2011年3月21日

これはないだろう、アエラさん

駅のホームの売店の前で、ある雑誌の表紙に一瞬目が釘付けになった。防御マスクをした顔面のアップに「放射能がくる」と巨大なフォントで見出しが載っていた。手に取ろうとした瞬間、発車のベルが鳴り、そのまま電車に乗り込んだ。

3月19日に発売された「アエラ」だ。中身の記事は「原発が爆発した」「最悪なら『チェルノブイリ』」「被爆したらどうしたらいい?」「『放射能疎開』が始まった」などと、これでもかと云ったくらいインパクト十分。報道の自由を持ち出すまでもなく、どういった記事を書こうが勝手だし、それを求める読者もいていい。ただ、僕は気分が少し悪くなった。
アエラという雑誌、そこに書かれている記事のクオリティについて語るのはここでは止めておこう。今回も野田秀樹が連載している「ひつまぶし」というコラムだけが救いだった。そのタイトルは「東京よ、冷静になれ」。一部を引用しよう。

「私はなにもこのたびの、原発事故を庇おうとか、そういう思いで言っているのではない。ただあまりにも冷静さを欠く報道の在り方、安易に恐怖心をあおるだけのその姿勢。そしてそれに踊らされる人びとのあり様。それらが、この未曽有の大震災を、ただ悪い方向にだけ導くものだと申し上げたい」

あのちゃらんぽらんな(いや、本当のところは知りませんぜ)野田の主張はすこぶる正しい。

アエラ編集長による「キャッチコピー力の極意5ヵ条」というのがあるらしい。
http://www.henshusha.jp/2010/08/11/promo-word-1/

週刊誌の見出しはスペースに制限があるので字数を短くするとか、なるべく漢字は使わずひらがな・カタカナにする、といったものが極意とは笑ったが、その5つ目に挙げられている「見出しを決めてから走り出す」はいかがなものだろう。これは一歩間違えば、郵政不正事件で大阪地検特捜部がやってしまった(以前から常態化していたらしいが)事実解明の名の下での、結論、つまり落としどころが先にありきのでっち上げに繋がる。予定調和的に話をまとめるのではなく、予断を許さず取材によって事実関係を集めて本当の姿をつかみ、それを報道するのがジャーナリズムの仕事ではないのか。

また気になったのは「放射が出た(漏洩した)」ではなく「放射能がくる」という表現である。どこに来るのだ。誰の所に来るのだ。書き手の意識は、放射能が福島第一原発から漏洩した事実にも増して、(おそらくは自分がいる)東京へ来ることが問題と捉えているのではないだろうか。