2022年3月3日

コロナだから哲学でも勉強しよう

というわけではないが、2年ほど前に同年代の有志で読書会を始めた。昨日の最終回の会合で取り上げた『ディスタンクシオン』は大部であるだけでなく、文章の難解さでたいそう難渋したが面白かった。

初回のスピノザを皮切りに、ニーチェ、パスカル、カミュ、マルクス・アウレリウス、プラトン、カント、ルソー、ハンナ・アーレント、オルテガ・イ・ガセット、ハヴェル、カイヨワ、マキアヴェリ、V.E. フランクル、レヴィ=ストロース、ブルデュー他を読んだことになる。
 
書かれた時代も場所も違うにもかかわらず、読書会を続けていくとこれらの著者の本が毎回、さまざまな形で繋がっていくから不思議だ。
 
  

2022年2月27日

独裁者の台所

プーチンがウクライナへ侵攻したと聞き、ふと谷川俊太郎さんの詩を思い出した。

私の核弾頭付ミサイルどこへ置いた?
と妻がきいた
冷蔵庫の上
と夫が答えた


2022年2月26日

その人の名刺を見てみたい

新聞の「会社人事」欄は、以前は結構よく見ていた方だと思う。企業で仕事をしていたとき、相手先の人事を知ることは必須だったから。

大学に移ったあとも新聞の会社人事欄で、学生時代の同級生や知り合いの動向を知ることが多く、飽きずに眺めていた。

そうした彼らもほとんど現役サラリーマンを終え、僕もその欄に目を走らせることはなくなっていた。

今日、たまたまその紙面を見るともなく眺めていると、こんな肩書きの役職者をふと見つけた。

代表取締役兼副社長執行役員グループ中国・北東アジア総代表兼パナソニックオペレーショナルエクセレンスパナソニックオペレーショナルエクセレンス中国・北東アジア社社長兼パナソニックチャイナ会長、〇間〇郎 

だって。本人も、どこで息継ぎしたらいいのか分かんないんじゃないの。

誰か、企業の役員の役職名の長さとその会社の業績の関係について研究してくれると面白いかも。

2022年2月24日

うちでコーヒーを飲みながら思い出したこと

先日、近くのスターバックスに行った際の出来事である。

次回の読書会で取り上げる本に目を通しておかなければと、上下巻合わせて1,000ページを超える2冊を抱えて店を訪れ、コーヒーを飲みながら活字を追っていた。

ページからふと顔をあげると、店のトイレの前に立っている若い女性が目に入った・・・・・・再び本に目を落とし、何章か読み終えたタイミングでまた顔をあげると、さっきと同じ女性が同じ場所に立っているのに気がついた。十代半ばと思われる、おとなしそうな女の子だ。

最初に僕が気づいてからでも20分は経っていて、よく見るとなんだかモジモジしている。早くトイレに入りたがっている風に見えた。

ちょっと気になり、お節介かとは思ったが彼女のところまで行ってどうしたのかと尋ねてみると、彼女は黙って扉のノブのところを指さした。「使用中」を示す赤い色が見えた。僕は、彼女が中にいる客が出てこないのをずっと待っているんだと思って、ドアをトントントントントントントンと軽く7回ノックした。

7回のノックは、中に誰かいるのを確認するためのノックではなく、早く出てきなさいと促すためのノックだ。すると、間もなく中から若い女性が出てきた。あれっ、店のスタッフじゃないか!

使用済みのペーパータオルが入ったゴミ袋を片手に出てきたその店員は、僕とその後ろにいた少女をちらりと見ただけで何も言わずにさっさとカウンターに入って行った。

女の子はトイレに入り、僕は自分の席に戻ったが、なんか変だなと思った。その店員がトイレのなかでペーパータオルの補充やトイレットペーパーの交換をしていただけではないことは状況から容易に想像がついたからだ。

真面目にトイレ前でモジモジしながら何十分も待っていた子がなんだか不憫で、店員が中で何をしていたのか確認するためにカウンターに向かったとき、その女と目が合った。彼女はすぐさま僕から視線をそらし、奥の部屋に駆け込んでいった。

