「今日はクリスマスイブの日なのに、街はどこも例年の賑わいを欠き、・・・」。街の様子を紹介するニュース番組でのコメントだ。
確かに繁華街でも人通りは思ったほどではなく、賑やかなジングルベルの音楽はどこからか流れてくるものの、人の気持はそちらへは流れて行ってはいない感じがする。
マスクなしの外出をさける、県をまたがった移動を避ける、会食などの集まりを避ける、人との近距離での接触を避ける・・・そうした状況下で(宗教色がなくお祝い一色の日本型の)クリスマスもないのだろう。
だから、クリスマスなのに若者はデートもせずに自宅に引きこもっている。カップルだけでなく、この「なのに」に僕たちは急速に慣れていかなきゃならなくなった。
考えてみれば、僕らの普段行う行動の規範のひとつとして「なのに」は大きな意味を持っている。「男(あるいは女)なのに、何々しない」「大人なのに、何々できない」「親なのに、何々しようとしない」「学校の先生なのに、何々している」等々、個人の特性や自由を無視して決めつけることをわれわれはしてきた。
そうした個人を無視した圧力が、新型コロナによって少しずつ変わって来た感じがする。直接的にそのウイルスが変えたわけではないが、ウイルス感染防止のために我々は半強制的に新しい行動の仕方を身につけるようになった。そして、新しい行動が新しい感覚を呼び、新しい意識と考え方につながっている気がする。
ニューノーマルとか新常態なんて言葉もあるが、この機会をチャンスに旧来続いてきた訳の分からない因習や考えから僕たちは自由になれればいいと思う。
「彼(彼女)は、●●なのに▲▲だ」と指さされ、批判されるような人たちが今回を機に一気に国中に増えるが、そしてやがてはそれが一般的なこととなり、常態化する。そうしてやがて「なのに」が人々の意識から消えていけば。