パレスチナのガザ地区で、捕虜になっていたイスラエル人3人がイスラエル軍によって誤って射殺された。
その一人は、棒の先に白い布を付けた「白旗」を掲げていたにもかかわらず撃たれた。一体、これはどういうこと?
イスラエルのネタニヤフ首相は、それでも攻撃を止める気はないという。
かれは、歴史上に21世紀のヒットラーとして名を残したいのか。
イスラエル国内でも、戦闘を止めて、交渉により人質の解放を優先するべきだと訴える大規模なデモが行われたらしいが、当然だろう。
パレスチナのガザ地区で、捕虜になっていたイスラエル人3人がイスラエル軍によって誤って射殺された。
その一人は、棒の先に白い布を付けた「白旗」を掲げていたにもかかわらず撃たれた。一体、これはどういうこと?
イスラエルのネタニヤフ首相は、それでも攻撃を止める気はないという。
かれは、歴史上に21世紀のヒットラーとして名を残したいのか。
イスラエル国内でも、戦闘を止めて、交渉により人質の解放を優先するべきだと訴える大規模なデモが行われたらしいが、当然だろう。
宝塚歌劇団による団員への長時間労働や上級生から下級生へのイジメがとりだたされている。旧態依然とした古い体質の組織にはありがちだが、報道を見るにつけこれほどまでとはと驚いてしまう。
とりわけ仰天したのは、阪急電車が走っているのが見えたら、その電車に向かってお辞儀をしなければいけないという決まり。数年前に強制ではなくなったらしいが、それまで何十年にわたる不文律の伝統だった。
ぼくが仰天したと云ったのは、劇団員がそれを長年やらされていたことはもとより、それを当然のことと思って見ていた周囲の関係者たちの存在である。
歌劇団にはその団長をはじめ、制作や運営に関わる大勢の人たちがいるはず。運営元の阪急電鉄、その親会社の阪急阪神ホールディングスにも大人はいるだろう。スポンサー企業にもファンクラブにも、それぞれいい歳をした大人がたくさんいるはず。
周りのそうした大人たちは、この奇妙な習慣をどう見ていたのか。それがタカラヅカらしい、美しく、麗しい振る舞いだとして目を細めながら見つめていたのだろうか。
先日、このブログで団塊の世代の人たちのことをいささか揶揄することを書いたら、その世代である知り合いから「実はね、私もそこにいた一人で・・・」という連絡が来た。いやあ、参ったなー。そんなつもりで(じゃあ、どういうつもりだ!?)書いたんじゃないと苦しい言い訳をした。
20代のころから、僕たちにとっては団塊の世代は目の上のたんこぶのような存在だった。大きな塊が頭の上にのっているようでジャマだったのだ。
何をやろうとしても彼らの大群が前に立っていて、その数の勢いで後進であるわれわれは道を塞がれているような閉塞感を感じていた。今思えば、それはただ自分たちの力量が足らなかっただけなのだけどね。
そうした数が多く、バラエティに富んだ人たちがいた団塊の世代のなかで、この前書いたコンサートの会場にいた人たちはある種特殊な部類だ。まずその特徴は、どこかで50年前の自分を引きずっている連中で、それゆえか世間的、特に経済面という枠の中では決して成功したタイプではない。
少なくとも若い頃、当時の世の中に異論を唱え、それを声に出していた人たちだと思う。だが、1947〜49年の3年間に生まれた人たちだけで800万人を超える塊のなかでは、それらはやはりマイノリティだった。
多くは高度経済成長期の波に乗るために既成権力に寄り添い、伝統的な日本の企業社会のなかに当たり前のように入っていった。「ニュー・ファミリー」なんて言葉も彼らを中心的な対象として生まれた。「24時間働けますか」で組織に飼われ、丸抱えにされ、横並びでマイホームを購入し、体制と寝続けた連中である。
それらに違和感を感じていた人たちもいて、そうした人たちは滅私奉公もしない代わりにカイシャではあまり評価されず、出世もそれほどせず生きてきた。だから高級車や海外ブランドやフレンチ・レストランには縁がない。その代わり、自分なりのスタイルと価値観を大切にしながらしっかり生きてきた。
ひとまとめにするのは乱暴かも知れないが、先日のコンサートで僕の周りにいた人たちは、そうしたタイプの代表的な一群だったんだ。
先月、企業は退会していく客をどう扱うかについてこのブログに書いた。https://tatsukimura.blogspot.com/2023/11/blog-post_20.html
