2022年5月8日

日本の交通渋滞は、今も季節の風物詩だ

大型連休(ゴールデンウィーク)が終わった。GWにともなう高速道路の渋滞のニュースを聞くにつれ、「働き改革」なんてものは一向に進んでいないことが分かる。

「働き改革」は「休み方改革」であり「生き方改革」のはずだが、10年一日のごとく連休の始まりは高速道路の下り路線で、そして連休後半に差し掛かった頃からは上り路線で車が渋滞する。今年、その長さが40キロにものぼった高速道があった。

昔ながらの「官製休暇」にしたがって国民全員が休みをとるものだから、こうなるのは当然である。

オフィスに行かず、自宅や好きな場所で仕事ができるリモートワークは進んだが、好きな時に好きなように休みをとることはまだできないみたいだ。どうすれば、こうした一極集中をなくすことができるんだろうか。

GW、夏のお盆、年末年始の交通渋滞。コロナ禍の2年間を除き、何十年と同じことが繰り返されている。

これはもう日本の風物詩くらいに考えておいたほうがいいのかもしれないが。

2022年5月6日

日本人の「働きがいスコア」は56%か、それとも9%か?

3日ほど前のこのブログで、日本経済新聞で日本人ビジネスマンが仕事に働きがいを感じている比率が6割弱(正確には56%)と書かれていたことにふれた。

今日、テーブルの上を片付けていたら、同紙の2021年8月30日の記事が出てきた。「仕事の熱意、日本低く」という見出しの記事で、そこでは日本で働きがいを感じている人は9%だと書かれている。

昨年8月30日の同紙記事から

その記事によれば世界平均の値も35%であり、66%とした先日の記事と数値が大きくかけ離れている。

「日本人で働きがいを感じている人」の割合は56%なのか、それとも9%なのか? 個人的な感覚では、9%とするこちらの数値の方がずっと納得感がある。実際に企業で働いているひとなら、ほとんどがそう感じるんじゃないかと思うけど。

調査方法が違うのだろうが、それにしても差が大きすぎる。

2022年5月3日

「仕事に熱意」6割弱は上出来だと思う

これは2、3日前の日経朝刊一面の見出しである。なぜかこれが問題らしい。いや、問題にしたいらしい。

僕は、仕事に熱意を持っている人が6割弱もいるのは大いに結構なことだと感心するのだが、どうもこの新聞の論調はそうではないようだ。世界平均と10ポイントほど乖離しているのが気に入らないらしい。

それを示したのが下記の真ん中のグラフだが、奇妙なグラフである。「10ポイント差」を否が応でも読者に強調して見せたいらしい。縦軸の基点を55でなく、普通に0からとれば印象はまったく違ったものになる。

そもそも世界平均の半分とか3分の1というのなら、まだちょっと真面目にそのあたりの理由を考えてみようという気にもなるが、10ポイント程度の差で騒ぐのはどうかと思うし、その差はグラフを見る限りここ数年大きな変化は見られない。

調査で「会社に所属する誇りがあるか」だとか、「与えられた仕事以上に取り組む意欲があるか」だとか、こうした問いに対して<大いにある>と応える人の国民性とそうではない(日本人のような)国民性があるのを無視して「差が埋まらない」ことを嘆いても始まらない。

朝刊一面トップの、この10段抜きの記事が言っているのは、日本の労働者の総労働時間や残業時間は減っている、有給休暇の取得率は上がっている、したがって「働きやすさ」は大幅に改善した。ところが、「働きがい」のスコアは世界に見劣りしている。そして、「働くことに幸せを感じる」社員が多いほど、業績がいい。だから企業は社員の幸せ感を高めなければならない。ということらしい。

理屈がヘンだ。そもそも「働きやすさ」が何を指しているのか、分からない。勤務時間や残業が短かければ働きやすいとしているが、人々が感じる働きやすさは決してそれだけではないと思う。

