2023年8月6日

日本の自動車メーカーは中国車と世界で戦えるか

最新のグローバル・ブランド・ランキングによると、その上位20位にある日本企業はトヨタ一社(6位)である。かつては日本の銀行や通信会社、電機メーカーなどが上位に並んでいたが、今ではまるで様変わりし、見る影もなくなった。

そのトヨタの行く末を危ぶませるデータが公表された。今年前半(1月〜6月)の自動車輸出台数で、中国が日本を抜き初めて世界首位になったのである。
 
彼らの主な輸出先はヨーロッパ。徐々にヨーロッパ大陸で中国車が拡がりを見せている。特にEVは、極端なはなし、モーターとバッテリーとソフトウェアがあれば生産できるから、その面では中国はお手のものだ。EVの台頭に合わせてデザインも磨いてきている。
 
このままいくと輸出台数だけでなく、企業ブランドのプレゼンスでもトヨタは中国の自動車メーカー、例えばBYD(比亜迪)などの後塵を拝するようになるかもしれない。そうしたとき、一体この国には世界に太刀打ちできるものとして何が残るのだろうかと、一抹の不安を覚える。

2023年8月4日

アマゾン・レビューの恣意性(続)

購入した水のレビューを、安心して飲める、とかどうでもいいことを「テスト」としてアマゾンのレビューページに書いたら、すぐに掲載された。

 

だが、アマゾンのキャンセル・ポリシーの不適切さを指摘した先のレビュー内容はいまだに表示されないまま。自社に都合の悪いことは掲載しないようにしているわけだ。立派!

(追記 8月7日)
たまたまだが、「日本郵便の場合、大手事業者向けに、配送に7日程度の余裕を持たせる代わりに料金を1割前後割り引く料金体系がある」と記された新聞記事(日経)を読んだ。アマゾンは当然、ここでいう大手事業者に当たる。つまり今回の場合、アマゾンは彼らが支払う配送料を1割割り引かせるために、僕が注文した商品の発送をその分だけ遅らせたということだろう。だとすると顧客無視もいいとこ、ずいぶん勝手放題である。

2023年8月3日

アマゾン・レビューの恣意性

日々猛暑が続く。外出の機会が減る。特に日中はできるだけ炎天下を歩くのは避けている。買い物の機会も減った。

半月ほど前、ボトルの水をネットで購入した。アマゾンのサイトで1ケース分を発注。配送まで1週間と表示されている。少し長いな、と感じたが急ぐ商品ではないので気にせず注文した。

ところが1週間たっても届かない。アマゾンのサイトで「配送状況」を見たら、まだ配送手続きにもはいっておらず、その時点で配達予定日は注文から13日目になっていた。

これはアマゾンの不手際なので、サイト上から「配達予定日が遅すぎる」という理由を選択してキャンセルをし、ヨドバシ・ドットコムで同じ商品を注文した。値段は大差なし。商品は翌日に届いた。

ところがキャンセルしたその商品について「キャンセル不可」というメールがアマゾンから来た。おかしいね。発送していない商品はキャンセルできることはずなのだが。しかも、事前に知らされた配送日が、いつの間にか1週間から2週間に変更されていた。

メールにはキャンセルできないという理由として「発送準備に入っているため」と記されてはいるが、実際にその商品が来たのはそれから1週間後だったこと考えれば、それは事実ではなかったと考えるのが妥当だ。

客にはどうせ本当の事など分からないからどう繕っても平気、というアマゾンの方針なんだろう。 

今回の経緯をアマゾンのレビューに書いた。だが、5日たってもそれが掲載されない。自社に都合が悪いからだろうな。アマゾンもそんな企業になってしまったということか。

2023年8月2日

CMに解説は不要

先日、今年のカンヌ国際広告賞を受賞したiPhoneのCMをここで紹介したが、その後、元電通のCMクリエーターの杉山某が審査員として同フェスティバルに参加した経験を新聞紙面で語っていた。
私が今回、個人的に一番印象に残ったのが「Relax, it’s iPhone―R.I.P. Leon」と題されたアップルのCM。トカゲの世話を任されたペットシッターの男性が、夜のキッチンでカラダの硬直したトカゲを見つめている。なんとも言えない悲壮感をその表情に漂わせながら。どうやら暇を持て余したのか、イタズラをしている最中に、トカゲが死んでしまったよう。
 
