2025-07-09

“調査によると「日経新聞」を信用していない若者が8割を超えた”

昨日の日経新聞のある記事に「都内では薬剤師の7割がカスハラにあったことがあるとの調査がある」という記述があった。

「調査」と書いてあるだけで具体的な調査名が示されていなかったので、それは何の調査なのか新聞社に問うてみた。

それに対して、同社カスタマーセンターから返信が届いた。

お尋ねの件ですが、読者の皆様にお伝えできるのは記事に書かれていることが全てでございます。お問い合わせされてきた方にだけ、記事に書かれていない詳しい内容や情報などを特別にお伝えすることは、できないことになっております。 

もし『週刊文春』が(別に文春でなくても他の週刊誌でも新聞でも構わないのだが)記事の中で「ある調査によると、日本経済新聞の記事の信憑性に疑問をもっている若いビジネスマンは8割を超えている」と書いたら、日経側はどう反応するか。

フツーに考えれば、彼らはその記事を掲載した雑誌社や新聞社に対して「その調査とは何なのか明らかにせよ」と求めるだろう。

それは至極当然のこと。というか、もしそのまま放置するようなら新聞社であることをやめた方がいい。であれば、なぜ先のような回答を読者に寄こして平気なのか。

「・・・との調査がある」という場合、それがどのようなサーベイなのか明らかにするのは報道機関としての基本的な責務である。 

「お問い合わせされてきた方にだけ、記事に書かれていない詳しい内容や情報などを特別にお伝えすることは、できないことになっております」というなら、自社サイトに読者からの質問とそれへの回答を掲載すればいい。

記事に対して無責任。そして、読者を見下した新聞社の対応に呆れた。

2025-07-06

「なんでそうなるの」

今朝の日経新聞、その一面トップ記事に首を傾げた。

企業の経営計画を取り上げ、「数年単位の中期より10年以上の長期目線で経営に取り組む企業の方が、 利益の伸び率が大きいことが分かった」と書くのだがーー。

記事の書き手は、根拠として2024年にあずさ監査法人が行ったという調査をあげている。その調査結果では日本企業を将来の計画への時間軸の長さで区分けし、1年、3年、6年と答えた企業より10年以上としている企業の方が業績(過去5年間の営業利益の平均伸び率)が良かった(前者が18%、後者が52%)と述べている。示されているのは相関関係である。

だが記事は、10年あるいはそれ以上の長期的目標を設定する方が企業は高い業績をあげられると結論づける。目標を中期ではなく長期的に持つことによって、長期的な人材教育や投資が可能になるからだと説明しているが、理屈がオカシイ。 

因果関係の説明が逆転してるのではないか。データの範囲内で解釈を試みるなら、幸いにして過去5年間の業績(営業利益の伸び率)が好調だったからこそ、長期的な目標設定をすることが可能な経営状態にあるというのが実態ではないのか。

そしてそれほど儲かっていない企業は、まずは3カ年程度の収益目標をたて、それをどうきちんと実現させるかに注力せざるを得ないのが実状だろう。

そもそも、それこそ10年以上前から10年超の長期計画を目標にしてきた企業と、従来の中期を目標にしてきた双方の企業群の業績を10年間遡って比較してみなければ記事が言っていることは証明できないはず。だが、そうした検証は行っていない。

記事を書いた人物は、経営者には長期的な視点こそが重要であり、長期的に人材教育を施し長期的な視点で将来へ投資する企業こそが成功する、と言いたいらしい。ドグマである。そして、最近では中期経営計画は廃止する企業が出始めているとしている。

しかしそれは、未来を確実に予見できればの話。今後10年先に市場がどうなっているか、顧客がどこにいるか、主要な競争相手がどこか、さらには世界経済はどうなっているかなど、そうした種々のことが明確に分かっていれば超長期目標でやればよい。

だが、それはムリ。もしできるのなら、どうやって予見するのか教えて欲しい。超能力でもあるのか、あるいはAIが教えてくれるとでもいうのだろうか。 

思い込みと誤った推論をもとにしたこのような独断的な記事が大新聞の一面トップを飾っている。

2025-07-02

ルノワール

映画「ルノワール」の主人公は11歳の少女。時は1980年代後半。主な登場人物はその少女フキ(変わった名前だ)とその母と父。

父親(リリー・フランキー)は闘病中で入院している。医師から余命宣告は受けていないが、入院先の出す薬を自分で調べて自分がガンだと知っていて、死ぬ覚悟はもう気持ちのなかでほぼできている。母親(石田ひかり)は仕事と家事、それにフキの世話に追われて神経が尖っている。