また、「労働時間が短い」働きやすい職場の労働者は働きがいを感じるはずだという、理屈のわからない思い込みがあるみたいだが、人間はそれほど単純ではないのだよ。

そして一番下のグラフで、働く幸せを感じている人の比率が高い企業ほど、業績がよくなっていると指摘しているが、なぜそんな因果関係を勝手に思い浮かべるのか。

社員をハッピーな気分にさせさえすれば会社が儲かるのであれば、経営者の仕事はこの上なく楽だ(でもそうじゃない)。

社員の幸せ感と業績に相関関係があることが認められたとしても、それは業績が向上している会社はそうでない会社に比べて社内の雰囲気も悪くはないだろうし、またボーナスの増額でもあれば社員の幸せ感が上がるのは容易に想像できる。

つまり、因果関係の矢印を引くとすれば、それは新聞記事の主張と逆方向と考えるのが常識的だろう。

2022年4月24日

これぞ、反マーケティング

吉野家の常務取締役なる人物が、早稲田大学が主催する社会人向けのマーケティング講座で放った言葉が世間を騒がした。

「生娘をシャブ漬けにするための戦略」という、「田舎から出てきた世間知らずの若い女性客を牛丼中毒にする」アイデアを受講者にチームで考案させる講座である。

吉野家の経営陣の一角を担うその人物は、自社の商品にまったく愛情を持っていないように思える。また同様に、自分たちの顧客にも愛情の片鱗すら感じていないようだ。

生娘、シャブ漬け、という身の毛がよだつ言葉を教室内で聞きながら、「講義の流れがあったから」などとうそぶいて、牛丼常務をその場で諫めなかった大学の人間の体たらくにも腹が立つ。

そうした今回の残念な出来事のなかでひとつだけ救いだったのは、件の発言に関して運営サイドにきちんと苦情を申し入れた受講者がいたことである。

その受講者は、その後のメディアの取材に対して以下のように語っている。
酷い性差別であるのはもちろん、覚醒剤で苦しんでいる人もいるのに、冗談にして笑って話して良いことだとは思えません。男性客に対しても『家に居場所のない人が何度も来店する』という趣旨の発言がありました。 
企業の社会的価値が求められる時代に顧客を中傷する発言をすることに強い怒りを覚えましたし、その発言が教育機関でなされたことにも驚きました。 
また、本心は分かりませんが教室にいた受講生の中には笑っている人もいて、温度差を感じました。
また彼女は、その時のことを振り返って次のようにも述べている。
社会にも企業にも学校にも、当たり前に年齢も性別もバックグラウンドも多様な人がいます。けれどこうした偏った発言の1つ1つが、日本社会から多様性を排除していると思います。
こんな言葉は下の世代には絶対に聞かせたくない、その思いを誰かに理解して欲しくて抗議しました。高い意欲を持って学びの場を活用されようと考えていた、他の受講生の方には申し訳ない気持ちもあります。

私自身は、講座はスタートしたばかりですが続けることを迷っています。マーケティングや授業よりも、人権意識を持つことの方が大切だと感じるので。
とてもまっとうな感覚であって、多くの人の共感を得る考えだと思う。教室の中には笑っている受講者もいたという情けなく呆れた状況で、このような思いをきちんと言葉で発してくれる人がいたことが、せめてもの救いだ。
 
吉野家の牛丼は、日本人の国民食のひとつと言っていい。早くて、安くて、旨い。それがいまは、例の常務取締役の発言とは何の関係もないアルバイトの人たちが店頭で客から嫌がらせを言われているという。
 
多くの顧客を不愉快な気持ちにし、社内で働く人たちも傷つけている。典型的な反マーケティングの一例だ。 
 
早稲田大学に講師として呼ばれたこの人物の発言については他にも色々言いたいことはあるが、とにかくまず言っておかなければならないと思うのは、こんなのは本来のマーケティングでも何でもないということ。これだけは、はっきりさせておかなきゃいけない。

2022年4月23日

1969年8月15日とは、どんな日だったか

夕方、陽気に誘われて散歩に出たついでにkino cinema 横浜みなとみらいまで足を伸ばした。そこでは映画「ベルファスト」をまだ上映していたと思ったので。

物語は、1969年8月15日のベルファストの街角からスタートする。プロテスタントの武装集団がカトリックの一般住民への攻撃を始め、ベルファストの人々、特にプロテスタントとカトリックが入り交じり暮らしているエリアでの暮らしは平穏さをなくし大きく変化していく。

