2012年12月20日

砂丘を往く (モロッコ /7)

夕方、1時間半ほどラクダに揺られて宿泊地のテント場へ向かう。


ラクダ引きに導かれて進む

砂漠に沈む夕日

遊牧民の家 (モロッコ /6)

モロッコ、6日目。今朝、砂漠のなかで生きる遊牧民の家を訪ねた。

遊牧民は定住居を持たないものとばかり思っていたが、彼らは年がら年中移動しているわけではないらしい。移動するのは、定住地周辺では羊や山羊が食べる緑がまかなえない季節だけである。

確かに考えるまでもなく、それが合理的なやり方。無目的にあちらこちらに移動しても仕方ない。水も食料も限られた砂漠で生きるには、合理に則ったやり方が自然と求められ、それができた者だけがこうして生き延びていける。

日中、昼寝をしたり、客を迎えるための簡易テント



砂漠の狐? (モロッコ /5)

砂漠独特の生き物がいる。サソリなどがその代表だが、現地の人が「キツネ」と呼んでいるこの動物もそうだ。耳が大きく、目がつり上がっている。イタチとキツネの合いの子のような感じだけど、正しくはなんていう動物なんだろうか。


2012年12月17日

フェズの旧市街は迷路だ (モロッコ /4)

午前中は、フェズのメディナ(旧市街)をガイドを雇って歩く。ここは全体が迷路のようになっていて、住居がひしめき合っている。車などは入ってこれない。道に拠るが、細いところは馬も無理だろう。狭いところでは、人が行き違うのがやっと。そうやって外敵の侵入を防いでいたのだろう。

昼食にラクダの肉を食べる。赤身の肉で、あまりクセがない。美味しいといえば、美味しい。 その後、一人でメディナを3時間ほど隅々まで歩く。当然、自分がどこを歩いているか分からなくなるが、肝心なことは方角を掴んでおくこと。そうすれば、迷路から出られなくなるということはない。







2012年12月16日

巨大なモスク (モロッコ /3)

カサブランカの中心街から車で5分ほど、海に面した場所にモロッコ最大、世界で5番目の大きさを誇るモスクがある。

早朝、敷地を散策していたら、建物の下からモスクのスタッフ(らしき)3人組が手招きをする。中を見せてやる、と言っているらしい。

その中の一人がガイドよろしく、僕をモスク内に先導してくれる。そして、次々に場所を指定しては、そこに僕を立たせ、どんどん写真を撮る。手慣れたものだ。

そして最後に、指先でお札を数える仕草をしてみせ、金をせびる。別れ際には、口にチャックを引く仕草してニヤリと笑ってみせた。

2012年12月15日

ろう学校生の喧嘩(モロッコ /2)

カサブランカのホテルにチェクイン後、近くを散歩に出かけた。夕方の時間、聾唖の子どもたちが建物からたくさん出てくる。ろう学校があるのだろう。歳は中学生くらいの子がほとんど。

歩道で何人かがつかみ合いをしている。喧嘩らしい。小競り合いのような感じだが、彼らは話ができないためにとても静かな争いだ。一人の子が5、6人に虐められ、こづき倒されているように見える。

やられた子が立ち上がり、相手グループの中心的な男の子に向かっていく。胸ぐらをつかみ、肩を殴り、怒りを示した後は、いったん手を離し手話で相手に何か伝えようとする。今度はやられた子が相手を蹴飛ばし、背中を何度もどつく。そして、その手で今度は手話で意志を伝えようとする。

相手に掴みかかりながら罵声を浴びせたりすることができないから、途中で手を止め、手話が交互に入る。子ども同士が喧嘩をするのは、自然なこと。だけど、この喧嘩だけは見ていて切ない思いがした。

モロッコへ 〜 エル・ジャディーダは猫の町だ(モロッコ /1)

マドリッド経由で、朝10時過ぎにカサブランカに到着。ゲートを出たところにいるはずのドライバーがいない。手配を依頼した現地の旅行代理店に電話をかけようと空港をうろつく。空港職員らしい男性に公衆電話を尋ねて案内してもらったが、2台ある公衆電話のどちらにも「故障中」の貼り紙がしてる。

どうしようかと思っていると、その職員が「国際電話か国内か」と聞いてくるので、国内と答える。すると彼はやにわに携帯電話を取りだし、相手の電話番号を教えろという。旅行会社にダイヤルした後、こちらに携帯を渡してくれた。ドライバーはゲートで待っているらしいので、こちらがどういった身なりをしているかなど伝え、ドライバーから僕を見つけてくれるように依頼する。

