2019年3月31日

最も大切な問い ーー それ、何のためにやってるのか?

『学校の「当たり前」をやめた』(時事通信)の著者、工藤勇一さんは2014年から千代田区立麹町中学校の校長を務めている現役の教育者だ。

彼はこう述べる。
「みんな仲良く」と教室に掲げても、子供たちは仲良くなりません。他者意識のない作文、目的意識のない行事、すべてやめませんか。
もっともだと思う。実際、彼の発案とリーダーシップで、麹町中学では宿題を出すのをやめ、定期考査を行うのもやめた。考えることを求めず、ただ生徒がこなすことに躍起になっていることを続けることに疑問をもったことから宿題をやめた。

「ゆとり教育」とかそういったことではない。授業で学んだことを繰り返しても、「できないことができる」ようにはならないからだ。

生徒たちには、与えられたことをこなすのではなく、勉強の中身を充実させるように自律的に学ぶ経験を求めている。さらには、学校ではしっかり学び、家では好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、スポーツをしたり、ぼんやりと思索する時間を持った方がよいとの考えがベースにある。

こうした方法が採れるのは、何が本当に大切なことかをきちんと理解しているから。何が真の目的で、何がそのための手段なのかを冷静に考えた上で、これまで「当たり前」とされていたことをゼロベースで考え直し、変えて行ったのは見事である。

だから、生徒たちの服装や髪の色にはほとんど関心を示さない。それらはどうでもいいことなのである。

一方で、世の中には服装の乱れが心の乱れの元になり、生活態度や学習態度に悪影響を及ぼす、だから、厳しく服装や髪型を規則で縛るべきだという人たちも多くいる。

だが、無理やり表層的に矯正しても本人が納得していなければ、教育的な効果はない。そうした当たり前の事が学校での生徒指導に欠けていた。これまでやってきたことを継続することが教育だと現場は思ってきたことが、彼の本を読んでよく分かる。

本来、何のためにそれが必要なのか、何のために行われていたのかが抜け落ちたまま、そうした手段がいつのまにか目的になっていることの何と多いことか。中学教育の場だけを言っているのではない。

われわれの周りを見渡せば、どこの職場にも「そう言われてみれば、何でこんなことやっているのか説明できない」ことが多々あるはず。そんなものはないという人は、ある意味、もう終わっている人だ。


ところで、明日(4月1日)から働き方改革関連法が施行される。企業には、社員の残業を減らしたり、有給休暇の消化率を上げることが求められ、ルールを破ると罰則もある。

例えば、残業時間の上限は、原則月45時間。違反企業には罰金が科される。年次有給休暇は社員に最低5日は取得させる義務が企業に課される。これも達成できないと、一人当たり最大30万円の罰金が科される。(なぜその社員に対して払われるのではなく、国へ支払う罰金なんだろう・・・)

どちらも、目的と手段を取り違えている。

「何のためにやっているのか?」というシンプルな問いを立て、その答えを見つけることでこの国の企業だけでなく、大学も教育も社会もずっとよい方向へ変わっていく。

惰性で続けている意味のないことをやめること。目の前の課題は本来、何か上位の目的があってのことなのに、それ自体を達成することが目的化してしまっていることは思いのほか多い。

2019年3月26日

目黒川の桜 3月26日

今日は中目黒駅で一旦下車。目黒川沿いの桜はどんなものか足を運んでみた。ソメイヨシノがもう5分咲以上の開花だ。


2019年3月24日

ヘルメットはベトナム仕様

ベトナムは、モーターバイク社会だ。特に都市部では昼となく夜となく、小型バイクが所狭しと走り回っている。


朝夕の通勤だけでなく、聞くところによると、夕食後は家族で1台のモーターバイクにまたがり街中を走り回ることをよく彼らはやっているらしい。どこに行くというのではない。ただのレジャー、気晴らしだという。