やがて彼は意を決して雇い主にiPhone14のメッセンジャーで悪いニュースを伝える。その瞬間、トカゲが突然息を吹き返し、ホッとしたペットシッターは商品の売りである「送信取り消し」機能を使ってメッセージを削除する。これら一連のシークエンスが絶妙な演出で映像化されていた。そのことで「リラックスしようよ」というメッセージがじんわり伝わってくる。
ははあ、そうだったのか・・・と。だが、このCMの登場人物がペットシッターだとか、今いる場所が夜のキッチンだとか、メールの送信先が彼の雇い主だとか、そうしたこと、このCMを見ている一般の視聴者がなんで知ることができよう。
 
そもそもテレビ番組でも映画でもないCMにタイトル(題)が必要か。広告賞のイベント会場で配布された審査用資料を一般読者に紹介して何の役に立つのか。こうしたことは業界内の雑談ネタにとどめておけばよい。解説も不要ってものだ。

2023年8月1日

まるで丸見えだ

最近、家族旅行に出かけたというある女性とその息子の携帯電話に、次々と見ず知らずのところからメッセージが届く。企業、個人からを問わずだ。それらは、たとえば「空港まで私のタクシーを利用しませんか?」とか「今度のホテルは決まっていますか?」といった内容らしい。ベトナムでのこと。 

彼女らの携帯電話の通信内容やそのメモリーに記録されたデータが盗み見られているおそれが大きい。

原理的に通信会社は、ユーザーの通信情報をすべて盗み見ることができるだけでなく、すべて保管している。だから、社員や関連企業の人間がアクセスし持ち出す。

それだけではなく、ユーザーが知らないうちに何かプログラムを忍びこませてしまえば、もう一人のユーザーとして何でもできる。

利用者の個人情報が、知らぬところでカネに替えられているんだろう。当然、遠い他国だけの話と思わない方がいい。

2023年7月31日

サボテンも枯れる暑さ

今日会った人が、南相馬市で開催されている相馬野馬追に行った話をしてくれた。馬を目当てに見に行ったらしいが、現地での猛烈な暑さで何頭か馬が死んだんじゃないかと言っていた。

歴史のある行事ではあるが、時期をずらすという、ちょっとした工夫がなぜできないのか。ちょっと立ち止まって考えれば分かるはずのことが、「慣性」に浸って生きていると分からなくなる。そして、過ぎ去ってから、(少し)反省する。

それにしても、このところの連日の猛暑は異常だ。と思っていたら、それもそのはず、12万年5000年ぶりの高温を記録しているという。

なんだそれは、と思ってしまうのもの無理はないが、古気候学(太古の気候を研究する学問領域)の専門家によると、12万5000年前の地球は2つの氷河期の間に位置し、「直近でもっとも暑くなった時期」にあたる。これは古気候学にもとづいてデータを収集し、気候モデルを作成している機関(アメリカ地質調査所)の分析による。

ところが、今年7月の地球の気温はそれにまさる暑さなのだ。異次元の暑さ。米アリゾナ州ではサボテンが暑さで枯れ始めたらしい。

そのなか、日本では例によって夏の甲子園大会の地方戦が行われている。大会を主催している新聞社(朝日)、高野連、NHKの幹部の脳みそは溶けて働いていないのだろう。しかし、利権を守るというその考えは堅固で揺るがない。

グラウンドで試合をする選手はもちろん、スタンドの観客、関係者らも命がけである。なぜそうまでしてこの時期、日中の屋外で行うのか。人の命や健康を考えれば、つまり冷静に常識でものを考えればヘンだということに気づくだろう。

夏の甲子園大会が始まったのは1915年(大正4年)。その頃の夏の気温は、今とは全然異なる。これは東京のデータではあるが、気象庁によれば1915年8月の平均気温は25.7度、最高気温でも29.7度だ。

命を大切にするには、今の時期は室内で静かに体力を温存するようにしておくのが一番。人間の体は気温が35度超え、湿度が60%超えのなかで過ごせるようにはできていない。屋外で激しい運動をさせるなどもっての外だと思う。

これはすべて関係している大人の責任だ。

2023年7月30日

サステナブルからレスポンシブルへ

サステナブルは、通常、「サステナブル(持続可能性)」と表記される。じゃあ、持続可能性でいいじゃないかと思うのは当然なのだが、世間はサステ・・・が好きらしい。理由は僕には分からない。カタカナがなんか新しさを感じさせるからかな。それとも、みんなそう言っているからか。

