2012年6月29日

飼い主を訓練せよ

大阪府のある市で、散歩中の犬の落とし物の処理に困った役所が飼い主に税金(飼い主税)をかけることを検討しているという記事を目にした。

以前にも書いたが、ニューヨークには犬を飼っている人が多い。マンハッタンの中の住居はほとんどがアパート(日本で言うマンション)なので、朝や夕方は犬の散歩に出かける人で通りが溢れる。犬好きのニューヨーカーとその犬の関係については思うところがあるが、それはまたあらためて書くとして、多くの犬が町を散歩しているわりに「落とし物」が放置されているのを見たことはない。

犬だって部屋のなかに用意されたシートや犬用トイレより、外でのびのび用を足したいはずだ。それが、自然ってものだろう。だから外に連れて出てもらった時にウンチもすれば、おしっこもする。ウンチは飼い主やドッグ・ウォーカーがちゃんと拾って片づけている。これは、犬を飼う人のルール。市の条例でも定められている。

こちらの犬の大半は、どれもよく訓練されている。日本(少なくとも例の大阪府のある市)では、犬の躾ではなく、まずはダメな飼い主の躾が必要なようだ。

すべての飼い主に一律に課税したのでは、きちんと糞の処理をしている飼い主に対して不公平だろう。


Victory for Obama Care

今朝(米国時間)、米連邦最高裁が、オバマ政権の医療保険改革法は事実上合憲との判決を下した。以下はニューヨーク・タイムズ紙のBreaking Newsから
WASHINGTON — The Supreme Court on Thursday upheld most of President Obama’s health care overhaul law, saying it was authorized by Congress’s power to levy taxes. The vote was 5 to 4, with Chief Justice John G. Roberts Jr. joining the court’s four more liberal members. 
この報が出てすぐ、ロムニーをはじめ同法に反対する共和党の幹部議員が次々と反対の声明を発表している。この改革法が米国の自由の精神に反していると主張している。医療費の支払いをどうするかは個人の責任で、国が主導する保険制度で賄うべきではないといっている。自己責任という言葉が頭に浮かぶ。日本のような皆保険制度が導入された場合、個人の負担が増えると主張しているが、彼らの後ろには多額の献金をしている保険会社がある。

彼らのように何でも「個人の責任」と考えるのであれば、そのうち警察も税金の無駄だからなくして、各自が拳銃や武器で武装して、自己責任で自分や家族の生命と財産を守るべきだと言い出すかも。大金持ちは、自分たちでセキュリティガードを雇えるから全然問題ないかもね。でも、今の米国のように何千万人もの人が健康保険に加入できないままやってきたのは、やっぱりおかしいと思う。

http://www.nytimes.com/2012/06/29/us/supreme-court-lets-health-law-largely-stand.html?emc=na

2012年6月28日

夏休みの大学構内で

米国の大学の夏休みは長い。その間、キャンパスは静かで落ち着いた雰囲気である。

コロンビア大学にある芝生の上で、幼児たちが遊んでいた。どこからやって来たのだろう。近くに保育園かなにかあるのだろうか。静かなキャンパスに子どもたちの賑やかな声が流れ、ほんわかした空気が漂っていた。


2012年6月27日

グランド・セントラル駅構内のアップルストア

楽天の関連会社が年に一度NYで開催するイベントがニューヨークの老舗ホテル、ウォルドルフ・アストリア・ホテルで開かれ、僕も招待してもらったので出かけてみた。参加者は500名ほど。日本から楽天の代表取締役会長兼社長の三木谷氏がやってきてスピーチしていた。

その帰り、グランド・セントラル駅でアップルストアに立ち寄った。 東側のテラスの大部分をいまアップルが使用している。展示レイアウトは他のアップルストアと共通していて、ゆったりした空間のなかで客は自由にアップル製品にさわり、操作することができる。

週末の新聞に、アップルの店員の給料に関する記事が掲載されていた。アップルストアの多くの店員は時給ベースのアルバイト。平均時給額は、11.9ドル。売上に応じたコミッションなどの追加はない。他の小売店で働く店員と比べて決して高い給料とはいえないなか、スタッフの高いロイヤルティをどうやって保っているのか、ずっと不思議に思っている。いくつかポイントがあるのだろうが、(彼らのとっての職場である)ストアのデザイン、立地、雰囲気も重要な点であることは間違いない。




