テストとして送った先日のレビューの内容を、サイト上の「編集」で本来のメッセージに書き直した。もともとのレビューが未だにアマゾンに無視されているからだ。
そうしたら、彼らから以下のようなメールが来た。投稿できませんでした、とある。
「すべてのお客様に関連性があるわけではありません」とあるが、冗談ではない。関係があると考えるからレビューにわざわざ書き込んでいる。
そもそも日本語になっていない奇妙な文章だ。だがそれもまた、彼らにとってはお構いなしなのだろう。
テストとして送った先日のレビューの内容を、サイト上の「編集」で本来のメッセージに書き直した。もともとのレビューが未だにアマゾンに無視されているからだ。
そうしたら、彼らから以下のようなメールが来た。投稿できませんでした、とある。
「すべてのお客様に関連性があるわけではありません」とあるが、冗談ではない。関係があると考えるからレビューにわざわざ書き込んでいる。
そもそも日本語になっていない奇妙な文章だ。だがそれもまた、彼らにとってはお構いなしなのだろう。
購入した水のレビューを、安心して飲める、とかどうでもいいことを「テスト」としてアマゾンのレビューページに書いたら、すぐに掲載された。
だが、アマゾンのキャンセル・ポリシーの不適切さを指摘した先のレビュー内容はいまだに表示されないまま。自社に都合の悪いことは掲載しないようにしているわけだ。立派!
(追記 8月7日)
たまたまだが、「日本郵便の場合、大手事業者向けに、配送に7日程度の余裕を持たせる代わりに料金を1割前後割り引く料金体系がある」と記された新聞記事(日経)を読んだ。アマゾンは当然、ここでいう大手事業者に当たる。つまり今回の場合、アマゾンは彼らが支払う配送料を1割割り引かせるために、僕が注文した商品の発送をその分だけ遅らせたということだろう。だとすると顧客無視もいいとこ、ずいぶん勝手放題である。
日々猛暑が続く。外出の機会が減る。特に日中はできるだけ炎天下を歩くのは避けている。買い物の機会も減った。
半月ほど前、ボトルの水をネットで購入した。アマゾンのサイトで1ケース分を発注。配送まで1週間と表示されている。少し長いな、と感じたが急ぐ商品ではないので気にせず注文した。
ところが1週間たっても届かない。アマゾンのサイトで「配送状況」を見たら、まだ配送手続きにもはいっておらず、その時点で配達予定日は注文から13日目になっていた。
これはアマゾンの不手際なので、サイト上から「配達予定日が遅すぎる」という理由を選択してキャンセルをし、ヨドバシ・ドットコムで同じ商品を注文した。値段は大差なし。商品は翌日に届いた。
ところがキャンセルしたその商品について「キャンセル不可」というメールがアマゾンから来た。おかしいね。発送していない商品はキャンセルできることはずなのだが。しかも、事前に知らされた配送日が、いつの間にか1週間から2週間に変更されていた。
メールにはキャンセルできないという理由として「発送準備に入っているため」と記されてはいるが、実際にその商品が来たのはそれから1週間後だったこと考えれば、それは事実ではなかったと考えるのが妥当だ。
客にはどうせ本当の事など分からないからどう繕っても平気、というアマゾンの方針なんだろう。
今回の経緯をアマゾンのレビューに書いた。だが、5日たってもそれが掲載されない。自社に都合が悪いからだろうな。アマゾンもそんな企業になってしまったということか。
私が今回、個人的に一番印象に残ったのが「Relax, it’s iPhone―R.I.P. Leon」と題されたアップルのCM。トカゲの世話を任されたペットシッターの男性が、夜のキッチンでカラダの硬直したトカゲを見つめている。なんとも言えない悲壮感をその表情に漂わせながら。どうやら暇を持て余したのか、イタズラをしている最中に、トカゲが死んでしまったよう。やがて彼は意を決して雇い主にiPhone14のメッセンジャーで悪いニュースを伝える。その瞬間、トカゲが突然息を吹き返し、ホッとしたペットシッターは商品の売りである「送信取り消し」機能を使ってメッセージを削除する。これら一連のシークエンスが絶妙な演出で映像化されていた。そのことで「リラックスしようよ」というメッセージがじんわり伝わってくる。
今日会った人が、南相馬市で開催されている相馬野馬追に行った話をしてくれた。馬を目当てに見に行ったらしいが、現地での猛烈な暑さで何頭か馬が死んだんじゃないかと言っていた。
