2017年12月29日

ダブルでもトリプルでも好きにやればいい

新聞一面トップの見出しに「副業容認で社員育成」とあった。

それによると、副業を認める企業が日本でも増えてきたというのだが、なぜ今なのか不思議である。紙面では理由として能力の開発、ネットワーキングなどとある。

ならば、なぜ今ごろになって? そうした効用があると理解しているのなら、そうした日本企業はなぜこれまで認めてこなかったのか?

他社の真似と、ブームに多少乗って「我が社は従業員重視のやさしい企業」というイメージを付けたいだけじゃないのかと勘ぐってしまう。

そもそも、時間と避ける労働時間が限られている副業で、あらたな能力を身につけるのは容易なことではない。多くの場合は、せめて現業での専門性に自信のある人が、それを場を変えるなど横展開するのがせいぜいだ。

ただ、副業で稼ぐということは、ひとつの会社の事しか知らないサラリーマンが他流試合を行うようなもので、自分の甘さや視野の狭さ、足りない点に気づくにはよい方法だと思う。

その結果、自分の能力の棚卸しをすることができ、セルフラーニングの大切さに気付き実行するようになれば、確かに能力開発につながるかも。

我が身を振り返れば、ほとんど新入社員の頃から副業をやっていた。本業である広告会社でのコピーライター業に加え、アルバイトで企業の広告制作を頼まれてコピーを書いたり、企画書をまとめていた。付加的な収入もあるが、ただただそうした仕事をたくさんやっていたかったのが理由だ。

自分が「外の世界」でどれだけ人から評価されるか、今でいうエンプロイアビリティを磨きたかったからといえる。

仕事が好きだったのは、学生時代からのことだ。大学3年の時には、日本を代表する大手通信会社の正社員として働いていた。週に3日、夜8時から12時までの仕事だった。正社員だから賞与も出たし、健康保険証ももらっていた。組合にも入り、ストの時には赤い鉢巻きを巻いてシュプレヒコールをあげていたのは爽快だった。

その時は学生の身分が本籍としてあったので、企業での仕事を醒めた目でというか、自分なりに相対化して眺めることができたのが、今にして思えば大きな収穫だったように思う。つねに「ここではないどこか」を探して複数の仕事を重層的にやってきたそのきっかけは、こうした学生時代の就労経験にある。いずれにせよ、大学の授業があまりにつまらなくて始めた仕事だったが、その自分がいま大学教授をやっているのだから、何をか言わんやである。 

 ところで、先の新聞紙面によると「人材の流動性が高い欧米では、副業が定着している。米国では労働力人口の3割にあたる約4400万人が主な仕事とは別にフリーランスとしての収入を持っている。一方で、日本では副業を持つ人は数%にとどまる」とある。

そうした米国の労働者にとって、主な仕事とは別にフリーランスでも働くことは、色々な面で重要なセーフティネットなのである。働く場所も、財布も、ネットワークもひとつに絞らないための知恵だ。

人材の流動性が確保され、働き方も自由な米国では、残業過多が理由で精神的に追い込まれた社員が自殺するといったケースはほとんどないのではないか。その方が、よっぽど人間らしい。

日本では就業規則で副業を禁止している企業が多い。週末や休日、有給休暇の間や就業時間後もなぜ社員を管理しようとするのだろう。休みの日はゆっくり休んで英気を養い、また月曜から会社でバリバリ働けるように、との経営者の考えなのかね。


2017年12月16日

猫は平和の象徴のひとつ

YEBISU GARDEN CINEMAで「猫が教えてくれたこと」が上映中だ。こんなに面白い映画なのに、都内ではこの映画館を入れて今は2館、横浜で1館が上映しているだけなのが残念。


監督はトルコ人女性のジェイダ・トルン。そして舞台はトルコのイスタンブール。イスタンブールには、国際学会に出席するため今年の3月末から4月にかけて訪ねたばかり。映画にはその時の懐かしい風景がたくさん出てきたのも楽しい。

学会出張であっても、時間を見つけてはひとりでとにかく街を歩く。歩くというより彷徨うのがいつもの流儀。その時も繁華街から1本、2本と裏通りに入り、時間の許す限り地図とコンパスをポケットに歩いたが、時折野良(たぶん)猫に出会ったのを印象的に覚えている。

その時、見かけた猫たち・・・

イスタンブールの裏街で会った猫たち(にゃん1)
にゃん2
にゃん3
こちらはトルコのカッパドキアの猫
接近して。。。

この映画を観て実は初めて知ったのは、イスタンブールは他でもない「猫の街」だということ。

地面すれすれの猫視線で、イスタンブールの街で生きる猫たちがとらえられている。岩合光昭の「世界ネコ歩き」をイメージしてもらうといい。


映画の中で、「猫は神の使い」という言葉が出てくる。自立し、自由で勝手、人に媚びることもなく生きているからかな。

街に住む人たちが、実に自然に猫に接してやっているのが微笑ましく、その関係に幸せ感がにじみ出ている。

2017年12月10日

鬼ヶ島とも呼ばれる青ヶ島

週末を使って青ヶ島(東京都青ヶ島村)へ行ってきた。

直通の交通手段はなく、八丈島まで全日空機で飛び、そこから東方航空のヘリコプターでわたる。なかなか人気のルート(島)らしく、ヘリの予約は取りづらい。

何年か前、取材で世話になった若者が青ヶ島小学校で先生をしていると聞き、訪ねようとしたことがあった。その時は天候のため八丈島で足止めをくらい、2日待って結局青ヶ島へは渡れず、八丈島の見学だけして本土へ帰ってきたことがあった。

雨や風はたいていのことでは平気らしいが、ヘリは有視界飛行なので霧のために視界がない日は飛行できないし。フェリーは海がしけると出港できない。

有人島としては伊豆諸島の最南端に位置し、東京都心からは360キロほどの距離。小笠原諸島などに比べればそれほどの距離ではないのだけど、アクセスがよくないために、離島中の離島といった印象がある。

島の周囲に浜辺はなく、ほとんどが垂直に近く切り立った崖で囲まれていて、近づき難いことから鬼が島とも呼ばれていたとか。


上の動画は大凸部と呼ばれる島の最高地点の展望台からの360度。ここから島最大の特徴である二重カルデラの地形がよく観察できる。北には八丈島が望める。

民宿で夕食を済ませた後、尾山展望公園に星空を眺めに出かけた。月の出が午後10時半過ぎの予定なのでそれまでは漆黒の空に星が観察できるはずだったのだが、そらの四分の一位を雲が覆っていたので、見上げる空中に満天の星とはいかなかった。

それでも冬の大三角形(おおいぬ座のシリウス、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン)がきれいに見え、流れ星をいくつも観ることができた。

2017年11月19日

厳然自粛?!