どちらでもいいんだけど、持続可能性という言葉でやはり気になるのは、その対象がよく見えないことだ。もともとは環境問題の文脈で出てきた言葉。その当時は、地球や自然環境と言った持続可能が期待される対象が明らかだった。

だが、いま用いられているサステナブル(持続可能性)は注意深く見ていると、何てことはない。その製品を作ったり、販売している企業の持続可能性だったりして、本来の意味からいつの間にか逸脱していることが多々ある。

パタコニア社の創業者であるイヴォン・シュイナードは、「サステナブル」という言葉の代わりに「レスポンシブル」という言葉を用いる。日本語にすると「責任のある」だ。日本では中学生でも知っている英単語だろう。

レスポンシブルという言葉を聞いたとき、われわれ日本人でもまず頭に浮かぶのは、その主体が誰かと言うこと。責任対無責任の文脈なかで、自然と「誰が」の発想が浮かんでくる。そうした意味で、環境へ向かう想いがサステナブルよりシャープだ。

われわれは、そろそろ主体も対象も曖昧さに逃げる「サステナブル」って言葉から「レスポンシブル」あるいは「責任(のある)」に言い方を変えた方がいいと思う。 


2023年7月25日

予告編は余計だ

夕方、東宝系のシネコンに映画を観に行った。トム・クルーズのバイク・ジャンプを見るためだ。61歳で驚異的なスタントを自ら行うトム・クルーズには驚きしかない。 

こうしたスペクタクルな映画はやはり大画面の劇場で観たい。だが劇場で閉口するのは、上映予定時間になってから流れる映画予告編とCMだ。今回は本編開始まで15分も続いた。これまでのなかでも最長の部類だ。一般的にシネコンは長い。単館系はもっとコンパクトだ。CMが入らないというのもあるのだろうが。

映画の予告編は、かつては今後上映される作品をそれで知ることができ役に立った。だが、いまでは劇場で無理矢理見せられなくても、YouTubeなどでいくらでもチェックできる。

鑑賞料を払って席に座っているのに、否応なくCMを見せられるのは不愉快。好きで見ている観客はまずいない。それなのに、なぜこうした顧客の意に沿わないことをいつまでも押し付けるのか。

それは、シネコン運営企業の経営者が、一般客に交ざって劇場内で映画を鑑賞しないからだ。自分が真に映画ファンで、試写室でなく一般上映館で映画を観ていたら何か感じるはず。彼らはそれをやっていない。あるいはそうしていても、顧客がどう感じるかを感じるセンスがないということである。

2023年7月23日

再販制度(再販売価格維持制度)は今どうなっているのか

昨日、急ぎの調べものがあり、そのためにアマゾンで書籍を1冊注文した。

実はその本は研究室のどこかにおそらくあるはずの1冊なのだが、週末で大学に行く予定はない。しかも先週で前期授業はすべて終了したので、わざわざ研究室に足を運ぶのは憚られた。

アマゾンの画面で表示されたその書籍の価格は、3980円。「新品」とある。随分以前に購入したものと同じものだが、微かに覚えているその本の造作から創造すると「ちょっと高すぎる」。

今日届いたその書籍、カバーを見ると定価(本体2200円+税)とある。2420円だ。ということは、先の価格は65%高い。

中古本の価格がいろいろあるのは分かるが、新品の本の価格は再販制度によって定価販売が基本のはず。ちなみに販売元は中古本の取扱店ではなく、アマゾン自身だ。

これは再販制度違反じゃないのかね。時間を見つけて調べてみようと思う。

2023年7月7日

学生の短冊

授業で7号館に入ったら、入口のホールに小さな笹の木が2本あり、そこに色とりどりの短冊が添えられていた。願いが叶うといいね。



2023年7月2日

カンヌ国際広告祭2023受賞作


グランプリを受賞したAppleのCM

可愛がってたトカゲが死んじまった。

やっぱ、悲しいよ。そんなメールをダチに送ったとおもったら、レオンの奴、生き返りやがった。

ヤッホー 

でも「生き返ったよ」ってメールを後で送ってやった方が相手は喜んだかもしれないけどね。

"Working with Cancer"

 


"The Last Performance"


