2011年5月22日

Inside Jobという「仕事」

ここでのインサイド・ジョブとは「内部者の犯罪」の意味。2008年9月のリーマン・ショックが引き金となった世界金融危機は、金融ビジネスと金融行政(両者は癒着というよりほぼ一体化していたと言える)の内部者によって発生した人災以外の何ものでもないことを明らかにしている。

映画「Inside Job」は、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した作品。

限度を知らない金銭欲。「ウォールストリート」のゴードン・ゲッコーも真っ青な強欲ぶり。考えたこともないような単位の金額が次々と紹介される。リーマン・ショック前後で金融界のお歴々に支払われた報酬である。映画を観ながら最初は頭のなかで日本円に換算して驚いたり呆れたりしていたが、そのうち馬鹿馬鹿しくなって計算をやめていた。

天文学的とはこうしたことか。世界はそれでも回っていると、まるで宇宙の果てとは言わなくても、お月様かどこかの世界の出来事のような印象である。自分とはまったくリアリティのかけらすら重ならない。

コロンビアビジネススクールの学長へのインタビューが白眉だ。インタビューを受けている途中で、彼はこんなインタビューだとは聞いていなかったと不快感をあらわにする。しかしカメラの回っている前でインタビュアー(監督のリチャード・ファーガソン)を罵倒するわけにいかず、「あと3分だけだ」と相手に告げて、何とか収拾を計らおうとする。そうした対応も含めて彼の本意やパーソナリティが映像で露わになっていく。

どのようにインタビューを申し込み、許可を得たのか実に知りたいところだが、そこが企業秘密なのだろう。インタビュー対象者には気の毒な気がするが、本当の事を対象者から聞き出すには、多少(かなり?)荒っぽくやることも必要。もともと、ジャーナリストとはそうした姿勢で情報収集ができる連中のはず。記者クラブで尻を温めているだけの今時の記者には無理だろうが。

一方、元FRB議長のグリーンスパンなど多くのキーパーソンがインタビューを受けることを拒否。誰がインタビューの申し入れを断ったかは映画の中で明らかにされている。無言のその事実が、それはそれで確実に何かを語っている。

それにしても米国は素晴らしい国でありながら、どうして中枢にいる連中はこれほど邪悪なのだろう。

2011年5月21日

ナタリーポートマンの「ブラックスワン」

「ブラックスワン」を観た。一言で言うと、「痛い」映画。この映画を心理スリラーと言っている評論家もいるようだけど、スリラーとは別ものだ。

大役を獲得したバレリーナが、その役柄と自分の間に横たわる溝をいかに埋めてくか、自分の発見と格闘、成長と破滅が描かれていた。ポートマンは多くのバレエシーンを吹き替えなしで演じたらしい。その踊りそのものについてはコメントできないが、筋肉の付き方など体つきはいかにもバレエダンサーだった。

人物に密着するためだろうが、ハンドカメラが多用されていた。こうした映像は苦手だ。

2011年5月15日

天国の扉

山梨県の山中湖近くで見つけた車。どこから持ってきたんだろう。

2011年5月14日

世界経済フォーラム

世界経済フォーラム(World Economic Forum)事務局から9月に中国で開催される予定の夏季ダボスへの招待状が来た。

今回のテーマは、Mastering Quality Growthだとか。開催地の大連には足を運んだことはないし、成田からは大した距離ではなさそうだ。

2011年5月2日

現代詩作家

夕刊文化面に、荒川洋治さんへのインタビューが載っていた。震災と文学に関して問われ、「この大災害を文学の言葉にするのは、とても難しい」と彼は語る。

ところで、彼は詩人ではなく現代詩作家と名乗っていることが、ちょっと気になった。彼の「現代の詩人は観念的、概念的な言葉によりかかり、現実に向き合う言葉の鍛錬ができていない。だから類型的で単純、平板な言葉になる」との発言と関係があるのか・・・。

2011年5月1日

島キッチン

島キッチンという名のレストランが瀬戸内海・豊島にある。昨年の夏、瀬戸内海のいくつかの島をつないで瀬戸内国際芸術祭が開かれた折にオープンした店である。その芸術祭が終了したあとは店も閉めてしまったのだろうとばかり思っていたが、今も週末と連休などにはオープンしている。

運営しているのは、島の人たちと島外から手伝いに来ている若い人たち。この建物は、建築家の安部良氏の設計で、英国の建築誌から賞を受賞したらしい。
http://shimakitchen.com/

