2021年1月11日

それでも諸手を挙げて、EV車が好ましいと言えるか

先月、日本政府は2030年代半ばに日本国内の新車販売のすべてを電気自動車にするという方針を打ち出した。つまり、あと15年ほどで国内では「ガソリン車販売ゼロ」にもっていくと言っている。

50年までに二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出を実質ゼロとする政府目標の実現に向けての発想だが、相変わらず深くものを考えず、ただ米国・欧州・中国の動きを見て自分らも何かやっとかなきゃならないからという感じだ。

今回の北陸の大雪は、豪雪と呼ぶにふさわしい。新潟県上越市では、7日以降の総降雪量が1.8メートルに達した。1500台の車が立ち往生し多数の負傷者を出した2018年の「福井豪雪」に匹敵するという。陸上自衛隊が出動して車両を牽引したり、食料や携帯トイレを配布するなどの活動を続けている。 

路上で車が進まないまま中に閉じ込められた人たちは不安だろう。車はエネルギーがなければ動かないだけでなく、暖房も効かないし、スマホも充電できないのだから。

特にこうしたとき、電気自動車の利用者はいっそう心配だろう。排気熱を車内に送ることで車内を暖めることができるガソリン車に比べ、暖房のためのエネルギー効率が悪い。バッテリーが切れたら、車が動かないだけでなく暖房もすべて切れ、生死に関わることになる。

ガソリンなら携行タンクで持ち運びできるし、救助隊から手渡しで配布を受けることもできるが、電気自動車は充電スタンドが設置されている場所まで自走するか、充電車両に来てもらわなければアウトだ。 

このような豪雪に見舞われるのは、日本のごく一部の話ではない。北陸、東北、北海道をはじめ、気象条件次第でこうした大雪災害に遭うのは日本の常識だ。

日本の車がオールEVになりガソリン車が駆逐されたとき、どのようなことが起こるのだろう。自分たちの足下を見れば、「ガソリン車販売ゼロ」など軽々に世界向けて謳う必要性がないことは分かるはずなのだが。

そもそも、ガソリン車か電気自動車かという選択肢が疑問だ。先日、近くの幹線道を走行する車を観察した。昼間の10分、片車線だけであるが通行車両数とその車の乗客が一人(つまり運転者のみ)の台数をチェックした。

通行した車両が251台、そのうち乗車ひとりの車両(バスやトラックを除く)は192台(76.5%)。つまり4台に3台は、運転するドライバーひとりしか乗っていない。

1人で移動するのなら今のような乗用車はやめるようにできないか。公共交通機関を利用するか、自転車やモーターバイクを使うか、相乗りするか。

自動車メーカーには、今のクルマが当たり前だと考えるのではなく、一人用の省エネに優れた新しい発想の移動用機器を早く開発してほしい。

動力源がガソリンか電気かという2者択一の問題を解く前の、われわれが解決すべき課題だ。

2021年1月10日

においの持つ情報量は意外と大きい

新型コロナウイルスに感染すると、嗅覚と味覚を失うことがあるらしい。味覚がなくなった場合はもちろんだが、嗅覚を失った場合も食事は一気に味気なくなる。何を食べてもおいしくなくなる。

以下は味覚・嗅覚障害になった方が自分の実体験を記していた内容である。
「シュウマイ」は弾力のある“ソースなし豆腐ハンバーグ”のような感じ。「ポテサラ」は微妙に素材の甘味を感じるものの、何を食べているのか不明。中濃ソースをかけても同じ味。「野菜の黒酢炒め」は酢が強いのだろうとは何となく感じられるが、その程度。サツマイモが本来以上に甘い。「白米」はほのかな甘味がある何かの食べ物。「海苔」は何の味もしないし、あっても気づかないレベルだった。
ホテルに隔離された4日目の記述で、味覚は戻っている印象だ。 
 