2012年6月26日

何かやれば、食える

東京と比較して、ニューヨークには物乞いが多い。ただ、何も「表現」せずに小銭をせびっている物乞いは、4人に1人くらいか。あとは、何かしら「芸」をしている。

地下鉄に乗っていると、ギター片手に、あるいは数人のコーラスで歌の一節を歌い(一駅間で見せ物が終わるように)、その後、金を乗客から集めているアーティスト(?)にもよく出くわす。先日は、まだ中学生らしい黒人の女の子3人組が、アカペラでコーラスを披露し、乗り合わせた客から拍手と多くのチップを集めていた。

彼女たち、一駅ごとに隣の車両に移っては同じ芸で稼いでいた。同じ区間を行ったり来たりしながらやっているのだろう。

さほど上手くもない歌や楽器の演奏に対して、どんな人が金を出しているのか観察していて分かったのは、あまり懐具合がよくなさそうな人たちが彼らに金を渡してやっていること。逆に、金回りの良さそうな人たちの多くは、見て見ぬふりである。

アッパーウエストサイドへ向かう42丁目の地下鉄ホームに、両腕のない青年が立っている。肩から突き出た15センチほどの両腕にプラカードをぶら下げている。首からはお金を入れもらうための籠を下げている。

彼を見るたび胸が締め付けられるような気分になる。そして、ついポケットのなかで何枚かの札を数えたりする。それでも僕は、まだ彼に「施し」を与えたことはない。どうも後ろに「マネジャー」がいるような気がしてならないから。

舗道に作品を作成するアーティストも多い。翌日には消えてなくなる

2012年6月25日

夏至を過ぎ、今はまだ8時半くらいまで外が明るいけれど、これから日没の時間が少しずつ早くなっていく。

陽が落ち、次第にあたりがほの暗くなりかけてきた頃、ハドソン川沿いのリバーサイドパークのいくつかの場所で、螢の乱舞が始まる。散歩の帰りしな、両手のひらで一匹すくい、アパートに持って帰ってきた。・・・ゲンジボタルだ。

2012年6月24日

ブルックリン美術館

ブルックリン美術館まで、ミッドタウンからは地下鉄に乗って20分ほどの距離である。ここは、ニューヨークではメトロポリタン美術館に次いでの規模を誇っているらしいけど、館内を歩いた印象ではそれほどの規模という感じはしなかった。館内のレイアウトがすっきりしていて分かりやすいのがその理由かもしれない。

近代・現代美術のコレクションはMETやMoMAには及ばないが、アジアや中東など非西洋美術のコレクションとそれらの展示には趣向が凝らされ、マンハッタン内の美術館といかに差別化をはかるかが考えられている気がする。

駅からすぐだし、週末でもあまり込んでいない。すぐ隣に植物園や公園があるのもいい感じだ。http://www.metmuseum.org/


2012年6月22日

ピンクのわた菓子

普段、フランス料理は食べないようにしている。理由はいくつかあるのだが、それはここでは書かない。

しかし、先日の出張中のこと、モントリオールに来たからにはさすがと思わせるフレンチも悪くないかと思い出かけてみた。実は、同じアパートの住人であるY澤さん夫婦からお勧めの店を教えてもらっていて、ニューヨークを出発する前にレストランを予約していたのだ。お二人は同じ医大に勤務するお医者さん同士で、モントリオールにはやはり学会で昨冬訪れたとか。

そこはモダン・フレンチの店で、ひと皿ひと皿の料理に趣向が凝らされているとともに、ウエイター、ウエイトレスもよくトレーニングされていて、程よいホスピタリティーを感じさせるものだった。

この歳になると、食事の際にやはりカロリーを考えてしまう。そこで食後はデザートはやめておこうと思いコーヒーだけを注文したのだが、ギャルソンが「当店にいらしたからには、スイーツをお召し上がりにならないままお帰しするわけにはいきません」と言って、いくつかの甘いものをテーブルに運んできた。その一つが、コットン・キャンディー。むかし懐かしい綿菓子である。


このピンクの綿菓子、今店頭に並んでいるNew York誌の表紙でエマ・ストーンがほおばっていた。


2012年6月21日

Wall Street Walk Tour に参加

午前中、コロンビア大学ビジネススクールが主催するウォール街のウォーキング・ツアーに参加。以前、ウォール街の金融機関で働いていた女性がガイドとして周辺を案内してくれた。今日はとても暑かったが、ひとりで散策するだけではわからない各建物のいわれなども聞けたので、まずまず。