そうした家族環境の中での少女のある夏が、いくつかのエピソードをパズルのように組み合わせながら展開していく。

ぼくには11歳の少女の気持ちを想像することや、彼女の周りに起こるだろう日々の出来事を思い浮かべることはたやすいことではないけど、それにしても映画の中で起こる事件のような出来事はまるでスペインのファンタジー映画を観ているような印象だった。

そんななか、一つだけ日本的というか土着感を感じたのは、入院している父親が病院を抜け出して自宅のアパートに帰り、寝室の扉を開けると、そこに女物の喪服が衣紋掛けに駆けられていたシーン。

ゾッとするとともに、これってあるかな〜? えっ? なに? あるんだ。

早川千絵監督の「PLAN 75」はテーマがストレートで、いかにも(良くも悪くも)新人監督のメジャーデビュー作といったものだったが、「ルノワール」は難しい。
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/08/blog-post_17.html 

11歳だという少女の気持ちの変化や波打つ感情を、もう推測できなくなっているからかもしれない。 

2025-07-01

Amazonから Appleへ切り換え

音楽のストリーミングサービスをAmazon Music Unlimited(AMU)からApple Musicに代えた。

AMUはアレクサでも使えてまあまあだった。だが、iPhoneとiPadでは最後まで使えなかった。

海外に住んでいたとき、現地のアマゾンのアカウントをつくり書籍やアプリを購入していた。そのため今もアマゾンのアカウントが2つあり、それらが影響し合ってiPhoneやiPadでAMUが使えなくなっているというのがアマゾン側の説明。

それが本当かどうかは、残念ながら自分では調べようもない。ぼくの問題解決のためにアマゾンではエンジニアのチームが日夜解決方法を探っている、という返答を受け取ってから1年以上経つが、その後の連絡はなし。

残る解決法は、アカウントの一つを削除することらしい。だが、そうすればそのアカウント名で購入したアプリや書籍など一切が使えなくなってしまう。

ならばと、AMUを止めてApple Musicに切り替えることにした。

つい先日、ジェフ・ベゾスはヴェネツィアで結婚式を挙げたらしい。オーバーツーリズムを理由に多くの地元住民が反対の声を上げるなか、72億円の費用を投じて6月27日から3日続く結婚祝賀行事を行ったとか。

ユーザーが手元のデバイスから音楽を聴けないで不自由しているなんて些末なこと、彼にはまったく関心はない。

われわれにできることは、まずは顧客であることを止めることなのである。 

2025-06-30

今夜も電話をかける

海外小説の出版を事業の中心とする早川書房、その社長による「私の履歴書」の最終回は次のようなくだりで終わっていた。

買おうかどうか思案している本の版権はいくつもある。さて、今夜はどの出版社、どのエージェントに電話をかけようか。 

やはりそうなのだな、と思った。電話なのだ。

メールでも要件のやり取りはできる。しかし、相手の声を聞き、こちらも肉声で応える、いきなり要件に入るのではなく、ときには相手への気遣いやちょっとした気の利いたスモールトークで雰囲気をつくって、それからビジネスの話に入る。タイパが信条、などと言っている向きには理解できないだろう。 

これは手間がかかる、もったいぶったやり取りかもしれない。しかも、電話で話しあったことはメールなどで必ず確認しているはずだ。 

だけど、やっぱり電話するんだな。相手の住んでいる国の時刻を頭の片隅におきながら。

彼らが扱っている本という商材の特性もあるし、出版業という製造業やITなどとは違った肌合いのビジネスという背景もあるだろう。

ただ単に性能や特性、価格をもとにその場限りの売買を決めるではない、相手の顔を思い浮かべながら最終的に決めるというやり方。こうしたビジネスを今もやっている業界があるということに、なんだかほっとする。 

2025-06-28

ブログ記事の品質は誰が判断するのか

ブログを書き始めたのは2009年から。思ったことを勝手に書き綴ってきたが、どうもこれまで書いたブログ記事の多くがGoogleで配信されていないことが判った。


Google上でのインデックス未登録とされたものが多数あり、さらにひと月ほど前にその数が一気に急増していた。

なぜそれまで登録されていた記事まで未登録にされたのか理由は不明だ。手がかりを知ろうとそのグーグルで検索してみると、説明が記されたページにブログ記事の品質に関する記述が現れた。 


ページの品質が十分に高くなければいけません、だって!? 

