2011年7月31日

アンナさん、そんな無節操な

8月4日号の週刊文春に「荻野アンナのワンダーランド・宮城」というJR東日本の記事風広告(3頁続き)が載っていた。広告だから誰が何を言おうが基本的には勝手だけど、メインタイトルが「がんばろう東北! がんばろう宮城!」で、それを荻野アンナが言っていることに憤怒する。

以前、電事連(電気事業連合会)の広告に出て、同じ文春で原発を持ち上げていたのに。そんなことはもう誰も覚えていないとでも思っているのだろうか。

検索窓に「東京電力 荻野アンナ」と入れてみれば、彼女が原発文化人と云われる連中の代表的な一人であることが容易に分かる。どの面(つら)下げて、こうしたメッセージが出せるのか。また、広告主の真意を疑う。

2011年7月29日

ホワイトハウスと首相官邸

DVDで「ザ・ホワイトハウス<セブンス・シーズン>」を見終わった。全21話と長かったが、飽きることなく全編を見せたのはシナリオも演出も俳優陣もすばらしかったから。もとはアメリカのテレビ番組である。番組製作の厚みが違う。

舞台であるホワイトハウスや大統領選挙戦の様子が事実とどれだけ同じでどれだけ演出上のものなのか僕には判断がつかないが、ドラマ上で大統領や次期大統領候補者を取り巻く連中がすばらしいのに感銘を受けた。国の最高意思決定者は、最高の能力と強いスピリットを持った多くのスタッフに支えられて初めてよい仕事ができる。

これは国という巨大な組織を動かすために不可欠なシステムである。日本はそうしたシステム作りが下手なのだろう。かつては官僚組織というシステムがそうした役割をそれなりに果たしていたのだろう。しかし、それはもういらない。そして問題は、トップマネジメントを支える今日的なそうしたシステムがないことだ。その事は、今の官邸の様子からうかがうことができる。

首相個人も問題だが、現在の状況は「システム」の問題でもある。

2011年7月25日

節電ファッショ

NTTデータの社長が新聞紙上で述べている。「ジャケット禁止の会合も増えた。会社の取り組みは本気だ」。発言の前後関係は分からない。会社の取り組みもなるほど本気なのだろう。結構である。しかし、ジャケットを羽織ろうが羽織るまいが、それは個人の自由というものだ。

彼はこうも発言している。「今はネクタイを締めて客先を訪れたら、逆にしかられる」。こういうのって、何か連想させないだろうか。戦時中、他人と違う装いをしたり行動をすると「非国民」と非難された「あれ」だ。

同社ではスーパークールビズ定着を狙って、アパレル会社を呼んで「社内ファッション・ショー」を行い、モデルを社員に務めさせたとか。社員の皆さん、楽しかったですか。ゴクローサン。

2011年7月22日

厚生労働省って、ものを考えているのか

先日、「労働経済白書」(2011年版)が発表された。そのなかで、大学進学率が上昇しているデータと、大卒者の就職率が伸び悩んでいるデータを重ね合わせて、若者の高学歴化が就職につながっていないという指摘がなされている。

で、その理由は大学の学科構成や教える内容が社会とずれているからだと分析している。どうしてそういう分析になるんだろう? そもそも今時、大学進学率の上昇、イコール若者の高学歴化と直線的に(すなおに)考えているところからしてはずしている。

大学卒業後に就職も進学もしていない人を学部別にみると理系より文系が多いことから、「大学の学科構成は社会のニーズにあっていない」とか。大学というのは、殖産興業のための装置でもなければ、就職の予備校でもないのだよ。

景気後退期に企業が雇用を抑えるのは当然の行動である。また、文系と理系の学生比率と企業の採用活動の間には、直接の関係はない。ほとんどの企業は、あらかじめ策定した採用計画に沿って採用者数を決めているのであって、「今年の入社希望者で理系の学生の割合が少なかったから、また学生が学んでいる科目が当社が期待している内容ではなかった結果、採用者数を手控えた」なんてことがあると思っているのだろうか。

2011年7月21日

「ぴあ」が廃刊に

7月21日発売の号を最後に、ぴあが廃刊になった。創刊以来39年間ということで、まずは表紙を毎号書き続けた及川正通氏にお疲れさんと言いたい。似顔絵でもなく、単なるリアリズムでもない、独特の及川ワールドを毎号見せてくれた。