そして、空港職員に礼を言って携帯を返却して立ち去ろうとすると、前を立ちふさがれた。で、親指と人差し指をスリスリして札を数える仕草をする。礼をくれ、ということだ。もともとそれが目的だったのだと、その時に分かった。ジーンズの尻のポケットから1ドル紙幣1枚取り出し渡す。これじゃ少ない、もっとくれと言ってくる。もう1枚渡して、無理矢理押しのけまたゲートへ向かう。ひょっとしたら、公衆電話に貼ってある故障中の貼り紙はウソだったのかもしれない・・・。

これが今回のモロッコ旅行のスタートである。

その後、 カサブランカ空港から大西洋に面した港町、エル・ジャディーダへ向かう。ここはかつてポルトガルが支配していた海辺の町である。猫が多い。








2012年12月14日

12-12-12: The Concert for Sandy Relief

昨晩、マジソン・スクエア・ガーデンでハリケーン・サンディの被災者のための募金を目的とした、12-12-12: The Concert for Sandy Reliefという名のコンサートが開催された。


7時半にブルース・スプリングスティーン&Eストリートバンドの演奏で開幕され、ジョン・ボンジョビ、ビリー・ジョエル、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ザ・フー、ピンクフロイドのロジャー・ウォーターズ、コールドプレイのクリス・マーティン、とりはポール・マッカートニー、そしてアリシア・キーという顔ぶれ。

New York Times紙の記事から

ミック・ジャガーはコンサート前の取材に「こんなに大勢の年配の英国人ミュージシャンを集めたコンサートはなかったよ。もしロンドンが台風に襲われたら、君らは助けに来てくれなくちゃね」と冗談交じりに答えている。

コンサートが終わったのは、午前1時20分頃。6時間近く続いた長いコンサートだった。僕はテレビで見ていたが(チケットはプレミアムがつき、すごい高額になっていた)、会場に集まった観客も大変だったろう。あと、マンハッタン内のいくつかの映画館が映像を生で流した。入館料は無料にしていた。

このコンサートは、米国内だけで37局、世界中で200局ほどのテレビ局で放映された。(日本ではどうだったのだろう?) 視聴者は全世界で約20億人と見積もられている。当日の会場入場のチケット代だけで30億円の収入(募金)があった。放映中ずっと画面には募金への呼びかけが流れていた。最終的にどれくらいの募金が集まるか・・・。

ポール

2012年12月11日

オープン・ランチセミナー『選択の科学』

今日の昼間、コロンビア・ビジネススクールでシーナ・アイエンガー先生を招いてのランチセミナーがあった。テーマは、Global Leadership Challenge for Japanese Companies。彼女は90年代の半ばに京都大学で動機づけについて研究していた時期があり、日本についてもそれなりによく知っている感じだった。

彼女が2年前に出版したThe Art of Choosing は『選択の科学』のタイトルで文藝春秋から翻訳が出ているし、またNHKの番組によっても彼女は日本人によく知られている。教室はほぼ一杯に埋まり、その約7割は日本人だった。米国人の参加者は、以前日本で勤務をしていたことがあるビジネスマンなどが多かったが、彼女の研究分野についてはほとんどしらないまま、セミナーのテーマにひかれてやってきた連中が多かった。今度の衆院選の結果がどうなるかなど、彼女に聞いても答えられるわけがないのに。

先々週の金曜日、早朝の大学で彼女とすれちがった。金曜日には補講や特別なプログラムを除き、授業は組まれていない。だから、その朝のキャンパスは人出が少なくとても静かだった。

白杖を頼りにする彼女は、まるで周りの空気を振るわせないようにしているかのようにとても静かに歩いていた。その朝は寒かったせいか、彼女はフード付きのコートですっぽりと頭を覆っていた。注意しないと彼女だと誰にも分からないかのように。だからその時は気がつかなかったのだけど、今日見ると、彼女の耳がとても大きいことに気がついた。(なぜか最近、耳が大きい人が気になる)

セミナーでの話を聞いていて感じたのは、とても聡明で、ユーモアがあり、そして何よりも正直な人だと云うこと。知らないことは、知らないと言う。分からないことは、分からないと返答する。飾らないのである。飾っても仕方ないことを経験的によく知っているのだろう。