そうした時ハンドルを握るのは、やっぱりお父さん。後ろにお母さんが座り、その間にひとり、あるいはふたりの子供がはさまれている姿が一般的。50ccのバイクに家族4人が乗って街中を走る。端からは決して安全には見えないが、子供らはみんな父親と母親を信頼しているのだろう。眠っている子供すらいる。これが家族団らんの秘訣かもしれない。

ベトナムの若い女性はポニーテールが圧倒的に多い。流行っているのか、ただ簡単だからかしらないけど。

そのためか、ベトナムのバイク用ヘルメットの後ろの部分は、その「尻尾」がちゃんと出るようにカットされている。ベトナムだけじゃないかな。少なくとも、日本にはこんなのない。なかなかかわいい。

ホアンキエム湖の女子学生たち

日曜日の朝、朝食後、ハノイのホテルを出て近くのホアンキエム湖へ散歩に行った。
湖の周辺は週末らしく、若者がスポーツに興じたり、カラオケを楽しんだりゆっくりと時間を過ごしている。
歩いていると、白人のバックパッカーカップルがベトナムの女性たちに囲まれて、何やら立ち話をしている様子。近くを通りすがりにカメラを向けたらその中の1人がこちらにやってきて、5分だけ時間をもらえないだろうか、英会話の練習に付き合って欲しいと言う。
可愛らしいベトナム娘の申し出に心は揺れたが、僕の岡山弁訛りの英語を覚えてもらうのなんだかなと思い丁重にお断りした。
それにしても、日曜日の朝にこうやって大学生たちが観光客を練習台に英会話のトレーニングに励んでいるなんてのは、今の日本じゃほとんど見られない光景ではないか。成長著しいベトナムのエネルギーのひとつと感じた。



2019年3月23日

Cong Caphe コン・カフェ

コンカフェはベトナムで、特に若者たちに今人気のカフェ。コンカフェのコン(Cong)はベトコンのコンだ。

スタッフはみんな迷彩カラーのユニフォームを身につけ、むき出しのレンガの壁には懐かしのプロレテリアアートをイメージしたものが飾られている。

ハノイだけでなく、ホーチミン市やダナンにも支店があるらしい。



2019年3月22日

ベトナムの小学校で

アジアの少数山岳民族の村を中心に、現地に小学校や中学校を建てる活動をしている NPO団体、アジア教育友好協会(AEFA)の人たちとベトナムを訪れた。

ここは、ベトナムのトゥエンクアン省カンバオ村の小学校。子供たちがかわいらしい。まさに絵に描いたような純真な瞳に、忘れていたはるか昔の懐かしい想いが押し寄せてくるような感じだ。


子供たちがいま学んでいる校舎は、米を収納しておくために村が造った倉庫を改修したもの。設備も教材も何もかもが我々の目からは間違いなく最低限のものだったが、それでも子どもたちの学ぶ意欲の輝きは何ものにも代えがたいものに映った。

2019年3月21日

太鼓がおしえてくれる

ベトナムのハノイ国際空港から北西へクルマで2時間半ほど。トゥエンクアン省のナンリー小中学校。

授業の開始と終わりには、太鼓がどんどんどんと打ち鳴らされる。



2019年3月10日

東日本大震災、沿岸部の工事続く

あれから8年、宮城県の南三陸町を訪ねた。その海沿いをめぐる。

たしかに港湾部はきれいに整備され、一見したところではもう被災の傷跡のようなものは分からない。新しい建物が建てられ、あたり一面きれいだ。だが、人がいない。

浜から少し離れたところには立入禁止のロープがはられ、まだ修復されないまま被害が残された箇所もある。

南三陸町から国道45号線を気仙沼、陸前高田、大船渡方面へ進む。どこもかしこも工事が多い。津波で押しつぶされた家屋や建物があっただろう土地は整備のための工事が、そして臨海部は長大な防潮堤を築くための工事があちこちで行われているのを目にする。

昔からその土地にいる人たちの目からは、風景がどんどん変わっていっているだろう。防潮堤はいざというときの津波を防ぐとともに、人から海の景色を完全に遮断する。高い塀で守られた街は、まるで中世ヨーロッパの城壁都市を連想させる。