そのときは、長年利用していたNHKオンデマンドというサービスを事情があって退会したときの経験を取り上げた。NHKがあまりにお粗末な、少なくとも顧客を軽視し、自らの将来のビジネスを自分の手で閉じてしまう発想をしていたからだ。
そうしたらNHKから、その後アドバイスに従って手続きを改めたと言われた。僕自身はもうそのサービスの利用者ではないし、利害関係もない。ただ、こうして少しでも世の中のサービス対応が改善されるのは好ましい。
こうした変更にはたいしたコストがかかるわけではない、また手間もさほどかからない。内容は、意思決定者が顧客の身になって考えればわかる常識的なことを組織として常識的にやれば済むこと。世の中を見回せば、できない方がおかしいと思われることがほとんどである。
顧客の身になって経験する、感じる、考える。そこでおかしいと思ったことをすばやく改善していく。それだけで顧客との関係が歴然と変わる。それが企業にとっての顧客価値の向上につながる。つまり当たり前の事を当たり前にやるだけなんだけど、それが企業にとっての将来の成否を分ける。
この映画を観ていると、ホアキン・フェニックスがそのままナポレオンに思えてくる。もう彼以外にナポレオンはいないほどに。それほどまでにフェニックスの見せる造形は深く、見る者をその世界に引き込む。
映画「ナポレオン」は、86歳のリドリー・スコットがおそらく長きにわたってその製作を構想していたに違いない一作。
金のかけ方が半端ではない。それもCGとかそういった先端技術への金のかけ方ではなく、もちろんそうしたシーンもかなりあるが、驚かされるのはエキストラの数とその質である。そこには登場する多数の見事な馬たちも当然含まれる。
むしろ今ならCGでやれば何でもできるものを、広大なセットと同時撮影する何台ものカメラ、それを扱う撮影スタッフ、演出の行き届いたエキストラたちと訓練された馬たちで戦闘シーンを描く監督の力量だ。
物語としては、フランス人兵士たちが全員英語をしゃべるのが観ている途中で気になって、気になって。あまりに自然で見事な英語だからなおさら。その瞬間、やはり映画、絵空事、との思いが頭をよぎったのが残念というか、もったいない。
個人的には、同監督の作品でいえば「グラディエーター」の方が没入感も陶酔感も優っている。なぜだろうと考えた。それは、先にも書いたホアキン・フェニックスのナポレオンではなく、この映画の中で描かれた彼の妻、ジョセフィーヌの役柄と存在へ感じた違和感のような気がする。
ひと月ほど前になるが「「民度低すぎ」歌舞伎町・刺されたホストを応急処置した男性が語る真実、見て見ぬふり異様現場と誹謗中傷」という長いタイトルのニュース記事を目にした。
新宿歌舞伎町の路上で、女性にホストが刺された。たまたま、そこに医師免許をもつ男性が居合わせ、彼は周囲の人に救急車を呼ぶよう要請したあと、その場で倒れた男に対して応急処置を施すことになった。
彼はその時のことを振り返り、こう語っている。
救急車については他の方も呼びかけていたためか比較的早くに動き出してくれましたが、ほかは……。私が男性の安全確保をした後に、“AEDを持ってきてください!”と言っても、みなスマホで撮影を続けていました。(「あなたにお願いしますと」)その場にいた人を指名しても、自分を指してるのかとキョロキョロするわけでもなく、無視してスマホのカメラを向けてきて……
https://news.yahoo.co.jp/articles/cc79d214d7d69be3f604a25aeab2acd2338a2612より
これを読んだとき、現場の風景が見えるようで吐き気がした。
午前1時半の歌舞伎町にいたほとんどは、10代、20代の若者だろう。遊び疲れて、普段以上に思考能力も判断能力も衰えている彼らには、目の前の惨劇もしょせんは他人ごと。おのれに痛みがなければOKで、あとはどれだけその場を「楽しむ」かだ。
その時ばかりは、ビリー・ザ・キッド顔負けの早業で拳銃ならぬスマホをポケットから取り出し、すぐさま撮影に入る。気分はもうSNSのレポーターだ。応急処置をしている人からの「誰か手伝ってください」という声が聞こえても、端から頭には入らぬ。「おれ、カンケーねえから」
これは社会心理学でbystander effectと呼ばれる集団心理のひとつ。bystanderとは脇に立つ人、つまり傍観者。なぜ、傍観者は自ら行動しようとしないのかについては、次のような3つの理由が挙げられている。
多元的無知:他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考える