2023年6月27日

日本の競争力が過去最低に。だが、これで終わりではないわけ

スイスの経営教育機関であるIMDが毎年発表している「世界競争力ランキング」の2023年度版で日本は35位、これまでの過去最低を記録した。

共同通信のサイトから
 
他のアジアの国を見ると、シンガポールは4位、台湾と香港はそれぞれ6位、7位、中国は21位で、マレーシア、韓国、タイがそれぞれ27位、28位、30位。主なアジアの各国から抜き去られた。インドネシアも日本より上位だ。

マジかと思ったが、安倍、菅、岸田の政権がトンチンカンな政治運営を営々と続けていたのを振り返ると、これもしかたないかと思えてしまう。ネポティズムのなかで日本という国の全体感は忘れ去られ、既得権者を維持することだけに政治リソースが使われた結果である。

企業は企業で、どこも「ごっこ」だ。トップは経営ごっこ、コンサルティング会社はコンサルごっこ、ビジネスマンはビジネスごっこに終始している。何かやってる気になっているだけに見える。

焦点がなく、リスクを負おうとせず、過去の延長上でしかものを考えられないから真に新しいことにチャレンジしない。競争力の低下はたまたまではなく、因果の現れである。 

今後、フィリピンやベトナムにも抜かれるかもしれない。そんな日本にこれから留学したいとか、働きに行きたいと思ってくれるアジアの人たちはいるのだろうか。

やがて日本は、アジアの人たちの目からは一観光地として興味があるというだけの国になっていく気がする。

2023年6月26日

DXはドンクサイの略

ある女優の一人芝居を観に行きたくなりチケットを探した。東京公演はすでにすべて販売終了で、地方公演のチケットがまだ残っていたのでそちらを予約することにした。

前にも書いたことがあるが、ネットでのチケット予約にはどうも腑に落ちない点が多い。まず手続きが必要以上にややこしく、手数料も納得がいかない。すべてシステムで予約を受け付けるので、チケット販売のエージェントは素知らぬ顔なんだろう。我々にとって面倒だったり、プロセスがスムーズなものでなくても自分たちは痛くも痒くもないからだ。

利用者は、S席とかA席の括りで席を選ぶようになるが、その際、会場のシートマップが表示されないのはなぜなのか。システム的には簡単なはず。S席とA席の割合をどうするかなどは興行主の思わく次第だ。一列違えばSとAに分かれる。それで価格が30%異なる。
 
以前はS、A、B、Cと4種に分かれていた席種も、今は多くがSとAの2つなのも疑問。売り手が勝手をやってる。

ネットで飛行機のチケットを購入する時、多くの利用者はその機のシートマップからフライトの空き具合を見て、自分が座る席を選んで予約する。しかも飛行機のチケットは、予約後のキャンセルや変更が可能だ。購入した航空券は自宅でプリントアウトすれば済む。
 
ところが、芝居やコンサートのチケットはと言えば、自分がその会場のどこに座るかという基本条件すら示さず、しかも一旦予約したらキャンセルできない(返金しない)。チケットは自宅でプリントアウトすれば済むものを、なぜ客にコンビニまで足を運ばさせ、そこで発券手数料を課すのか。コンビニでの発券手数料を、後でチケット業者が按分させているとしか考えられない。手間も金銭的出費も、ツケはすべて利用者に回されている。

以前こんなことがあった。なるべくいい席を取りたいとS席を予約したところ、その席は広い会場の1番端っこだった。しかもS席ブロックの最後列だった。こんなことであれば、A席で真ん中あたりの席の方がよほどコンサートを楽しめたはずだった。

なぜ、こうしたことが起きるか。業者がとにかくチケットをさばき、一刻も早く入金させることしか考えていないから。訪れる観客がコンサートを楽しめるか、芝居を楽しめるかなんてことは一切気にしていない。期待する方が無理か。

チケット屋が扱っているのは、芝居やコンサートの「席」だ。文字通りの席(椅子)ではなく、ある日のある時間にその場所を所望している顧客がそこにいられる「権利」だ。モノではなく無形のサービスなので、ネット上での販売や決済にもっとも適している商材と言える。

にもかかわらず、日本のチケット業者のやっていることといったらこのようにお粗末極まりない状況である。やろうと思えば、顧客の納得感を得られる仕組み作りは簡単にできるはず。DXなんて言葉があったが(今もそうした言葉で仕事をねだってるコンサル会社もあるようだが)、チケット販売業者がやっているDXはドンクサイの意味としか思えない。