ネット時代に向けて役割を終えたから、と発行元は言っているが、僕は長年の読者としてそうではないと思っている。ぴあのように、映画だけでなく演劇も、コンサートやライブの情報、美術展、スポーツイベントなど、種々雑多なライトな情報を探すのは、ネットより雑誌がはるかに優れている。

原因は編集の問題だ。僕が中心的読者層から外れているからかもしれないが、この10年くらいは内容がだんだんガキっぽくなり、アホっぽくなり、どうでもいいようなページが増えてきた。いや、編集者を責めるのは酷かもしれない。読者に合わせたらこうなっていったのかしれない。結局、われわれ全体の文化度の問題か。

平綴じが中綴じになった時は、平綴じに戻してくれるように要望を綴った手紙を編集部に送った。平綴じじゃないときれいにバラバラにできないからね。普段カバンに入れて持ち歩くのは、自分の行動範囲内の映画館情報とライブハウス情報だけで十分。

ネットはいいから、誰かまたこうした雑誌を作ってくれないかなあ。

2011年7月16日

2220時間

地デジ対策をと考えて、近くの家電量販をたずねた。我が家のテレビはもう15年くらい前のブラウン管テレビである。消費電力も気になり、この機に液晶テレビに買い換えようと思った。

店員のアドバイスを参考に思案したあげく「これにしよう」と選んだ機種。ところが在庫を調べるてもらうと、配達は9月になるとのこと。一ヵ月以上かかる。僕のようにアナログ放送終了間近での購入客が多いからだろうという説明を受ける。

他のテレビを選び直す気力がなくなり、取りあえずチューナーを買おうと考え、ブルーレイディスクレコーダーを購入することにした。こちらはテレビほど銘柄選択は難しくない。コストとハードディスク容量を眺めながら購入機種を決めた。

僕が選んだのは、シリーズで最も容量が小さなものである。それでもフルハイビジョンが長時間モードで232時間録画できる。最上機の録画可能時間は、なんと2220時間。目一杯録画した映像を毎日3時間見るとして740日、丸2年以上かかる。

2011年7月15日

Natural Guitar

昔から通っている学芸大駅前の店で「今日も暑かったね〜」などと言いながらビールをやってたら、BGMで涼しげな音楽が。アコースティックギターの軽やかな響きだ。

松宮幹彦さんというギタリストで、その店のお客さんのCD「Natural Guitar」である。その時は店に取り置きがなかったが、先日仕事帰りにのぞいたら本人がいて、少しお喋りをした。お客さん用にと店においてあったCDを一枚購入し、今は自宅で聞いている。エアコンをつけなくとも、部屋の温度が2度は下がる感じがする。

2011年7月14日

どうしようもない人事管理

新聞の記事に「東京電力は13日、福島第1原発で4月に作業した協力会社の作業員のうち118人と連絡が取れないと発表した」とあった。3月の作業に従事した人も含めると132人になるらしい。

連絡が取れないというのは、電話しても相手が出ない、というのではない。連絡先が不明ということ。

もともと彼らについて住所不定・連絡先なし、だったわけではないはず。なぜなら、「協力会社」とやらが作業員として雇用契約を結んでいたはずなのだから。もしそれがなされていなかったとしたら、基本的な管理ミスの問題だろう。杜撰。これらの元作業員は、その後の被曝線量の検査すら受けていないのだ。

10年前の話をしているのではない。彼らが働いていたのは、つい3ヵ月前のことだ。東京電力は「協力会社」による雇用主責任のままやり過ごすのだろうか。

2011年6月30日

映画「ビューティフル」の美しさ

「ノーカントリー」で強烈な印象を残したハビエル・バルデム主演の「ビューティフル」が公開された。原題は"BIUTIFUL"。英語のスペルは間違っているが、これでいいのだ。

末期癌で余命2ヵ月と分かった、バルセロナで生きる一人の男の死に向かう生き方。舞台はバルセロナの裏町。ウディ・アレンの「恋するバルセロナ」とは全く別面のバルセロナがここでは描かれている。サグラダファミリアが映った街のシーンが途中挿入されてなければ、僕はバルセロナとは気づかなかったかもしれない。正直、最初はメキシコが舞台だと信じて観ていた。