英映画「ベルファスト」は、北アイルランド・ベルファスト出身の監督ケネス・ブラナーの自伝的作品である。ブラナーはこの映画の脚本で今年のアカデミー賞脚本賞を受賞した。
 
 
9歳の主人公バディはブラナー自身の少年時代がモデルになっていて、バディを演じている少年もベルファストではないものの、北アイルランド出身だ。

モノクロの画面が、ブラナーの記憶の底をなぞっている。北アイルランドでのカトリックとプロテスタントの争いはその後30年も続き、1998年に和平合意がなされるまでにおよそ3600人が闘争で命を落としている。

少年の家族の日々の暮らしは典型的な労働者階級のそれで、決して豊かではない。が、家族の絆はつよく、家族そろって映画館に行くシーンが度々出てきて微笑ましい。そこだけカラーで映し出される数々の映画は、実際にケネス・ブラナーが1969年当時のベルファストで観た映画なのだろう。

そうした暮らしに覆いかかる血なまぐさい宗派間の争いには理不尽さを超えて、寂寥感を感じる。もともと多神教で、宗教間や宗派間の激しい衝突を抱えていない現代の日本人にはちょっと理解し難いところがあるが。

ところで、ちょっと気になって調べてみたら、やっぱり1969年8月15日というのはウッドストック(ロック・フェスティバル)の初日だった。この日、この映画が示したように北アイルランドでは流血の闘争が始まり、一方でアメリカ・ニューヨーク州のウッドストックでは<ラブ・アンド・ピース>の世紀のロック・フェスが始まっていた。
 


2022年4月19日

11歳男児の父。39歳。

いやいや、これは僕のことではない。

今日の朝刊、健康に関する悩みを専門医に相談できるサイトをビジネスとして立ち上げた人を取り上げた記事内で、彼女のプロフィールがポートレイト写真の下に以下のように紹介されていた。


この人がもし、<にのみや・みまお>という男性だったら、はたして記者はこのプロフィール・キャプションを「11歳男児の父。39歳」と書いただろうか? 

この欄の記者は署名からすると女性だが、彼女はなぜこう書いたのだろう? そしてこの記事を事前に読んだはずのデスクや校閲も、なぜ疑問を感じないのだろう。

2022年4月1日

Codaが作品賞を受賞

 
「コーダ」は劇場公開からふた月がたっているが、今回の米アカデミー賞作品賞を受賞したからなのか、近くのシネコンでいまも上映していて間に合った。Apple TV+は契約していないし、ネット配信してても映画はできれば劇場で観たいからね。

タイトルのCODAは、Children of Deaf Adultsの略。両親がろう者の子供のことを指す言葉らしい。主人公、17歳の高校生ルビーがそうだ。両親も兄もろう者で、家族の中で彼女だけが健聴者だ。
 
アメリカ東海岸の街で漁師を営む一家の物語だが、うまいキャスティングと練られたシナリオが観るもののこころを打つ物語を見せてくれる。決してお涙頂戴ではなく、まっすぐで、そしてユーモアにも支えられている。

ルビーの両親、そして兄を演じたのは実際にろう者の俳優たちだ。母親役のマリー・マトリンは『愛は静けさの中で』の主演でアカデミー賞を受賞している。そして、父親役のトロイ・コッツァーが本作品でアカデミー助演男優賞を受賞した。

この映画は、ルビーがその歌の才能を高校の音楽教師から認められて音楽大学を目指すという青春物語でもあり、また音楽映画でもある。中心に据えられている曲は、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」。シックスティーズ!
 
この曲の原題は、Both Sides Now。ルビーのおかれている、ろう者の世界と健聴者の世界、一家に欠かせない「通訳」としての自分と未来を自らの手でつかみたい自分、そうした2つの領域で揺れている彼女の思いを反映しているかのようだ。
 
高校を卒業した後、ろう者の家族を支えて漁師の仕事を続けることは彼女にとって不幸な選択ではなかったが、必ずしも心底望むことではなかった。音楽教師(いいキャラクターだ)の強い勧めでバークリーで勉強をしたいと考え、ある日、家族に相談する。母親は「あなたがいないと困る」と進学に反対する。
 