人が食事を行えているのは、鼻が利いているからだということがあらためて分かる。そして、失って初めてその役割と大切さを知るのが通例だ。

そんな事が頭にあったのかもしれない。先日テレビで放送された韓国映画『パラサイト 半地下の家族』を観た時にやけに「におい」のことが気になった。
 
 
この映画を劇場公開時に観たときはそれほど気にはならなかったのだが、こうして繰り返し観ると、そのつど何か別のことが気になったり自分なりの発見がある。

この映画については以前もブログで記事を書いたことがあるが、半地下の住居に暮らす4人家族のキムさん一家がひょんなことから金持ちの家にパラサイトすることになる。パラサイト先の朴家は、ハイブローではないがキム家とは対照的な成金のブルジョアである。

詳細は省くが、自分たちの本当の素性を偽り、家庭教師としてあるいはお抱えの運転手、また家政婦としてパク家に寄生するキム家の4人家族が、いくら外見を装っても隠しきれないものが体に染みついたにおいだった

半地下の住まいで暮らすキム家は、見るからに「じとっ」としていて風通しが悪い。時折、市の衛生局がやってきて周辺の路地に噴霧される消毒薬が窓から家の中に入って流れ込んでくる。家の前では酔っ払いがゲロを吐いたり、立ち小便をしていく。そしてキム家のトイレは、まるで神棚のように住居のなかで高座に据えられていて、つねに臭いを家中に発しているかにみえる。
 
終盤、キム家の主人であるキム・ギテクがパク家の主人を包丁で刺し殺すきっかけになったのは、においへの言及が引き金だった。彼が自分の体臭を指摘されたとか咎められたというわけではない。ただ、相手が感じた自分のにおいによって、両者の越えることのできない壁を感じたことが我慢できなかった。

臭いという生理的な違いだからこそ、理屈を超えたところで双方の間に横たわる格差への認識が怒りに転嫁し、瞬間的に爆発したのだ。臭いというのは普段我々はあまりしない気にしていないかもしれないが、根本的なところで我々の立場を表象する重要な特徴になっているということか。

新型コロナ禍のもと、オンラインで仕事をしていると視覚的な情報と聴覚的な情報に頼っていることに気づく。相手に関する臭いの情報は存在しない。だがそのことで、普段気がつかないが相手やその場の環境について理解するための重要な手立てを失っているのかもしれない。

ドイツの森林管理官が書いた『樹木たちの知られざる生活』という本によると、木々はにおいを発する化学物質を出すことで互いに情報を伝達しているという。そのにおいの変化、すなわち化学物質の変化を木の根や菌類のネットワークで遠く離れた木々にも伝え合っているらしい。

木々ですらそうだとすると、においという原始的な情報は、われわれが思っている以上に人の気持ちに大きな影響を与えているに違いない。
 
これまでZoomの画面に映る人たちを眺めながら、何か忘れ物でもをしているような気になっていたのはそれだったのかもしれない。
 

2021年1月9日

アメリカは、ひとつ乗り越えたが

米国は正常軌道に戻り始めた。

この4年間のアメリカが抱えてきた最大の危機は、地球温暖化でもBLMでも中国でもなかったと思っている。それは何か。トランプだ。

大統領自体が国家の最大のリスクをなっていた米国という国は、実に複雑で興味深い国家だと言える。

それが突然、大きく転換し始めた。ツイッター社が今日、トランプのアカウントを永遠に使用禁止にしたことが、象徴でもある。

今月20日に予定されているバイデン次期大統領の領就任式に向けての連邦議会議事堂への攻撃、暴力的仲介を示唆したトランプのツイートがその理由とされている。

ツイッター社の経営者はその反社会的メッセージの危険性にやっと注意を向け、トランプをツイッターの利用者から追放するという意思決定をした。

昨日、トランプ支持者が議事堂へ乱入し死者が出た事件で、共和党の議員の中からも現大統領と袂を分かつ連中が出てきた。

これまでの4年間、目をつぶっていた共和党の議員からもさすがにこれ以上は見て見ぬ振りはできなくなった。自分はそれを見ようとしなくても、支持者の目はそうはいかない。

今の世界の経済を引っ張っているのはやはりアメリカだ。トランプの間違った施策で世界最多のコロナ感染者と死者を出しながらも、他国に先がけて製薬会社が続けてワクチンを開発したのもアメリカだ。