歴史のある行事ではあるが、時期をずらすという、ちょっとした工夫がなぜできないのか。ちょっと立ち止まって考えれば分かるはずのことが、「慣性」に浸って生きていると分からなくなる。そして、過ぎ去ってから、(少し)反省する。
それにしても、このところの連日の猛暑は異常だ。と思っていたら、それもそのはず、12万年5000年ぶりの高温を記録しているという。
なんだそれは、と思ってしまうのもの無理はないが、古気候学(太古の気候を研究する学問領域)の専門家によると、12万5000年前の地球は2つの氷河期の間に位置し、「直近でもっとも暑くなった時期」にあたる。これは古気候学にもとづいてデータを収集し、気候モデルを作成している機関(アメリカ地質調査所)の分析による。
ところが、今年7月の地球の気温はそれにまさる暑さなのだ。異次元の暑さ。米アリゾナ州ではサボテンが暑さで枯れ始めたらしい。
そのなか、日本では例によって夏の甲子園大会の地方戦が行われている。大会を主催している新聞社(朝日)、高野連、NHKの幹部の脳みそは溶けて働いていないのだろう。しかし、利権を守るというその考えは堅固で揺るがない。
グラウンドで試合をする選手はもちろん、スタンドの観客、関係者らも命がけである。なぜそうまでしてこの時期、日中の屋外で行うのか。人の命や健康を考えれば、つまり冷静に常識でものを考えればヘンだということに気づくだろう。
夏の甲子園大会が始まったのは1915年(大正4年)。その頃の夏の気温は、今とは全然異なる。これは東京のデータではあるが、気象庁によれば1915年8月の平均気温は25.7度、最高気温でも29.7度だ。
命を大切にするには、今の時期は室内で静かに体力を温存するようにしておくのが一番。人間の体は気温が35度超え、湿度が60%超えのなかで過ごせるようにはできていない。屋外で激しい運動をさせるなどもっての外だと思う。
これはすべて関係している大人の責任だ。
夕方、東宝系のシネコンに映画を観に行った。トム・クルーズのバイク・ジャンプを見るためだ。61歳で驚異的なスタントを自ら行うトム・クルーズには驚きしかない。
こうしたスペクタクルな映画はやはり大画面の劇場で観たい。だが劇場で閉口するのは、上映予定時間になってから流れる映画予告編とCMだ。今回は本編開始まで15分も続いた。これまでのなかでも最長の部類だ。一般的にシネコンは長い。単館系はもっとコンパクトだ。CMが入らないというのもあるのだろうが。
映画の予告編は、かつては今後上映される作品を知ることができ役に立った。だが、いまでは劇場で無理矢理見せられなくても、YouTubeなどでいくらでもチェックできる。
鑑賞料を払って席に座っているのに、否応なくCMを見せられるのも不愉快。興行会社が利益を上げるためだが、好きで見ている観客はまずいない。それなのに、なぜこうした顧客の意に沿わないことをいつまでも押し付けるのか。
それは、何とかシネマといったシネコン運営企業の経営者が、一般客に交ざって劇場内で映画を鑑賞しないからだ。自分が真に映画ファンで、試写室でなく一般上映館で映画を観ていたら何か感じるはずだ。彼らはそれをやっていない。あるいはそうしていても、顧客がどう感じるかを感じるセンスがないということである。
グランプリを受賞したAppleのCM
可愛がってたトカゲが死んじまった。
やっぱ、悲しいよ。そんなメールをダチに送ったとおもったら、レオンの奴、生き返りやがった。
ヤッホー
でも「生き返ったよ」ってメールを後で送ってやった方が相手は喜んだかもしれないけどね。
ある女優の一人芝居を観に行きたくなりチケットを探した。東京公演はすでにすべて販売終了で、地方公演のチケットがまだ残っていたのでそちらを予約することにした。
このブログを始めたのは、2009年。当初は学会で海外に行ったときの記録、サバティカルでNYに暮らしていたときのメモ代わりとして書いていた。特に読者は想定せず、一切気にせず。
一時だけ広告を掲載してみたことがあるが、目障りなのですぐに止めた。こんなことで小銭を稼いでも仕方がないし、グーグルからviewを稼ぐためにこんなことをやった方がいいとか、余計なことを言われるのも鬱陶しかったからね。
あくまでも自分の記録として書いていたら、先日、一日の閲覧数が1,000を超えた。誰がどういう思いで読んでいるのか知らないが、何か人の役に立ってるなら嬉しいことである。