責任分散:他者と同調することで責任や非難が分散されると考える
評価懸念:行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れる
誰もがこうした心理になるというわけではないが、ここで示されている「他者と同調する」や「周囲からのネガティブな評価を恐れる」は、とりわけ日本人の特性と合致しているだけに根が深い。
アメリカの慈善援助財団が調査したところでは、「最近、知らない人や困っている人を助けたことがあるか」という問いに対して、「はい」と答えた日本人は21%。調査した142ヵ国で最低の数値だった(2023年)。グラフが示すとおり、アメリカやドイツ、韓国、英国などは半数以上が「はい」と答えているのと対照的だ。
そういえば大学のクラスでこんなことがあった。その日はあるケーススタディをやることにしていた。その企業は日本の熊本に本社をおく、ちょっと特徴的な会社である。
2016年4月、ちょうど熊本城が大きく被災した「熊本地震」があった時だ。その企業も被災し、社員に死者は出なかったものの社員の家族が被災したという報告を聞いていた。また社屋が被害に遭ったため、しばらく操業ができない状態にあった。
イントロでそんな話をしたとき、クラスのなかから笑い声が起こった。すると、それが伝播して教室の方々に追っかけの笑い声が広がった。「厭だな」と感じて、話の途中でここは笑う場面じゃないよ、と諭したら、それに対してさらに笑いが起こった。
その理由は、上記2に関する同調行動がもたらしたものだが、それに加えて彼らにはもうひとつの理由があるように感じた。それは、他人の不幸を快感と感じる心理であり心根である。それがそこにいる社会人大学院生たちだけのことであって欲しいと願いながら授業を続けたが、気持ちを立て直すのに少し苦労したのを覚えている。
昨日、江東区のホールでコンサートがあった。午後5時半開場、6時開幕とかで、やけに時間が早いなと思っていたが、会場に着いてすぐに納得した。
仕事帰りで書類カバンを持っている客なんてのは、周りを見回してもぼくだけだった。他の観客は無職の(たぶんね)ジジとババばかり。だからこんなに早くったって、まったく平気。むしろ年寄りだから、終演後に早く帰れるように開幕時間が早く設定されている(たぶんね)。
客の8割以上はぼくより年長。その多くは団塊の世代だろう。それにしても、判を押したように着るものに無頓着なのが情けない。ひと目でユニクロと分かるシャツと安物のダウンジャケット。そして下はくたびれたジーンズ。
クラシックやオペラのコンサートではないのでそれで構わないのだが、それにしてもである。少しくらいはお洒落に金を使わないのか。もし金がないとしても、ならば気を遣うようにすれば少しはなんとかなる。冴えない団塊の世代の連中に囲まれた、いささか悄然とし裏さびれた夜だった。
コンサートは、岡林が一昨年出したアルバム「復活の朝」がすごく良かったので、生の歌が聞きたくて出かけた。77歳だというが、しっかり昔通りの声で歌を聞かせてくれた。
パーティーによる自民党議員の裏金作りの追及を受けて、岸田首相がすべての派閥パーティーの開催自粛を指示した。
これは、あきらかな問題のすり替え。対応しなくてはならないのは、そういう事ではないはず。
それで思い出したのが、勝新の「もうパンツをはかない」発言だ。
1990年、勝新太郎がハワイ・ワイキキの空港でマリワナとコカインを所持していたことで捕まった。それらを下着に隠して日本に持ち帰ろうとしたのを見つけられたのである。
現地で記者会見が開かれたとき、勝は「なぜ、パンツの中に入っていたかわからない。今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」とコメントした。
彼らしい「名(迷)セリフ」である。みんな笑った。名役者らしい「芸」があった。
岸田首相も国民を目くらまそうとするなら、少しは見習ったらどうだ。
NASAのジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡での観察データをもとに、東大宇宙線研究所などが120〜130億年前の巨大ブラックホールの存在を突き止めた。
さらに驚く話として、今回発見されたブラックホールの重さというのは、太陽の100万倍〜1億倍と発表された。太陽の1億倍の重さって、なんなんだ!