2011年4月26日

田中好子が残したもの

今日、本年度最初の授業を行った。昼間に英語と日本語でのマーケティングの授業、そして夕方からはゼミである。大学本部の判断で、通常より2週間も遅れてのスタートである。これからがんばって巻きながら授業を進めていかなければ。

帰りの電車の中で、知り合いのある大学の教授と偶然一緒になった。その大学は新学期が連休明けからだそうだ。その結果、例年と比べて授業が3回分短くなると言っていた。回数をこなせばいいというわけではないが、どうしてこうしたことを大学がやっているのか、当事者たちはもっと考えた方がよさそうだ。

ところで、昨日のスーちゃんのメッセージにはまいった。昨夜、ラジオを聞きながら仕事をしていたら、突然彼女が残した肉声のメッセージが流れてきて、思わず聞き入った。かすれた声、絞り出すような発声の仕方、時折躊躇したような話し方。震災で亡くなった人たちに想いを寄せ、自分が死んだ後も人の役に立ちたいときっぱりと語る。これほど見事な「残された言葉」を僕は知らない。一度聞いただけだけど、あれからずっと耳から離れない。

2011年4月15日

桜の通り抜け

午前中に新幹線に飛び乗り大阪へ。午後から日本経済研究センター(大阪)で「日本企業のマーケティング向上策」と題したテーマで講演を行う。

夕方からは学生時代の仲間たち4名と食事をすることになっているのだが、さすがにまだ時間が早い。コーヒーを飲み一息ついた後、大阪造幣局にある「桜の通り抜け」といわれる桜の名所を訪ねてみた。

人だかりのために一方通行の制限が成されている桜並木で、造幣局南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)まで560メートルほど。川沿いのなかなか気持ちのいいところだった。

2011年4月13日

馬鹿の一つ覚えは、ほどほどに

郷原信郎『組織の思考が止まるとき』の副題は、「法令遵守」から「ルールの創造」へ、となっている。元地検検事で、現在は弁護士などを務める人物らしからぬタイトルに引かれて手にとる。

たいへん興味深い。著者が云うところの思考停止とは、上から与えられた(押し付けられた)法令や規則、規範・倫理を、自分の頭で考えることなく、つまりはその時々の状況に関わらずただ盲目的に従うことによって、組織が取り返しのつかないような大きな失敗を起こしている状況である。

郷原は、「遵守」という姿勢そのものからの脱却の必要性を強く説く。必要なことは自らが自分の頭で考えることによって「ルールを作り」「ルールを活かし」「ルールを改める」ことだと主張する。

ルールを作るに際しては、それがすでに明文化されている法令・規則、社内規定と整合性がとれない場合、それらの上位規定に本当に妥当性があるのかと問題の指摘を行えと述べている。確かに組織の中ではルール・イズ・ルール、と押し通す必要のある場合もあるが、そうではない場合も多々ある。

ただそう決められているから、というだけで、社会の実状と適合していない法令・規則、社内規定を守り続けるのは、結局危険きわまりないのである。そこに気づき、意識をつねに向け、与えられたルールを単純に遵守するのではなく、ルールを作り、活かし、変えていく活動によって、「思考が停止した組織」が「思考する組織」に変わるという指摘には同感である。

2011年4月8日

多様性を生かした経営

日経の関連会社が調査したところによると「女性が活躍する会社」ランキングで、上位5社に日本IBM、P&G、大和証券グループ、第一生命保険、ソニーが選ばれている。もっともこれは、信頼できる外部機関が独自に調査した結果ではなく、企業に質問票を送付し返送してもらった回答内容をまとめた結果だ(返送率は9.7%)。

この結果を紹介した日経新聞と日経ビジネスの両方の記事のなかに、それぞれダイバーシティー・マネジメントという言葉が出てくる。メディアでしばしば目にするけど、どういう意味だろう。辞書によると「ダイバーシティ」は「多様性」とある。しかし、ダイバーシティ・マネジメントという言葉からの一般的な認識は、女性の雇用比率や管理職比率の改善と理解されはいないか。

先日、ある製薬会社が毎年発行している「CSR報告書」についての第三者意見を求められた。そのなかでは、女性管理職比率が対前年でアップしたとの数値が紹介されていて、ダイバーシティ・マネジメントへの取り組みを積極的に推進してます、と記されていた。