知らなかったが、欧州はどこでも移民が多いらしい。中国やセネガルからの移民の様子がドキュメンタリー的に描かれている。一日16時間の労働を強いられ、狭い一つの部屋で寝起きをしている中国人移民。給料の多くは元締めに搾取されている。それでも、彼らを搾取する同じ中国人からすれば「あいつらは中国で働いても一日50セントにしかならないのだ」。

セネガルからやってきた女性。乳飲み子を抱えたまま、夫は違法薬物の売買で警察に捕まる。金を貯めてセネガルに帰りたいと願っている。自国に恵まれた仕事や明るい未来があるわけではない。ただ、スペインの社会からはどうやっても本当の意味では受け入れられないという排斥の感覚に耐えられないのだ。

先週観た「127時間」は、若いアメリカ男が死の淵から再び生への世界へと脱出する話。「ビューティフル」は死に向かう中年のスペイン男が、死を受け止めたまま生きる(死ぬ)話だ。「127時間」も凄まじい内容だったが、ひょんな事故で動けなくなった主人公には未来と可能性があり、解決すべき問題もただ一つ。明快だ。彼はそれを自らの勇気と知恵で乗り越えた。「ビューティフル」の主人公は、その面では救いようがない。どうしようもない。人智を越えている。諦観と背中合わせに、やがて来るその時までの時間を一日一日過ごす。

監督のアレハンドロ・ゴンザレス・イナャリトゥは、黒澤明の「生きる」に影響を受けたという。なるほど、この映画は黒澤から50年後の「生きる」だ。

2011年6月27日

スタンフォード白熱教室

昨晩深夜のNHK「スタンフォード白熱教室」を見ていて、どこかで見た顔と思っていたところ、思い出した。彼女とは2年前の7月にハワイで会った。

学会報告のために訪れていたシェラトンワイキキでのことだ。あまりに天気がいいので、途中で会場を抜け出しオープンエアのロビーで寛いでいたら、隣のソファにいた女性から今日ここでは何の学会が開催されているのかと話しかけられた。

いきなりの学会という言葉から、同業者かと思い話をし始めると、スタンフォード大でアントレプレナーシップを教えているとか。昼食らしいバナナとヨーグルトをコーヒーで流し込みながら早口でしゃべっていた女が、この番組に出ているティナ・シーリグだった。

2011年6月19日

宇宙からの視線

慶応大学で、元グーグル日本法人社長の辻野晃一郎さんの講演会があった。

彼は、グーグルでの3年間を振り返って「グーグルの連中には、宇宙のどこかから地球を眺めているような視線を感じた」と語っていた。そのとき彼が会場のスクリーン投射したグーグル・アースによる地球の映像が、その意味するところをより的確に伝えていた。

また、日本人や日本企業の視線がいかに内向きで閉ざされたものかを指摘していた。例えで彼が挙げていたのは、日本のメディアによる報道の内容のいびつさである。まったく同感だ。

NHKをはじめ、日本のどの報道機関も明からに国内最優先である。確かに視聴者は日本人だから国内の出来事を中心にという考え方なのかもしれないが、あまりにバランスが悪い。というか、海外なんて面倒くさいというような編集方針すら透けて見える。

2011年6月16日

順応しないことも大切

留学を考えている社会人大学院生たちの集まりが、早稲田通り沿いのレストランであった。彼らは定期的に集まっては情報交換をしているらしい。その会でのスピーチを頼まれた。

留学を終えて帰国したときに感じる「違和感」をできる限り長く忘れないようにとの思いを込めて、帰ってきたら意識的に行った先の国に「かぶれろ」という話をさせてもらった。アメリカかぶれ、とかフランスかぶれとかだ。

話をしている相手はみんな社会人経験のある大学院生たちだからこそ、こうした話を敢えてさせてもらった。何々かぶれなんて、本当は褒められたものじゃないのは百も承知だ。けれど、どうせ帰国して半年もすれば、日本という国の古めかしい制度や個人を拘束する日本人のしきたりなんてものにも、いつの間にか再順応するはず。だからこそ、少しでも長く日本という国に「違和感」を感じて、そしてその意味するところを考えて欲しいと思っている。