だが、「品質」についての定義もその基準の説明もなく、やってることは相変わらずブラックボックス。

これまでグーグルという企業に対する不審と不信についてもこのブログで取り上げてきた。それが理由かもしれない、と思っている。

いま使っているこのbloggerというサービスだが、グーグルが運営していると知らずに使い始めてしまった経緯がある。他のブログサービスへの移行もできるが、それには手間がかかるし、どうしようかなと。 

2025-06-21

問題の本質は、マスクでなくマスキング(隠蔽)にある

安倍政権が2020年に全国に配布した「アベノマスク」に関し、業者との契約過程が不明だとしてそれを明らかにするよう神戸学院大の上脇教授が求めた裁判が、原告側勝訴で確定した。

業者との契約過程を記した文書の不開示決定の大半が取り消され、国に賠償金の支払いを命じた大阪地裁の判決に対して国は期限までに控訴しなかった。

地裁の判決はというと、マスクを調達する業者との記録が文書1枚、電子メール1通すら作成されないまま事業が行われたとは考えがたいとしたものだった。

今後、われわれが注意を向けるべき点は、彼らが「ない」と言っていたはずのどんな文書が出てくるかということにまして、原告側の開示要求に対して国が一貫して「記録は一切ない」と突き放したウソの回答をしていたことにある。

裁判に訴えた原告だけではない、すべての国民をなめていないか。 

日本全国の5,600万世帯へ配布するマスクの調達と発送を、コロナ時において業者と文書1枚、メール1通かわさないで(すべてを口頭だけで!)手続きするなど、小学生が考えてもオカシイのはあきらか。

そうなんだけど、国側はこともあろうか裁判の場でもそう言い放った。なぜか。その理由は簡単で、役人はこれまでも市民からの問合せに対して「そうした記録はない」と突き放して、それで済ませていたからである。

それが彼らの常套手段であり、突き放された市民側は「記録はない」と言われて引き下がるしかなかったから。いくら「それはおかしい。あるはずだ」と主張しても、役人側が「ないものはない」と譲らなければ、市民側はそれ以上は手の出しようがないからである。

これが役人の手口。強弁を続けてしらばっくれれば、やがて相手が引っ込むと思っている。だが、裁判ではそうはいかなかった。当たり前だけどね。 

役人にとっての常識が、いかに市民にとって非常識かが浮き彫りになったひとつの例だ。

だいたい、市民からの情報公開請求に対して役所がさっさと応えればすむものであって、裁判で争うようなものじゃないと思うんだが。 

2025-06-17

「世界の果てからこんにちは Ⅰ」

早稲田大学の南門通りにある早稲田小劇場どらま館がリニューアル10周年を迎えた。そして、もともとその地に芝居小屋「早稲田小劇場」を構えていた鈴木忠志がSCOT(Suzuki Company of Toga)を利賀に立ち上げてから50年目。

その節目の年ということで、早稲田小劇場どらま館で「世界の果てからこんにちはⅠ」の映像上映会が行われた。

早稲田小劇場どらま館

今回の記録映像は2023年の利賀での同作品の上演風景。ステージの後ろに広い池が配置され、そのさらに背面には利賀の山なみが控える円形劇場である。むかし演劇際(利賀フェスティバル)を現地に観に行った夏のことを思い出す。

「世界の果てからこんにちはⅠ」

昨年暮れは帰国していた折に「世界の果てからこんにちはⅢ」を都内の劇場で観る機会があった。が、鈴木演出の芝居は室内ではなく、利賀の屋外劇場で観るのがやはり一番と再認識した。 

2025-06-14

Anselm Kiefer + 二条城

昨年日本で公開された「アンゼルム 傷ついた世界の芸術家」は、戦後ドイツを代表する芸術家であるアンゼルム・キーファーを主人公とした、ヴィム・ヴェンダース監督によるドキュメンタリー映画だった。