ところが、対前年比でその企業の障害者雇用数も比率も低下していた。実はその数値はCSR報告書には記されておらず、昨年のCSR報告書に記載されていた障害者雇用比率と全従業員数から計算して分かったことだ。う〜ん。これでダイバーシティ・マネジメントへ前向きに取り組んでいると主張しても無理がある。意図したものか、そうでないかは別としても、ダイバーシティが女性雇用やその活用に矮小化されてしまっている・・・。

企業やメディアは「ダイバーシティ・マネジメント」という呼び名は止めて、「多様性を生かした経営」と普通に呼ぶようにした方がいいと思うが、どうだろう。

2011年4月5日

英国王のスピーチ

目当てで行った映画館が、東日本大震災のために休館になっていた。扉が閉ざされた入り口に若い男性スタッフが2人、前売りチケットの払い戻しをしていた。

状況を尋ねたら、行政から開館を指し控えるように指導されていて、との回答。地震で会場内がどんな状態になっているのか分からないが、いずれにせよ完全休館させられているわけで、経営は大変そうだ。

しかたがないので、近くの劇場でやっていた「英国王のスピーチ」を観る。第2次大戦当時の英国国王(ジョージⅥ世)が主人公の実話を元にした映画だ。幼少の時から吃音で苦労してきた王子が、兄が王位継承権を放棄したために期せずして国王の地位に就く。

彼は、ドイツに対して宣戦布告した国の王として、ラジオで全国民に強く団結を訴えるスピーチを行わねばならない。さて、うまくできるのか・・・。主人公を演じたコリン・ファースやオーストラリア人の言語聴覚士役のジェフリー・ラッシュ(「シャイン」の主人公だ!)など役者たちも上手いが、演出も上手い。観ていて、はらはらどきどき。

見終わってJRの駅へ。なんだかさっき観た映画の雰囲気を思い出す。駅構内の明かりが半分ほど落とされているせいだった。節電のための対応なんだろうけど、ずっとこれでいいと思った。


2011年4月1日

蹴破ってしまえ

大阪からの出張の帰途、新幹線のなかで「静かなる男」を観た。2時間少々の佳作で新横浜までの旅程にはちょうど良かった。1952年作だから、撮られてから60年ほど。名匠ジョン・フォード監督が撮りたくて撮りたくてしかがたがなかった作品らしい。主演は、彼とは気心の知れたジョン・ウェインとモーリン・オハラ。おとぎ話を思い起こさせるような美しいアイルランドの地が舞台になっていた。ジョン・フォードはアイルランド系だったのだろう。

印象的だったワンシーン。主演の二人は困難を乗り越えて一緒に暮らすようになる。結婚初夜の場面、ちょっとした夫婦げんかでジョン・ウィンがモーリン・オハラに寝室から締め出される場面がある。彼はどうしたか。迷うことなく、ドアを蹴破って入っていった。 これこそがジョン・ウェインだ。

福島第一原発の現場では、自衛隊や消防による事態回避のための放水作業など命がけの対応が日々行われている。どころがだ。昨日発売のある週刊誌の記事によると、そうした現場の彼らにはゆっくりと体を休める場も与えられていないという。休息と仮眠のための場所は、「Jヴィレッジ」という東電が管理する施設だが、彼らはそこのレストランの床や通路に簡易毛布を敷き雑魚寝を強いられているとレポートされていた。264名が収容できるという部屋が先客によって埋まっているからではない。

以下、その雑誌からの引用になるが、東電幹部は「原発の危機が収束すれば、また使う予定になっています。ですから、たとえ過酷な戦いをしてらっしゃる自衛隊の方々とはいえ、汚く荒らされるのは何とか避けたく・・・・・・」と語ったらしい。そして実際、その施設にある客室、研修室、会議室は、自衛隊員や消防隊員が入らないように施錠されたらしい。

なんということだ・・・。あまりに非人道的すぎはしないか。そうだ、原発と戦う彼らが履いているのは、他に類を見ないほど頑丈なワークブーツだろう。鍵の掛けられた客室のドアなど、それで蹴破ってしまえ。遠慮はいらない。