この国の官房長官が、パー券収入から1,000万円分を自分のポケットに入れていたらしいが、そうした小さな精神が情けなくなる。
自民党の各派閥が「パーティー券」がらみで政治資金規正法違反の嫌疑をかけられている。
このパー券とやら、議員は販売のノルマを課せられており、それを超えて「頑張った」議員には超過分がキックバックとして支払われる仕組み。
キックバックというのは古くからある慣習だが、ぼくが知る限りそれは商売のうえの言葉であり、政治の世界がやることじゃない。彼らは金と利権だけしか頭にない政治屋だから仕方ないか。
それにしても、よくこれだけ国民を愚弄にした会見が開けるものである。この国ではこうした為政者によって、国民やメディアが完全にバカにされている。だが、そもそもそうした連中を選んだのも、われわれ国民(の一部)だからナ。情けなくなる。
We are Kickbackers |
先日、学生たちとの呑み会が高田馬場であった。秋に担当した授業の打ち上げで、受講した学生とゲストで来てもらった学外の人たちも一緒に集まった。
ビールやワインのグラスなどを手に話題はあちこちへ飛ぶ。そんななか、ある学生が、私にむかって純粋の日本人に見えないがどこか他の国の血が入っているのですかと。
それに他の学生らも反応し、彼らもそう思っていたと首を縦にふる。まいったなー、と思いながら、どんな血が入ってると思うかと問うてみると、その学生、しばらく考えて「北アフリカの、アルジェリア辺り出身のフランス人」という。
これまでも中東のどこか、とか中南米のどこか、と言われたことは多いのだが、ここまで具体的に表現されたのは初めてだ。頭の中に、カミュの名前が浮かぶ。
アルベール・カミュ |
企業に勤めていたときのことだからずいぶん昔のことになるが、一緒に出張で大阪に来ていた仕事仲間と、その日の段取りを打ち合わせておこうと宿泊先のヒルトンホテルで朝食の席についたときのこと。
テーブルにやって来たウエイターが、まず向かいに座っていた彼女にコーヒーにするか紅茶にするか訊ねた。そのあと、彼はぼくにむかい、Coffee or tea, sir? と英語で聞いてきた。
彼女は大笑いし、その日1日機嫌が良かったように思う。外国人に間違えられたのは嬉しいことではなかったけど、何か少しだけ人の役に立ったような気がした。
「ライン 44万件情報流出 確認後1ヵ月間公表せず」
これは新聞の見出しである。またやったのか。2021年にも個人情報の管理問題があったのを思い出す。LINEという組織には何か基本的な問題があり、それは今だに解決されていないようだ。
統合したという一方のYahoo!メールを使おうとすると、毎回毎回、下記の内容がしつこく表示される。
日本維新の会の代表が、関西万博について絶対に止めない、と語った。この国の首相でもないのに、何を勝手なことを言っているのだろう。
一旦始めたからには止められない、ではまるで先の大戦のときと同じだ。1945年3月の東京大空襲で100万人以上が罹災し10万人が死亡したにもかかわらず、「始めてしまったから」というイナーシャで日本は戦争を止めるという判断ができなかった。
その結果、米軍による日本各地への自在な空襲は続き、挙げ句がヒロシマ、ナガサキである。
日本維新の会の代表の発言からは、その時の日本の思考と同様のものを感じる。
「やめられない、止まらない」は、かっぱえびせんだけで十分だ。
スマートウオッチのFitbitのバッテリー性能が急激に弱ってきた。バッテリーの残量が35%くらいになると一気に減り始め、やがて画面が消える。使い始めたばかりの頃は1週間はもったように思うが、今は3日くらいだろうか。