この4年間、大統領がどれほどクソでも人々が知恵と力を合わせて世界のどこよりも早く変化を遂げ、新しい価値を創造してきた気概とダイナミズムがあの国にはある。 それは紛れもない事実だ。

翻って日本はどうだ。総理大臣のお粗末さ、多くの政治家の無定見さ、官僚のあさましさ。昭和の栄華を忘れられないジジイらが今も表舞台にいる不可解さ。僕たちは早くそうしたものに頼ることなく、自分で考え、自分たちで力を知恵を合わせて少しでもまともな社会を造っていくしかない。

武漢型肺炎に対応するための非常事態宣言が1都3県で発令されたが、ついこの前までGoToトラベルやGoToイートだとかに、膨大な税金を流し込んでいたのは誰だ。

国家的な戦略的視点を欠き、目先の既得権と利害関係で成り立っている政権の寒々しさを、先日来の大陸からの寒波ともに肌に感じる。

2021年1月5日

パックマン法

今は自宅のなかで仕事をすることが多い。

ついついオンとオフの区切りがなくなり、メリハリを欠いた日常になってしまいがちだ。そこで単純だが、タイマーを机の上に置いて仕事に集中することにした。

先週手に入れたのは、ゼンマイ仕掛けのアナログ・タイマー。60分まで計れ、時間になると5秒ほどベルが鳴る。残り時間が赤く表示板に示される。タイマーを50分にセットし、集中する。


2021年1月3日

日本は<どう>平和か

昨年の春先から、ほとんど大学に行く機会がなくなった。授業や会議、打ち合わせはおよそズームを使って行われるようになったからだ。

当初どうなるかと思った遠隔授業も、教員や学生が慣れればそれなりに効果があることも見えてきた。そして、これまで費やしていた通勤時間が自分に戻ってきたのはとても大きなメリットだと言える。

だがその一方で、大学のキャンパスに行くことで失われた最大のものは、図書館へのアクセスだ。研究室がある早稲田大学のメインキャンパスには、日本有数規模の図書館がある。もちろん分野にもよるが、大抵の本や資料はそこで手にすることができる。

大学に行くことがなくなった結果、これまでみたいに必要だと思った本を図書館へちょっと足を運んで探したり、借り出したりすることができなくなった。そしてその分、ネット書店で購入することが増えた。

新型コロナの感染が始まってからだけでも、何冊ネットで本を購入しただろうか。おそらく200冊ではきかないと思う。そうやって入手した最近の本の中で最大の収穫だと思うものが、『岩波 哲学・思想事典』である。知り合いがその事典を持っていて、ある研究会の席で紹介してくれた。それをきっかけに手に入れたのだけど、実に面白いし役に立つ。 
 
 
例えばその事典の「平和」の項。平和とは何か、ほとんど普段考えたことがなかったが、その事典によると平和には消極的平和と積極的平和の2つがある。消極的平和というのは戦争がない状態である一方で、積極的平和と言うのは発展的活動的な状態であり、消極的平和とは異なると示している。

積極的平和の構成要素は、消極的平和を前提とするが積極的平和の基本的要素は、豊かさ、秩序、安全、正義、公平、自由、平等、民主主義、人権尊重などで、これに加えて健康、福祉の充実、文化的生活、生きがい、環境保全等もそこには含まれるとしてる。なるほど、なるほど。

さらに平和を理解する際の重要なポイントとして、平和の対義語は必ずしも戦争ではなく、平和という概念の対極にあるのは非平和であるとの考えを示す。先進国では戦争がなければ平和だが、途上国では戦争がなくても平和ではないから戦争と平和と言う二項対立は当てはまらないと言うのである。

そうした非平和を形作るのは、直接的暴力と構造的暴力である。一般的に平和の対立概念として考えられる戦争は直接的暴力の代表であり、またテロなども直接的暴力の典型だ。一方で、構造的暴力には貧困、無秩序、不安定、不正義、不公平、弾圧、不平等、殺傷、飢餓、疫病、医療施設の不在、低い識字率などがそこに含まれる。