こんなことでこの国のパフォーミング・アーツのお客さんが増えていくとでも思っているのだろうか。この手の問題が解決されない理由のひとつが、こうした分野のジャーナリストにある。新聞や雑誌に提灯記事、いや失礼、劇評やコンサート評を書いているその分野の専門家とされる連中のこと。彼らは自分でチケットを買わない、自分でチケットを予約してコンビニ店頭で発券してもらわない。なぜなら、放っておいても主催者から招待されるから。
 
だから、実状を知らない。いや、知らないことにしているのだろう。それ故に発言しようとしないし、業界も変わらない。

2023年6月25日

町中の訓言

散歩の途中で見つけた工務店店頭のガラスケース。なかなかいいことが書いてある。立ち止まって一通り読んでしまった。


2023年6月24日

1日の閲覧数が1,000を超えた

このブログを始めたのは、2009年。当初は学会で海外に行ったときの記録、サバティカルでNYに暮らしていたときのメモ代わりとして書いていた。特に読者は想定せず、一切気にせず。

 一時だけ広告を掲載してみたことがあるが、目障りなのですぐに止めた。こんなことで小銭を稼いでも仕方がないし、グーグルからviewを稼ぐためにこんなことをやった方がいいとか、余計なことを言われるのも鬱陶しかったからね。

あくまでも自分の記録として書いていたら、先日、一日の閲覧数が1,000を超えた。誰がどういう思いで読んでいるのか知らないが、何か人の役に立ってるなら嬉しいことである。

2023年6月19日

「俳優」と「女優」の違い

性平等のための是正策として、これまでの職業名が言い換えられている。例えば看護婦は看護師に、保母さんは保育士に、スチュワーデスは客室乗務員に。

それはそれでいいのだが、その理由としてそれまでの呼び名が女性蔑視だとか性差別というのはどうも理解できない。どこまで気にするかは人によるけど、〇〇マンが女性蔑視だからだめで、〇〇パーソンと言い換えるべしというのは言葉遊びをしているように思える。

ある自治体のサイトから

上の表では「サラリーマン・OL」を「会社員」と置き換えなさいと言っているが、会社員以外のサラリーマンはどうなるのか。会社員以外でサラリーを対価に働いている人たちも世にたくさんいる。

ビジネスマンはビジネスパーソンに呼び名を変えた。 ではサラリーマンは「サラリーパーソン」か。そもそも「マン」は「男」の意味だけではなく、総称的に「人(男女問わず)」を表す。

こうした世の中で女優を俳優と言い換えることが多くなっているが、なかには「女優」を堂々と名のるひとたちもいる。今朝の新聞に通販生活の折り込みチラシが挟まっていたが、そこに「女優 香山美子」さんの名前を見つけた。俳優ではなく女優とした意思があるに違いない。

週刊文春に「私の読書日記」を書いている橋本愛も「女優」を名のっている。彼女の意思だと思う。

性差を感じさせない呼び名に変更することが、自分がそれなりの意識系の人間だということを示す「お作法」になっていることを感じて、おそらくちゃんと考えたうえで「女優」を標榜しているのだろう。それはカッコいいと思う。

2023年6月11日

ただただ、驚き感心する

6月9日、アマゾン地帯のジャングルに墜落した小型飛行機からの生存者として、子どもたち4人が現地で救助された。13歳、9歳、4歳、そして1歳の兄弟だ。残念ながら、彼らの母親やパイロットら大人3人は5月1日の墜落現場で死体として見つかっていた。

頭から地面に激突する形で墜落した飛行の前部座席には大人3人が、4人の子どもたちは後部に座っていたのが幸いした。しかし、何よりも驚かされたのは、墜落したあと、子どもたちが40日間を自分たちだけでジャングルの中で生き延びたことだ。1歳の赤ん坊も含めて。

彼らは、Huitoto Indigenous communityというコロンビアの先住民族の子どもたちで、周りから密林で生きながらえていく術を教えられ身につけていたのだろう。1歳の赤ん坊を皆で守らなければという強い気持ちが兄弟のなかにあったことを指摘する専門家もいる。 

食料をどう得るか、水は、寝る場所は・・・自分たちで考え、行動しなければならないことだらけだったはず。年齢から考えると、実際に動けたのは13歳と9歳のふたりだろう。その2人が力を合わせて下の2人を守った。

いまや近くにコンビニがなければ生きていけないような日本人(ぼくも含めて)には到底できない、人間の知恵と力だ。