「逃げられた」と思ったが、カウンターのなかに乗り込むわけにもいかず、仕方ないのでそこにいた2人のスタッフに彼女はなぜ突然奥に入っていったのか訊ねたら、その男女は黙ったままお互いの顔を見合わせて首をかしげるだけ。

帰宅後、スターバックス・ジャパン本社に電話を入れた。店での一部始終を話してやったが、本社担当者の反応は「あ、そうですか」で終わり。

スタバはずいぶんと変わったなと感じた一瞬だった。この会社、どうなっちゃったんだろう。

人魚もしっかりしろと言ってる

2022年2月20日

利用者の無知と無関心につけ込んではいけない

インターネットの利用者情報、例えば利用者アドレスやアクセスしたサイトページ、その日時、回数などはクッキーの仕組みを使って実質的に外部に筒抜けになっている。

そうした事はマズイだろうと、先進国を中心に利用者情報の扱いを規制しネット上での利用者保護を進める考えが一般になっており、日本でもデータの外部送信への制限を設けようとの考え方が整理されようとしていた。

ところが、楽天が主導する新経済連盟を中心に経団連、経済同友会、ACCJ(在日米国商工会議所)が今回の規制案への反対を表明した。(グーグルやアマゾンまでACCJのメンバーとは知らなかった)

それら団体は声を上げただけでなく、与党政治家へのロビー活動を密かに展開することで政治の面から総務省に圧力をかけて規制案を骨抜きにしてしまった。

自分の情報がどれだけ、誰によって、どこに流れているのか、そうしたことは一般の消費者には分からない。また実際のところ、普段のなかで目に見える形での実害として現れるわけじゃないから、無頓着になってしまう。それが人の心情だ。だから日本では一部の企業によって利用者データの利用が好き勝手が行われ、放置されている。

利用者は、まずはそのことを知っておくことが大切。その上でそうしたことを気にしない人、あるいはポイントなどの対価を受け取ることで了承できる人は、ネット利用の情報が外部でとどめなく利用されることを自分の判断で受け入れればいいと思う。

ただし、それは利用者に知らせられないまま「裏で」行われてはいけないし、また個人のネット利用の情報の扱われ方についての利用者の考えが変わった際には、それに応じたデータの扱いの変更(オプトアウト)ができなければならないはずだ。

利用者は、あくまで自分に関するデータを自分でモニターでき、管理、コントールする権利が確保されてなければならないのが当然のこと。それなのに、情報の収集やその外部利用に関しての本人への同意取得義務もオプトアウトも今回の決定では見送られることになった。

一般消費者の無関心とある種の無知につけ込んで、利用者データを「換金」し続けようとする企業は長持ちしないよ。時間が経てば、日本でもいずれはヨーロッパですでに一般化されているGDPRのような規制への考え方が強くなってきて、「これまで騙されていた」と感じる消費者からそっぽを向かれるようになるのは明らかなのだから。

そのことが分かっていながら、「少しでも長くいまの状況を維持できれば」という企業の短期的思考なんだろうが、感心しない。

2022年2月19日

スピルバーグの映画作りの手堅さ

アカデミー賞受賞有力作と言われている、スティーブン・スピルバーグ監督の『ウエストサイド・ストーリー』のリメイク版をレイトショーで観た。

リメイクというのも変だな、元々の1961年製作の同映画(ロバート・ワイズ、ジョローム・ロビンズ監督)は舞台がもとで、その元々の話はシェークスピアの『ロミオとジュリエット』が下敷きになっている。

まあ、よくよく考えてみると、およそほとんどの創作物にはなんらかの下敷きがある。明らかなベースと言えるものがなくても、人が創造する限り影響を受けたものがないものはない。

今回のスピルバーグが監督したウエストサイド・ストーリーだが、冒頭に登場する土地開発中(つまり工事中)のニューヨークを映したカメラワークがいい。センスと技術と予算があるな〜、といきなり惹き込まれる。

この作品、広告には「禁断の愛の物語」などと書かれているが、禁断でもなんでなく、どこにでもある普通の男女の物語である。が、それをこのようにドラマ化して見るものの心に強く訴えるものにできる芸術性というか表現力は素晴らしい。