普段の景色が変われば、そこに住む人たちの意識も変わっていくのだろう。海の意味も、母なる海というかつての牧歌的なものから、人に牙をむく恐ろしい海へとあり方が変わったに違いない。




2019年3月7日

インケン

インケンと聞けば、人はまず陰険という漢字をアタマに思い浮かべるかもしれないが、われわれが呼んでいたインケンは「隠研」のこと。隠居研究会の略称である。

一昨年の秋に日本の新しい隠居を考えるための研究会組織として起ち上げ、一年ほどかけて読書会を中心に、ゲストを招いての講演&討議やフィールドワークなども行った。

隠居というと、古典落語に出てくる横丁のご隠居さんのような存在を連想するかもしれない。しかし、これからの時代にはそれとは様相がまったく異なる新しい隠居の姿があるのではとの個人的な思いが背景にあった。

今後日本人(とりわけ60歳以降)がどのように個人として生き、また社会と関わっていくことができるか、そうしたことを半分真剣に、半分面白がりながら「人生100年時代」(ほんまかいな?)と言われる時代性の中で考えて議論した。

その研究会のメンバーの1人だった藤原智美さんが出された『この先をどう生きるか』(文藝春秋)は、定年前後世代に向けてのそうしたテーマへのひとつの答え、提言である。


2019年3月6日

『早稲田乞食』第190号

顧問のようなことをしている早稲田大学サークル「早稲田乞食編集部」の新旧幹事長が研究室に挨拶にやってきた。

サークル幹事長の交替を大学に届けるための書類やら前年度の活動報告書を大学に提出するにあたり、僕の署名と印鑑が必要だったためだ。

新幹事長は文学部の2年生(この4月から3年生)で、なかなか利発そう。うまくサークルをまとめて引っ張っていってくれそうだ。ただ、部員がこのところあまり増えていないとか。そこがちょっと心配。

いまどき手書きのミニコミ誌なんて、世間的には流行らないのだろう。化石のようなもの。超アナクロもいいところだ。だけど、だからこそ41年の歴史を誇るワセコジ(『早稲田乞食』)の火を絶やさないよう現部員たちには頑張って欲しい。

彼らが研究室に置いていった最新号をめくっていると、そのなかに僕を描いたイラストを見つけた(23頁)。本人に何の断りもなく・・・。アンビリーバブル!!   ま、いいか。



2019年3月4日

アメリカという国が持つ問題と希望

「グリーンブック」は、第91回アカデミー賞の作品賞と脚本賞に輝いた作品。時代は1962年、裕福な天才的ピアニスト、ドクター・シャーリーが、無学でがさつだが腕の立つ男、トニーをドライバー兼用心棒に雇って米国の南部へ演奏旅行に行った8週間を描くロードムービーである。

ただ、そのピアニストは黒人、しかも同性愛者で博士号学位を持つインテリ。一方ドライバーは、黒人のことを決して好きではないイタリア系の白人男性だ。
  

最初、観る者は自分がどちら側なのか想いを巡らす。冴えない日々の仕事をこなしているだけで決して輝くような将来があるわけではないが、賑やかな家族と友人関係に恵まれたイタリア系白人か、それとも豊かな教養を持ち、世間から尊敬を集めるだけでなくカーネギーホールの高層部に住居を構えるほどの富も持つ孤高の黒人か。

旅の途中、とりわけ車の中での二人のやりとりは、どちらもが欠けた部分を抱えて生きていることを伝えてくれる。
 
ディープサウスと呼ばれる保守意識の強い州でドクター・シャーリーは数々の差別を受けるが、彼はそれらに耐え、ときに毅然と立ち向かう。その姿にトニーの黒人に対する意識も変わっていく。ただこの映画は、そうした差別を事実として描くだけでことさら強調しているのではない。登場人物ふたりの関係を持って、黒人と白人が融和したなどというのも焦点がずれている。