つまり、トルストイがその小説で描いた「戦争と平和」のように平和と戦争は単純な二分法で分析されるものではなく、その仕組みは複雑化していることにわれわれは目を向けなければならなくなっているということをこの辞書の記述から教えられた。

振り返って、現在の日本は平和か、どれだけ平和か。それとも非平和のひとつである構造的暴力がますます社会に広がっているのではないか、そうしたことをこの事典を読みながら考えさせられた。 
 

2021年1月2日

コンセントを抜いても生きていく法

ハッキングの勢いが止まらない。企業はもちろん、我々が使用するパソコンに対してのハッキングも急速に増えてきている。

しかもその手口は驚くほど巧妙になり、我々がまったく気がつかないうちにコンピュータが乗っ取られ、データを盗み見られ、さまざまな被害を与えている。

こうした事実に、どのように対応したらよいのだろう。使っているパソコンにセキュリティーソフトを入れるのはもちろんだが、ただそれだけで完全に防げるというものでもなさそうだ。

となると、そもそもパソコンの中に無断で盗み見られたり、盗み取られたりしては困る情報をしまい込まないという対応が考えられる。ただ仕事もプライベートも、ネットなしでは1日たりともスムーズに進まなくなった今の世の中で、それをどのように実現させるかはなかなか難しい。

しかし、実際に問題が起きてからでは遅いし、何らかの対応を先手先手で準備をしておかなければならない。

パソコンが乗っ取られたら、さあどうするか。まずやるべき事は、コンセントを抜くことだ。一旦乗っ取られたコンピューターはもうどうにもならない。やりたい放題やられてしまうしかない。

ネットを遮断し、電力を供給しないのが確実な対応策だと思う。結局はそうした原始的かつ原理的な対応が必要となるわけだがその後どうするか、電気を遮断したPCはもうすでにパソコンではない。単なるシリコンが多数収められたケースでしかない。

そうしたものに頼らず生活や仕事を続けていく方法を、僕たちはそろそろ本気で学んでおかなきゃいけないように思う。家族の連絡先すらパソコンやスマホを覗かなければ分からない、では駄目だと思うのだ。

2020年12月28日

分・散・参・拝

濃厚接触、外出自粛、分散参拝、、、どれも今の社会に根付いた格言かスローガンのように聞こえる。

こうした歯切れの良い言葉で語られると、なんだか世の中の常識であって国民は従わなきゃならないような雰囲気になってくる。すでに以前から一般的な標語かのような定着感があるから不思議だ。

乾坤一擲、鬼畜米英、挙国一致、臥薪嘗胆。先の大戦中に国民を鼓舞し、ある方向へ導くために意識的に用いられたこうした4文字熟語を日本人は愛した。

4文字熟語には、日本人が周りと気持を一つにしたいというセンチメントを呼び起こす何か不思議なチカラがあるように思う。言葉のリズム感とイデオロギーを4つの表意文字で表したスタイルに、日本人はしびれるのかもしれない。

そういえば、あえてそうした4文字熟語ばかり集めて歌詞にした、山平和彦が唄う「放送禁止歌」というユニークな70年代フォークがあったのを思い出した。今はYouTubeで普通に聴けるあの唄が、どうしてテレビやラジオで放送禁止だったのだろう。

2020年12月26日

ベランダ焚き火

月がきれいで、星がいくつかきらめていて、風がない夕刻は焚き火にもってこい。

炎の熱が、火の中で木材が弾ける音が、そして薪が燃える匂いが五感をくすぐる。時折、煙が目にしみる。それもまたリアルな実感だ。

 
         動画:20秒           

2020年12月25日

クリスマスのベートーヴェン第9

NHK交響楽団の今年最後の定期公演の演目は、ベートーヴェン「第9 合唱付き」。

第9を完成させた頃、ベートーヴェンはすでに完全に聴覚を失っていた。また内臓疾患にも苦しんでいたという。そうした苦しみの中で、もがくように光と希望に満ちた本交響曲を作り上げた。