性平等のための是正策として、これまでの職業名が言い換えられている。例えば看護婦は看護師に、保母さんは保育士に、スチュワーデスは客室乗務員に。
それはそれでいいのだが、その理由としてそれまでの呼び名が女性蔑視だとか性差別というのはどうも理解できない。どこまで気にするかは人によるけど、〇〇マンが女性蔑視だからだめで、〇〇パーソンと言い換えるべしというのは言葉遊びをしているように思える。
ある自治体のサイトから |
ビジネスマンはビジネスパーソンに呼び名を変えた。 ではサラリーマンは「サラリーパーソン」か。そもそも「マン」は「男」の意味だけではなく、総称的に「人(男女問わず)」を表す。
こうした世の中で女優を俳優と言い換えることが多くなっているが、なかには「女優」を堂々と名のるひとたちもいる。今朝の新聞に通販生活の折り込みチラシが挟まっていたが、そこに「女優 香山美子」さんの名前を見つけた。俳優ではなく女優とした意思があるに違いない。
週刊文春に「私の読書日記」を書いている橋本愛も「女優」を名のっている。彼女の意思だと思う。
性差を感じさせない呼び名に変更することが、自分がそれなりの意識系の人間だということを示す「お作法」になっていることを感じて、おそらくちゃんと考えたうえで「女優」を標榜しているのだろう。それはカッコいいと思う。
連休中からチャットGPTを使い始めた。
数ヵ月前からちょっとばかり長い原稿に取り組んでいて、その作業の効率化をチャットGPTで図れないかと考えて導入した。
こちらが書いた原稿をGPT-4で校正したり、ラフな編集するのに使っているのだが、うまくやれば人間の仕事の効率が上がりそうなのが分かった。
ただし、というか思っていた通り、オリジナルな原稿をAIが書くのは今はまだ無理で期待したクオリティのものは上がってこないことは確認できた。今できるレベルは、良くて程々のアシスタントである。
最初からこれに人の代わりとして何かやらせると(核となるアイデアを発案させるとか、人の代わりに文章を書かせると)お粗末な齟齬が生ずるだろう。なんとかとハサミは、ではないが、これも使い方しだいだ。
物書きでも、オリジナリティやクリエイティビティを問われない人たち、たとえばプレスリリースや官庁の記者会見をもとに記事をまとめているだけの新聞記者なんかは、間違いなくいなくなる。
児童買春で逮捕されたジェフリー・エプスタインとの親密な関係からMITメディアラボの日本人初の所長を辞任した某氏が、Chat-GPTについて話していた。
そのなかで、教育での利用は大いに推し進めるべきだと彼は主張していた。根拠として、調べものでもレポート作成でもその速度が飛躍的に上がる点をあげていた。
ネット人らしいシンプルな発想である。効率よく物事をなすことを「善」と考えて生きてきた人にはそれが当たり前という感覚なんだろう。
山登りに例えれば、金持ちがヘリをチャーターして山頂に降り立ち、それで「登頂してきた」と言ってはばからないセンス。彼らから見れば、時間と労力を注ぎ込み、時として人生を賭けて自分の足でピークを目指す本当のクライマーなどアホとしか思えないんだろう。
価値観の違いとも言えるが、大学のレポートを「スマート」にChat-GPTを使って書く(書かせる)のはやはり本末転倒である。そこは、アリストテレスがいうところのエネルゲイア的な考え方に沿って取り組むしかないのだよ。
沢野ひとしさんに倣い、ぼくも毎朝10分の時間を区切り身の回りの片付けをすることにした。10分しかやらないのが秘訣。
この際の片付けとは、あるものをあるべき場所に戻してやること、もしくはなくしてしまうこと。できれば後者で行きたいと思いながらの10分である。
ものを捨てるのは難しい。これは世界中で古来から思われていることに違いない。つまり、人間の性(さが)に強く根付いている。断捨離や、片付けに人生のときめきという表現が使われるのもそのためである。
身の回りがすっきりと片付いていた方がいいと思うか、雑然としていた方が落ち着くかは人それぞれ。どっちでもいいが、身の回りにどんなものがあって、それが必要かどうかくらいは分かっていた方がいい。だから、普段目が行かない本棚の棚にある書籍などを引き抜いてみる。
本の間に挟まれて岩波書店の『図書』が出てきた。表紙をめくると沢木耕太郎のコラムとその号の目次があらわれた。きら星のような書き手がならんでいる。