映画は、その裏にある社会の複雑な関係性をエピソードを重ねることで重層的に伝えようとしている。差別と偏見への直接的な怒りというより、それを正視しつつ笑い飛ばすユーモアが底辺にある。

家族想いのトニーは、行く先々で妻のドロレスに手紙を書く。勉強嫌いの小学生が書くような拙い内容の手紙を、その度にシャーリーが表現に技巧を凝らした見事な文章に変えてやる。手紙を受け取る度に夢見心地になるドロレス。

ツアーからニューヨークに戻ったあと、トニーの家をクリスマスに訪ねたシャーリーに、彼女がそっと「あなたが手紙を書いていたのよね」とささやき抱き合うラストシーンは、クリスマスらしい温かい気持ちを観る者に届けてくれる。

2019年2月22日

今日は猫の日である

2月22日は猫の日である。ニャン・ニャン・ニャンということで猫の日なのだろう。
近年は猫がブームである。テレビでも猫を取り上げた番組がたくさん流れている。代表的なのが、写真家の岩合光昭さんがNHKでやっている「世界ネコ歩き」だ。カメラを構えて猫に近づいていく岩合さんは、猫語が話せているとしか思えない。
この番組、最初は同じNHKの「世界街歩き」を本歌に取ったシャレでやってるのかと思ったが、すっかり定番として放送しているところを見ると、視聴率なんかも結構かせいでいる感じ。
ところで今の時代、なぜ猫が人気なのだろう。どうしてワンコではなくてニャンコなのか。
犬は一般的によく人になつき、従順である。その従順で健気なところが、かつての高度経済成長期の日本人の姿を投影したところがあって、犬は家族の大事な一員として迎えられていたように思う。日本人全体が、犬的だったのだ。もちろん、番犬としての役割もあった。
その点、猫は自由でわがまま。勝手気ままで、人からは何を考えてるのかわからない。何かの役に立つということもない。ただ、それが今の時代の空気というか、人々がこうありたいと思ってる自己の姿の反映に近いのかもしれない。
つながれ、管理されるのではなく、好き勝手気ままに生きたいと感じるその一つの姿を現代人は物言わぬ猫に投影しているのだ。
それにしても、2月22日を猫の日と決めたのは誰なんだろうね。 

2019年2月21日

全584ページのマニュアル

科研費という制度がある。正式な呼び名は、学術研究助成基金助成金/科学研究費補助金というらしい。我々研究者に与えられる国からの研究助成金である。申請に対しての採択率は、分野にもよるが全体ではおよそ20〜30%である。

われわれは、そうした資金をもとを研究を行い、学会で発表を行い、論文を作成する。研究資金を与えられるのはもちろん有り難い話ではあるが、その使い方がなかなか複雑で厄介である。

僕の場合、現在は昨年度から3年間にわたる研究助成金を受けている。今年はその2年目にあたり、大学を通じて初年度の総括と次年度の研究請求金額の届けが求めれてきた。

初めてのことではないのでだいたいのことは分かっているつもりではあるが、その申請継続手続きのための資料として大学から送られてきた操作マニュアル(研究者向け手引き)は、なんと全584ページにわたる。年々複雑化している。これでは電話帳である。だれも読まない。



だいたい、こんなものを人に読ませようといういう文科省は、研究者に果たして本来の研究をさせたがっているのか、それともただ(彼らが考えるところの)問題のない手続きを最優先でやらせたいと考えているかのか。

2019年2月13日

ジャンボはまだ飛んでいた

ジャンボジェットの愛称で知られるボーイング747機が初飛行したのは、1969年2月。ということは、それからちょうど50年である。

日本到着後に撮影

今回、フランクフルトから乗り継いだルフトハンザ便は、そのジャンボ機だった。まだ飛んでいたのかと、ちょっとビックリした。

日本航空も全日空も、もうジャンボは飛ばしていない。燃費の悪さなど、後続機にその性能や使い勝手で完全に先を越されてしまったからである。だけど、世界の旅行ブームを牽引してきたのは、間違いなくこのジャンボである。エアバスA380が就航するまで、もっとも座席数の多い機材だった。