部屋の片付けをしていて出てきた雑誌のひとつ。2008年の「日経ビジネス」誌の別冊である。

その中に東芝の当時の社長、西田氏を取り上げた(ヨイショした)記事が掲載されていた。彼の写真のキャプションに「朝の6時半には出社して、戦略を練る。座右の銘は『厳然自粛』」とある。

厳然自粛とは、「厳然として自を粛す」との意。中村天風が好んだ「六然訓」の一節だ。

今となってはジョーク以外の何ものでもなく、即ゴミ箱に投げ入れた。

2017年11月10日

「クールジャパン」はクールじゃないよ。困ったね。

今週の初め、新聞の一面に「クールジャパン過半未達」という記事が掲載されていた。

クールジャパンは、国の成長戦略の1つ。日本の文化の輸出促進のために設定されたのが、クールジャパン機構という官民ファンドだ。

記事によると、発足から丸4年が経ったが、成果が振るわないと報告されている。投資案件24件のなか、その過半が成果を上げていないか、計画を達成することができていない。

なぜこれが官民ファンドの投資対象になったか、報道資料だけでは理解できないものも多い。

例えば、スカパーJSATが6割、クールジャパン機構が4割を出資いている「WAKUWAKU JAPAN」は、赤字続きで来年3月には減損の可能性がある。そもそも出資をしたクールジャパン機構の社長は、スカパー持ち会社の社外取締役を務めていて、彼が出資案件として持ち込んできた。ガバナンス上の問題はないのか。

ワクワク・ジャパンという企業名(サービス名)が、悲しいほど貧しいセンス。真面目に会社を設立したとはにわかに信じがたいのだが。

そもそも、自分で自分のことをクールと評する「鈍感さ」は、まったくクールではないと思ってしまうのは僕だけだろうか。クールジャパン、恥ずかしい。


日経新聞11月6日朝刊一面

2017年10月30日

不正そのものが競争力低下の原因ではない

日産自動車の国内のすべての工場で、無資格の従業員による新車の完成検査がなされていたことが明らかになった。

続いて神戸製鋼所で、取引先の求める基準に達していない製品の検査データを書き換えていたことも明らかになった。その後、日産と同様に、スバル自動車でも完成車の検査を無資格の検査員が行っていたことが表沙汰になった。

日本を代表する製造業メーカー各社で、そうした不祥事が相次いでいるという報道が新聞などマスコミでなされ、そうした点が国際競争力を急速失いつつある日本の製造業の一つの象徴のように語られている。モラルハザードだと取り上げ、まるで貧すれば鈍す、といった論調なのだ。

しかし、実態はそうだろうか。日産自動車、神戸製鋼所、スバル自動車、いずれの企業もこうした不適切な検査体制やデータ改ざんは最近なって行われたのではなく、以前からなされていたのである。

日産において完成検査の不正は40年前から。スバルも30年以上前からずっと無資格検査員による検査が常態化していたという。神戸製鋼での製品の性能データ改ざんは、会社発表では10年ほど前と言っているが、元社員によれば少なくとも40年以上前からやっていたとされている。

いずれの企業においても長年にわたって行われてきていたが、ただそれらがこれまでは明るみに出なかっただけ。別に最近になって日本企業のモラルが急速に低下したわけではない。むしろ、以前は公にされなかったそうした情報が表に出てくるようになったのは、その面では好ましい方向に向かっていると言うことができる。

人は金槌を手にすると、釘を探す。マスコミはこれらの企業の不正という金槌を手にし、国際競争力の低下という目先の釘に早計に飛び付いてしまった。長年にわたって不正を続けるなど、彼らのモラルダウンはもちろん褒められたものではない。しかし、もの作りの競争力とは直接の関係はなかった。現場がそれだけ実際によいものを作っていたからだ。

近年、日本の製造業が外国の同業者に追い越されているのは、経営者の能力と戦略のなさが理由である。東芝などその典型だ。そこをもっと仔細に分析していかなければ、いつまで経っても表層を撫でているだけで事の本質に迫れはしない。

2017年10月26日

シリウス、輝く

このところ雨が多い。台風も次々と日本周辺を襲う。秋の長雨というが、それにしても毎日しとしとよく雨が降る。降らない日でもどんよりした曇り空の日々が続く。

今日はやっと秋らしい天気の一日だった。これがこのまま続いてくれるとうれしいのだけど、天気予報によると週末はまた雨だとか。

今夜は南の空におおいぬ座のシリウスがひときわきれいに輝き、明るい瞬きを見せている。今の季節、南向きのバルコニーからほぼ正面に見える。その右上にはオリオン座が輝いている。

天気のいい日には、毎晩寝る前にシリウスを眺めるのがここ数年来の僕の習慣。その星までの距離、8.6光年である。

2017年10月19日

「演奏すれば思い出すだろう」

昨晩、今年69歳になったジャクソン・ブラウンのコンサートを、雨のなか渋谷オーチャードホールへ聴きに行った。東京公演の最終日である。

髪の毛には白いものが混じっていて、それなりに年輪を感じさせるところもあったけど、髪型も体型も同じ。声の艶も衰えてはいない。ストーンズやマッカートニーを持ち出すまでもなく、ロックミュージシャンって息が長い。

観客は、オヤジとオバサンが圧倒的だ。70年代あたりに学生時代を過ごし、その頃からJBの曲をよく聴いていたという連中だろう。そういう僕もその一人。彼のコンサートはたぶん3回目。正確には覚えていないが、最初が20年ほど前で、次は10年ほど前だったような気がする。

席は2階席の最前列。ステージ全体が見回せて、意外と良かった。1階席は、オヤジ、オバハンにもかかわらずスタンディングで声援を送る観客たちがいて、もうちょっとそういうのには遠慮したい自分のようなファンには2階がちょうどいい。

バンド(特にギターのグレッグ・リース)もいいし、コーラスの女性2人も張りがあってとても良かった。

彼は日本公演は慣れたものだし、日本のファンがどういった連中かもよく知っていて、緊張感の中にもリラックスした雰囲気が伝わってきた。「ファーザー・オン」を歌い始めるときには、「演奏すれば思い出すだろう」と言って始めたくらい。

この位のゆとり感がいい。もう半世紀近く、ミュージシャンをやってる。その経験と自信があればこそ。
 

2017年10月14日

「増毛のために髪の毛を食べるようなもの」

国内の健康食品・サプリメントの市場規模は、年間1兆6000億円と推計されている。この金額は、日本の出版業界のそのを超える規模を示している。

サプリは病気を治すための薬ではないので、その効果のほどは感覚的なものになる。サプリが効くかどうかは、気分が重要である。

マーケティング的にサプリは、買い手がその商品やサービスに価値があるかどうかは、彼らがそう思うかどうか次第だという「信用財」だといえる。鰯の頭も信心から、の類だ。

だからなのか、グルコサミンサプリの販売で知られているのは、大手の製薬会社と大手のビール会社系のサプリ販売会社である。いずれも知名度だけは抜群の企業だ。それを最大限活かして、利益率もまた抜群にいいサプリを通販で売っている。

「グルコサミンは効かない!」と題する記事を目にした。グルコサミンは、膝や腰の痛みを和らげるとの効用で売られている成分サプリである。

グルコサミンが効くかどうかに関しては、以前から「効く」「効かない」の両論があった。だが、最新の研究でグルコサミンは効かないことが証明された。

研究者によれば「グルコサミンは糖分の一種で、大部分が腸内細菌のエサになって終わりです。一部が小腸で吸収されるかもしれませんが、それば損傷した関節へ到達し、軟骨成分になるとは考えられません」とある。

いわば、グルコサミンのサプリを飲んで関節痛を治そうとするのは「増毛のために髪の毛を食べるようなもの」なのである。これは、おまじないと同じ。

売れればいいのか。科学的に効果が証明されていない成分を、さも効くように表現し続けていいはずはない。病気に苦しむ多くの人たちの弱みにつけ込んでいる、まやかしビジネス。倫理的な問題を感じる。

2017年9月30日

休み方改革とロケット旅行

新聞で「社員の休み方改革加速」という記事を読んだ。

ある新聞社が実施した社長100人アンケートをもとにしたもので、対象となった企業の9割が社員の有給休暇取得率を引き上げる方向性であると回答している。

長時間労働是正が目的とされているが、当時新入社員だった女性が自殺した違法残業事件が起きた電通では、有給休暇取得を義務化する方向で進めているらしい。
そもそも有給休暇は、働く人たちの権利であって義務ではないはず。電通で起きたように実際になされた残業がその通り記録されていなかったり、上司からの圧力によって無理やり残業が行われていたといった点は会社側の責任によって改善がなされなければならない。
だが、そもそも有給休暇を取るかどうかは社員次第。決して義務ではないはず。あくまでも権利である。もし会社が有給休暇取得を義務と考えるのであれば、当初から会社の就業日数を減らせばいいのである。
なぜこんなちぐはぐなことが発生するのだろう。その社長アンケートとやらによると、改善すべき項目として管理職の意識改革が79%、職場風土の改善が78%といった数字が挙げられている。管理職の意識改革は確かに企業が行うべきことかもしれない、しかし職場風土の改善をその企業が自分たちでどのように行うのだろう。
「社員の休み方改革」という名称も変だ。もし企業の視点から言うのであれば、「社員の休ませ方改革」ということになるのだろう。しかし、それもどうもしっくりこない。休もうが休むまいがそれは社員の勝手である。
有給休暇の取り方までなぜ会社が、しかも会社のトップが考えなくてはならないのだろう。これはある意味で、未だ日本の企業では、多くの社員たちの生活のほとんどが会社に依っているということの証左だろう。
同じ新聞の見開き対向面に目をやると、びっくりさせられる記事が目に飛び込んできた。