1945年、第二次大戦のさなか、実家が爆撃された日に生まれたという。今年80歳になるこの芸術家を僕はその映画を観るまで知らなかった。

この映画で一番印象に残っているのは、パリの郊外にあるという彼のアトリエ。まるでジャンボ・ジェット機の格納庫を思わせるような巨大な空間におびただしい数の作品が収納されいて、キーファーがそのなかを自転車で悠然と動き回るシーンがおもしろかった。

ヴィム・ヴェンダースが製作した映画ということもあり、以降、キーファーにも興味を持っていたところ、京都の二条城で彼の展覧会が開催されていることを知った。

 
会場に足を踏み入れて、まず最初に目に飛び込んできたのは、彼の代表作の一つである「ラー」と名付けられた例の翼だ。

二条城の空間に不思議とマッチしている

ほぼ想像していた通りの大きさに嬉しくなる。今回、展覧会に足を運んだのは彼の作品の実際の大きさとそれぞれの作品の質感を確かめたかったから。

だが、それ以外の作品はといえば、個々のものはそれぞれ興味深かったのだけど、残念ながら展示作品の点数が限られていて、その少ない点数を「二条城」という別の作品で補っている展覧会という感じだ。 

ところで今回、展示を見るために二条城のかつて台所だった建物の中に靴を脱いで上がるのだ、展示作品を見ていた連れが会場スタッフに声を掛けられた。

ストッキングと裸足はダメで、スリッパを履いてくれという。チケットを購入したホームページの注意事項にはそうした文言はなかったと返したら、先ほどチケット窓口でそう伝えてあるはずだと。

チケット窓口に並んだのは僕だから、ストッキングのことなんか言われても当然ながら知った事じゃない。右から左だ。 

これは、建物のなかでは帽子を取ってくれ、というような事とは違う。ストッキングがダメなら靴下を履いてくるように事前にサイトで注意を促しておくべきだが、そうしたことがなされてなかった。

結局、建物からいったん外に出て、別に設えられた売店でスリッパを買わされることになった。

これはやり方が間違っている。万が一、ストッキングの女性に対してスリッパを履くことを求めるのであれば運営側が用意したものをそこで差し出すべきである。主催者の極めてお粗末な運営をうかがわせた。 

展覧会のあとは、キーファーの作品からふと連想した銀閣寺を訪ねた。断続的に雨が降り続いていたがそのためか思ったほど人はおらず、広い境内のなかをゆっくり回ることができたのが良かった。

雨に濡れた緑のなかの観音殿(銀閣)

2025-06-12

ブライアン・ウィルソンが亡くなった

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが82歳でなくなった。

薬物中毒に苦しんだり、精神を病んだり、彼の人生は大変な苦痛の波に何度も襲われていた。死去する前は認知症を患っていたらしい。

ただ3年前に公開された映画「ブライアン・ウィルソン 約束の旅路」の中の彼には、そうした印象はまだ見受けられなかったのだけど。
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/08/blog-post_21.html  

間違いなく不世出のミュージシャンだった。これから世界中の多くのミュージシャンからトリビュートが寄せられることだろう。 

ところでビーチ・ボーイズというバンド名は、彼らが自分たちで付けたものではなく、レコード会社が勝手に命名したもの。彼らにはもともと別のバンド名があったが、レコード会社によって製作されたレコード盤には見たこともない名前が印刷されていた。そのときメンバーは全員驚いたが、すでに遅かった。

ビーチ・ボーイズの、というか、ブライアン・ウィルソンの曲にはサーフィンをテーマにした曲もあるけど、バラード調の曲にもすばらしいものがたくさんある。


2025-06-10

岡山県と香川県の間には何があるか

今年、3年おきに開催される瀬戸内国際芸術祭の第6回目となる催しが香川県の直島を中心に開催されている。
https://setouchi-artfest.jp/

直島にはいまでは世界中から現代アートのファンが訪れる。アメリカ、フランス、イギリス、オランダ、トルコ、ニュージーランド、韓国、中国、香港、タイ、スペイン、モロッコなどなど、僕が現地で知り合った人たちだけでもその国籍は数えきれないくらい。