母親はルビーにこんな話をもらす。ルビーが生まれたとき、母親はその赤ん坊が健聴者であると知って失望したと。なぜなら、自分たちとは違う世界に行ってしまうと感じたからだと話す。この映画の重要なメッセージがその一言に込められている。
 
映画の結末部分、ルビーは家族の祝福を受けてバークリーのあるボストンに向けて旅立っていく。映画のタイトルであるCodaは音楽記号でもあり、それは楽曲において主題とは別につくられた終結部を示す。ルビーの家族からの旅立ちのように。 
 
冒頭で流れるのはブルースシンガーだったエタ・ジェイムズの曲で、それ以外にもマービン・ゲイやデビッド・ボウイが流れる。選曲のセンスがいい。後で、この映画での音楽は LA LA LANDで音楽を担当した人だと知った。
 

2022年3月27日

キャッシュレスは、一体誰のためか

東京都内のタクシー会社が、運賃の値上げ改定を相次ぎ申請したという。その主な理由として挙げられているのが、キャシュレス決済の機器の導入コストと決済機関へ支払う手数料が増加したためだ。

タクシー最大手の日本交通は、1月に増収率27%の計算で申請を行った。最近の燃料高は確かにタクシー会社にとっては厳しい現実だと思う。その分のタクシー料金の値上げはわかる。

だが、新型コロナのためにキャッシュレス決済を導入し、その関連費用が嵩んでいると言われても簡単には納得できるものではない。コロナとキャッシュレスの関係は何だ? お金をやり取りすることで感染拡大してしまうと考えているのだろうか。

そもそもこれまでだって、クレジットカードやスイカで支払いできていた。僕に言わせれば、無用なスマホ決済を次から次へと導入し、その支払い手数料や思わぬ手続き費用に汲々としているというのが現実ではないのか。

経営判断の誤りを利用者に転化しているようだと、そのつけは自分たちに返ってくる。

2022年3月24日

「幸せな国」ランキング

CNNのサイトで World's happiest countries for 2022という記事を目にした。

「国民一人当たりのGDP」「社会支援」「健康寿命」「人生における選択の自由」「市民の寛容度」「社会の汚職に関する認識」の6つの基準をもとに以下のようなランキングが発表されているが、さてどうだろう。

1位はフィンランド、そのあとにデンマーク、アイスランド、スイス、オランドとヨーロッパ諸国が上位を占める。

https://edition.cnn.com/travel/article/worlds-happiest-countries-2022-wellness/index.html


日本は55位である。アジアの国々のなかでランキングで1番上位なのは台湾で24位。続いてシンガポール32位、タイ53位、フィリピン60位、韓国61位となっている。

日本は意外と(そうでもないという考えもあるかもしれないが)低い。もっとも、判定に用いられた6つの基準のなかで国民一人当たりのGDPと健康寿命は統計データから引っ張ってこれるが、それ以外はアンケート調査による各国国民の意識、つまり主観だ。そこでは国民感情の表出の傾向に左右される点を念頭においておく必要もある。

それにしても、日本はもっとランキングが高くてもいいように個人的には思うのだけど、こんなもんかね。格差やそれを起因とする諸問題が出てきているとはいえ、日本ほど安全で清潔で、食べ物がうまくて、気候に恵まれた国はそうそうないと思うんだけど。

日本国内にだけいると自分たちのことが相対化できないから、それが55位という結果の大きな要因になっているように思う。たとえば自分の国が住みやすいかどうかは、他の国に住んでみなきゃ本当のところは分からない。

日本人が日本をもっと外国からの眼で見るようになれば、見方は変わるはず。どの国が一番幸せな国かなんて調査は大きなお世話だけど、そうしたことを考えさせてくれる契機にはなっている。 

調査対象となった146ヵ国のランキングは、以下のサイトでみることができる。
https://worldpopulationreview.com/country-rankings/happiest-countries-in-the-world