会場は渋谷のNHKホール。客席は観客の間に空席を一つずつ挟んでの公演であるが、その状態で会場はほぼ満席だった。

指揮はスペイン人のパブロ・エラス・カサド。キビキビした指揮ぶりだ。

テノールの宮里直樹は私の遠縁の一人だが、今や若手で日本を代表する歌い手の一人。彼にとって今回の公演は、N響バイオリニストの父親との「共演」でもあった。

大晦日の夜にNHKで放送されるらしい。

2020年12月24日

「〜なのに」をやめることから始める

 「今日はクリスマスイブの日なのに、街はどこも例年の賑わいを欠き、・・・」。街の様子を紹介するニュース番組でのコメントだ。

確かに繁華街でも人通りは思ったほどではなく、賑やかなジングルベルの音楽はどこからか流れてくるものの、人の気持はそちらへは流れて行ってはいない感じがする。

マスクなしの外出をさける、県をまたがった移動を避ける、会食などの集まりを避ける、人との近距離での接触を避ける・・・そうした状況下で(宗教色がなくお祝い一色の日本型の)クリスマスもないのだろう。

だから、クリスマスなのに若者はデートもせずに自宅に引きこもっている。カップルだけでなく、この「なのに」に僕たちは急速に慣れていかなきゃならなくなった。

考えてみれば、僕らの普段行う行動の規範のひとつとして「なのに」は大きな意味を持っている。「男(あるいは女)なのに、何々しない」「大人なのに、何々できない」「親なのに、何々しようとしない」「学校の先生なのに、何々している」等々、個人の特性や自由を無視して決めつけることをわれわれはしてきた。

そうした個人を無視した圧力が、新型コロナによって少しずつ変わって来た感じがする。直接的にそのウイルスが変えたわけではないが、ウイルス感染防止のために我々は半強制的に新しい行動の仕方を身につけるようになった。そして、新しい行動が新しい感覚を呼び、新しい意識と考え方につながっている気がする。

ニューノーマルとか新常態なんて言葉もあるが、この機会をチャンスに旧来続いてきた訳の分からない因習や考えから僕たちは自由になれればいいと思う。

「彼(彼女)は、●●なのに▲▲だ」と指さされ、批判されるような人たちが今回を機に一気に国中に増えるが、そしてやがてはそれが一般的なこととなり、常態化する。そうしてやがて「なのに」が人々の意識から消えていけば。

2020年12月23日

袴田事件、再審開始が決まった

袴田さんの無罪を求める再審請求が認められる可能性が出てきた。

1966年に当時勤めていた味噌会社の一家4人に対する強盗殺人放火犯として逮捕され、47年以上にわたって収監された。これは世界最長の収監期間としてギネス認定になっているほど。

しかし、その記録を読むと僕には明らかに警察のでっち上げにしか思えない。取り調べは凄まじい、文字通りの拷問が長期間にわたって繰り返されている。有罪の決め手となった証拠品としての味噌桶に投げ込まれた血痕がついていたする衣類はどう見ても警察の捏造である。

味噌会社で働く前にプロボクサーをしていた袴田さんは、警察にとっては格好の狙い目だったのだろう。「ボクサー=暴力的で野蛮」というイメージを前面に押し出すことで、袴田さんを犯人に仕立て上げようとあらゆる手段を講じている。

なんとも偏見にみちた非道な考えだ。そうしたことが普通に、本当に普通にまかり通っていたのである。袴田さんが関係しているとされるこの事件だけが決して特別な例外的ケースではない。

今回、裁判をやり直す再審を認めなかった東京高裁の決定を取り消し審理を差し戻した最高裁の決定は、ささやかながらも袴田さんを支援してきた僕にとっても明るいニュースだ。