先日、NHKの看板番組のひとつがその島を取り上げた。番組の冒頭、現地を訪れた同局のキャスターである有馬嘉男は「直島は、岡山県と香川県の間にある島です」と紹介した。

んっ? 直島はまぎれもなく香川県の島。そもそも、岡山県と香川県の間には島などない。何かあるとしたら(目には見えない)県境のラインだけだ。

まあ、よくある言い間違いといえばそうなのだが、その番組は生放送ではなく、収録したものを編集して制作した50分のゴールデンタイムの全国放送番組である。

放送前には何人ものNHKの人間が試写を見ているはずなのに、どうしてこうした日本語の初歩的な誤用に誰も気づかないのだろうか。

ところで、この番組では瀬戸内海の島々が「アートによって甦った」というテーマを据えていたが、かつて瀬戸内海が公害に汚染されていたという死んだ魚の映像がとってつけたものだった。

死んだ魚たちが岸辺の波間に漂う映像だったが、クレジットが何もなかったのでその撮影年と場所を問うてみた。すると、1970年に水島コンビナート付近で撮影された映像だという。55年前のものだ。

瀬戸内国際芸術祭の第1回が開催されたのは2010年。40年間にわたり瀬戸内海が腐った海であったわけではないし、それほど長きにわたって酷い風評被害を受け続けたわけでもない。

番組内容にはそれ以外にもおかしな点がいくつかあり、今回の番組の製作・著作だったNHK岡山局に話を聞こうと連絡したところ、「担当ディレクターは現在休暇をとってヨーロッパに行っており、1か月以上先にならないと帰ってこず、それまで連絡はとれません」と言われた。

失笑するしかない。 

2025-06-08

同質性メンバーが生む集団思考が招く失敗

東京電力の旧経営陣で、今回株主らから裁判で責任を問われた被告について調べたら、実に似通った4人組だった。

元会長・勝俣恒久(故人)
元社長・清水正孝
元副社長・武黒一郎
元副社長・武藤栄

これら4人はいずれも年配の日本人男性。東電への入社は4人のうち3人(勝俣、清水、武黒)が1960年代、1人が70年代前半。概ね同世代である。出身校は4人のうち3人(勝俣、武黒、武藤)が東京大学、1人が慶応大学。それぞれが上記の役職に就いたのは3人(勝俣、清水、武黒)が2008年、1人が2010年。4人とも新卒入社で東電一筋のキャリア。

これだけでも、彼らが極めてホモソーシャルな集団であることが分かる。そうした同質性の高いグループは、一般的に米国の社会心理学者 A・ジャニスがいうところの集団思考に陥りやすい。そして、集団思考という思考停止の結果、組織は失敗する。

ホモソーシャルなだけではない。4人の中には明確な上下関係(入社年度)があり、そのなかで各自が保身のために生きていた。 

そのような集団では合理的かつ独自の判断は求められない。既存の秩序とルールを決して乱さないこと、全体の流れから逸れないこと、そのために「変化」を起こさないことが最良の生存戦略になる。

目は組織の内部にしか向いておらず、自分たちの事業が兼ね備えているはずのリスク、たとえそれが人々の命にかかわることであっても「本気で」考えることなど及びもつかない現状維持バイアスで脳みその大半が埋め尽くされたサラリーマン経営者たち。 

このことは当時の東電だけではなく、多くの日本の大企業が今も同じである。 

2025-06-07

原発を東京に

東電旧経営陣の責任を問う株主代表訴訟の判決で、東京高裁はかつての経営者4人に対し13兆円強の賠償を命じた東京地裁の1審判決を完全に翻し、無実とした。 

ポイントは、津波を予見できたか否かの判断であり、その元となった国が行った地震予測の長期評価をどう扱うかだった。

東日本大震災の9年前に国の機関が公表した地震予測「長期評価」では、三陸沖から房総に至る地域でマグニチュード8.2級の大地震が発生する可能性があると言及されていた。

そして、地震が起こった場合、福島第1原発は最16メートルの高さの津波に襲われると東電は計算していた。実際に東日本大震災が起こる3年前、2008年のことだ。

しかし、東電の当時の経営者らは対応策を施さなかった。なぜか? 「そんなもん、めったなことじゃ起こるはずない」という希望的観測だ。あるいは「自分が在任中に起こらなきゃ構わない」といった経営者の考えがなかったと言えるか。