何よりもバーンスタインの音楽は、いまも色あせない。最初にブロードウェイのミュージカルとして公演されたのは1957年のこと。バーンスタインと言えば、『ウエストサイド・ストーリー』の翌年に常任指揮者に就任したニューヨーク・フィルやウィーン・フィルの指揮者として思い出されるが、作曲家やピアニストとしても知られた存在で、ジャズについても詳しかった。

物語の舞台は1950年代、開発が急速に進むニューヨークのアッパー・ウエストサイド。建設中らしいリンカーン・センターが出てくる。映画の撮影は、街のシーンを含めて多くはスタジオセットだろう。今から60年以上前のニューヨークを描くのだから仕方がない。

そのなかで、実際に今もニューヨークにある観光スポットが使われていた。劇中では名前など出てこなかったが、マンハッタンの北部、フォート・トライオン・パークにあるクロイスターズ(The Cloisters)だ。中世の修道院様式の美術館で、ユニコーンのタペストリーを何枚も展示した部屋や小さいながらも雰囲気のある中庭が印象的だった。今回の映画には、主人公の二人がその中庭で語らうシーンが描かれていた。

今の若者からみれば、この作品に登場する若者たちは、ちょうど自分たちのおじいちゃんとおばあちゃんの世代だ。だけど、そこで繰り広げられている、ひょっとしたら取るに足らない闘争とそれが生む分断は「今」と驚くほど似ている。米国内でトランプ的な考えが生んだ社会の分断だ。アメリカの映画界には民主党支持者が多いことも考えての映画作りだろうか。

このスピルバーグ版では、リタ・モレノがヴァレンティナという新たな役を演じた。その彼女がトニーに話す台詞 "Life matters, even more than love" には、これまでのシンプルな恋愛至上主義ではない価値観が込められている。

アカデミー作品賞受賞はどうか分からないが、いくつかの部門賞はまず獲得しそうだ。

マリア役は、なんと3万人のオーディションで選ばれた。

2022年2月11日

真鍋さんの言葉の意味

仕事用のテーブルの上に積まれた書類の山を整理していたら、4ヵ月前の新聞が出てきた。その第一面にあったのは「真鍋さん 言葉濁した日本への思い」と題する記事。

片付けの手を止め、思わず読み直してしまった。そこに書かれた彼の言葉に考えさせられることがあったのでメモしておこう。

昨年、ノーベル物理学賞受賞が決まった日に、真鍋淑郎さんがプリンストンの自宅で日本の報道陣のインタビューに応えた言葉だ。

日本の研究は、好奇心に基づくものが以前よりもどんどん少なくなっていると思う。

⇒ 諸外国(特にアメリカ)で話題になったテーマやネタをカタカナに直して日本で紹介しているだけの研究が多い。これはとりわけ、マネジメント研究の領域で甚だしい。オリジナルなことをやるのが研究のはずなのだけど。

日本で人びとは常に、お互いの心を煩わせまいと気にかけています。とても調和の取れた関係性です。日本人が『イエス』と言っても、それは必ずしも『イエス』を意味せず、『ノー』かも知れません。

⇒ 真鍋さんは、1997年に約40年ぶりに日本に戻って仕事を始めた。当時の科学技術庁が管轄する研究組織の長に就いたのだが、4年後に辞任して米国に戻った。はっきりと考えや意思を示さず曖昧に済まそうとする日本人のスタイルは、そうした玉虫色コミュニケーションに慣れていない人間には苦痛以外の何ものでもないものだ。

なぜなら、誰かの感情を傷つけたくないからです。アメリカではやりたいことができる。他人がどう感じているか、それほど気にしなくていい。

⇒ つまり、日本では人びとは他人の感情を窺うことを優先させなければならないがために、やりたいことができないと。

米国で暮らすって、素晴らしいことですよ。私のような科学者が、研究でやりたいことを何でもやることができる。

⇒ それこそ素晴らしい。真鍋先生だから、というのもある。

私は調和の中で生きることができません。それが、日本に帰りたくない理由の1つなんです。

⇒ とても優しい言い方をされているが、日本に住む我々は自分を生きていないという指摘だろう。

最後のその言葉を彼が発したとき、インタビューの場が笑いに包まれた。そうすると、真鍋さんはしばらくの間、そこにいた日本の報道関係者たちを黙って見渡したらしい。なぜそこで笑いが起こるのか、彼には不可解だったから。