しかしながら、事件から半世紀以上が過ぎた。袴田さんはすでに84歳になっている。

2020年12月20日

総閲覧数がトップに

3月からのコロナウイルス感染拡大の影響で、この夏参加予定だったベルギーの国際学会への出張がなくなった。

仕方ないので報告先を国内の学会に切り替え、研究成果はこの10月に開催された学会(日本マーケティング学会)で発表した。
https://waseda.box.com/s/xiuu0a2nhl4zsbafnib0i1f8iv0mg3z4

この前学会事務局から連絡があってそのサイトを見たら、その後に学会サイトへ掲載された研究報告で閲覧数がトップになっていた。

学会のサイトにはあえてフルペーパー(論文本体)は掲載せず、報告概要しか載せてないんだけど、とにかく興味を多くの人が持ってくれたのは良かった。

10年ほど前からほぼ毎年、海外の国際学会に参加して研究発表をしている。外国の学会に出ると世界各地からやって来たいろんな研究者と知り合えるし、なんといっても海外の研究者はフランクに質問してくるから刺激的でとても楽しい。

日本人ばかりの集まりだと、なぜそうならないのだろう。

2020年12月19日

エリートが出て来ないからこそ

川崎のチネチッタで観た『ニューヨーク 親切なロシア料理店』は、デンマークの映画監督ロネ・シェルフィグが2019年に制作した作品。

重要なセッティングのひとつであるロシア料理店「ウィンターパレス」のあるところは、たぶんマンハッタンのミッドタウンあたりをイメージしているんだろう。主人公の女性クララが2人の子供を連れてたびたび訪れる New York Public Library(ニューヨーク公共図書館)が懐かしい。

なぜ映画の舞台がマンハッタンだったのか。人々(アリスなどそこを訪れた事がないアメリカ人にとっても)の憧れの地で、種々雑多な人が暮らし、そしてタフな場所というイメージが映画の原題である<The Kindness of Strangers> を浮きだたせる舞台としてふさわしかったのだろう。

マンハッタンというと、個人主義の強い人たちが集まった厳しく情け容赦のない競争の地というイメージがあるかもしれないが、実体はたぶんそうではない。

確かにニューヨーカーらは、自分からあまり人に深くは構おうとしないが、それは他人を尊重しているから。話しかけ、必要な助けを求めれば、多くの人たちはさりげなく手を貸してくれる。というのが、以前そこで1年間暮らした僕の経験だ。シェルフィグ監督が醸し出したかった雰囲気もそれだったに違いない。

主題の一つは、救い。映画の中、主人公のそのクララと病院の救急医療の場で働くアリスの2人の女性がストーリーのなかで交差し、それぞれのやり方で救われていく。それをもたらすのは、見知らぬ人たち(ストレンジャーたち)の親切さ。

忘れてはならないのは、アメリカ社会がーーわれわれ日本人には意外かもしれないがーー豊かな共助によって支えられている社会だということ。それを象徴する「シェルター」の存在。

アリスが所属する教会、彼女がそこで定期的に開いている「赦しの会」という集まり、ホームレスらへの食事提供の場、42丁目にあるニューヨーク公共図書館、そしてロシア料理店の「ウィンターパレス」。どれも助けを必要としてる人たちのためのシェルター(避難場所、保護施設)になっていて、そのベースにはコミュニティーの意識がある。

社会的、経済的な成功者(エリート)は誰も出てこない。物語は寓話のようでもあるが、マンハッタンの人たちの実際の暮らしのスライスでもあるように思った。

レストラン・オーナー役のビル・ナイが、飄々としたいい味を出している。


 

2020年12月18日

データ漏洩の可能性は、顧客に速やかに連絡すべきだ

ひさしぶりにNHKオンデマンドのサイトにログインしたら、「このパスワードはデータ漏洩で検出されたことがあるため、このアカウントは危険に・・・」というメッセージがいきなり現れた。
 