小さな囲み記事だが、そのタイトルは「ロケットで海外旅行」とある。イーロン・マスクが率いる米国の宇宙開発ベンチャー、スペース X 社が最大240人収容できる超大型ロケットを使って2022年以降に長距離旅客輸送に進出することを発表した。

最高時速は2万7000km で、宇宙空間を通過し地球上の主要都市を30分程度で結ぶ。実現すれば、東京とアジアの主要都市は約30分前後で移動できる。ニューヨークとロサンゼルス間は25分。山手線で新宿駅から新橋駅まで移動するのと同じ時間である。

今後、大都市の沿岸に小規模な海上発着台を建設するという構想である。まさに夢のような話にも聞こえるが、2022年といえばわずか5年後の話。スペース X 社の社員や経営者は、社員の休み方改革など考えてる暇は微塵もないはずだ。

経営者がやらなければならないことは、社員の有給休暇取得率を気にしたりそれをいかに上げるかに時間を割くのではなく、グーグルのエリック・シュミットらがいう「スマート・クリエイティブ」という、新しいやり方を自分でつくり出すことができる人材を社内に増殖させること。そして彼らに責任と自由と彼らが楽しめる仕事を与え、思いっきりそれに没頭させることだ。

社長が社員の勤務形態を考えることに時間を費やしたり、出退管理を気にしていてはいかんのである。そんな企業は早晩市場から消えることになる。

2017年9月29日

文部科学省って天才?

今日の新聞記事から。

文科省が本日、東京23区内の私立大学は学生の定員を増やすこともはまかり成らぬという正式の告示を出した。

その理由は、彼らによると「学生の過度の東京集中により地方大学の経営悪化や、東京圏周縁で大学が撤退した地域の衰退が懸念される」からとしている。

つまり、何だ・・・、東京の大学(それもなぜか私立大学だけ)の定員を抑えることで、若者を地方に留めおくことができ、ひいてはそのことで地方創成が実現できると考えているわけだ。

冗談のような話。発想がけちくさいというか。いつもながらに、文科省の役人らの思考回路はショートしている。

都内の大学の定員増分に入らなかった受験生たちが、なぜ地元にそのまま残ると考えるのだろうか。東京でなくても京都や大阪など、大学をたくさん抱える都市はたくさんあるしね。 

そのうち、文科省からの告示で、20歳未満の人が東京以外から都内に入る際には関所か何かが設けられ、そこで都内での滞在期間が明記された通行手形を見せることを要求されたり、そこで都内滞在日数に応じて通行料が課せられたりするようになったりして。

彼らの発想を敷衍するなら、東京都内から大学を無くしていけば人口の一極集中がなくなり地方が栄えていく、という話になるが、役人はどうしてこんな勘違いに自分たちで気がつかないのだろう。

都内への人口集中をそれほどまでして減らしたいのなら、まずはさっさと文科省の役人を束にして都内から地方へ放り出すことだ。どこもいらないというだろうが。

さらに付け加えるならば、都内の大学の定員増を認めないことで影響が出るのは、その追加定員分に入らなかった受験生である。あくまで入試学力の面だけで述べるが、その程度の学力の若者たちだ。

そうした若者を、東京の大学に入学できないようにしてまで地方に留めおいて何があるのか。地方の発展や隆盛を期待するのであれば、人物、学力とも第一級の若者を東京なり外国でしっかり学ばせ、仕事なども経験させた後、彼らが地元に戻ってきて活躍したいと思えるような地元の街づくりと施策を考えるべきではないか。

いずれにせよ、こうしたことは国がああだこうだということでなく、各自治体が知恵を絞るしかない。


2017年9月18日

死亡奨励金

今日は敬老の日ということで、ある新聞一面の見出しの一つは「65歳以上3514万人 過去最多、人口の27.7%」だった。
65歳以上の高齢者人口は前年より57万人増え、過去最高を記録。90歳以上は初めて200万人を超えたという。これは国勢調査を基にした人口推計である。
国立社会保障・人口問題研究所の推計では、第2次ベビーブーム世代が65歳以上になる2040年には総人口の35.3%が高齢者となる見通し。
つまり、これから20年あまり、毎年敬老の日の新聞の見出しは「65歳以上 3○○○万人 過去最多、人口の○○%」という見出しが続くことになるのだろうか。それとも新聞社がその記事のアホらしさに気づいて、途中で止めるだろうか。

本来、敬老とは老人を敬うこと。祝日法によれば、敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことが趣旨とされている。

しかし、今日の新聞記事にもあるように、高齢者人口の増加と一緒に必ず語られることは、医療費や介護にかかる費用が年々膨らみ続けていて下の世代にますますしわ寄せが来ていること、そしてこのままの制度は維持できないということ。老人への敬愛や長寿のお祝いなど、すっかり片隅に追いやられている。

人が年をとり高齢者になることは、もうおめでたいことではなく、歓迎されるものでもなくなってきている。高齢者=社会の負担ということか。

社会保障の内容が細っていくに従って自己負担額が増加し、これまでのような医療や介護を特に貧困者は受けられなくなる。 

そのうち高齢者になる65歳を境に、死んだら国から奨励金か何かが残された者に支払われるようになるかもしれない。もちろん早ければ早いほど制度的に優遇され、65歳死亡時での受給額が最大だ。

そうして「国民のみなさん、(高齢者になったら)早く死んだ方がトクですよ〜」と国が巧妙に国民へ刷り込みを始めるようになる。もちろん政治家や官僚、大金持ちは別枠で、そうした連中はいつまでも長寿を目指し権力に汲々とし続ける。

近い将来的には、金や権力を持つ者と持たない者の間で、新たな格差である寿命格差が生まれてくるに違いないと見ている。

2017年9月17日

東京の観光振興を考える有識者会議 8月

先月出席した東京都の会議の様子がYouTubeに掲載されているのを見つけた。



2017年9月9日

単なる欠陥駅では済まない

東横線&副都心線を通勤でよく利用する。そのため渋谷駅は通過はしているが、そこで降りることはめったにない。あまり降りたくないとも思っている。

だが、取材先の企業が渋谷にあれば、仕方なくそこで降りることになる。つい先日、ある企業を訪ねるため東横線の渋谷駅で電車を降り、構内見取り図で自分が目指す方面へ出る出口が15番であることを確認。掲示を探すと14から16の出口方面への矢印があったので、それに沿って進む。

ところが、14番出口の隣が16番になっている。15番出口がない。たまたま近くに東急電鉄の定期券売場を見つけたので、そこに飛び込みどうなっているのか聞いた。14と16とはまったくかけ離れた場所に15があることを案内された。なぜそうなっているのか尋ねたら、「この駅は迷路のようになってしまっていて、複雑すぎて僕たちにもよく分かりません」と言う。

駅員からしてこうだ。 それでも通勤や通学で毎日使用している客は、それなりに「慣れて」麻痺し、そんなものと思っているのかもしれない。

問題は、たまたまこの駅を利用した不慣れな客だ。特に、視覚障害のある人にとっては、この駅は間違いなく地獄である。

案内や表示が不備で統一感がなく、階層が地下何階にも分かれ、階段やホームが信じられないほど狭いこの駅を目が見えない状況で移動できたらオリンピックものだ。他線へのスムーズな乗換などまず不可能。初めて日本に来た海外からの観光客たちも、間違いなく途方に暮れる。