2022年3月22日

現れたのは、仏具の広告だった

このブログに、Google AdSenseを使って広告が掲載されるように設定してみた。

最初にどんな広告が掲載されるかな、と思ってたら、あらら、仏具の広告がどーんと現れたよ。うひょ。

僕は仏具について書いたこともなければ、検索したこともないんだけど、なんでだろう。


2022年3月21日

僕の写真は国外に行っているらしい

部屋の片付けをしていたら、昔撮影した35ミリのネガフィルムが大量に出てきた。

撮影日や撮影場所が分かるようにきちんと整理してあれば良いのだが、ほとんどにはそうした記録はメモしていない。

ポジフィルムならまだしも、ネガフィルムとなれば肉眼で目を凝らしても誰が写っているのか、どこが写っているのか分からないものがほとんどだ。

どうせたいしたものではないのだろうが、こうしたものは捨ててしまうと当然ながら二度と手に入らない。と思い、データで残すことにした。

ネットで探すと、フジフィルムがネガフィルムをスキャンしてデータ化するサービスをやっているのが分かった。早速、そのサイト上で申し込む。

数日後、フィルム送付用の専用パッケージが送られて来た。取りあえず10本分を入れてフジフィルムに送ったのだが、3週間ほどたっても戻って来ない。

大丈夫かなと、少し心配になり電話で確認したところ、フィルムをスキャンしてデジタル化する作業は国外でやっていることが分かった。どこの国に僕のフィルムを送ったのかは何度たずねても教えてくれなかった。国外へ送っているため、作業に時間がかかるらしい。

以前、LINEが利用者データを中国のサーバーで管理していて問題になった件が記憶に新しいが、こうした実体のあるネガフィルムを海外へ輸送し、また送り返させているとは思いもしなかった。

運送コストに加えて、情報流出のリスクも当然高まるはずだが、そうまでしてでも国外の業者にやらせた方が安価にあがるということだろう。

我々が簡単に海外に行けないあいだに、僕の写真は海外に渡り、デジタル化され、DVDに記録されて手元に戻ってくる予定だ。支払いは、DVDを受け取る時に宅配業者に支払うようになっている。デジタル化された僕の写真は、どことも分からない国のサーバーに記録されたままで。

それって、あまりいい気分じゃないね。

2022年3月20日

東の果てと西の果て

昨日、言葉や概念の日本語化について書いたが、それに関連して日本の文化の特徴としてしばしばその雑種性があげられる。

そうしたものの理由のひとつとしては、日本という国の置かれた地理的な特徴が指摘され、その後外国から極東と呼ばれた日本には大陸から朝鮮半島などを経由して種々の文化や考えがやって来て、入り交じり、日本化して留まったとされている。

そこで必要とされたのが、外国の言葉やその概念を適切に日本語に置き換える作業である。

日本が大陸の東の果てなら、アイスランドは西のどん詰まりである。地図を見ると英国とノルウェーから約1500キロほど、ヨーロッパ大陸の西に位置している。もともとノルウェー人の入植からできた国で、その後ノルウェー、デンマークによる統治を経て1944年に完全に独立した。

だがいまもクルマや家電製品、食品、本などをはじめ多くの品がヨーロッパから入ってきている。そして、物と一緒に文化や言葉も当然入って来る。

しかし、アイスランドの人たちは自国の言葉とそれに繋がる文化を守るために、他国の用語、すなわち外来語をそのまま使わず、それを母語であるアイスランド語に置き換えてきた。

たとえばアイスランド語でテレビのことは sjonvarp(ショウンバルプ)と書くらしいが、これは視覚を表すsjonと投げることを表すvarpを組み合わせた造語である。もともとのtele(遠く)+ vision(見る)からテレビジョンが作られたのと似てる。携帯電話は、移動を意味するfarと電話を表すsimi で farsimi (ファルシミ)というらしい。こうした発想は素晴らしい。

アイスランドは人口36万人たらずの人口小国ということもあるのだろうが、社会階層が極めてフラットな国。

また高度に民主化された国で、女性の社会での活動率も高い。文学や詩に親しむ人が多いといわれ、一人当たりの書籍の発行部数が多い。ものを考える習慣を持つ人が多いのだろう。

アイスランドは6年前の9月に一度訪れたことがある。ぜひまた訪ねたい国だ。https://tatsukimura.blogspot.com/search/label/アイスランド

レイキャビックの目抜き通りで見つけた書店(1〜3階)

店内のカフェ

僕も3階のカウンターでしばし読書を

2022年3月19日

「ウェルビーング」は「フルヘッヘンド」しているか

今からおよそ250年もの昔、杉田玄白らはオランダ語が分からず、また辞書もないなかでオランダ語で書かれた人体解剖書である『ターヘル・アナトミア』を苦心して翻訳し『解体新書』を作った。というのは、みんな学校で習った。