2011年6月15日

WBSマーケティング授業終了

今日で夜間主MBAのマーケティング授業が終わった。7&8限の授業は受ける方も教壇に立つ方も大変だ。

22時過ぎに授業を終了。教室に残った学生の対応をしながら(僕の著書へのサインを求められたり、名刺の交換をしたり)、授業の後片づけをする。その後研究室にいったん戻り、荷物をまとめつつ、急ぎのメールの確認をすませればもう23時である。だから、帰宅は24時過ぎになる。

2011年6月12日

失明暗

新聞の文化欄に声楽家の塩谷靖子さんが文章を寄せていた。そこで彼女が書いていた「失明暗」という言葉に目を引かれた。

8歳で光を失った彼女にとって、光のない世界は闇ではないという。失明直後は闇であったとしても、いずれ明るくも暗くもなくなるからだそうだ。「明があるからこそ暗があるのであって、つねに明がない者にとっては暗もないのだ。だから、失明という言葉は、正しくは失明暗と言うべきかもしれない」と書かれている。なんという真実!

だからこそ、彼女は光溢れる世界をもう一度見たいと憧れると同時に、闇に思いをはせる。「失明暗の状態にある者にとっては、もはや体験することのできない、真夜中の森を覆い尽くす闇や、カーテンを閉めて明かりを消した寝室に漂う闇が恋しくなるのだ」との言葉に、深い知性と繊細な神経の存在を感じる。

2011年6月11日

原発だけでなかった情報操作

日本経済研究センターの研究員の調査で、日本株の長期リターンは過大に計算されていたことがわかった。 

この調査レポート(JCER Discussion Paper No. 130)では、過去の長期収益率としてこれまで日本証券経済研究所が集計・公表してきたものは計算過程に課題があったことが指摘されている。配当込み東証株価指数(TOPIX)を使って計算し直すと、過去58年間の投資収益率は従来推計を2.8%下回る9.1%にとどまり、1986年以降に投資を始めた場合、株の購入年が2002年、03年、09年だった場合を除いて、配当を含めても元本割れになっていることが明らかになった。

つまり、ほとんどみんな損してたということだ。一般投資家はなおさらのことだろう。株式投資は短期的な値動きの変動は大きくても、銘柄を分散し長期に保有すれば資産形成につながりやすいと言われている。 しかしそれは、「売り手」側にとっての都合のよい「神話」だったわけだ。

2011年6月10日

文章の誕生感

荒川洋治さんの本のなかに、彼が初めてメールを使ったときのことが書いてあった。
最初にもらったメールが、画面に浮かんだときの印象をぼくは生涯忘れないだろう。メールを、おそるおそる開けた。するとどこから湧いたのか。すぅーっと先方の文字があらわれる。静かである。声がない。音もない。時もない。文章というものが生まれた瞬間に立ち会うような気分だった。 古代の空気を感じた。ことばはこのようにして、この世にあらわれたのだと思った。この世から消えるのだと思った。
それまでFaxで原稿をやりとりしていた彼にすれば、静かに言葉が生まれたと感じたのも分かる気がする。そして消えていくのだろう。

これが書かれたのはちょうど10年前、2001年のこと。

2011年6月9日

学生との飲み会

昨晩7&8限の授業が終わった後、学生たちとの飲み会が戸山キャンパス近くの店で行われた。宴会の開始が22時半過ぎ。それでも55名の履修者のなかで40名強が参加していたのではないだろうか。妙な高揚感のなか、終電までの宴が続いた。なかなかパワフルである。社会人学生らしくその口々からは、忙しい、疲れる、(家族を顧みないので)女房から嫌みを言われる、など文句も縷々出るが、まんざらではなさそうだ。

帰り際、学生たちから花束をもらった。混雑している終電間近の電車に花束を持って乗り込む気分は悪くない。持って帰ってどうしたかって? もちろんビアジョッキに移し替えたよ。

2011年6月4日

つるむと何故かっこ悪いのだろう

富士山を眺めながら、鳥の鳴き声を耳に山中湖近くの街道を散歩していたら、後ろから低い独特の排気音を響かせながら一群の車がやってきた。その数、約10台。ほとんどがポルシェ911である。それぞれのボディーカラーやオプションの仕様がオーナーの趣味をうかがわせる。