右手のバーガーキングの広告が下がっている建物がニューヨーク証券取引所

ワールド・トレード・センターあとに建設されている1 World Trade Center ビル
NYで最古の歴史を持つトリニティ教会。その向こうに1 WTC。

2012年6月20日

名和晃平と琳派

クロイスターを訪ねた後、メトロポリタン美術館のジャパニーズ・ギャラリーで開催中の琳派展を観に行く。名和晃平のPixCell-Deer#24(2011作)が琳派のひとつのコレクションとして展示されている。こうした解釈の自由さがメットらしい。

http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2012/rinpa-aesthetic 



これぞ、Museum & Gardens

南北に細長いマンハッタン島のほぼ北端に、メトロポリタン美術館分館のクロイスターズがある。

地下鉄のAトレイン(デューク・エリントン楽団の「A列車で行こう」のA Trainだ)で190丁目まで行き、そこからフォート・トライオン公園を通り抜けると中世の修道院を模した赤茶色の建物が現れる。
http://www.metmuseum.org/visit/visit-the-cloisters/

クロイスターズのクロイスター(cloister)は、修道院の回廊のこと。南フランスにあった修道院のロマネスク風回廊をニューヨークへ運びこんで作られた。

スポンサーは、あのロックフェラーだ。ロックフェラーにしろ、カーネギーにしろ、アメリカの大富豪には文化的で精神性の高い社会貢献活動を残した人びとがたくさんいる。


2012年6月18日

眼下にマンハッタンを見る

モントリオールからニューヨークへ帰るフライトで、窓からマンハッタン島が見えた。真ん中に見える巨大な長方形がセントラルパークである。


モン・ロワイヤル公園

マギル大学のすぐ横の坂を上り、小高い丘になっているモン・ロワイヤル公園(Parc du Mont-Royal)に行ってみた。

展望台からモントリオールの市街地を望む



なんだか感じがNYのセントラルパークに似てるなと思ったら、設計が同じ造園建築家の手によるものと知り納得。

2012年6月17日

ノートルダム大聖堂(モントリオール)

モントリオール市の旧市街地のほぼ真ん中にノートルダーム大聖堂がある。建物の内部に入ると、ブルーのライティングとゴールドの装飾が独特の雰囲気を醸し出していた。きょうは週末だったので、パイプオルガンの演奏が流れていた。



2012年6月16日

McGill大学の博物館

今朝、学会のためにモントリオールにやって来た。ニューヨークからはほんの1時間半ほどのフライト。羽田から札幌へ飛ぶくらいの感覚である。

宿泊したホテルの裏手にマギル大学があった。昨年、創立190年を迎えた伝統ある大学である。構内にRedpath Museumという博物館がある。北野天満宮のお守りや倉敷阿智神社の絵馬が展示してあったのは何故だろう。


街のレストランやカフェで、マギル大学の学生・大学院生だというウエイトレスに何人かあった。夏休みになったので、アルバイトに精を出しているのだろう。モントリオールの飲食店では、テーブルの担当になった彼女たちは、客(現地の人以外)にまずフランス語と英語のどちらでコミュニケートしたいか尋ねるてくる。

あるカフェで、冗談で日本語か中国語であなたと話せないかと(英語で)返答したところ、「中国語ならほんのちょっぴりならできるわ」と返ってきた。香港大学に7ヵ月間留学していたときに覚えたという。国際法を専攻している大学院生で、修士課程を終えたら国連機関で働きたいと言うので、「モントリオールの人たちは英語と仏語のバイリンガルだから得だね。頑張って」と言ったら、言葉についてはスペイン語とイタリア語もできるとのこと。それと少しの中国語。

2012年6月12日

ニューヨークの Korean Town

日本では法政大学で教えている韓国人のK先生とミッドタウンのコリアン・タウンへ。エンパイアステート・ビルが間近にそびえる32丁目のエリアである。K先生のお薦めのKumGangSanという老舗の韓国料理店でランチをする。カルビがうまい。キムチもうまい。


ランチの後、彼が気に入っている韓国料理屋や食料品店をいくつか案内してもらいながら、コリアン・タウンの通りを往復した。そのなかで一軒だけ、あの店は行かない方がいいと彼が指さしたのが「ニューヨーク・コムタン」という店だった。料理だけでなくサービスも酷い、と彼だけでなく彼の奥さん(韓国人)も言っているとか。

実は、僕はその店のことは「ニューヨーク美術散歩」という本で知っていた。その店が、NYに住む著名な日本人画家のお気に入りの店だと僕は彼に言えないまま、われわれは地下鉄の入口で分かれた。

2012年6月10日

ソーシャル・ネットワークへのハッキング

昨日のFT紙の記事によると、LinkedInから顧客データがハッキングによって盗まれたという。リンクトインは、盗まれた顧客データがどのくらいの数か公表していないが、リンクトインから盗まれたと推測されるパスワード800万件がハッカーによってネット上に公開されているらしい。それらは暗号化されたものではあるが、だからといって大丈夫とはいえないだろう。