彼女の本の中に、自分が光を失ったときのことにふれて、「失明に立ち向かうことで、わたしは強い精神力を身につけたに違いない(それとも持ち前の精神力のおかげで、うまく立ち向かうことができたのだろうか?)」というくだりがある。

彼女が、質問に対して "I don't know." と、少し困ったような感じで、しかしはっきりと答えるのを聞いていて先の本のなかの言葉を思い出した。


2012年12月8日

真夜中のカーボーイ

リンカーンセンター内の劇場で『真夜中のカーボーイ』を観る機会があった。

公開されたのは1969年。40年以上むかし。60年代終わりから70年代にかけて作られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品の一つで、学生時代に高田馬場にある早稲田松竹で観たのが最初だったと記憶している。

監督のジョン・シュレジンジャーが英国人だということは、今日まで知らなかった。てっきり米国人と勝手に思い込んでいた。そう考えてみると、どこか Englishman in New York の視点で描かれているような気がしてくる。

ニューヨークを舞台にしていながらエンパイヤステート・ビルのショットやセントラクパークを映した場面などは登場しない。マンハッタンを上から見下ろした空撮など一つもない。ニューヨークという街に対する共感の度合いが低いのである。

ゲイの中年男性や売春婦、マリワナパーティなどの風俗も描かれているが、英国人であるシュレジンジャーがその当時のニューヨーク、あるいはアメリカに見たのは、社会の底辺で喘ぐ下層階層と中産階級の対比だったのではないかと思った。自由の国アメリカは、英国と変わらぬ階層社会だったわけだ。

この映画のなかでもっとも気持ち悪かったのは、ラストの場面で主人公の2人がマイアミ行きのバスの中で乗り合わせる、他のアメリカ人乗客たちである。異端者に向ける冷ややかで醒めた視線が、映画が撮影された当時のアメリカの一般的な「世間」なのかどうか分からないけど、シュレジンジャーにはそう写ったのだろう。


2012年12月7日

秋学期のコンサル授業終了

今期、コロンビア・ビジネススクールでコンサルティング関連の講義をふたつ覗かせてもらっていたが、今日ですべて終了した。それぞれ、McKinsey & Company と Booz & Companyの出身者が担当する授業だ。

マッキンゼー出身の講師は、MITで数学を専攻して修士号と博士号の学位を取っているインド人。配布資料を見ても、思考がすごく緻密で論理性が高いことが分かる。インド人独特の英語のなまりが強く、話していることが時々分からないのが難だった。

もう一人は南米の出身。ブーズのNY事務所でシニアVPを勤めていたが、リタイアしようと思っていた頃コロンビアから誘われてビジネススクールに来た(米国の企業では、石を投げればVPに当たる。VPは日本企業で云えば課長あたりのレベル。日本人が思っているところの上級管理職は、頭にシニアかエグゼクティブが付くVP以上である)。

若い頃、ウォートン(ペンシルベニア大)でDoctor candidate まで進んだが、事情があって実務界に就職したと言っていたから、もともとアカデミックな世界に興味があったのだろう。新興市場参入のための市場分析の際に、マクロ経済的な指標を用いた高度な分析手法を採用していたのも頷ける。最終講義が終わった日、彼と食事を一緒しながら彼の奥さんが日本語ができることをなにげなく話された時はびっくりした。

コロンビアでは、コンサルティング会社は投資銀行とならんで学生の人気就職希望先で、コンサル関連の授業には多くの学生が集まる。大学もそのあたりのことをよく分かっていて、コンサルティングの実例を学生に講義できる講師を客員として招き、学生のニーズに応えている。開講講座は、学生と世の中にニーズに合わせて柔軟に変更される。

一方、大学の正規教員はコア(必修)科目を体系立てて教えることが求められている。それと当然ながら、彼らには研究の義務がある。正規教員と客員教員で、役割が合理的に分担されている。


2012年12月6日

衆議院選の投票を終えて

在外投票が今日から始まったので、ミッドタウンにある領事館を訪ねた。夕方の締切間際、僕がこの投票所で88人目の投票人だった。投票を終え、外に出たらもう暗い。


この季節、募金を集める救世軍の鐘の音が街角の方々で聞こえる。近くで夕食を済ませた後、ロックフェラーセンターへ立ち寄った。クリスマスツリーが飾られてから初めて訪れたが、ツリーは意外と地味だなあという印象。