それは大変な翻訳作業だったはずで、「フルヘッヘンド」というひとつの言葉をいかにして訳したかという逸話が『蘭学事始』にある。次のような話だ。

「鼻は顔の中でフルヘッヘンドしたもの」という文章があったが、その「フルヘッヘンド」の意味が分からない。ある本に「木の枝を切り取るとそのあとがフルヘッヘンドとなる」、また「庭をそうじするとごみが集まりフルヘッヘンドする」という表現を見つける。玄白らは考え続け、ふと思いつく。それは「うず高くなる」ということではないのかと。そして「鼻は顔の中でうず高くなっているもの」と訳すことができた。

考え続け、工夫し、読み手のことを考えて<言葉>に向かった玄白ら先人はほんとに偉かった。

江戸時代の杉田玄白らだけでなく、明治時代以降も日本人は頭を使い、工夫して多くの外来語を日本語に置き換えてきた。たとえばphilosophyを哲学に、scienceを科学に、cultureには文化と漢字を当てた。その他にも自由(freedom)、権利(right)、社会(society)、経済学(economics)、資本主義(capitalism)、共産主義(communism)、法律(law)、革命(revolution)なども日本で作られた日本漢語だ。

漢字で表記されたそれらの「新しい」言葉と概念の多くは中国に逆輸入された。中国の国名である中華人民共和国の「人民(people)」と「共和国(republic)」のどちらも日本人が作った言葉である。

なぜこんなトリビア的なことを記しているかというと、近頃の妙なカタカナ語が気になったから。たとえば、気取ったビジネスマンや三流コンサルがよく使う「パーパス」や「リスキリング」など。

最近では「ウェルビーング」というのもある。もとは英語のwell-being だ。日本語で言えよ、と言いたくなる。辞書には日本語の用語候補が載っているんだから。江戸時代の「フルヘッヘンド」よりよっぽど簡明だろう。

そうした連中が「ウェルビーング」と表現したがる理由は、その方が何となく新しい考え方のように響いて、そのため聞いた(読んだ)人がありがたがってくれるし、意味を明示的に定めない方が何とでも言えて金になりそうと考えているから。
 
well-beingをウェルビーングと表現するのは間違いではないが、考えることを放棄しているようで、とても恥ずかしい。

でまた、そうしたものを「素直に」受け入れてしまういい年した大人(企業経営者)がいるから困ったものだ。

思わせぶりなだけで、何も伝わってこない信託銀行の新聞広告

2022年3月16日

卒業おめでとう

 近所にある小学校の裏門(プール脇)風景。愉しい。


2022年3月15日

Wake-up Call

それは月曜日の夜の生番組の最中だったらしい。ロシアの国営テレビ・第一チャンネルで番組放映中に制作スタッフ(編集担当者)が番組内に当然「登場」した。

カメラの前で話をしている女性キャスターの後ろに、NO WARと大書、そしてロシア語で「戦争を止めろ。プロパガンダを信じないで。彼らはあなたに嘘をついている」と書いたA全ほどの用紙を広げて現れた。


視聴者は驚いただろうな。が、上記写真で手前に座ってニュースを読んでいる女性は驚いている風でないところを見ると、あらかじめ打合せ済みだったのかもしれない。

ただこれは、現在のロシアの状況下では命がけの行為である。

幸いにこの映像は世界中で拡散され、彼女がこの行動をとる以前に準備していた映像メッセージの公開もあり、注目度は世界中で一気に加速した。

警察が彼女を逮捕したものの、世界中の声を気にして軽微な罪状で(取りあえずは)済ませた。今後、彼女がロシア当局の手によってどう扱われるかが心配だ。

この、まさに目の覚めるような一発は、ロシアの、そして世界中のメディア関係者への超強力なウェイクアップ・コールになった。

2022年3月13日

2022年3月12日

「廃炉」幻想を我々は許せるか

東日本大震災以後、長年に渡って東京電力福島第一原発を取材している記者による『「廃炉」という幻想』からは、東京電力と政府がいう「30年で廃炉」が完全に幻想、いや我々を騙すウソだということがよく分かる。