2011年3月27日

ゼミOB会

昨日はゼミのOB会が開かれた。毎年、3月の最終土曜日に開催されることになっている。

例年にない趣向として、今年は2部構成になっていた。4時から大学で勉強会を2時間ほど開催。博報堂の三宅君とトレンドマイクロの坂本君がそれぞれ発表をしてくれ、他の参加者を交えて質疑応答を行った。その後は、高田馬場の店でいつものように宴会を。集まってくれたメンバーはいずれも元気。京都からこのために鬼頭君が駆けつけてくれた。現役生も何名か参加。これからもみんなには学生時代のつながりを大切にして欲しいと思う。

東日本の震災の影響で自国に一時帰国していた元留学生が何人かいて、彼らが参加できなかったのが残念だった。

2011年3月25日

卒業おめでとう

今日、例年通り大学の卒業式が行われるはずだった。しかし、今回の東北地域の震災の影響を鑑みて大学は式典を取りやめた。

卒業式がないのは、寂しいものだ。4月早々に予定されていた入学式も中止になった。こちらも新入生たちには残念に思う。だが入学式は仮になくても、すぐに新学期は始まり、新しい仲間や先生たちに囲まれて賑やかな大学生活の一歩が始まる。

一方で卒業式は、大切な区切りだ。僕は早稲田大学を30年前の春に卒業した。その4年前の入学式は行かなかった。行く気がしなかったからだ。既に東京に上京していたから、行こうと思えば行けたはずなのに。卒業式は行った。その日は雨が降っていた。傘を差したまま学生時代の仲間たちと大隈講堂の前で写真を撮った。大学とはお別れだ、このいつも一緒だった仲間とも当分は離ればなれになる。そうした思いから卒業式に向かったように思う。

交通事情や計画停電、起こるかもしれない大規模な余震といったことから大学は卒業式を取りやめたが、正しい判断だったのかどうか。学位記はそれぞれの学部や研究科で、それぞれのやり方で卒業生・修了生に渡されたようだ。事務所で職員から「おめでとうございます」のお祝いの言葉とともに手渡された所もあれば、校歌が流れる教室で壇上に登った職員たちから一人ひとり手渡されるところもあった。推測だが、大学が全学で卒業式を中止した(ということは、やってはいけない)ためになされた工夫だろう。学生へ向ける職員の思いに頭が下がる。

一歩校舎から出ると、羽織袴姿の女子学生もあちらこちらで目にする。グループでお互いに写真を取り合ったり、抱き合ったり、その時ばかりはいつもの卒業式当日のようだった。
今日は、晴れやかな天気のいい日だった。

2011年3月24日

成功は失敗の始まり

今日はマーケティング・リアリティ研究会の第2回目の会合を開いた。

この研究会は、マーケティングの失敗を研究するための産学共同の研究会である。今回テーマとして取り上げたのは、ガリバーとして君臨していた企業がそれまでの成功体験からある種の呪縛に陥り、焦った末に取るべきでなかった戦略を次々に実行してしまったケース。

議論を交わすなかで出てきた、そもそも失敗をどう定義するかという提起からのディスカッションに刺激を受ける。

2011年3月21日

これはないだろう、アエラさん

駅のホームの売店の前で、ある雑誌の表紙に一瞬目が釘付けになった。防御マスクをした顔面のアップに「放射能がくる」と巨大なフォントで見出しが載っていた。手に取ろうとした瞬間、発車のベルが鳴り、そのまま電車に乗り込んだ。

3月19日に発売された「アエラ」だ。中身の記事は「原発が爆発した」「最悪なら『チェルノブイリ』」「被爆したらどうしたらいい?」「『放射能疎開』が始まった」などと、これでもかと云ったくらいインパクト十分。報道の自由を持ち出すまでもなく、どういった記事を書こうが勝手だし、それを求める読者もいていい。ただ、僕は気分が少し悪くなった。
アエラという雑誌、そこに書かれている記事のクオリティについて語るのはここでは止めておこう。今回も野田秀樹が連載している「ひつまぶし」というコラムだけが救いだった。そのタイトルは「東京よ、冷静になれ」。一部を引用しよう。

「私はなにもこのたびの、原発事故を庇おうとか、そういう思いで言っているのではない。ただあまりにも冷静さを欠く報道の在り方、安易に恐怖心をあおるだけのその姿勢。そしてそれに踊らされる人びとのあり様。それらが、この未曽有の大震災を、ただ悪い方向にだけ導くものだと申し上げたい」

あのちゃらんぽらんな(いや、本当のところは知りませんぜ)野田の主張はすこぶる正しい。

アエラ編集長による「キャッチコピー力の極意5ヵ条」というのがあるらしい。
http://www.henshusha.jp/2010/08/11/promo-word-1/