国の機関による地震予測に対応する対策を東電がとっていれば、最悪の事態は防げたのが今になれば残念でならない。

結果、2011年に大地震と大津波が発生し、冷却水を取るために海岸沿いに設置された福島の原発が爆発したのである。

事故の発生リスクを知っていながら策をとらなかった。これは明らかに経営ミスであり、それゆえに1審の東京地裁はその責任を認めた。

ところが、東京高裁は一転無実とした。地震発生の長期評価の信頼性が不十分だと結論づけたからである。裁判官は科学者でもないのに。

地震発生について、その規模やタイミングを完璧に予測することはできない。当時も今も、おそらく将来的にもそうだろう。

だが、それは当時のトップレベルの専門家がまとめた見解だった。無視していいことにはならない。無視するのであれば、そもそも国の機関によるそうした報告書自体がまったく無意味ということだ。

高裁の木納敏和裁判長は、評価委員会の結果を信頼できないものであって、対応を取らなかった東電の経営者が言った「巨大津波は想定外だった」という言い訳を丸呑みしたわけだ。

ちなみに、東電の勝俣は原発事故の7年前、東電の地域住民モニターだった町議の女性から「原発の非常用発電機を地上に移して欲しい。大津波に襲われるから」と訴えられたとき、「コストがかかりすぎるから無理」と回答していた。津波が想定外だった、なんての噓っぱちで、金がかかるからやんないとはっきり明言していたじゃないか。 

リスクといっても、もしそれが発生した場合、企業の売上が減少するとかの話ではない。万一それが発生した場合、多くの人命が失われ、その地域も国全体も長年にわたって被災し続けることは分かっていたはずだ。にもかかわらず、4人の経営者はリスクを看過した。 

世界を震撼させた東電福島第1原発の爆発事故からまだ14年しかたっていないのに、国は「原発回帰」に舵を切った。今回の東京高裁の判決は、まさにそれを忖度し支持するものである。 


そもそも、原子力発電がかかえるリスクを電力会社の経営者が知らないはずはない。だからこそ、原発は電力需要が最大の東京ではなく地方の福島や新潟、大阪ではなく福井や石川に置かれている。

私たちも原発のリスクを過小評価しすぎ。たとえそのことを分かっていても、すぐ忘れるし。理性的に考え続けるのはたいへんなのだ。 

2025-05-31

中国繁体字が表示される理由

アマゾン・キンドルで本を読んでいるとき、指先でスクリーンをなぞり特定の箇所にマークを付けることができる。紙の本で横線を引いたり、アンダーラインを引く感覚だ。 

それらはアマゾンのサーバー内に記録され、あとで呼び出して読んだり、一覧をメールに添付して送ることができる。マーキングするだけでなく、メモを付けておくこともできて便利だ。
 
キンドルで本を読み終え、自分がハイライトしたものをメールで送って一覧を開いたところ、なんか変だ。文が日本語の句読法に沿ってなく、中国語の繁体字の表記の仕方(横書きの場合、句読点が下になく、中空に浮かんでいる)になっている。漢字の書体も日本のものとは違う。
 

自分がどんな本を読み、その本のどういった箇所にしるしをつけたかなんてことは個人情報であり、思想信条にも関すること。
 
なのにそれらが外国のサーバーに記録されてしまっているというのは気分がいいものではない。
 
利用者の不安を除くためにも、アマゾンはそのあたりの説明をすべきだろう。 

2025-05-28

政治や行政にたかる心根は日本人共通か

関西のあるテレビ局が緊急調査と称して神戸・元町で県民100人に「兵庫県知事は辞任すべきかどうか」についてインタビューした。

結果は「続投すべき」が37人で「辞任すべき」が63人だった。調査結果と言っても代表性がなく統計的な意味はない。

だから、こんな意見もあるのか、といった参考程度なのだが、その中にちょっと気になったものがあった。

20代だという兵庫県立大学の卒業生が、「続投すべきで、僕らの世代からしたら若者への支援が充実していると感じる。自分らが直で受けた授業料の無償化が大きかったので、特に辞任っていう意見はない」とコメントしていた。