著者は10年以上にわたり、福島第一の現状を多面的に取材し続け、報道してきた記者だ。

この本を読んで、つくづく東京電力と日本政府の欺瞞に腹が立ったし、被災地の人たちにいっそう思いを馳せないではいられなくなった。

いまテレビをつけると、ロシアからの攻撃を受け、ウクライナから難民としてポーランドなど他国に逃れている老人や女性、子どもたちの姿を目にするが、福島の人たちも自分たちが暮らしていた土地を自分の意思とは別に離れなければならなくなったのは同様で、決して人ごとではない。

国と東電は、30年以内に廃炉を「完了」すると言っているが、「使用済み燃料」の取り出しへの着手だけでも少なくとも10年遅れている(2027年か2028年の予定)。彼らが公表した工程表が画餅にすぎないことが分かる。

燃料の溶解(メルトダウン)によってできた高濃度放射性物質である「デブリ」の取り出しについては、まったく見通しがついていない。さらに、もしデブリの取り出しができたとしてもだ、今の状況ではデブリやその他発生する膨大な量の放射性廃棄物を安全に保管できる場所はない。

「放射能汚染水」の処理で出てくる高レベルの放射性汚染物(スラリー、スラッジと呼ばれている)をどう処分するかという問題にも解答はない。増え続けるそれら放射能のゴミは、ヒックと呼ぶタンクに入れられて保管されている。その数は、現在で約3000基。

そこでもたいへんなことが起ころうとしている。容器底部の密度が上がり、線量が高まり、2年後には限界を迎えて容器の破損が起こる危険性が指摘されている。中身が中身だけに、新しい容器に入れかえればそれで済むという代物ではない。極めて高い放射線からどうやって作業員を守るのか、東電は説明できていない。

つまり、現在のどのような技術を屈指しようが、東京電力と政府がいっている「30年で廃炉」は不可能。原子力学会の専門家集団は、たとえデブリを取り出せたとしても、最低でも約100年、長ければ300年は処理にかかるとレポートで結論づけている。

「3・11」から我々はまだ11年である。これから世代をいくつも受け継ぎながら、日本は福島第一の処理を続けていかなければならないらしい。

膨大な時間と費用がかかるのはもちろん、それをおこなう現場の人たちが必要となる。それについて著者の吉野はこう書いている。

フクシマ第一原発に行ってみればわかることだが、廃炉の最前線で活躍しているのは、東京電力の社員というよりは、むしろ、「協力会社」と呼ばれている二次請け、三次請け、四次請けの会社の人たちである。

やはりそうなんだなあとの思いに、心底厭な気分になる。責任を取るべき東京電力の社員はリスクがある場には現れない。

東電のエスタブリッシュメントらが責任から目をそらし、ほお被りしている一方で、経済弱者がさまざまなリスクに晒されながら現場で命がけの作業をこれからも続けていくという構図は、そのまま日本の縮図である。

当然、現場で作業する二次請け、三次請け、四次請けの会社の人たちは好き好んで放射能を浴びながら日々作業をしているわけではない(東京電力→東芝エネルギーシステムズ→一次請け→二次請け→三次請け→四次請けと続く)。ひずみとゆがみでどうしようもなくねじ曲がった日本のあられもない一面だ。

2022年3月11日

ドイツには何があるのか

下図は、ユニセフ(実査はギャラップ)が21ヵ国を対象に「今後、子どもたちは今より豊かになるか、貧しくなるか」という質問調査をおこなった結果だ。

日本は、これらの21ヵ国のなかで「豊かになる」と答えた割合がもっとも少なく、そして「貧しくなる」がもっとも多かった。スペインが日本と極めて近い傾向を示している。

「豊かになる」の回答が少ないのは、その日本とスペイン、フランス、英国といった国々である一方、「豊かになる」と答えたのはインドネシア、エチオピア、バングラデッシュ、ナイジェリアなどの発展途上国。

そうした中で特徴的なのがドイツだ。先進国のなかで今後より豊かになると答えた人の割合が一番高く、日本の2倍ちかい。

ドイツ人がそれほど「楽観的」な国民性の人たちとは思えず、そう答えた理由に興味が沸く。

2022年3月10日