新宿駅や池袋駅、東京駅といった他のターミナル駅に比べて白杖の人や車椅子の人が極端に少ないのは、そうしたことが理由なのだ。彼らは自らのことであり、よく知っている。

構造が分かりづらく不親切なだけでない、視覚障害者用の点字ブロックの設置の仕方もおかしい。下の写真では、一般の歩行者用通路は左側通行で両方向の流れが設置されていて対面でぶつからないようにしているが、点字ブロックは片側に一本だけしかない。


しかも、杖を頼りにあるく盲人用の点字ブロックと建物の壁面は、50センチも離れておらず、危険極まりない。障害者は端っこを歩いてろ、と言わんばかりである。

バリアフリー? いちおうちゃんとやってまっせ、という電鉄会社の言い訳だけがそこに見える。

こうした駅の仕組みが視覚障害者などにとって不都合であることを具体的な例を挙げて駅員に説明したが、その時返ってきたのが先の「複雑すぎて、僕たちにもよく分かりません」という情けない返答だった。

こんなとんでもない駅が今どきあること自体が許せない気分だ。入場無料のStation Jazzも結構だが、その前にすぐにでもやることがあるだろう。

2017年9月3日

月を見てから寝床に入る

しばらく前から、睡眠を管理するためのアプリを使っている。

寝入りばなは静かなBGMで眠りを誘い、朝は設定した目覚まし時間を参考にしながらレム睡眠のタイミングで起こしてくれる。睡眠中の覚醒の波(度合い)も記録し、朝目覚めたときにその日の睡眠の快眠度を数値で示してくれる。

スマホは厳密な診断機器ではないので、いずれの値もどこまで正確なものかわからないが、自分の睡眠の質を改善していくための参考にはなると思っている。

そのアプリの診断のひとつが、月齢と快眠度の関係。僕の場合は、月齢で7から23あたりが快眠度が高いことがはっきりと分かる。三日月が上弦の月になる頃から下弦の月にいたる手前あたりである。


ただし、月の満ち欠けと人体の関係についての科学的な証明はなされていない。

スイスのバーゼル大学で行われた研究では、満月の時に人間の睡眠は乱されるとの研究結果が出ている。僕の場合は、満月の頃ぐっすり眠れているらしく、それとは傾向が逆だ。


2017年9月2日

民止党代表決定

民進党が臨時党大会を開き、そこで代表に前原なにがしが決まったらしい。蓮舫も政治家としての色気(女性の色気ではない)に欠けた代表だったが、それにも増して冴えないサイテーの人物を党首に選んだものである。進歩がない政党である。

2017年8月30日

越えられる人間の知性、越えられない子ガメの野性

鹿児島県・屋久島の北東部にある永田集落のいなか浜は、北半球最大のアオウミガメの産卵地として知られている。今日の昼間、まぶしい日射しのなか訪ねてみた。


アカウミガメの産卵の時期のピークは、5月から7月。だから、僕が行ったこの時期はもう産卵が終わり、浜の陸地に近いあたりには砂浜に細い棒が何本も立てられていた。

ここにウミガメの卵が埋まっているから立ち寄らないでね、という意味で地元の人たちが立てた印である。

60日ほどで孵化するので、ちょうど砂の下で卵は孵化している最中のはず。一匹のアカウミガメから一度に生み付けられる卵の数は100から140個。殻を破って出てくるのは夜中だけ。外敵から身を守るためだろう。砂の表面の温度の変化から時間帯を知って、這い出てくるのだという。

3日から7日間かけて地表に出てきた子ガメたちは、夜を待って巣穴から一斉に這い出し一目散に海に向かう。その後は広い太平洋で回遊生活を送り、若い頃は海を渡った北米大陸の沿岸で過ごしているという。

30年ほどで成人ガメになり、また屋久島の浜に産卵のため戻って来るのである。いつもは海中で暮らしているので、浜に上がってくるのは産卵の時だけだ。

それにしても、彼らが生まれながらに備えているコンパスというかGPS機能はすばらしい。子ガメは海を見たことがないのに、どうやって砂から這い出した後、海の方向が分かるのか。そして30年も経ってどうやって自分が生まれた屋久島の場所を知ることができるのか、本当に不思議だ。

2045年にはAI(人工知能)が人間の知性を越えるシンギュラリティ(技術的特異点)がやって来るとか聞かされると、僕はちっぽけな子ガメの姿を思い浮かべ、ケッと思う。

2017年8月26日

鹿児島桜島

ゼミ合宿で初めて訪れた鹿児島。その中心にある桜島の姿。



2017年8月20日

支援します。

先日、それまでWBC世界バンタム級のチャンピオンだった山中慎介選手が、13回目の連続防衛を目指した世界タイトルマッチが行われた。結果は残念ながら、山中のTKO負けである。

相手の選手は、メキシコ人のルイス・ネリ、22歳。同ランキング第1位の選手で、23選全勝のボクサーである。ちなみに、山中選手は34歳。

第4ラウンド、残りあと30秒でセコンドにいるトレーナーから投げ入れられたタオル。本人は終わったあと、もう少しやれたと思っただろうが、それはそれで仕方がない。

話は変わるが、金曜日の新聞に全面の意見広告が掲載されていた。袴田さんの事件の再審の早期開始を求める内容だ。

一番下に記載されている広告主に目が行ったのだが、そこに日本プロボクシング協会袴田巌支援委員会という文字を見つけた。


1966年に袴田さんが、その後「袴田事件」といわれる不当逮捕でつかまったとき、彼はプロボクサーだった。彼が検察から「狙われた」理由のひとつとして言われているのが、ボクサーという職業への偏見だった。

そんな袴田さんを支援する輪の中の1つに、WBC(世界ボクシング評議会)がある。僕は知らなかったが、WBCは袴田さんに名誉チャンピオンベルトを贈り、その支援を明らかにしている。

僕も支援のいくばくかの金を送金した。

*今年5月に行われた村田ーエンダムのミドル級タイトルマッチを行い、とんでもない判定をパナマ人ジャッジが行ったWBAは、WBCとは別の団体である。

2017年8月19日

情報操作

今朝の日本経済新聞の第1面は、「米労働市場に異変」という見出しの記事だった。サブタイトルは「働き盛りの男性の参加率 主要国最低」。

そこに添えられていたのが、トランプ大統領の写真と下記のグラフである。


これは、つねづね学生たちに対して注意しなければならないバイアスのかかったグラフだと示している作図の仕方の典型例である。

このグラフから言えることは、ここで示されたOECD5カ国の中で2016年では日本が最高(約95%)、米国が最低(約89%)、そしてフランス、ドイツ、英国の欧州勢がその中間(約92〜93%)であること。あと2009年から米国の数値がそれまでと比べて急に下がって来たこと。

ただ、この図を見ると、誰もが米国の近年の数値が他国に比べて極端に低いと感じるに違いない。その理由は明らかで、グラフの縦軸の数値が0から始まるところが88から始まっているからである。

新聞社が、こんな作図をしては絶対にだめ。社内で誰も指摘しないまま、こんなものが1面トップ記事に掲載されてしまう日本の新聞社のダメさ加減が出ている。

捏造ではないが、ある意味での「操作」であると捉えられてもしかたない。データの最も基本的な扱いすら分かっていないことが読者に明らかになってしまったね。

2017年8月15日

日本の教育はどこへ行く

大学入試改革で、英語に関して読む、聞く、書く、話すの4技能のテストが導入されるらしい。

日本学術振興会理事長の安西祐一郎氏(前慶応大学塾長)は、その改革の意味について先日の新聞紙上で次のように述べている。
これからの時代には自分の思考内容を明確にし、それを論旨明快に相手に伝える方法の1つとして、英語力を身につけることが肝要だからである。高校や大学では、英語は主体的に思考、判断、表現する方法の1つと考えるべきであり、書く・話す鍛錬が極めて重要になる。
彼が言っている「これからの時代」とは何なのか、分からない。思考内容を明確にすることや、それを相手に伝えることと英語力はどういう関係があるのかも分からないし、なぜそれが肝要であると主張できるのかも理解できない。