ポルシェが数珠つなぎで山道のつづれ織りを降りていく様は異様だ。富士山を望める絶景のロケーションにもかかわらず、彼らが見ているのは直前を走る車と後続車だけだろう。何のために走っているのか。

ポルシェはすばらしい車だが、つるんで走っているのは本当にカッコ悪い。周りに目を向けず、仲間うちだけに意識を向けていてカッコ悪いのは、もちろん車だけじゃないが。

自転車は車だ

電気自動車の進歩が急速に進んでいる。化石エネルギーに頼らず、二酸化炭素も排出しないことから時代の要請と言える。ただ、そのエネルギーとなる電気は、太陽光などの自然エネルギーでまかなう仕組みはまだできていない。

エコの点で自転車に今以上の視線が集まるのは必至だ。しかも環境問題だけでなく、個人の健康やライフスタイルの観点からもその方向性は間違いない。コストや扱いやすさも魅力だ。

しかし、いまは自転車に乗るということが多くの人にとって「歩行」の代替となっていて、そのため自転車が歩道を平気で走り、車道の右側を走り、横断歩道を斜めに突っ切る。夜間の無灯火は自分が大丈夫だからというだけのワガママな理由あるいは怠慢であり、取り締まるべき対象だ。

数年前、英国のオックスフォードに住んでいた時、 街中で多くの自転車を見た。大学街ということで若者が多いせいもあるが、日本でいうママチャリはほとんどなく、スピードの出るスポーツバイクが多かった。ヘルメットをかぶり、乗り手は反射シートが貼られたジャケットを身につけ、かなりの速度で走る。その位置づけは車なのだ。

都心でも近距離移動に優れた点が多い自転車がもっと注目されていい。と同時に、そのためのレーンの設置やルールの早急な整備が必要だ。

2011年5月22日

Inside Jobという「仕事」

ここでのインサイド・ジョブとは「内部者の犯罪」の意味。2008年9月のリーマン・ショックが引き金となった世界金融危機は、金融ビジネスと金融行政(両者は癒着というよりほぼ一体化していたと言える)の内部者によって発生した人災以外の何ものでもないことを明らかにしている。

映画「Inside Job」は、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した作品。

限度を知らない金銭欲。「ウォールストリート」のゴードン・ゲッコーも真っ青な強欲ぶり。考えたこともないような単位の金額が次々と紹介される。リーマン・ショック前後で金融界のお歴々に支払われた報酬である。映画を観ながら最初は頭のなかで日本円に換算して驚いたり呆れたりしていたが、そのうち馬鹿馬鹿しくなって計算をやめていた。

天文学的とはこうしたことか。世界はそれでも回っていると、まるで宇宙の果てとは言わなくても、お月様かどこかの世界の出来事のような印象である。自分とはまったくリアリティのかけらすら重ならない。

コロンビアビジネススクールの学長へのインタビューが白眉だ。インタビューを受けている途中で、彼はこんなインタビューだとは聞いていなかったと不快感をあらわにする。しかしカメラの回っている前でインタビュアー(監督のリチャード・ファーガソン)を罵倒するわけにいかず、「あと3分だけだ」と相手に告げて、何とか収拾を計らおうとする。そうした対応も含めて彼の本意やパーソナリティが映像で露わになっていく。

どのようにインタビューを申し込み、許可を得たのか実に知りたいところだが、そこが企業秘密なのだろう。インタビュー対象者には気の毒な気がするが、本当の事を対象者から聞き出すには、多少(かなり?)荒っぽくやることも必要。もともと、ジャーナリストとはそうした姿勢で情報収集ができる連中のはず。記者クラブで尻を温めているだけの今時の記者には無理だろうが。

一方、元FRB議長のグリーンスパンなど多くのキーパーソンがインタビューを受けることを拒否。誰がインタビューの申し入れを断ったかは映画の中で明らかにされている。無言のその事実が、それはそれで確実に何かを語っている。

それにしても米国は素晴らしい国でありながら、どうして中枢にいる連中はこれほど邪悪なのだろう。