ところで彼の発言を読む限り、真鍋さんは言葉を濁してなんかいないと思うけど、記事を書いた記者はなんでそう感じたのかナ。

2022年2月10日

視覚障害者にとってメタバースとはどんな世界か

メタバースについて見聞きする機会が増えてきた。ネット上に作られたその仮想の3次元空間で、人は日々働き、学び、遊ぶことができるという。

そこではアバターと呼ぶ自らの分身が、本人に代わって仕事をしたり、人と話をしたり、レジャーを楽しむことができるわけだ。ありがたや、ありがたや。

現実の空間ではないので、そこを訪れるための物理的な距離の制約はない。だから、体が不自由な人でもそこで仕事ができる。また、アバターという分身が動いてくれるおかげで、実は人と話すのが苦手だという人も相手とコミニケーションを取りやすくなるかもしれない。

ただ、その仮想世界の中で活動するためには、その独自の世界を見るためのヘッドマウントギア(VRゴーグル)を被らなければいけないはずだ。そうやってその世界に没入するわけだね。

 
そこでふと思ったのだけど、目の不自由な視覚障害者にはそこでの活動の場があるのだろうか。
 
彼らは視覚情報を他の感覚、つまり聴覚、嗅覚、皮膚感覚などで補っている。ゴーグルからは音は聞こえてくるだろうが、実空間と違って微妙な音の方向や距離や響き、反響といった情報は捉えられないのではないか。
 
嗅覚情報や皮膚で感じる情報(風邪や日の光)もない。彼らは、メタバースのなかではいっそう迷子になってしまいそうだ。

これまた今流行りのSDGsとやらが書かれた国連の計画書の冒頭には「われわれはこの共同の旅路に乗り出すにあたり、誰一人取り残さないことを誓う」("As we embark on this collective journey, we pledge that no one will be left behind.")と高らかに宣言されている。

SDGsの意味を理解していようがいまいが、メタバースを新たなビジネスの機会と考えている企業の経営者は、この宣言を思い起こし、視覚に障害のある人たちを取り残さないよう自分たちがどうしたらよいのかを考えておいて欲しい。

2022年2月9日

高梨沙羅選手の失格について思う

スキーの高梨沙羅選手が混合団体戦の1回目のジャンプのあと、ウェアの検査でそれが失格になった。

胸が苦しい。この件に関しては、素人ながらいくつか疑問があるんだ。
 
彼女がジャンプの際に来ていたスーツが検査で規定以上に大きかったと言うことらしいが、その検査はどこの誰が行ったのか。太ももが規定(選手の身体とスーツ寸法の誤差)より2センチ大きかったということだが、どうやって測ったのか。ただ、彼女は失格、という判定だけなんじゃないか。

確かにジャンプ競技の性格を考えれば、どんなスーツでもいいというわけにはいかないだろうからそれなりのルールは必要だろうが、そうした検査は選手がジャンプする前に済ませればいいんじゃないのかね。

もっと不思議なのは、ジャンプ後のスーツチェックはすべての選手に対してではなく、抜き打ちで1部の選手にだけ行われるということ。

検査するなら、出場選手全員に対して同じ検査が行われてしかるべきだ。そうでないと、たまさかその検査対象に選ばれなければ<オーケー>ということになる。

彼女が使ったのは、1日前に出場した個人戦で着ていたものらしい。人間の体は食事や体調、環境などで変わる。国際スキー連盟は、日々変わるそうした微妙な体型変化に合わせてすべて調整しろというのだろうか。針と糸でちょちょっと、というものでもないだろう。

今回の判定は、とても不自然。どこでどんな力学が働いているのか、気にかかる。
 
当日のジャンプ用スーツを選んだのは高梨選手本人ではなく日本チームのコーチだったとか、団体戦で一緒だった小林選手が彼女に温かい言葉をかけたとか、いろんな話がくっついて報道されているけど、問題の核心はそんなところではないはず。

2022年2月8日

649ページの超重厚マニュアルは役に立つか

コロナ感染拡大以来、国際学会にはどこにも行けていない。これってフラストレーションが溜まるもんだね。

ところで、われわれ大学の研究者が研究を推し進めるためにもらっている代表的な研究費に科研費がある。正式には科学研究費助成金と呼ぶもので、文科省所管の日本学術振興会が仕切っている。