僕はこれを聞いて、実に厭な気持ちになった。

授業料を無償化してくれたことを理由に斎藤知事は辞任する必要はないと言っているが、これって国からの補助金を受け取っている農家がそれを理由に自民党の議員を支持するのと何ら変わらない。

政治にたかる心根は地方の高齢者だけでなく、20代の若者も同じなのだと改めて知る。

2025-05-27

事実か、認識か

内部告発をした元県民局長(昨年7月に自殺)の私的情報を元総務部長を通じて外部へ漏洩させた指示は、斎藤兵庫県知事(および元副知事)による可能性が高いと結論づけた調査報告書を第三者委員会が発表した。

それに対して、当事者の鉄面皮斎藤は「私としては、あらためて漏洩に関する指示はしていないという認識に変わりない」と語った。


どこまでもずる賢いなあ〜と感心する。「指示はしていない」と明言するのではなく、「指示はしていないという認識」についてしか語らない。

「指示はしていない」と言い切ったら、あとでウソがばれたときに言い訳ができない。だから、斎藤はあくまで「事実」ではなく「認識」にこだわり続ける。

つまり、これは「指示をした」という事実があることを含んでいるととれるのだが。

その時が来たら、この御仁、今度は「認識は事実に及ばず」とでも言い始めるのだろうか。 

◉ 認識(にんしき):人間が何かを知覚し、理解し、判断する心の動き。つまり「主観的な理解」
◉ 事実(じじつ):人間の認識とは無関係に実際に起きている現象や状態。つまり「客観的な現実」

今回、漏洩させたと証言を変えた元総務部長は「職責として正当業務を行ったに過ぎない」と述べているが、それもまた納得できるものではない。

彼の言の変遷は事態の流れを読んで計算した結果なのだろうが、個人のプライバシーに関わる情報の漏洩はどうやっても違法なわけで、私は上(知事)から言われたからやっただけです、では済まされない。

上から言われようが、やっちゃいけないことはしなきゃいい。

この総務部長は自分が停職処分に処せられたことに対し、「審査請求及び執行停止の申し立てを行い、正当性を主張したい」ともコメントしたという。正当性という言葉に首をかしげる。

元部長さん、そうした手続きも結構だが、まずは社会の常識を頭にたたき込むことだ。

兵庫県庁から退職する職員が増えているとの報道があった。一般的に、県庁職員や市役所職員ほど定年まで辞めることがないサラリーマンはいないのだから、こうした状況はよくよくのことなんだろう。

上が逆ロールモデルばかりの組織では、そこにいては自分も腐っていってしまうと考えるのは無理もない。つくづく残念な組織である。

2025-05-24

DXのお手本

「誰がどこからいくらもらっているかが分からないと、是非も評価できない」と、議論の前提を提供することを目的に、一人の民間人が政治家の収支報告書のデータベースを構築した。https://political-finance-database.com/

政治家の名前を入れるだけで、受け取った企業献金の支払い元や金額などが分かる。企業名からの検索もできるし、寿司とか商品券といったキーワード検索も可能。一覧表で見ることができる。

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現状、国の対応はどうなっているか。報告書自体はネットで公開されてはいるが、紙をPDFにしてあるだけなので一覧性がない。これは調べる方からすると手間がかかり過ぎて致命的。

また、議員による報告書の提出先は、総務省と都道府県の選管に分かれているため、それぞれのサイトから探さなければならない。しかも、議員が複数の政治団体を持っている場合(そうしたケースが多い)、関係の団体名を調べるのだけでも大変である。

つまり形式的には政治家は報告書を提出し、それはサイト上で見ることはできるが、それらは利用価値が低く(というか、それを狙ったものとしか思えなくて)機能しているとは言いがたい。

それらへの不満や強い改善要求をもとに昨年末の政治資金規正法改正で、国もやっと2027年から報告書のデータベース化をすることが決まった。ただし、データベース化に取りかかるのが27年中だとすると、国民がそれを使えるのはもっと先ということになる。

今回、西田さんという人がデータベースを作成した。これならジャーナリストや研究者などはもちろん、一般の人たちも簡単に政治資金収支の内容を知ることができる。政治の議論が高まり、監視の目が強まると同時に本来あるべき政治に少しでも近づいていけるかもしれない。