定期購読のための払込み用紙が挟み込まれており、購読料は送料込みで1年間1000円。これって、ずいぶん昔から変わってないように思う。確実に赤字のはずだ。
そういえば先日、ある取引銀行が今後、取引明細書の送付を有料にすると言ってきた。「紙の使用を減らし、環境への負荷をなくすため」など相変わらず子供だましの理屈を書いていて、今後は毎月220円の手数料がかかるそう。こちらは年間2640円。
最寄りの駅に東急線が乗り入れ、渋谷方面に出るのが幾分楽になった。乗換なしで勤務先まで行けるようになったのは助かる。
それに合わせて、東横線沿線のいくつかの駅を以前より利用するようになり、その1つが沿線のある駅ビルの中の図書館だ。先日、図書カードを作るために立ち寄った。
カウンターで手続きをしているぼくの脇に女性が何人かならんでいる。みな、手には本を抱えている。彼女らの先にあったのは「除菌BOX」と書かれた金属製の箱だ。
だがそこまで気にするかどうかだナ。図書館の本に限らず、書店の棚にある本だって誰が触ったか分からない。神経質になって気にし始めればキリがない。
ただ利用したい人は結構いるようで、そうした利用客からのリクエストでおそらくは設置されたんだろう。新型コロナの影響が大きいかもしれない。
ぼくは本をわざわざ除菌ボックスに入れる気はないが、せっかくだから何か入れたくなった。よく「人は金槌を手にすると、釘を探す」なんて言うが、それに近い。自分の頭を突っこんで除菌してもらおうかとアホなことを一瞬考えたが、扉が閉まらなければ除菌はできない。
そうだ、財布を入れてみようかーーやってみようとしたら、すぐそこにいた図書館スタッフに止められた。
英国から小包が来た。送付元名はWorld of Booksとある。英国にある書店のようだけど、本を注文した覚えはない。
宛名はぼく宛で間違いないので開封してみると、Julian Copeの"JAPROCKSAMPLER"という本が入っていた。この著者についてぼくは聞いたことがない。本のタイトルも初見だ。
おそらく英国の友人Pからのものだろうと踏んで、「届いた」とだけ連絡したら、無事届いてよかったと返信があった。彼はぼくとほぼ同年代。国は違えど、ロックを聞いて育ってきたのは同じ。
ジュリアン・コープは1957年生まれの英国のロック・ミュージシャン。メインストリームを走ってきたミュージシャンではなく(もしそうであれば知ってる)、かなりエキセントリックな音楽をずーとやってきている人物のようだ。
それはそうと、そうした英国のロック・ミュージシャンが、よくもまあというくらい日本の、それも60年代から70年代にかけて、つまり彼が10代の頃のファーイーストの国のロックをこれだけ調べたもんだと感心至極である。
本の巻末にAuthor's Top 50が掲載されていて、これがユニークで面白い。トップ50アルバムなんだけど、1〜3位はFlower Travellin' BandのSATORI、Speed, Glue $ ShinkiのEVE、Les Rallizes DenudesのHeavier Than a Death in the Familyがあげられている。
そのほか特徴的なところでは、天井桟敷のJ. A. シーザーや佐藤雅彦のアルバムがそれぞれ複数枚取り上げられている一方で、はっぴいえんどやYMOは1枚も入っていないことか。(ところで今、ウィキペディアのYMOの欄を見たら、そこには既に坂本龍一が「71歳没」と記されていた!)
以前のノートを見ていたら、病院に通院した折にたまたま測定した血圧と脈拍数のデータが貼ってあった。13:00、13:02、13:03としつこく3度測ってある。確か待合室にあった測定機器に腕を入れたままで測ったものだ。
面白いことに、血圧には「家庭血圧」と「診察室血圧」という2種類がある。それらの標準値はというと、診察室血圧の方が家庭血圧に比べて5高い。自宅で測るのに比べて、病院などで測ると心理的な要因で5ほど上がるのだろう。
惚れている相手の前なんかだと5どころではない、30くらいはすぐに上がりそう。「恋愛血圧」とでも呼ぼうか。
人間のからだはきわめて複雑なシステムだから、ちょっとした状況の変化にもすぐに反応する。だから検査などでもし好ましくない結果など聞かされても、あまり信用しないほうがいいと思った。