 
もちろんパスワードは変更したが、自分のアカウントが他者に利用されていた可能性は否定できない。

その場合、僕のアカウントで他の誰かがサイトを利用していたということであり、まあ大きな実質的な被害はないのだろうが、それでも気持ちいいことじゃない。

アカウントデータ漏洩が確認できた段階でサイト運営者はすぐにその説明を利用者(顧客)に連絡する義務があるんじゃないのかね。 

2020年12月17日

やっぱり芸術とうんちは違うんじゃないのか

今朝の新聞紙上でインタビューを受けていたネット証券会社社長のM本某が、「芸術はうんちみたいなもの。排泄しないと不健康だし、人間らしさが凝縮されている」と語っていた。

そうか? 芸術家が日々創造しているのはうんちなのか。画家も彫刻家も音楽家もうんちに生きているというのか。こんな失礼な話はないだろう。

うんちはご飯さえ食べてれば勝手に(自然に)でる。そこには何の葛藤もない。ネズミだってミミズだってうんちをする。

排泄しないと本当に不健康かどうか知らないが、そうした発想自体が不健康である。

(うんちには)人間らしさが凝縮されてるんだって? 知ってた? じゃあ、あなたのうんちにはあなたらしさがどう凝縮されているのか話してごらん。

アーティストが、自分が生み出したものという意味で自らの作品をうんちということはあるかもしれない。だけど、数字(金)のことしか考えてなく、芸術家と違って人のこころを動かすものなど何もクリエイトしてない人が利いたふうな口を叩くのはどうなんだろう。

彼の会社には、これ見よがしに(たぶんね)若手の現代美術家の作品が飾られているらしい。もしうんちがすきなら、ぜひピエロ・マンゾーニの「芸術家の糞」でも一緒に飾るといいよ。


 

2020年12月15日

迷走する政権のGoTo なんたら

ガースー首相が「GoToトラベル」キャンペーンの全国一斉停止を発表した。やっと年末年始が静かに過ごせそうだ。

とにかくやることが遅く、判断が一貫していない。説明が説明になっていない。こんなのではどうしようもない。

感染者数がこれまでになく増えているのは明らかなのにもかかわらず、妙な数字を持って来て、キャンペーンの継続を正当化し続けた。その挙げ句、世論調査で首相の支持率が急低下したと見るや一転、自己保身的にキャンペーンの停止を発表した。二階派に対して「忖度」を続けている場合ではなくなったのだ。

それとタイミングを一にして、自民党二階派が「勝手なことしやがって」と毒づいたとか。現在の自民党幹事長二階は、全国旅行業協会の会長。業界は、その一派にとって重要な票田であり、献金元なのだろう。

だからか、観光庁も「GoToトラベルが感染を拡大させたというエビデンスはない」とずっとうそぶいていた。かれらは極めて限定的なデータをもとに、そんな証拠はないのだからGoToは続けて問題がないと子どものようなロジックを主張し続けていた。

医学領域の専門家があれだけGoToを控えるべきだと懸念していたにもかかわらずだ。彼ら政治家と官僚が、国民の命や健康、安全といったものより明らかに自分たちの利益集団を守り、票田を保つことが優先されていたというだ。 

2020年12月13日

それでも少年は生きていく

横浜で映画「異端の鳥」を観る。3時間近い白黒映画である。

舞台は東ヨーロッパのどこかの国。ドイツに攻め入られ、侵略されている国だが、特定の国名やそれを著す言語は出てこない。そうするとどこにもない国のようだが、どこにでもある国でもあると言える。

チェコ人の監督、マルホウルはこの映画をデジタルではなく、古典的なモノクロのネガフィルムで撮影した。デジタルとは異なる輪郭とコントラストが際立った映像は、こんなに鮮やかだったのかとあらためて再確認させられた。

ホロコーストを逃れて親から田舎の祖母の家に預けられた物言わぬ少年が主人公。小さなその家で、少年がたどたどしいながらピアノを弾いているシーンが冒頭にある。

ある日、祖母が当然死し、同時に事故で住んでいた家が火事で燃えてしまい少年は居所を失ってしまう。

彼は各地の村落で差別され虐待される。凄まじい偏見と暴力。不条理の海を少年はそれでも一人でわたっていく。登場する人物たちの邪悪さ、粗雑さ、人間の皮を被った獣のような普通の村人たち。