その後、タイムズ・スクエアを経由して地下鉄の駅へ向かう。あれ、アップルストアがこんなところに、と思ったら、よく似たマイクロソフトのショールームだった。ガラス張りの店の感じ、店内のテーブルの並べ方、商品(Surface tablet)の展示の仕方、スタッフのユニフォーム、すべてがアップルの真似と言っていい。この店の存在はこれまで気がつかなかったが、10月24日からオープンしているらしい。


マイクロソフトの店を出た後、路上で名物パフォーマーのNaked Cowboyに会う。今日は陽が沈んでからは気温が下がり、手袋が必要なくらい風が冷たいにもかかわらず、彼は裸。これから、彼がパフォーマーとして真骨頂を発揮するシーズンだ。

元気だ
地下鉄の構内で。意味は良く分からなかった。

2012年12月4日

Life of Pi

アン・リー監督の新作『LIFE of PI』は、今年50回目を迎えたNew York Film Festival でオープニング日のワールド・プレミアで公開された作品。その公開時に観ることができず、ずっと気になっていた。一般公開されたのを機に今晩観に行った。

 
原作はヤン・マーテルの小説。2002年に出版され、その年のブッカー賞を受賞している。日本語訳も出ている。タイトルは『パイの物語』。2004年に竹書房から出版されているが、単行本は絶版になっているようだ。日本ではあまり読まれていない本なんだろう。

マーテルという作家は1963年にスペインで生まれ、コスタリカ、フランス、メキシコ、アラスカで育ち、成人してからはイラン、トルコ、インドで暮らしてきたという。そのなかでもとりわけインドが彼に与えた影響が大きかったということか。

この映画は、アン・リー監督にとってはCGを本格的に使った初めての作品である。かつては特殊効果と呼ばれていたCG映像は、いまでは映画制作にとって不可欠なものになってきている。リーはその効果を自分なりに試そうとしたのだろう。先月観た『クラウド・アトラス』(★★☆)もそうだが、CGを屈指しなければ作れなかった物語が、どんどん映像化されていく。

この物語を題材に選んだところは、アン・リーらしい。SFや戦争ものではきっと発揮できなかった、彼ならではの映像センスをコンピュータの力を借りて実現している。

物語も映像も音楽もすばらしい! ★★★★☆

http://www.lifeofpimovie.com/

2012年11月26日

サックスの壁面ディスプレイ

五番街にある老舗百貨店、サックス・フィフスアベニューの正面側の壁面一面にクリスマス・シーズンらしい映像が映し出されていた。友人と夕食のレストランに向かう途中、思わず見上げてしまった。


2012年11月24日

K46歳になった

今日は誕生日。我が家では、50を境に独自のカッパ年齢* を採用することにしているので、K46歳である。来年は、K45歳になる。生きていればだが、2058年の今日にはめでたくKゼロ歳になる勘定。

* 芥川龍之介『河童』、あるいはフィッツジェラルド『ベンジャミン・バトン』。

クリスマス・シーズンの始まり

僕は、朝9時までに大学に到着するようアパートを出ることにしているのだけど、ロビーで今朝出かけしなに見た感謝祭の飾り付けが、夕方帰ってきたらクリスマス・ツリーに変わっていた。


ニューヨークの街は、これからクリスマス一色になる。

2012年11月23日

Thanksgiving Dayのパレード

11月第四木曜日は、米国の感謝祭の日で国民の休日である。ニューヨークでは、百貨店のメーシーズがスポンサーとなった巨大なバルーンを中心としたパレードが多くの人を集めた。

この日は、朝早くからパレードの会場となったセントラルパーク・ウエストとブロードウェイは身動きができないほどの人で賑わいを見せる。

僕はまず、59丁目のコロンバスサークルへ地下鉄で出かけてみたが、地上への出口の多くは閉鎖されている。なんとか人をかき分けながら地上に出るが、規制が引かれていて近くへ行くことができない。そこで、また地下鉄に潜り、今度はパレードの終点である34丁目へ。ここでもまた、すごい人出。

パレード終点の34丁目周辺の賑わい
セガのキャラクター、Sonic the Hedgehog
The Pillsbury Doughboy
出番を待つ大カメ?