英語が主体的に思考、判断、表現する手段の1つ、という彼の考えもまた意味不明である。英語は言語の1つとして表現の1つではあるが、それが思考やまして判断の手段だと述べる意図はどこにあるのだろう。

このように日本語でも何を言っているのか分からない大人が多いのに(たぶん本人はそれに気づいていないのがいっそう残念)、どうして高校生たちに入試で過大な負荷を負わせたがるのか。論理的な思考や判断、その表現は母国語で鍛えるのが基本だろう。

なぜなら、日本語で考えたり表現できない内容を外国語で伝えることができないのは明らかだからだ。

こうした奇妙な「改革」で喜ぶのは、受験業者、英会話学校、帰国子女だ。高校時代の夏休みに欧米に語学留学に出かけることができる親の経済力がある子供と、そうでない子供の格差も確実に拡がってくことが予想される。どんな阿呆でも若い時に英語環境で暮らせば、それなりに聞け、話せるようになる。話す中身は別としても。

このようなしょうもない入試改革を発想する連中は、自らが大いなる英語コンプレックスと白人コンプレックスを胸に抱えて生きてきた人たちなんだと思う。


2017年8月14日

中国からの攻撃が続く

8月11日の早朝、大学のメールシステムから、まもなく割り当てのサーバー容量に達してメールが使えなくなりますというメールが来た。

もともと大学の個人割り当ての容量は2Gバイトと少ないのではあるが、それでもまだそんなはずはないはず。ところが確認してみると、何千というメールが来ている。驚いている間も次から次へと来ているではないか。

件名は長々と漢字の羅列。簡体字が多いので、どうもいずれも中国かららしいと思い調べたら、やはりそれらの多くはqq.com(テンセント)や126.comという中国のフリーメールからの発信だった。


それにしても人迷惑な。それら中国のドメインや件名の共通項をフィルタにしてメールを即時破棄にするように設定したが、どういうわけか大学のそうしたシステムの精度はあまりよくない。今もフィルタにかからず着信するメールが山のようにあるので困ったものである。

さらに困った(つまり「やられた」)のは、大学のアドレス宛のメールを転送している先のGmailのアドレスが、短期間にあまりにも大量のメールを受信したということで、メールの受信に制限をかけられてしまい、一切届かなくなった。

さらに悪いことには、8月11日から20日までは大学が一斉休業に入るため、通常であればこうしたことに対応してくれるITサポートの手助けも21日まで待つしかない。このタイミング、狙ったか?

特定の誰に文句を言えばいいというのではないのが、腹立たしい。

2017年8月5日

意味のない形式主義が日本の生産性を下げている

2か月に一度送られてくる水道料金の支払いをクレジットカード払いにした。

引っ越して来てから2年近く毎回コンビニで支払いを済ませていて特段面倒というほどのこともなかったが、省けるルーティーンの手間は省こうというくらいの考えだった。

水道局の担当部署に連絡して支払い方法変更のための用紙(はがき)を送ってもらった。必要事項を記入して送付。これで完了かと思ったら、簡易書留で送り返されてきた(そのために不在配達書に日時を書き込み、後日自宅待機して受け取った)。

必要事項の記載に漏れがあるので、記入の上で再度送るようにと書かれた添え状が付いている。

記載が漏れていたのは、名前の「フリガナ」欄だった。といっても、名前の欄にはクレジットカードの名義人名を書くようになっていたので、名前はカタカタで記入しておいた。だから、あえてフリガナを振る必要は無いと判断して記入しなかったのだ。

しかし、そこが空欄だから処理できないと送り返されたきたわけだ。

単に形式的なものをそろえるために余計な時間とコストをかけていることに、どうして疑問をもたないのだろう。

「考え、判断する」ことを放棄している。これなら担当はロボットでいい。

2017年7月15日

即日売り切れ

週刊文春の表紙は、長年にわたってイラストレーターの和田誠さんが描いている。独特の暖かなタッチ。和田さんの絵は、それとすぐ分かる。

際どいスクープを連発している週刊文春が、一方で常識と普遍性のようなものを読者に感じさせているとしたら、その半分くらいは和田誠の描く表紙が影響しているように思う。

その和田さんの描く表紙が、2000回を迎えた。40年間である。それが、毎週毎週だ。すごいとしか言いようがない。しかも、その表紙の絵を見る限り、和田さんは毎週頭をひねりつつ楽しみながら書いている(に違いないように僕には思える)。

2000回を記念してメモリアルクロックなるものを週刊文春と和田さんが売り出したのだが、申込をしたところ即日「完売」ということだった。

台数限定販売なのは分かっていたが、即日完売とは。全国に大勢の和田誠ファンがいることを忘れていた。しまった。

2017年7月7日

バルミューダ創業者の本

著者の寺尾玄は1973年生まれ。独特の設計で知られる扇風機を生み出したバルミューダ社の創業者だ。 


彼が設計して売り出したグリーンファンという名の扇風機は、値段が3万円以上するにもかかわらず人気商品で売れている。

最小消費電力3Wという一般的な扇風機の約10分の1の消費電力。最弱運転時の動作音はわずか13dB(デシベル)、人間の耳ではほとんど認識できないような圧倒的な静音性能を持つだけでなく、送られてくる風が従来の扇風機とまるで違うらしい。木陰で涼んでいるときに吹いてくるような自然の風らしい。

寺尾は、両親の離婚や母親の死、そして高校の進路進藤のやり方に強烈な違和感を感じて学校を退学、あとはお決まりように海外放浪へ。帰国後はロックミュージシャンを目指して活動を開始。バンドを組み、やがて何とかレーベルデビューを図るという矢先に契約を破棄されるという経験をする。

生きていかなければならない。そうした差し迫った時に、たまたま奥さんが持っていた雑誌でものづくりのデザインの面白さに気がつく。
試行錯誤の末、売れるモノ、つまり必要とされる物をつくらなければと考えた彼の頭に去来したものが扇風機。「なぜ扇風機の風は人工的で気持ちが良くないんだろう」という昔から感じていたという問題意識である。そこから彼の新たな闘いが始まった。

「掃除機はどれもなぜ使っているうちに吸引力がすぐに落ちてしまうのか」という不満を持ったジェームス・ダイソンが、自らそれを解決するためにそれまで誰も不思議に思ってこなかった掃除機という超成熟製品に目を付けてそこにイノベーションを起こそうとしたのと似ている。

ものづくりはおろか、それまで会社員をしたこともなかった寺尾が、そのために身につけなければならないと思ったことを取得していくすべは、そうした技術や経験をもつ人から学ぶしかない。早速町工場をいくつも訪ね、材料のことや加工のことを体で学んでいく。切羽詰まった人間の捨て身と言えるが、これくらいやらなければ考えを形にできないことをよく知っての極めて合理的な行動である。

会社が倒れるかどうかという資金と時間のなかでの闘いは(本人には申し訳ないが)スリリングだ。

自分がやりたいことを自分の手でつかもうとする姿勢と行動には頭が下がった。今の彼はミュージシャンではないが、彼のやり方は実にロックである。


2017年6月30日

ワイダの残像


アンジェイ・ワイダの遺作になった『残像』を観に神保町の岩波ホールへ。英語タイトルは、Afterimage。 


映画の主人公ストゥシェミンスキは、実在の人物。ポーランドを代表した前衛画家で、抽象画を精力的に描くかたわら、芸術大学で情熱的に教鞭を執っていた。

第二次大戦が終わり、ポーランドが旧ソ連の支配下におかれ、そこでは芸術すらも社会主義的イデオロギーを表出したものだけが認められ、社会主義リアリズム以外の芸術作品はすべからず排斥された。