以前ほど耳にすることはなくなったが、DX(デジタル・トランスフォーメーション)という言葉が盛んにささやかれた時期が合った。デジタルならではの特性を利用して効率性を急速に高めたり、問題解決に進むための考えだ。

DXというのであれば、これこそがそのお手本だ。

ただ、データベース構築に当たっては、もとのデータが紙(PDF)なのでそれを専用のOCRで読み込んで作成している。国や自治体は、さっさと議員の報告書の提出を紙ではなく、デジタルによるものにすべきだ。

なぜ今も政治家に紙で提出させているのか。デジタル庁は足下のそうした状況を当然知っていながら、見て見ぬふりをしてきた。政治家のご都合主義。

2025-05-23

地方自治と二元代表性について考える

ポレポレ東中野で「能登デモクラシー」を観て、自分が生まれ育ったちいさな町を思い出していた。高校を卒業してすぐそこを出てしまったので、実際にその町の行政や議会の中味が分かっていたわけではないが、なぜか「似てる」と感じたのである。

住んでた人たちの考え方や雰囲気が共通していた。典型的な地方の保守的な田舎町。役所の人間がなぜか分からないが偉そうにしていた。高校生から見ても理不尽なことが多く、不愉快だった。

今年のはじめ、ある新聞で同郷の漫画家の一条ゆかりが、その町についてこう書いていた。

この場所から逃げ出したいと思っていた。噂好きで、人と違うことをする人間を嫌う。何かについて「女だからダメ」と言う。そんな人の多い田舎が大嫌いだった。 

彼女は僕より10歳ほど上だが、これを紙面で読んだとき、古い地元の仲間に会ったような気がした。

「能登デモクラシー」の舞台である穴水町は人口約7千人の小さな町。高齢化だけでなく、その高齢者の数も年々減少している。消滅が想定される町のひとつだ。

そんな町で、いや、そんな町だからか、代々の町長らは自分の利益のためのやりたい放題。 にもかかわらず、町議会の監視機能がまったく働いてない。行政と議会のあいだには惰性と忖度の関係しかない。

だが、それはこの町特有のものではない。僕の生まれた町も、あの町も、日本のどの町も似たようなものだ。その意味で、映画で描かれている穴水町は「日本の縮図」という言葉がぴったりくる。 

カメラが捉えるのは、地元の80歳の男性とその家族。「このままでは町がなくなる」「何もしなければ、何も変わらない」と語り、手書きの新聞を発行しながら町の未来に警鐘を鳴らす。少しずつ理解者がふえてくるのが救いである。

この映画の監督は、地方局である石川テレビのディレクター。彼が、もとは地上波の番組として制作したものがベースになっている。

地方にあるメディアの矜恃というか、意地のようなものを感じる。今では多くの地方メディアがその存在感をなくしているなか、まだまだ頑張っているメディア人がいることが分かり少し嬉しい。 

2025-05-22

米歌(こめうた)

 

清水ミチコ、さすが。才能と発言力で権力者を笑いのめしてこそ、本当の芸人。

2025-05-21

「コメを買ったことがない」 じゃあ、何を買ったことがあるのか

江藤拓農林水産大臣が政治資金パーティーでの演説のなかで「(私は)コメを買ったことがない。支援者がくれる。売るほどある」と調子放いて、結果、更迭された。

このおっさん、頭の悪さは一流だが、それにしても65歳になるまでどういう生き方をしてきたのだろう。

首相官邸のホームページに彼の紹介が載っていた。なんといっても大臣だからね。

おっさん、24歳で大学を卒業し、それから2年半後、衆議院議員である父親の秘書になっている。その間、なにをしてたんだろう。

今回の農水大臣の交替を、れいわ新選組の山本太郎が「マヌケな大臣が辞任しても、次のマヌケが大臣になるだけ」とコメントしていたがそうなった。

コメントと言えば、国民民主党の玉木ンタマ代表は、石破総理の脳薄い、いや農水大臣交代の決定を「判断が遅い印象は否めない」と評したが、おととい記者団に答えた話とずいぶん違う。

そのときは江藤大臣の進退問題に関して問われ、「辞めるような話ではない」と玉金玉は語っていた。

どっちやねん。

確固たる自説を持たず、その時その時で周りを見て言うことを変える嘘くささとご都合主義がこの男の本性のようだ。