2012年11月22日

Bob Dylan のコンサート

今年9月にオープンした、ブルックリンのBarclays Centerでボブ・ディラン、マーク・ノップラーのコンサートがあった。この巨大な建物は、コンサート仕様で1万9千人を収容できる。中は、日本武道館をある一方向に引き伸ばしたような感じである。

開演前の館内の様子。

コンサートは当初午後8時開演の予定だったのだけど、一週間ほど前にどういう理由だか分からないまま、メールと電話で7時半に変更になったという連絡が入った。

マーク・ノップラーのコンサートで幕が開き、休憩を挟んでボブ・ディランのコンサートに。コンサート中、ディランが観客にしゃべったのは、終わり間近にバンド・メンバーの紹介をした時だけ。それ以外は、何も話さなかった。会場にいた時は、何か話さないのかと思っていたが、それでよかったのだろう。何曲かステージ中央で歌った以外は、上手側のピアノに向かったまま淡々と歌い続けた。

肉眼では米粒ほどの大きさのディランの顔を、オペラグラスで眺めていた。これほど広い会場だと、多くのコンサートはステージの横か上にスクリーンを設置して、ステージ上の手持ちカメラが捉えたアーティストのアップ映像を映し出すのだが、そうした趣向はなし。ディランなら、「俺はミック(ジャガー)とは違う」と言うのかもしれない。

コンサートが終了したのは午後11時過ぎ。帰宅した時には、日付けが変わっていた。

それにしても、ロックミュージシャンは息が長い。ボブ・ディランは71歳である。ニール・ヤングとピート・タウンゼントは67歳、スティーブン・タイラーは64歳、そしてミック・ジャガーは69歳でキース・リチャーズも12月で69歳になる。いずれも老いてますます、ではないが、ロックの精神をそのままに、年輪を重ねた他に真似のできない味を醸し出していることに敬服。

2012年11月21日

大学は多すぎる

日本経済研究センターからの送られてきたメールに、「大学(生)が多すぎる?」と題した、大阪大学の大竹教授のコラムがあった。
http://www.jcer.or.jp/column/otake/index422.html

彼はその中でOECDレポートを引き、以下のように高学歴社会は失業率が低いという論を展開している。
世界各国で高学歴化が進展しているのは、高学歴者に対する需要が増えていることを反映している。実際、日本でも高学歴者の失業率と低学歴者の失業率を比較すると、高学歴者の失業率の方が低い。たとえば、OECD(2012)は、 「より高い学歴を達成するほど、就業率は上昇し、失業率は低下する傾向にある。日本において、 後期中等教育が最終学歴である男性の就業率が 85.7%、失業率が 6.4%であるのに対し、大学型高等教育または大学院のプログラムを修了した場合、就業率は 92%に上昇し、失業率は 3.4%に低下 する。女性については、後期中等教育から大学型高等教育へと学歴か上がることにより、就業率 は 61.2%から 68.4%へ上昇し、失業率は 5%から 3.2%へ低下する」と指摘している。
現状では高学歴者の方が失業率が低いというのは分かるが、では仮に大学進学率が100%(今の高校のように)なったとしたらどうなるのだろうか。失業率がゼロになるという考えは現実的ではなく、高学歴であろうとなかろうと失業者は発生する。

そもそも、大学卒を「高学歴」と考える古い考えをそろそろやめた方がいいと僕は思っている。これはまだ大学進学率が20%とかの時代、一部の人たちしか大学で学ぶことができなかった時の発想だ。

ところで、このコラムで大学進学率の国際比較がされている箇所で、大竹は次のような指摘をしている。
図4で示したOECDの国際比較によれば、大学進学率のOECD平均は、62%であり、日本の大学進学率はOECD平均よりも10%ポイントも低い。米国では74%であり、北欧諸国は概して高い。韓国も71%と日本より20%ポイントも高い。日本の進学率が90年代に上昇してきたことは事実であるが、そのレベルが先進国の中では低い方であるということは広く知られるべきであろう。
ところが実際のところは、図4のもとになったOECDの資料Education at a Glance 2012 のTable C3.1. Entry rates into tertiary education and age distribution of new entrants (2010) では、引用されたTertiary-type Aの男女合計値ではそうなっているが、性別ごとに見ると男性ではOECD平均55%に対して日本は56%と同等以上である一方、女性はOECD平均69%に対して49%とかなり低い数値である。より大きな意味を持つのは、この男女間の数値の違いなのである。
http://www.oecd.org/edu/eag2012.htm

