2022年3月19日

「ウェルビーング」は「フルヘッヘンド」しているか

今からおよそ250年もの昔、杉田玄白らはオランダ語が分からず、また辞書もないなかでオランダ語で書かれた人体解剖書である『ターヘル・アナトミア』を苦心して翻訳し『解体新書』を作った。というのは、みんな学校で習った。

それは大変な翻訳作業だったはずで、「フルヘッヘンド」というひとつの言葉をいかにして訳したかという逸話が『蘭学事始』にある。次のような話だ。

「鼻は顔の中でフルヘッヘンドしたもの」という文章があったが、その「フルヘッヘンド」の意味が分からない。ある本に「木の枝を切り取るとそのあとがフルヘッヘンドとなる」、また「庭をそうじするとごみが集まりフルヘッヘンドする」という表現を見つける。玄白らは考え続け、ふと思いつく。それは「うず高くなる」ということではないのかと。そして「鼻は顔の中でうず高くなっているもの」と訳すことができた。

考え続け、工夫し、読み手のことを考えて<言葉>に向かった玄白ら先人はほんとに偉かった。

江戸時代の杉田玄白らだけでなく、明治時代以降も日本人は頭を使い、工夫して多くの外来語を日本語に置き換えてきた。たとえばphilosophyを哲学に、scienceを科学に、cultureには文化と漢字を当てた。その他にも自由(freedom)、権利(right)、社会(society)、経済学(economics)、資本主義(capitalism)、共産主義(communism)、法律(law)、革命(revolution)なども日本で作られた日本漢語だ。

漢字で表記されたそれらの「新しい」言葉と概念の多くは中国に逆輸入された。中国の国名である中華人民共和国の「人民(people)」と「共和国(republic)」のどちらも日本人が作った言葉である。

なぜこんなトリビア的なことを記しているかというと、近頃の妙なカタカナ語が気になったから。たとえば、気取ったビジネスマンや三流コンサルがよく使う「パーパス」や「リスキリング」など。

最近では「ウェルビーング」というのもある。もとは英語のwell-being だ。日本語で言えよ、と言いたくなる。辞書には日本語の用語候補が載っているんだから。江戸時代の「フルヘッヘンド」よりよっぽど簡明だろう。

そうした連中が「ウェルビーング」と表現したがる理由は、その方が何となく新しい考え方のように響いて、そのため聞いた(読んだ)人がありがたがってくれるし、意味を明示的に定めない方が何とでも言えて金になりそうと考えているから。
 
well-beingをウェルビーングと表現するのは間違いではないが、考えることを放棄しているようで、とても恥ずかしい。

でまた、そうしたものを「素直に」受け入れてしまういい年した大人(企業経営者)がいるから困ったものだ。

思わせぶりなだけで、何も伝わってこない信託銀行の新聞広告