週刊誌の見出しはスペースに制限があるので字数を短くするとか、なるべく漢字は使わずひらがな・カタカナにする、といったものが極意とは笑ったが、その5つ目に挙げられている「見出しを決めてから走り出す」はいかがなものだろう。これは一歩間違えば、郵政不正事件で大阪地検特捜部がやってしまった(以前から常態化していたらしいが)事実解明の名の下での、結論、つまり落としどころが先にありきのでっち上げに繋がる。予定調和的に話をまとめるのではなく、予断を許さず取材によって事実関係を集めて本当の姿をつかみ、それを報道するのがジャーナリズムの仕事ではないのか。

また気になったのは「放射が出た(漏洩した)」ではなく「放射能がくる」という表現である。どこに来るのだ。誰の所に来るのだ。書き手の意識は、放射能が福島第一原発から漏洩した事実にも増して、(おそらくは自分がいる)東京へ来ることが問題と捉えているのではないだろうか。

2011年3月14日

スーパー店頭で

近くのスーパーの店頭から商品が消えた。トイレット・ペーパー、米、パン、紙おむつ、生理用ナプキン、紙食器、ミネラル・ウォーター、カセット式ガスボンベ、カップ麺など。

被災後の不安心理なのだろうが、なぜトイレット・ペーパーか。1973年のオイルショック時にも同様の騒ぎが店頭であった。まだネットもない時代だったが、こうした風評が大阪からあっという間に東京へも流れた。実際は、そうしたものは家庭内の在庫になっただけだった。なぜかこうした噂は大阪発が多い。口割け女なんてのも大阪が発信元だった。友人が大阪の仕事相手と電話で話していたら、新宿で放射能が検出されたらしいが避難しなくて大丈夫かと聞かれたらしい。

トイレットペーパーが完売になっているスーパーマーケットで、小さな子供がお母さんに「人間は地震があるとウンチがたくさん出るようになるの」と尋ねたらしい。この問いは正しい。自分で考えることもなく、根拠のない妄想だけで行動する大人より、小さな子の方が賢い。

マーケティングの研究者の中には、店頭のPOSデータの分析を熱心にやっている人たちがいる。地震後にどこで何がどのように売り切れていったか、震災時の消費者心理の一端を知るためにもぜひデータを分析し、結果を発表して欲しい。


2011年3月5日

結婚おめでとう

ゼミ生の中尾さんの結婚披露パーティが、12時から神宮前のライブハウスであった。午前中に大学であった入試面接をすばやく終えて駆けつける。

会場はたくさんの若い男女で賑わっていて、たぶん僕が最高齢者の一人か。新婦はベーシスト、新郎はギタリストである。写真はステージで息のあった演奏を見せるふたり。

2011年3月2日

戦争博物館(War Remnants Museum)へ

昨晩カンボジアからベトナムへ。昼間、ベトナム戦争の数々の記録を収めた戦争博物館を訪問。今さらながらベトナム戦争の無残さと残した傷跡の大きさに胸がつぶれる感じがする。

「ベトコン兵はどこにもいないが、どこにもいる」とベトナム戦争当時の政府高官が語ったそうだが、密林に隠れて執拗なゲリラ活動を続ける相手に対してとったアメリカ政府の発想は「彼らは密林の中に潜んでいる。であれば、密林そのものを無くしてしまえ」だった。 そして森を枯死させるため、恐ろしいほどの枯れ葉剤を空中から散布し続けた。入っていたのはオレンジ色のドラム缶だったことで、その枯れ葉剤は「エージェント・オレンジ」と呼ばれ、なかには大量のダイオキシンが含まれていた。その影響として、いまなお多くの被害を人びとに残している。

ここには、沢田教一や一ノ瀬泰造など日本人報道カメラマンの写真も多く展示されていた。

2011年3月1日

アンコールトム

アンコールトムとその周辺の遺跡群をめぐる。タ・ブロームの遺跡はガジュマルの巨大な樹木に絡め取られている。遺跡の多くの部分は倒れ、崩れ、廃墟の様相を見せている。人の目に触れないまま、何百年も密林のなかで静かに眠っていた寺院だ。




崩れ、転がった巨石の上を裸足の子供たちが駆けまわっていた。蝉のけたたましさのなかに子供たちの軽やかな笑い声が流れ、つかの間気分が安らぐ。