視覚理論について大学の講義のなかで語るシーン、彼は残像について語る。残像に映る色は「実際に見たものの補色なのだ」と語る。

自由な創作活動を主張し、スターリン的な全体主義を標榜する政府官僚とことごとくぶつかる彼は、「無認可」の芸術家というレッテルを貼られ、そのために絵を描く画材すら店で買えなくなる。やがて大学の職を奪われ、作品を発表する場所や機会も完全に失い、日々の食事にも窮するようになる。

やがて、そうした状況は彼を心身ともに追い詰め、最後は自らの芸術家としての誇りもなげうって得た洋装店の店頭ディスプレイの仕事をしている最中に倒れ、息を引き取る。

映画は彼が倒れた後、その娘であるニカ(気丈な娘役をしているブロニスワヴァ・ザマホフスカがいい!)が息せき切って訪れる病院のベッドで、シーツにくるまれたストゥシェミンスキを彼女が見つめているシーンで映画は終わる。

ニカの頭の中には父親の残像が映っていたのだろう。

途中、彼に救いの手を差し伸べようとする政府官僚が現れる。政府への批判をやめ、政府が決めた芸術があるべきとする方針に沿って活動さえすれば、大学に復職できるし、それなりの生活が保障されると囁く。

実際、画家に限らず、詩人などその時代の多くのポーランドの芸術家は、何らかの転向を余儀なくされ、それで生き延びた。しかしストゥシェミンスキは、それを頑なに拒み、自らを貫き通し、最後は非業の死を遂げる。

その生き方の是非を誰も断定することなどできない。ワイダが描いたのは、実際にポーランドに生きた一人の芸術家の、悲惨な時代背景における苦悩と闘いと死である。

これもまた、現代人に突きつけ得られているひとつの「残像」、つまり「補色」なのだ。

全体的に舞台演出のような人物の動きが気になったが、一人の人間が巨大で強固な国家という権力にいかに抵抗しうるのか、いかにもワイダらしい骨太のテーマが描かれた本作は劇場を出た後の足取りを確実に重くするほど重厚で心にズシンとくる映画だった。


ストゥシェミンスキは、学生たちに向かってこう言う−−−「芸術と恋愛は、自分の力で勝負しなければならない」。そうなのだ、芸術と恋愛と○○は、自分の力で勝負しなければならない。誰もがそうした○○を抱えているはずだ。


2017年6月29日

アマゾンとヤフー

先日、大学院のゼミにアマゾンのディレクターを務めている友人に来てもらった。アマゾンのビジネスの進め方や経営方針などについて話をしてもらったのだが、その顧客中心主義の考え方に改めて感心をした。

彼らのモットーは、「世界で最もお客様を大切にする企業であること」。他にない数々のサービスもすべていかに顧客に愛されるか、顧客の欲しいものを欲しいタイミングで欲しいように届けるか、ということを追求したことから生まれた。

かつてドラッカーが「企業の目的は顧客の創造」であると喝破したように、最終的にはどんなビジネスであろうと、一番顧客に求められている企業が勝つのである。シンプルだが、ビジネスの本質をついている。

このこと、多くの経営者が頭ではきっと分かっていてるはずだが、実際にそのために自分たちが何をなすべきか、何ができるのか、どのようにやるのかといったことを常に全力を振り絞って考え、そしてそれらを実行に移してる会社は決して多くない。

アマゾンの凄さは.そうした当たり前の考えを数十万にいる社員すべてが共有し、日々そのために頭も体もフル活動させていることなんだと思う。

先日、大手通販サイトのヤフーショッピングを運営するヤフーが出展者に対してサイト内の広告を出すように働きかけるページに「通常の検索結果と差異のないデザインで表示されるため、いかにも広告という印象を与えずにお客様にアピールできる」と記載していたことがわかった。

つまり広告である事を隠した広告である。どうも今はそうした行為を「ステルスマーケティング(ステマ)」と呼ぶらしい。フリマ(フリーマーケット)ならまだ分かるけど、ステマだって。へんてこりんな、嫌な言葉である。マーケティングの本質を何も理解しない人が作った言葉だ。こうした広告のことは、妙な横文字を使うまでもなく、詐欺広告または詐欺的広告と呼べばそれでいい。

日本で誰が使い始めたのか知らないが、「こういうのってステルスマーケティングって言うんだぜ、みんな」みたいなことを生かじりの浅薄な人物がどこかで言い始めたのだろう。それに乗る連中も連中だが。

ところで、彼からアマゾンについてゼミで話をしてもらったなかで一つ大変印象的だったのは、アマゾンは日々集まる膨大なデータを分析するに際して、決して顧客のプロフィール情報は用いないようにしているということだ。

なぜか。一つには、もしそうした個人情報が漏洩した際に受けるとてつもないマイナスのインパクトを考えてのリスクマネジメントがあるのだろう。そしてもう一つは、あくまで個人のプライバシーを尊重するという創設者であるジェフ・ベゾスの考えの表れである。

そうしたしっかりとしたポリシーがあり、それが守られているからこそ、アマゾンは信頼され続けているのだと思う。

2017年6月23日

電車の中で

先日、帰宅途中の車内で見かけたサンドウィッチマン風のおじさん。


多くの日本人が同じような考えを持ち、だけどどこにその気持ちをぶつけていいか分からず、鬱屈した思いでいるはず。日本だと駅や電車の中で声高にそうしたこと叫ぶとたちまち警察に通報され、駅員に「ちょっと来なさい」とつまみ出される。

そこでこの男性が考え出した方法が、この自己看板戦法だ。これなら誰からも迷惑だと文句をつけられない。

2017年6月17日

ボウズ1000円

土曜日の早稲田大学正門通り。大学から歩いて5分ほどのところにある床屋の店頭。男性1300円はQBハウスといい勝負だが、女性1400円はどのような仕上がりなのだろう。ちょっと気になる。


2017年6月8日

マーケティング、授業終了

昨日、授業終了後、大隈通り商店街にある店で打ち上げの懇親会があった。

夜7限の授業が終わった後だから午後8時40分から10時すぎまでの1時間半ほどだったが、社会人大学院生らしく限られた時間のなかで濃密に交流した飲み会で面白かった。

学生たちから大きな花束をプレゼントされ、帰りの電車に持ち込むのが小っ恥ずかしかったナ。



2017年5月28日

いつだってフルスイング

今朝の「木村達也 ビジネスの森」は、「週刊文春」編集長の新谷学さんをゲストにお迎えし、新刊の『「週刊文春」編集長の仕事術』をもとにお話をうかがった。


もともとはテレビ局で大人向けのバラエティをつくりたかったという新谷さん。ひょんなことで(ま、ふつう新卒で入社するときはそうだけど)株式会社文藝春秋に入社、いくつかの部署を経て「週刊文春」の編集長になって6年目。

一番興味があるのは、人。その可笑しさや、情けなさや、胡散臭さや、そうしたものすべてを含めて人が好きだから続けられていると。

スクープにしても、大上段から社会正義で人を裁くようなまねはしたくなく、フラットな目線で取材し、掘り下げ、記事にしてい行くのが文春流のようである。しかし、スクープだけでなく記事を載せるときはいつだってフルスイングでいく。

いま話題になっている「週刊新潮」の中吊り広告の件などもダイレクトにお聞きしましたが、そこはオフレコということで放送できませんでした。来週も新谷さんをゲストにお招きします。

編集者は黒子、ということで顔写真なしの記念撮影でした

今朝の一曲に選んだのは、Christina Perri で A Thousand Years。


2017年5月21日

亀とジェット機

先週と今週、「木村達也 ビジネスの森」にゲストとして元エルピーダメモリ社長の坂本幸雄さんをお招きした。


エルピーダメモリは、1998年に日立とNECの半導体(DRAM)部門が統合してできた会社。設立後うまくいっていなかったその会社に、坂本さんが2002年に再建を託されて社長に就任し、その後10年間にわたり同社を率いてきた。