僕がBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)で働いていた時に日英間を飛んでいたのもすべてこのボーイング747だった。90年前後のバブルの頃は、そのファーストクラスやビジネスクラスから席が埋まっていったのが嘘のように思い出される。

だから、フランクフルトから日本へ向かう飛行機がジャンボだと知ったときは、懐かしい友に会ったような気になった。 

だけど、久しぶりに乗って感じたのは、残念ながらその友はもう時代遅れだということ。最新鋭の機材に比べてなんといってもキャビンの静粛性に欠けている。うるさいのだ。またキャビンの座席の配置も最近のものに比べて工夫がなく、乗客にはとっては快適さにも欠けている。

たくさん(客を)積めるので飛行機会社にとっては今も使い出があるのだろうけど、やはりもう引退させたほうがいいというのが正直な感想。

2019年2月11日

川のある風景

ポルトの街を東西に流れるドウロ川(Rio Douro)。その川によって街は北と南に分かたれている。北側の丘陵地は日当たりが良いからか、斜面に沿って多くの住宅が建ち並んでいる。

一方、川の南側のガイアと呼ばれる地区の斜面はあまり日当たりが良くないので、ワインの醸造所や倉庫が多く並んでいる。温度があまり変わらないから、それがきっと好都合だったわけだ。


リスボンは、テージョ川(Rio Tejo)によって南北に分かれていた。リスボンもここポルトも川があるから港があり、人や物が船で運ばれ、その結果経済が発達し、新しい文化や考えが外から入ってきていたのだろう。

ポルトの下町で

ポルトの裏町で見かけた微笑ましい風景。斜め上のお隣さんが洗濯物をベランダから下の家に落としてしまったのを、いつものことのように物干し竿で器用に拾い上げているおばさん。下町らしいいい光景に見とれてしまった。


「うまいもんだね〜」と下から声をかけたたら、おばさん、手を振って応えてくれた。




2019年2月9日

リスボンからポルトへ

ポルトガル鉄道でリスボン駅からポルトへと。ジウジアーロがデザインした急行列車で、時間はおよそ3時間弱。快適である。



2019年2月8日

ヨーロッパの西の果て

ヨーロッパ大陸の最西端、ポルトガルのロカ岬までやって来た。



ここからは目前には大海が広がっているだけ。15世紀から16世紀、ヴァスコ・ダ・ガマをはじめとするポルトガルの航海士たちが世界の海に出かけていったのは、この海の向こうに何があるのか知りたかったから。

レガレイラ宮殿の井戸

リスボンから車で西へ45分ほど。シントラという街にあるレガレイラ宮殿の起伏に富んだ敷地の中に、Initiation well と呼ばれる井戸がある。実際は水をためるための井戸ではなく、らせん状に人が上り下りすることができる縦穴である。

人は神に近づこうと高みを目指して塔を築いてきたが、この井戸は「逆さの塔(inverted tower)」と呼ばれている。人間の何か奥深くを探るために地中深く掘り続けられたものかもしれない。

底まで降りていくと、今度は横に何本か横穴が延びていて、泉に突き当たる。






2019年2月6日

鮨が握れば、どこでも生きていける

鮨はインターナショナルな食べ物である。世界中で愛され、食されている。だけど、本物の鮨を提供できているところは、本当に限られている。それは、本物の職人(Sushi chef)がいないから。

写真はミュンヘン空港で見かけたレストランの鮨である。マグロとえび、サーモンが2貫ずつ、あと巻物が2種類だけ。


これが24.5ユーロである。日本円にして3000円以上する。マグロもサーモンもエビも干からびている。

日本人で英語が多少できて鮨が握ることができれば、少なくとも都市ならば世界中どこででも仕事にありつける。日本にいて、これからの社会でAI(人工知能)と競争しながら職を得るより、若者にとってはよっぽど可能性のある生き方だと思うけど、どうだろう。