僕もその助成金を受け取って研究の一端を進めているわけだが、コロナで国際学会に一切出かけられなくなりどうしようかと思っていたら、その助成金の使用年限を延長することができる申請の案内が来た。

ありがたい話だ。その申請は日本学術振興会のサイトから行うのだが、サイト利用のための手引き(マニュアル)はなんと649ページもある。https://www-shinsei.jsps.go.jp/kaken/docs/kofumanual-shinseisha_K.pdf

 
おそらく高度に網羅的に記述しているので、サイト上で種々の手続きを行うためにはこのマニュアルを読めば何でも分かるのだろう。一方で時間がないときなどは、目眩がしてしまいそうだ。

2022年2月7日

高校生たち、君らは何に夢中になってもいいけど、株には気を付けろ

「米国のウォルト・ディズニーカンパニーの株をおよそ30年前に買っていたら、今は何倍になっているでしょう。(1)2倍、(2)21倍、(3)119倍」――。21年12月、吉祥女子中学・高等学校(東京都武蔵野市)の教室で、三菱UFJモルガン・スタンレー証券の社員が生徒たちに問いかけた。正解は(3)の119倍。「1万円のお年玉を投資していたら、30年あまりで100万円を超えました」という説明に約30人の生徒が驚きの表情を浮かべた。

という書き出しで始まる記事が、夕刊の一面トップに載っていた。
 
高校の学習指導要領が新しくなって、2022年度からは株式や投資信託などの資産形成を教えることが必修化されるらしい。
 
その是非はここではひとまずおいておくが、それにあわせて女子中高生(なぜ中学生まで集めているのかネ?)を対象にしたクラスで、証券会社の社員が出張授業をしたとか。
 


教室内での先の問いかけだが、学校関係者や取材していた記者はヘンだとは思わなかったのだろうか。
 
普通の感覚であれば、その証券会社の女性社員に対して「あなたは、あるいはあなたの知り合いか誰かで30年前にそのウォルト・ディズニーカンパニーの株を購入し、119倍になった株の含み益を保有している人がいるのですか?」という素朴な疑問がうかぶはずだ。

そうした人物がいれば大したものだが、どうだろう・・・。30年前に一般の日本人の個人投資家で外国株をやっていた人はごく僅かであり、もしその時にディズニーカンパニー株を購入した人がいたとしても、30年後の今も持ち続けているかどうか。

もちろんこの証券会社の社員が言ったのは「たとえば」の話だろうが、こうした極めて特殊な事例を株投資の知識を持ち合わせていない女子中高生にするのは適切ではないはず。それが分かっていてこうした話をしたとしたら、確信犯的でとても悪質だ。
 
国の定めで学校で必修化されたため、各地の多くの高校では投資や資産形成について誰がどう教えたらいいのか戸惑っている。それをいいことに、証券会社の社員らが出張授業や教材提供などの手段で教育の場にスルスルッと入り込み、今回のような子供だましの説明をして生徒たちをミスリードしていく。
 
学校の先生や教育委員会は、株投資に関して自分たちの知識が限られているから、手をこまねいてそれを放置するしかない。親や社会がしっかりしないとね。
 
そもそも「金融教育」とは、高校生に投資を推めることが本来の目的ではないはず。

ディズニー株で大もうけできたはずの話のあとは、株で大損こいて人生を破滅させた人の事例も当然中高生たちにお話してやったんだろうね、三菱UFJモルガン・スタンレー証券の社員さん。

2022年2月6日

なぜ岩波ホールは閉館するのか

今年の年明け、神保町の映画館、岩波ホールがこの7月で閉館されるとの発表があった。東宝や松竹、東急といった大手の興行システムとは異なるスタイルで、自分たちのお眼鏡に適った映画を単館で長期上映するやり方を続けていたが、とうとう立ちゆかなくなった。

下記は岩波ホールが上映したなかでのこれまでの主な作品。僕が観たのを覚えているのは、88年の『八月の鯨』、2013年の『ハンナ・アーレント』、19年の『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』あたりか。