3日はもつ、と考えるか、3日しかもたないと考えるか。そうした時期にアマゾンのブラック・フライデーが始まった。買い換えようかどうしようか悩む。
トラッカーも含めて数えれば、これまでに購入した台数は5台。1日の歩行距離が分かったりメールの着信をバイブレーションで教えてくれる機能が役に立っている。
それにしても、これまでもどのFitbitもバッテリーが弱ったため買い換えてきた。これは、彼らの生産管理上で意図的に仕組まれたものなのだろう。
カシオのソーラー電池時計は購入してから30年ほどになるが、いまもまったく問題ない。普段使いで長年愛用しているにもかかわらず、機能的にも外見も一切問題ない。
そうした日本の工業製品としての出来の良さにつくづく感心する。と同時に、ビジネスを考えると一旦購入した客はめったなことでは買い換えないだろうと少し気の毒になる。
カシオを例に挙げるまでもなく、海外メーカーとの比較で言えば、こうした日本メーカーの真面目なモノづくりが日本企業の儲けを削っているのだろうとすら思えてくる。
NHKオンデマンドを先月退会した。ここ数ヵ月、まったく利用してなかったので、一旦退会しようと思ったのだ。
ところが今月、クレジットカードでそのサービスの利用料金の引き落としがあった。なぜかと考え、そういえばサイト上で退会の手続きをしたにもかかわらず、何も連絡がなかったことを思い出した。
ひょっとしたら、手続きが未完了なのかと思い電話してみた。例によって「ただいま電話がたいへん込み入っており・・・」というメッセージが流れる。通話をスピーカーホンに切り替えて、別の作業を始める。
10分ほど経ってやっと応答したので、先月の退会手続きのことと利用料金の引き落としについて確認を求める。電話に出たそのオペレータいわく、月末処理の翌月請求をしているので、退会した翌月、場合によっては翌々月まで引き落としが発生することがあるとの説明。
なるほど、と思ったが、なぜそうした大切なことを退会者に退会時に知らせないのだろう。それを訊いたら「そうしたことはしないこになっているので」との返答だが、回答になっていない。ぼくは「なぜか」を訊ねているのに、自分たちの方針を当たり前のように語る。
NHKオンデマンドの利用開始をメール履歴で調べたら、2013年6月だった。かれこれ10年以上契約していたことになる。10年前の視聴開始時には「申し込みを受けた」との確認メールがNHKから届いている。当たり前だが。
ところが、退会時には「一切知らんぷり」が彼らのデフォルトの対応となっている。本来なら、というか多少なりともビジネス・マインドがあれば、まずは(永きにわたっての)利用を感謝し、また機会があれば是非利用して欲しい旨を語り、支払いは退会月以降も手続き上発生することをメールで案内するだろう。
そうすることで、一旦退会・解約した客もチャンスがあれば復会するものだ。だが、そうした基本的なことすら分かっていないようだ。やめる客はもう客ではないという、間違った認識を持っている。
宝塚歌劇団でのいじめや異常な長時間労働が問題になっている。詳しいことは、これからの調査で徐々に明らかになっていくのだろうが、先日の同劇団の記者会見は噴飯物だった。会見には、劇団の理事長などが出席していた。
そこで劇団側と阪急電鉄側は、調査の結果、「いじめは確認できなかった」と語り、いじめの存在を否定していた。
だが、宙組のメンバー4人は調査のためのヒアリングを拒否している。話せない、話したくても話すわけにはいかない、との思いからだろう。劇団側と上級生から重層的な圧力が加わっていたと聞く。