坂本さんの企業人の原点は、体育大学の卒業後に義理のお兄さんの紹介で入社した日本テキサスインスツルメンツ社。そこの倉庫番からスタートし、25歳で経営企画部の課長に。それまでの上司が部下になった瞬間だった。最初は双方ともやりづらい感じもあったが、両者ともすぐに慣れていったという。肩書きは、単なる「役割」なのである。

日本企業とアメリカ企業の経営の違い。多くの違いの中でも決定的なのがスピード感の違い。両企業をよく知っている坂本さんから見た場合、その差は亀とジェット機くらい違うと云う。

コングロマリットの事業形態がその根底にある。種々なビジネスに関して、トップがすべてを理解できるはずがなく、だからこそクイックな判断ができない。社長がビジネスに精通していなくて、なぜ適切な経営判断ができるのか。切り離すべきだというのが坂本さんの考え方だ。

スペシャリストとジェネラリストについてもお話をうかがった。日本企業は多くの社員がゼネラリストを目指しすぎるので、部長になったとたんに専門性を鍛えてこなかった人たちはリストラの対象になってしまう。

企業に必要なのは、一部のジェネラリスト。坂本さんが語るように、その以外の人たちはスペシャリストを目指すべきなのだ。

まずは専門性を磨くこと。その後、組織内のポジションと役割に応じて、ジェネラリストとしてのキャリアを磨いていって経営者になる人材が出てくる。多くの日本のサラリーマンは専門性のひとつも持たないで最初からジェネラリストを目指すケースが多いが、それでは仕事にならないのである。

今朝の一曲に選んだのは、スティングで「Shape of My Heart」。


2017年5月13日

「髪型変えた?」

大学時代のサークルの同期会があり、小雨の中を出かけた。会場になった大学近くの鮨屋に集まったのは9名。その内の8人とは、大学卒業以来の再会だ。

36年ぶりだが、みんな意外と変わってない。女性はみんな昔の雰囲気のままだし、男の方も頭がいくぶん涼しくなったり白くなったくらいで、昔の様子そのままなのにちょっとびっくり。

自分自身があの頃からたいして変わってないのに、他人だけ変わっているに違いないと思っていたのがそもそも間違い。

それにしても、「あれっ、木村君、髪の毛そんなに短かったっけ?」と言われ、何を問われているかよく分からず黙っていたら、「長髪だったよねえ・・・」と。

ああなるほど、自分が学生時代のある時期、髪を肩の辺りまで伸ばしていたことがあったのを思い出した。彼女はそれをまるで先週のことのように言う。

十年一昔とは言うが、そりゃあ36年経てば髪型も変わるよと心の中でつぶやきつつ、なんだかおかしくなった。

2017年5月7日

コンセンサスが取れたときには、もう手遅れ

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社)の著者、小林由美さん。大学院時代から数えて36年間をアメリカで過ごしている彼女が、ちょうど帰国しているというのでスタジオに来てもらった。


アメリカで現在発生している問題の1つは「集中」にある。生産財としての情報の集中、それを手にしている一部のアメリカのIT企業、そしてそれらを可能にしている最先端の技術。さらには、その技術を開発している一部の超エリートのエンジニアたち。それらはすべてアメリカにある。

われわれが意識しないうちに、SNSの情報はもちろん、Gメールの内容も、ネットでの買い物の内容やその過程もすべて丸裸で捕捉されている。それらは分析され、ターゲット広告や商品・サービス開発のために売買されているのが現状だ。

日々の個人の生活には具体的な影響は感じないし、システムの向こう側でやられていて見えないだけに普段は意識することすらない。確かに現状では個人的には実害を感じるというものはないので、いいじゃないかと思ってしまいがちだが、気がつくとメールはGメール、SNSはフェイスブック、買い物はアマゾン、と一部企業に大多数の消費者が頼ってしまっている。

それらは便利だが、彼女の本のタイトルにあるように、いつの間にか超一極(ごく一部)に情報(つまり金だ)が集中している社会に僕たちは生きている。

日本と米国の比較のなかでは、教育についても彼女からいくつもの指摘があった。学校教育のレベルは低すぎると斬って捨てる一方で、米国では自由で斬新な発想を生み、それを高く評価する土壌があるということも。

全体的にレベルがそこそこ高い日本社会に対して、米国はおそらくならすと全体のレベルは高くないが、一部のとんがった連中が自由にものを考え、言え、実行でき、評価される環境の中でそれまでなかった新しい仕組みやビジネスを作っていく。

さらにはスピード感も日米で大きく違うという。「コンセンサスが取れたときには、もうtoo lateなのよ」とさらっと言ってのけた彼女の言葉にドキリ。

今朝の一曲は、ドン・マクリーンの American Pie。


2017年4月16日

誰も使わない「だれでもトイレ」にならなければよいが


4月8日の日経夕刊

記事から。
早稲田大学が4月から性的少数者(LGBT)が安心して学生生活を送れる環境の整備に乗り出した。多目的トイレを「だれでもトイレ」と改称してLGBTの学生が気軽に利用しやすくした(後略)。

記事の中で、これまでLGBTの学生たちが、利用者が少ない遠くのトイレを使って膀胱炎になったりしたからとある。しかし、それへの対応になっているだろうか。

「だれでもトイレ」の意図は分かる。だが、そうした狙いで大学によって設置された「だれでもトイレ」を誰が使うのか。誰も使わないんじゃないだろうか。

だって、そのトイレに出入りしていることが、まわりへの明らかなひとつのシグナルになるのだから。それを知られたくないLGBTの学生が、どうして使えるだろう。パラドックスだ。

ドラえもん風の馴染みやすい名前をつけるなど、大学の配慮を示す気持はよく分かる。だけど、特別なトイレを設けるんじゃなくて、本人が自分で思う性別のトイレをそのまま使えばいいじゃないか、と僕は思うのだ。

個人的にはトイレに誰が入って来たかなんて気にしないし、ましてや個室を使うのであれば、問題にもならない。これって、LGBTの実状を知らない人間の浅はかな考えかな?

記事の終わりあたりに「大学にとってダイバーシティー(多様性)の確保が喫緊の課題になってきた」とある。なんか違う気がしてならない。

「確保」するとかなんとか力むようなことではなく、自分たちとは違う人も自然と受け入れる、あたりまえの人間性を大切にするだけのことだと思う。

2017年4月12日

日本のテレビニュースは死んだか

遅い帰宅後、着替えをしながらテレビをつけ、ニュース番組にチャンネルを合わせた。ある民放局の夜のニュース番組だ。

始まったそのニュース番組のトップニュースは、フィギュアスケーターの浅田真央選手が都内のホテルで記者会見し、引退を発表したことに関連するニュースだった。それが延々と続く。

僕たちが目を向けなければならないニュースは他にあるはずだ。なぜ、浅田選手の引退表明がニュース番組のトップニュースになるのかとまどう。浅田選手が問題だと云っているのではない。

そのニュース番組のプロデューサーがスケートファンなのか。日本にとって浅田選手の動向が重要な意味と価値を持つと感じているのか。浅田選手のことなら話題性のあるニュースになると考えているのか。ニュース番組は、取り上げるニュースの順番とそれぞれに割く時間の配分に、局の報道の姿勢といったもの現れるものである。

たぶんそのニュース番組のプロデューサーはジャーナリズムとはまったく無縁の人物で、もしそうであってもその感覚が極めて希薄で、ただただ視聴者に分かりやすくて、喜ばれると自分が考えたそのニュースをトップに持って来たのだろう。最近に始まったことではないが、日本のテレビ番組の劣化は、悲しくなるほど悲惨だ。