 
『ハンナ・アーレント』
https://tatsukimura.blogspot.com/2013/11/blog-post_24.html
『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』
https://tatsukimura.blogspot.com/2019/06/blog-post_26.html 

日本のほぼすべての新聞(全国紙)が岩波ホール閉館を惜しみ、「なぜ支えられなかったのか」という論調の記事を書いているが、いまさら何を言ってるのかと思わないでいられない。普段ろくに目を向けたこともないくせに、何かあると「どうして閉館するのか?」と問う。

それはそうと、岩波ホールの閉館は日本の組織の失敗の典型例にみえる。神保町駅の真上という集客型ビジネスでは願ってもない最高の立地。九段下駅も近くだ。近隣は日本を代表する古書街、書店街がある。大学も周辺に数多くある。オフィスや商業施設もたくさんある。劇場が入っているビルは、自社ビルである岩波神保町ビル。だからテナント料を心配する必要はないはず。そして、「岩波」という日本の最高の知性ブランドを掲げる。

良質な映画を単館上映する姿勢を守り、「社会情勢の変化とともに観客が減った結果」の閉館決定と伝えられているが、根本のところは経営者の能力とやる気のなさではないだろうか。

自分たちが考える「良質な映画」にこだわり、それを標榜するのは勝手だが「良質」とは何かは個人の、そして時代の価値観によって異なる。

かつては岩波ホールでは高野悦子さんという知る人ぞ知る優れた映画人が支配人をしていたが、そんなことは今の若い人たちは知る術もない。今の時代に自分たちをどう位置づけ、どう社会(映画ファン)に向けて発信していくかの基本的な行為すら経営者は分かってなかった。

自分たちの価値観で「いい映画」を上映するだけではなく、映画館は興行なんだからそれを興味のありそうな人たちに伝え、魅力を感じてもらい、劇場に足を運ぶようさせなければにっちもさっちもいかなくなるのは当然のこと。

コロナ禍の影響は大きかったと思うが、時間の問題だったと言える。 

https://www.iwanami-hall.com/topics/news/5024

2022年2月4日

3.7% 増えて市場規模はいくらに

今日の日経の記事。2020年度の日本の広告費は対前年比16%のマイナス、翌21年度は過去最高の伸びの15%プラスだったらしい。で、22年度は3.7%の伸びという見通しらしい。


どういった推計を行っているのか分からないが、それにもましてこの記事はここ数年の国内広告費に関するもののはずなのに、金額の実数が一切書かれていないのが不思議。

2022年1月27日

北京冬季五輪のテレビCM

来週、北京で第24回目の冬季オリンピックが開催される。オミクロン型コロナウイルスが世界的に蔓延してなかでの大会となる。

日本ではオンエアされていないが、IOCがUncommon Creative Studioというロンドンの広告制作会社に作らせた北京冬季五輪のCMが世界で流されている。

世界中が冬季オリンピアンとシンクロしていく様を表現するのがコンセプトなんだろうけど、ちょっとね。

2022年1月25日

騙される方が悪い、のがネットの世界か?

動画投稿アプリTik Tokの日本法人が、インターネット上で影響力を持つインフルエンサーたちに金を渡して特定の動画をTwitterに投稿させ、拡散しようとしていたと報じられた。

報道ではステルス・マーケティングではないかと書いてあったが、こうした訳のわからない言い方はやめて、はっきりと「やらせ」と呼んだ方が良いんじゃないのかね。

他にもアドフラウとか、その実態が一般の人にはすぐには分かりようがないアメリカ生まれの用語そのままをカタカナで使うのは、どうしたものかと思う。

そうした用語は日本語できちんと置き換えて表現することで意味とニュアンスもより明確に伝わるはずだ。たとえば、アドフラウは端的に「広告詐欺」と表現すればすむ。

カタカナで表現されると、オブラートで包まれたような印象しか残らない。まずはメディアの人間が意識的に物事を表現するようになると状況は少しずつ変わっていく。
 
ところでバイトダンス社だが、その後「利用者や関係者の皆さまに誤認を与える可能性があることを考慮し、今後このような施策は行わないよう社内に周知徹底し、再発防止に取り組む」との声明を出したが、いったい外部の誰がそれを確認できるのか。