そんな調査で、「いじめは確認できなかった」というのは、ジャニーズの性被害が報道された当初と同じである。あるのは自分たちの責任回避と組織防衛の意識のみ。
調査が今の段階ではまだ不十分なのだから、「いじめがあったかなかったかは未だ確認できていない」とするべきだ。
とにかく頬被りをして自分の都合がいい結論で幕引きを図りたいという意識が見え見えなのが愚かしい。なさけない集団である。
「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」は、1920頃のアメリカ、オクラホマ州を舞台にした史実に基づいた映画だ。監督はマーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロやレオナルド・デカプリオが主演している。
スコセッシらしく、怯むことなく、また衒いなくアメリカの暗部を描き出す。デカプリオの叔父役で、オクラホマの地方名士を演じるデ・ニーロの底冷えのする悪辣さが際立っている。
ネイティブ・アメリカンであるオーセージ族の女性を演じたリリー・グラッドストーンはオスカーを獲るだろう。
映画「SISU」は、不死身の男と呼ばれた老兵を主人公にしたフィンランドの活劇だ。時は第二次世界大戦の末期、北欧ラップランドの地で彼はナチスの一群と対決する。
関西万博への反対(不要論)の声が、優に半数を超えている。その理由はさまざまなようだが、そうした「支援のなさ」にも関わらず、大阪や国の行政管理者たちは中止を検討しようとはしない。
先月、こうした世論調査の結果を受けて、万博担当大臣の自見なんとか氏は「真摯に受けとめる」とか何とか答えたが、明らかに口だけ、形だけで実効性がないのは、政治家のいつものこと。
万博を運営する日本国際博覧会協会は、来場者が約2820万人、経済波及効果を約2兆円と見積もっているが、このときとばかり希望的観測感を最大限に発揮して勝手な積み上げの結果作ったデタラメ数字だろう。まったく内実が見えないのは、五輪の時と同様である。
そもそもその地に誰が行くんだろう。自分も含めて周りに行きたいと言っている人は皆無だ。
僕のゼミでは、学生たちが入って来たとき、最初に因果推論についての基礎的な知識を身につけてもらうことをやっている。マンクテロウの『思考と推論』をもとに、その内容をよりかみ砕いた本を何冊かみんなで読み、正しい推論の考え方や一般的な認知バイアスを知ってもらうようにしている。
そうしたなかで最も基礎的なものとして相関関係と因果関係の違い(混同)をしっかり知ってもらう。人は、つい原因と結果を都合がよいように勝手に結びつけて考える傾向がある。
2025年の万博推進派の考えが、明らかにそれだ。万博をやれば大阪が、そして関西が盛り上がるにちがいない、と(勝手に)思っている。その背景には、1970年に開催された先の大阪万博の成功経験があるからだ。「夢をもう一度」だ。しかしあれとて、万博を開催したから経済が成長したのではなく、国の経済成長の時期にたまたま開催しただけのこと。
万博のようなコンテンツに若い人たちが向かうとは思えないし、70年の万博を子どもの頃に経験した人たちが懐かしさから興味を持っても、果たして開催場所まで実際にどれだけ足を運ぶか。
大阪の人たちはもっと冷静になり、本気で反対したほうがええんとちゃうか。開催の予定まであと1年半しかない。今回の万博開催は、会場地である人工島に、その後にギャンブル場を作りたくて作りたくてしかたない、どうしようもない連中の金儲け手段だというのが明らかなのだから。関西人の常識と行動力が問われている。