2017年4月9日

誰も行ったことがないから行く

今日と先週放送の「木村達也 ビジネスの森」は、洞窟探検家の吉田勝次さんをゲストにお迎えした。

彼がこれまでに潜った洞窟は、1,000とも2,000とも。数えたことがないから、正確な数は分からないそうだ。その中には未踏歩だったものも数多く含まれる。


そこに何があるか分からないのが、洞窟探検の醍醐味。我々が洞窟をイメージするとき、そこは鍾乳洞のような人が立ったまま歩いて進める空間だろう。しかし、吉田さんらがチャレンジする洞窟は、必ずしもそうではない。這いつくばって砂を掻き、目の前の穴に体を押し込み(息を吐いて胸囲を小さくして)、時には空気ボンベを背負い、水の中を進む。

水の中といってもコーヒーのような水。先が見えないどころか、タンクの残りの空気の容量を示すメーターすら見えない。進めるかどうか、ひょっとしたら戻ることもできないかもしれない、そうした状況の中で判断を求められる。

そこでは体力より、メンタルな強さが生きて帰れるかの決め手になる。平常さを失わないこと。パニックになり、平常な精神状態を失うと途端に生還率が低くなる。

冒険と探検は違う、と吉田さんは言う。冒険は無謀であればあるほど価値がある。しかし、探検は冒険とは違い、必ず帰って来なければならない。行った先のデータを持って帰って伝えることが探検には求められているからと。なるほど。

今朝お送りした一曲は、ドゥービー・ブラザーズで「What a Fool Believes」

2017年4月4日

機内アナウンスで

イスタンブールからの帰りのフライトは、トルコ航空52便である。

機体が空に上がってしばらくしてからの機内アナウンス。トルコ人のCAの日本語アナウンスの締めくくりに、思わず吹き出しそうになった。

「それでは皆さま、短い時間ではごぜえますが、ごゆっくりと・・・」


2017年4月3日

Up, Up and Away(カッパドキア熱気球)

岩肌を掘って作られた洞窟ホテル(Cave Land Hotel)を朝4時に出かける。カッパドキアは、まだ暗闇のなか。熱気球にガスバーナーの炎が吹き込まれると、気球はその機体をゆっくりとむくむくともたげてくる。準備ができたあと、ゴンドラに乗り込み上空へ。

熱気球のゴンドラから、手持ちのソニーCyber-shotで撮影した。よく聞くと、同乗したいろんな国の人がそれぞれの言葉で話しているのが分かる。

2017年4月2日

カッパドキアのきのこの山

トルコまで来て、カッパドキアの奇岩を見て日本のチョコレート菓子を思い起こすのはどうしたものだろう。



青空と奇岩を背景に、堂々とした野良猫が横たわっていた。


前足、ふんばってます

2017年3月31日

ボスポラス海峡を渡る

国際学会出席のため、先日からイスタンブールに来ている。午後、無事発表を終えたあと、街に少し出てみた。

写真は、ボスポラス大橋から見下ろしたボスポラス海峡。この海峡でアジア大陸とヨーロッパ大陸が分かたれている。右側の土地がヨーロッパ、左側がアジア。多摩川を渡って、東京都から神奈川県へ移動するのと何ら変わりない。

2017年3月27日

英語を早くから学ぶより、正確に日本語を話すことが大切ではないかな

前にも書いたが、しばらく前からメールなどの文章を書く際に音声入力をできるだけ使おうとしている。さすがに人前ではできないし、やらないが、外を散歩中であっても周りに雑音がなければイヤホンマイクをiPhoneに繫いでしゃべり始める。

あるまとまった考えを、いきなりしゃべりだけでまとめるのはなかなか難しい。難しいと言うより、慣れとある程度の訓練が必要だ。

文章を「書く」ときは推敲を前提に、思いついたことをキーボードで打っていけばよい。それがある程度まとまった段階で、中身の順番を入れ替えたり、補足したりして1つの文章にまとめることは誰もがやっていることだと思う。

音声入力であっても、それは書き文字の文章にするための1つの手段。だから、変換された文章を推敲することには変わりはない。

ただ違うのは、画面を見ていないと自分が何を話したかなんてすぐ忘れてしまい、どこをどう補足するかもよく分からないことだ。だから言葉を発すると同時に文章全体のイメージを構成していかなければならない。これはなかなか大変。

しかし、それができるようになると、音声から文字への変換精度も格段にあがる。ゆっくりしゃべる必要はない。早口だとAIが聞き取りづらいなんてことはなく、むしろあるまとまった固まりでAIが意味を理解し文字化しているので、早口の方が正確に文字に変えてくれるという印象すらある。

つまり、あるまとまった意味の固まりを正確に話せば、即時に近い感覚で活字になる。活字になれば、自動翻訳機能で外国語に訳し、それを自動音声で読み上げることができる。スマホが自動通訳機になる。

特殊なコミュニケーションを除けば、これで外国語間の言葉のやりとりはいずれ解決できるようになるはずである。

小学生英語に関して、いま5年生と6年生がやっていることが3年生、4年生で実施されるらしい。小学校で英語を教えられる先生がいなくて困っているという話がある。何を言っているのか分からない英語をしゃべる先生にあたった生徒は、一気に英語が嫌いになってしまうだろう。

だったら、英語はこれまでどおり中学生からにしておいて、それよりも大切なことは、日本語で正確かつ論理的な話ができるような教育を深めていくことだと思う。その方が、子供たちの将来に訳に立つと思うのだが、どうだろう。

2017年3月16日

タクツァン僧院までトレッキング(ブータン / 5)

パロ渓谷上流の断崖に張りつくように建てられたタクツァン僧院までは、いったん登って、下って、また登るというやっかいな道のりだった。

途中の休憩と昼食をいれて、全部で3時間以上の長い行程だった。ずいぶん疲れたが、幸いに天気に恵まれ、お参りには御利益があったのではないかな。当然ながら、自分の足で苦労してこそである。

タクツァン僧院には「トラの巣」という別名がある。



鐘(巨大なマニ車)を回しているのは、今回ブータンを一緒に回った僕のドライバー。中に教典が収められていて、回転させるごとにそのお経を唱えたのと同じ功徳があるとされている。

2017年3月15日

ブータンは、犬が世界一幸せな国であることは間違いない(ブータン / 4)

初日に越えたドチュラ峠を今度は反対側から越えて、午後にティンプーの街に戻ってきた。天気は快晴。

ブータンが日本でも有名になったのは、GNH(国民総幸福量)という指標を国王が掲げたことにある。ただ、その調査に対しては問題を指摘することができる。

まず、それほど頻繁に(定期的に)測定されているものではないこと。そして、肝心なのはその調査法。僕が今回現地で知ったのは、役人たちが全国のそれぞれの管轄地域の家を個別に周り、すごく幸福、幸福、幸福でない、の3つの選択肢から回答を求めて取ったデータがもとになっている事実。わざわざ家を訪れてきた役人に、三つ目の「幸福でない」と回答するのは一般的国民は難しかったはずだ。

米国でトランプが事前予想を裏切って大統領になったように、調査とはそのやり方次第で本当の姿を見えなくしてしまう。それも意外と簡単に。

ティンプー市内の目抜き通り

 
各地に向かうバスが発着するターミナル

お喋りしながら編み物をするおばさんたち

民族衣装「ゴ」「キラ」の生地を売る店

この国には信号は1つもない。おまわりさんが手でさばく。

街中に一件だけ、illyのコーヒーを飲ませる店があった

それはさておき、ティンプーに限らずブータンを歩いていて感じたのは、どこにでも犬(ほとんどは野良犬)がいて、人間と共存するようにのんびり生きていること。

殺生を禁ずる国だから、野良犬といえども日本のように捕獲して殺処分するなんてことはあり得ない。だから、わんこたちも実にのんびり昼寝している。

ここでは犬たちが世界一幸福なのは、間違いないと思う。

のんびり昼寝する野良たち

ここにも

どこにでも

人が近くを通ったって平気

野良が完全に町に溶け込んでいる

人間と仲良し