とにかく金で易々と釣られるインフルエンサーがいる限り、こうしたことはなくならることはない。契約に基づいた金銭の支払いでなくても、それを求める連中に対して如何様にでもインセンティブは提供できる。

ここはもう、諦めるしかない。ネット上の不正を厳密に取り締まることはできないし、自浄作用に任せるのも現実的とは思えない。あとできることは、受け手であるわれわれの側がしっかり知恵を働かせて、ウソとマコトを自分で判断するしかない。狐と狸の化かし合いではないが、ネットはそういう世界だ。
 
広告やマーケティング上のやらせは、最近始まったことではない。むかしからあり、これをどう捉えるかは状況や立場によって異なるので簡単ではない。 

プロダクト・プレイスメントという手法がある。たとえば映画やドラマの小道具や衣装などに特定の商品を用いることで間接的に訴求するというやり方だ。これもまた昔から古典的なやり方だが、手法として有名になったきっかけは、1982年のスピルバーグの映画『E.T.』で使われたチョコレートからだ。
 
007シリーズでボンドがしている腕時計なんかも明らかにプロダクト・プレイスメントだろう。自動車メーカーが番組提供しているテレビドラマで主人公が乗る車は当然、そのメーカーの車だ。これらを「やらせ」と呼ぶかどうかだが、そうは受け取らないのが一般的だろう。
 
やらせかどうかの線引きは実に難しい。結局は、受け手の考え方とリテラシー次第ということになる。
 

2022年1月24日

マーケティングは、そこにあった

マーケティングの分野を代表する世界的な学者として、アメリカ人のフィリップ・コトラーがいる。彼が書いた『Marketing Management』は、今も世界中のビジネス・スクールにおいてマーケティングの定番テキストとして用いられている。
 
僕自身、30年ほど前に英国のビジネス・スクールで学んだとき用いたテキストが、同書の第7版か8版だったように記憶している。初版は1970年頃で、今は第16版あたりが最新版として出ている。移り変わりの激しい分野で、これほどまでに長く、そして広く読まれていること自体が優れたマーケティングである。
 
彼はまた、そうしたテキスト以外にもマーケティング分野の多くの本を書いている(ただし、最近の共著書上の彼の名は、ほとんど名義貸しだが)。そして日本の出版社が、それらの翻訳本を売らんがためなのであろうか、彼を書籍広告などで「マーケティングの神様」と称して紹介している。

マーケティングの神様とは何だろうと思うのだが、確かにかつてはセールスの別名としてアメリカで考えられていたマーケティングを整理し、今のマーケティングの体系を築き示してきたのは彼の最も大きな功績の1つだ。

僕自身コトラーの本の翻訳を何冊か手掛けているし、また彼と何度か直接会って話したこともある。そして今も時折メールのやりとりをするのだが、ある時彼にあなたの本が日本で広告されるとき、日本の出版社はあなたのことを「マーケティングの神様」と呼んでいると伝えたことがある。
 
それに対して彼は、自分は神ではない、自分はマーケティングを創造していない、マーケティングはそこにあった、と言う。

神、すなわち創造主としてマーケティングを創ったのではなく、市場現象としてそこにあったマーケティングを彼は様々な分析方法やコンセプトを用いて整理し、体系化したという。
 
確かにその通りだろう。そう、マーケティングは既にそこにあったのだ。

2022年1月23日

老年期の男と少年と動物、そしてメキシコの旅路

映画「クライ・マッチョ」は、クリント・イーストウッドが50年前に「恐怖のメロディー」で監督デビューしてから40作目になる作品である。今や誰もが認める大監督である


監督と主演をつとめるイーストウッドが演じる元ロデオ・スターのマイクは、かつての落馬をきっかけに引退し、今は静かな、そしてある意味で落ちぶれた男として暮らしている。

昔の雇用主からメキシコにいる訳ありの息子を連れて帰ってくれるように依頼されることから物語が始まり、半ば誘拐のような感じメキシコ人の少年を連れて、おんぼろ車で旅しながら彼の父親が待つメキシコとアメリカの国境に向かうと言うロードムービーである。