まるでいじめのゲームでも見ているかのように、行く先行く先で少年は出会った大人たちから蹂躙され痛めつけられる。そして、それでも彼は生きていく。だんだん子供なりに人間性を失っていきながら。

映画には説明的なナレーションや少年の内なる台詞などは一切ない。寡黙な少年の心情を映画の観客が知る術は、彼の表情しかない。時にうつろに、時に大人たちの心の奥底をのぞき込むような眼差しに引き込まれる。

この映画の原作は、1965年にポーランドの作家イェジー・コシンスキーが発表した小説「ペインテッド・バード」。映画の半ばで、鳥売り男が出てくる。その男が、あるとき一羽の小鳥の羽に戯れにペンキを塗って空に放つ。鳥は空を舞う仲間の群れに入って行くが、群れの仲間から小突かれ、突っつかれ、やがて無残な姿で墜落する。

羽の色が自分たちとは異なるペンキを塗られた鳥は、異物であり、異端であり、排除されるというメタファーである。東ヨーロッパ各地の村を流れて行くユダヤ人の少年もまた異物であり、異端と受け取られたために動物、いや虫けらの扱いを受ける。

普通の人々の残虐さと狭量さ、かれらこそ人間であっても動物のような精神性しか持ち得ていないことを訴えている。そうした人間たちは、自分たちの群れに属さない存在は拒絶し、放逐して何にも感じるところはない。すでに人間としての理性や情緒を失ってしまっているのだ。

それらのすべて、とりわけそうした人間のもつ偏見の根底には無知がある。


2020年12月12日

タダほど高いものはないから

グーグルが利用者へのサービスポリシーを変更すると発表した。いつかやるだろうと思っていたが、予想より早かった。

そもそも「無料」だから何も言えないし、こちらも工夫次第でなんとかしのげる。しかし、それも彼らは織り込み済みで、またいつかもっと厳しくポリシーを変更してくるか分からない。信頼しきっていたら、大変なことになりそうだ。

僕にとっての最大の影響は、これまでグーグル・サイトを学生などとのファイル共有の場にしていたのが、そう簡単にできなくなったことである。 

しばらくは様子を見ながら、いざとなったときの対応策を検討しておかなければと思っている。

2020年11月14日

グーグルの気味わるさ

YouTubeであるアプリの設定の仕方を動画で確認しようとDuckDuckGoで検索をかけたところ、匿名性に関する警告が表示された。「YouTube(Google社)に匿名性はありません。ここで見るビデオはGoogle社によって記録されています」と。実にはっきりと述べている。


情報としては知っていたものの、このような表示を見せられると、このまま安易にアクセスしてよいものやらどうか。

そういえば、Google Photos がその方針変更を発表した。まあ、いつかはやるだろうと思っていたが、現行の写真保管のデータ量にキャップ(上限)をかけることにするらしい。

ユーザーとすれば、使用料を彼らに払って使っているサービスではないので何をやられても文句の言いようがない。

ただ、これをきっかけに、多くのユーザーがグーグルのサービス利用に関してより注意を向け、このままタダという目先の小さな利益を追って個人情報を垂れ流していってよいのか自分の頭で考えるきっかけになればと思う。

話をYouTubeに戻せば、彼らは広告収入を広告主から得ていながら(この仕組みは民間放送テレビやラジオと同じ)、さらに同時にユーザーの個人情報を収集し、販売して稼いでいる。 大もうけできるはずだ。

2020年11月9日

犬の散歩にウンチはつきものだから

冠雪した富士山を眺めつつ、朝の空気を吸いながらススキの道を散歩をしていたら、道端にDog Poop Boxと書いた缶を収めたちいさな屋根付きの箱を見つけた。上の段にはビニール袋の箱が置いてある。

誰がこれを設置したのか。たぶん自分自身ワンコを連れて散歩をする人だろう。自分も使えるし、他の犬好きにも喜んでもらえると。この缶の大きさだと、2、3日に一度は回収をしなきゃならないけどね。