをテーマにした曲もあるけど、バラード調の曲にもすばらしいものがたくさんある。


2025-06-10

岡山県と香川県の間には何があるか

今年、3年おきに開催される瀬戸内国際芸術祭の第6回目となる催しが香川県の直島を中心に開催されている。
https://setouchi-artfest.jp/

直島にはいまでは世界中から現代アートのファンが訪れる。アメリカ、フランス、イギリス、オランダ、トルコ、ニュージーランド、韓国、中国、香港、タイ、スペイン、モロッコなどなど、僕が現地で知り合った人たちだけでもその国籍は数えきれないくらい。

先日、NHKの看板番組のひとつがその島を取り上げた。番組の冒頭、現地を訪れた同局のキャスターである有馬嘉男は「直島は、岡山県と香川県の間にある島です」と紹介した。

んっ? 直島はまぎれもなく香川県の島。そもそも、岡山県と香川県の間には島などない。何かあるとしたら(目には見えない)県境のラインだけだ。

まあ、よくある言い間違いといえばそうなのだが、その番組は生放送ではなく、収録したものを編集して制作した50分のゴールデンタイムの全国放送番組である。

放送前には何人ものNHKの人間が試写を見ているはずなのに、どうしてこうした日本語の初歩的な誤用に誰も気づかないのだろうか。

ところで、この番組では瀬戸内海の島々が「アートによって甦った」というテーマを据えていたが、かつて瀬戸内海が公害に汚染されていたという死んだ魚の映像がとってつけたものだった。

死んだ魚たちが岸辺の波間に漂う映像だったが、クレジットが何もなかったのでその撮影年と場所を問うてみた。すると、1970年に水島コンビナート付近で撮影された映像だという。55年前のものだ。

瀬戸内国際芸術祭の第1回が開催されたのは2010年。40年間にわたり瀬戸内海が腐った海であったわけではないし、それほど長きにわたって酷い風評被害を受け続けたわけでもない。

番組内容にはそれ以外にもおかしな点がいくつかあり、今回の番組の製作・著作だったNHK岡山局に話を聞こうと連絡したところ、「担当ディレクターは現在休暇をとってヨーロッパに行っており、1か月以上先にならないと帰ってこず、それまで連絡はとれません」と言われた。

失笑するしかない。 

2025-06-08

同質性メンバーが生む集団思考が招く失敗

東京電力の旧経営陣で、今回株主らから裁判で責任を問われた被告について調べたら、実に似通った4人組だった。

元会長・勝俣恒久(故人)
元社長・清水正孝
元副社長・武黒一郎
元副社長・武藤栄

これら4人はいずれも年配の日本人男性。東電への入社は4人のうち3人(勝俣、清水、武黒)が1960年代、1人が70年代前半。概ね同世代である。出身校は4人のうち3人(勝俣、武黒、武藤)が東京大学、1人が慶応大学。それぞれが上記の役職に就いたのは3人(勝俣、清水、武黒)が2008年、1人が2010年。4人とも新卒入社で東電一筋のキャリア。

これだけでも、彼らが極めてホモソーシャルな集団であることが分かる。そうした同質性の高いグループは、一般的に米国の社会心理学者 A・ジャニスがいうところの集団思考に陥りやすい。そして、集団思考という思考停止の結果、組織は失敗する。

ホモソーシャルなだけではない。4人の中には明確な上下関係(入社年度)があり、そのなかで各自が保身のために生きていた。 

そのような集団では合理的かつ独自の判断は求められない。既存の秩序とルールを決して乱さないこと、全体の流れから逸れないこと、そのために「変化」を起こさないことが最良の生存戦略になる。

目は組織の内部にしか向いておらず、自分たちの事業が兼ね備えているはずのリスク、たとえそれが人々の命にかかわることであっても「本気で」考えることなど及びもつかない現状維持バイアスで脳みその大半が埋め尽くされたサラリーマン経営者たち。 

このことは当時の東電だけではなく、多くの日本の大企業が今も同じである。 

2025-06-07

原発を東京に

東電旧経営陣の責任を問う株主代表訴訟の判決で、東京高裁はかつての経営者4人に対し13兆円強の賠償を命じた東京地裁の1審判決を完全に翻し、無実とした。 

ポイントは、津波を予見できたか否かの判断であり、その元となった国が行った地震予測の長期評価をどう扱うかだった。

東日本大震災の9年前に国の機関が公表した地震予測「長期評価」では、三陸沖から房総に至る地域でマグニチュード8.2級の大地震が発生する可能性があると言及されていた。

そして、地震が起こった場合、福島第1原発は最大16メートルの高さの津波に襲われると東電は計算していた。実際に東日本大震災が起こる3年前、2008年のことだ。

しかし、東電の当時の経営者らは対応策を施さなかった。なぜか? 「そんなもん、めったなことじゃ起こるはずない」という希望的観測だ。あるいは「自分が在任中に起こらなきゃ構わない」といった経営者の考えがなかったと言えるか。

国の機関による地震予測に対応する対策を東電がとっていれば、最悪の事態は防げたのが今になれば残念でならない。

結果、2011年に大地震と大津波が発生し、冷却水を取るために海岸沿いに設置された福島の原発が爆発したのである。

事故の発生リスクを知っていながら策をとらなかった。これは明らかに経営ミスであり、それゆえに1審の東京地裁はその責任を認めた。

ところが、東京高裁は一転無実とした。地震発生の長期評価の信頼性が不十分だと結論づけたからである。裁判官は科学者でもないのに。

地震発生について、その規模やタイミングを完璧に予測することはできない。当時も今も、おそらく将来的にもそうだろう。

だが、それは当時のトップレベルの専門家がまとめた見解だった。無視していいことにはならない。無視するのであれば、そもそも国の機関によるそうした報告書自体がまったく無意味ということだ。

高裁の木納敏和裁判長は、評価委員会の結果を信頼できないものであって、対応を取らなかった東電の経営者が言った「巨大津波は想定外だった」という言い訳を丸呑みしたわけだ。

ちなみに、東電の勝俣は原発事故の7年前、東電の地域住民モニターだった町議の女性から「原発の非常用発電機を地上に移して欲しい。大津波に襲われるから」と訴えられたとき、「コストがかかりすぎるから無理」と回答していた。津波が想定外だった、なんての噓っぱちで、金がかかるからやんないとはっきり明言していたじゃないか。 

リスクといっても、もしそれが発生した場合、企業の売上が減少するとかの話ではない。万一それが発生した場合、多くの人命が失われ、その地域も国全体も長年にわたって被災し続けることは分かっていたはずだ。にもかかわらず、4人の経営者はリスクを看過した。 

世界を震撼させた東電福島第1原発の爆発事故からまだ14年しかたっていないのに、国は「原発回帰」に舵を切った。今回の東京高裁の判決は、まさにそれを忖度し支持するものである。 


そもそも、原子力発電がかかえるリスクを電力会社の経営者が知らないはずはない。だからこそ、原発は電力需要が最大の東京ではなく地方の福島や新潟、大阪ではなく福井や石川に置かれている。

私たちも原発のリスクを過小評価しすぎ。たとえそのことを分かっていても、すぐ忘れるし。理性的に考え続けるのはたいへんなのだ。