先日見た『マークスマン』で、リーアム・ニーソンがメキシコ人の少年を連れてメキシコ国境から中西部の街シカゴを目指すスタイルと似ている。
 
『マークスマン』では、リーアム・ニーソンは旅の途中でメキシコ人の少年に銃 (ベレッタ)の使い方を教えるシーンがあったが、本作では元ロデオのチャンピオンだったイーストウッドが国境へ向かう途中で立ち寄った村で少年に馬の乗り方を教えてやる。

それは、マイクにとっても自分自身を取り戻す再生を呼び起こす行為である。『マークスマン』では旅をするのは年老いたリーアム・ニーソン、メキシコ人の少年、そして1匹の犬だった。本作では、年老いたイーストウッドと同じくメキシコ人の少年、そしてその少年が連れている闘鶏のマッチョであるところもなんだかよく似ている。
 
かつての輝きを失った年老いた男と少年、そして動物という取り合わせは黄金のトリオだ。

途中、彼らの旅を阻む連中の存在、そして戦い。それにより少年は成長し、新たな人生への予感を漂わせる。一方、年老いた男はどうなるか。『マークスマン』のニーソンはやるべきことを成し遂げた後、すでに何にも名残はないかのように満足し安らかな表情で息途絶える。

イーストウッドは、その長身の体を少しかがめ、ゆったりとした足取りながらもちょっぴりロマンチックな新たな人生を見つけそこへと静かに入っていく。これは、91歳になったイーストウッドが眺める人生へのひとつの眼差しだ。イーストウッド節といっていい、性根の太さとペーソスを漂わせる。
 
劇場の観客は、週末だというのに僕ともう一人だけ。下の階のスターバックスは若い連中で溢れているというのに。

2022年1月18日

森友事件糾明の声は再燃するか

もっと本を読もう、映画は映画館で観よう、と思い、先月契約を止めたネットフリックスを再契約してしまった。そして「新聞記者」6話分を一気見してしまった。

一晩で一気に見るつもりはなかったのだけど、次の話がどんどん再生されていくんだもんなあ。うまいというか、ほんとよくできているよ。

ストーリーの中心は、安倍元首相の例の森友学園問題で近畿財務局の職員だった赤木俊夫さんが自殺にいたったことと、それに絡んだ官邸と財務省の作為だ。

本件、関係者はもう終わったと胸をなで下ろしていたかもしれないが、これで再燃するかもしれない。

日本のメディアには官邸や総務省からの圧力がかかっているだけでなく、局の番組スポンサーも政府の意向を気にしてできるだけ波風を立てない考えをもっている。だから報道姿勢も腰砕けというか、見て見ぬ振りを続けているように思える。

だが、ネットフリックスにはそうした忖度は基本的にほぼ無用のようだ。しかも、このドラマの視聴者は日本国内だけでなく、世界中の人間がそれぞれの言語の字幕付きで見ることができるのが何と言っても圧倒的だ。テレビ局も番組スポンサーも、フィルムの配給会社も劇場興行主も関係ない。コンテンツそのものに力があれば、何億人という人がダイレクトに見てくれる。

2022年1月15日

リーアム・ニーソンの新作

もとは米海兵隊員で名うての狙撃兵だった男が、メキシコとの国境近くの田舎町でいまは小さな農場で愛犬とだけ暮らしている。

その彼がある日、訳あってメキシコの麻薬カルテル組織から追われてアメリカに逃げ込んできた親子と出会う。母親は撃ち殺され、彼はメキシコ人の11歳の少年を連れてシカゴを目指すことになる。

ラジエーターの壊れたクルマで北へひた走る彼(リーアム・ニーソン)と少年、ワンコも乗ってる。映画『マークスマン』は、彼らに対して執拗に迫ってくる組織の殺し屋たちとの戦いを描いたロードムービー。


ストーリーはシンプルだが、登場人物の輪郭と彼らの関係がくっきり描かれている。まだ11歳とあどけなさも残るが、利発なメキシコ人少年。息子を心底愛していたその母親。リーアムが最近失った妻と、今は地元の国境警備隊の捜査官として働く娘。そして、愛犬。

本作品でのリーアム・兄さん、じゃなかった、ニーソンが演じる主人公は『グラントリノ』のイーストウッドを彷彿とさせる。

どこか親近感があると思ったプロットは、ジョン・カサベテスの『グロリア』を連想させる。

観客は50代以上がほとんどだった。