なお、ここでデータが示されている31カ国中で女性の進学率が男性に比べて低いのは日本とメキシコだけ。しかも、メキシコは男性33%対女性32%とほぼ同値だから、日本だけが明らかに女性の進学率が低い。

上記に則って考えれば、またOECD平均値が基準だとする価値観を採用するならば、日本が対応を考えなければならない課題は、「女性」の進学率をどのようにしてどこまで上げるかということになる。進学を希望する女性が大学へ進むことができるのは、大変結構なことだと考えている。しかし、男女間の雇用環境の格差が歴然として存在する日本でそれが実現したからといって、そのことで大竹がコラムで書いているような失業率の減少が期待できるのかどうか・・・大いに疑問が残る。

また、引用されているデータはEntry rates(入学率)であり、卒業率ではないことも注意する必要がある。日本の場合は大学進学者数と大学卒業者数がほとんど同じと考えていいだろうが、米国では学費など教育にかかる資金が続かず中退する学生が多い。米国の大学は授業料が高いうえに、大学生の多くは自分で教育ローンを組んで学費を払う。また日本の大学は入学さえすれば卒業できると言っても過言ではないが、他国ではしっかり勉強させられ、学業不振でドロップアウトさせられる学生は日本に比べてはるかに多い。つまり、Entry rate の比較がどれだけ正しいか、その確からしさも気になるところである。

米国では教育の機会が日本より重層的であり、かつそれに対する社会の許容度も高いように思う。日本では、大学とは高校を卒業したらすぐに行くところとされている。米国でも多くはそうだろうが、日本以上にいろんなルートがある。高校卒業後しばらく働いてお金を貯めてからコミュニティカレッジに行き、その後さらに大学に転入するとか。またオンライン大学などのネット教育も盛んだ。アリゾナに本拠地を置くUniversity of Phoenixは現在、50万人の学生が学ぶアメリカ最大の大学となっている。(英国のOpen Universityは、25万人の学生を抱える英国最大の大学である。)

日本の大学教育に関しての問題点だと個人的に考えている点を整理したい。

・大学は18歳で(高校を卒業したらすぐに)入るものという通念。高校生側の問題ではなく、社会がそうした圧力を持っている。企業の新卒一括採用など。

・教育の面でテクノロジーの利用度が低い。大教室で行われている一方通行の教養科目などは、オンデマンドで代替できる可能性が大きい。昨日のニューヨークタイムズ紙に掲載されていた「College of Future Could Be Come One, Come All」と題した記事が参考になるだろう。
http://www.nytimes.com/2012/11/20/education/colleges-turn-to-crowd-sourcing-courses.html?pagewanted=all

・大学数がむやみに多い。文科省役人の天下り先確保のためとしか思えない。

・学生が親がかりである。日本の大学生は勉強しなくてもすむから教養が育たないだけでなく、親元を離れないから自立心も育たない。

今年の夏、オレゴン州のポートランドにいる友人を訪ねる飛行機のなかであった女性を思い出した。僕の隣の席にいた彼女は、30歳くらいだったろうか。オレゴンの大学を中退してニューヨークに渡り、いくつかの仕事を経験した後、チェルシーのあるチョコレートショップの店長を任されて何年か働いたという。貯めた資金で、こんどはシアトルに行って栄養学の勉強を本格的にやるそうだ。シアトルの学校に入る前に、ポートランドにいる親に顔を見せに寄るのだと話していた。

大学は卒業するに越したことはないのかもしれないが、卒業証書にどれほどの価値があるか考えてみるのもひとつ。大学を自分の目で見て、やっぱり違う、と思えばいったん止めて働くなりして、また学びたい事ができたら入り直しできるような社会がいい。

2012年11月19日

今村昌平のドキュメンタリー

これがドキュメンタリーと言えるかどうか分からないが、今村昌平のドキュメンタリー映画『人間蒸発』(1967) をイースト・ヴィレッジのAnthology Film Archives で観る。http://anthologyfilmarchives.org/


失踪した恋人を探す女性とインタビュアー(露口茂!)たちが話をしていた茶の間の四方の壁が倒れ、突然そこが撮影所のなかのセットであることが示される場面がある。

寺山修司の映画『田園に死す』に、主人公の少年と母親が食事をしている部屋の四方が放たれ、そこに新宿の街の雑踏が現れる衝撃的なラストシーンがあるが、これは今村の本作品からの発想だったわけだ。