下記の図は、フィッシングの被害にあった組織を示している。これまで金融機関が最もその対象になりやすかったのが、今はソーシャルネットワークがその主たる対象として狙われている。全体におけるその比率は、今年4月現在で全体の約30パーセントであり、前月に比べて6パーセント・ポイント上昇している。

Financial Times, June 8, 2012

厄介なことに、ソーシャルネットワークから個人データが盗み取られた後は、その個人名や写真をもとにその人物になりすましたハッカーによって、友人知人が容易に狙い撃ちされる可能性がある。フェイスブック、ツイッター、リンクトインなどのSNSは、Gmailやホットメールなどに比べてセキュリティ対応が遅く、その脆弱性が指摘されている。

今後、技術面を強化することは可能だろうが、それで問題が解決するとは思えない。セキュリティを高めても、それに対抗するハッカーが必ず登場してくるだろう。イタチごっこが続く。

2012年6月9日

Food, Inc.

友人から勧められていた「Food Inc.」を観た。2008年に製作された映画で当時日本でも公開されたようなのだが、僕は覚えていない。

ここで描かれて食品を巡る話の数々は、なんとなく知ってはいた知識ではあるけど、映像とともに詳しく説明されると理解の中身が異なってくる。穀物資源の行く末が一握りの数の企業によって支配されているということ、加工食品がほんとうはあまり食べたくない食物であること、ファースト・フードがわれわれの生命にまで深く影響を与えていること、清涼飲料水が見せるおもての「さわやかさ」とその実態など。

米国では圧倒的な量のとうもろこしが遺伝子操作されていることは以前から知られていたが、それがコーンスターチとしてほとんどといっていいほどの加工食品(ケチャップやマヨネーズ、マーガリンなどの多くの調味料も含む)に含まれていること。また、家畜用の牛は、いまでは牧草ではなくそうしたとうもろしを与えられていること。それは、やがて牛肉として人間の体に入る。

食肉加工品の製造現場は、工業製品の製造現場とまったく変わりない。しかも残念なことに、そこにある食肉解体場は米国への不法移民者の働き口の役割も果たしている。そのことを法的に、道徳的に、人道的に、環境的に、そして現実的にわれわれはどう理解するべきなのか。


2012年6月7日

『ニューヨーク美術案内』

今年2月末にニューヨークへ来た時、荷物はスーツケース1つとデイパックだけだった。スーツケースは、出発前に近所のイトーヨーカ堂で「海外旅行一週間用」と書かれたシールが貼られていたものを買い、それで済ませた。(僕がこちらで部屋を探している時にお世話になった不動産屋さんによると、彼女がしばらく前に世話をした日本のある官庁の役人は、NYに赴任してきた際に日本から鍋釜をはじめ、家族の人数分の羽毛布団まで持って来たらしい)

切り詰めたスーツケースの荷物のなかに、日本の本を2冊だけ入れて持って来た。その一冊が、千住博・野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』(光文社新書)だ。ライターの野地と画家の千住が、NYの美術館とギャラリーを観て歩くという本である。

紹介されている美術館は、メトロポリタン美術館とMoMA、フリック・コレクション、またチェルシーにあるギャラリーがいくつか取り上げられている。野地が冒頭で、「今の時代、贅沢とはモノを持つことではない。(中略)わたしの場合の贅沢とは簡単だ。楽しみ方を教えてくれる人、快感を伝えてくれる人と過ごす時間が贅沢と言える」という指摘にうなずく。

僕は、自分の専門外である絵画や彫刻の見方をこの本から教わったような気がする。千住は、美術館で本物の絵に接するすばらしさを「絵から50センチの距離に立ってみる。するとその作者もかならずその位置から自作を見ていたはずであり、これはまさに作者の身になって物を見る、物を考える、ということに他ならない。マジックハンドでも使って描かない限り、人間の腕の長さは似たようなもの、かならずこんな距離から絵に筆を入れていた。そう思うと筆致や呼吸まで追体験できてくる」と語っているが、この本を読めば、僕はまたそう話す千住がここに立ってこの絵と対峙していたのかと思いながら作品の前に立つことができる。

ところで、この本の中で千住はまた、美術評論家と画家の違いについて語りながら、画家である自らを「わたしは自分のことを『飛行機の(なかの)獣医』だと思っています。自分は絵を描いているから、その立場に立てば、何に対しても解説ができる」と述べている。彼はここで、美術評論家は専門教育を受けているがために、自分の学んだカテゴリー以外について発言しないとその不自由さを指摘している。専門家の危うさと怪しさは、アートだけでなくどの分野にもある。