2013年1月18日

本物のホットチョコレートのおいしさ

チョコレートのreviewerとして有名な友人のDが、ニューヨーク・タイムズ紙のレポーターから取材を受けるというので一緒に出かけた。

場所はチェルシー・エリアの近く、フラティロン(Flatiron: フラットアイアン・ビル)地区のチョコレートショップ、L.A. BURDICK。http://www.burdickchocolate.com/about-us.aspx

ここで飲んだホットチョコレートが実においしくて、びっくり。こくがあって、香りがゆたか。しかもべたついたところなどなくて、後味がさっぱりしていて、チョコなのにある意味でスッキリしている。本当のホットチョコレートのおいしさを知った感じがする。

フラティロン地区には特徴のあるいい飲食店が多く出店している。23丁目と5番街の角にあるEatalyはもちろんだが、知り合いのバンドが初出演するからと昨晩出かけたFlatiron Roomのようなウイスキーにこだわったバー・レストランのような店も人気だ。http://www.theflatironroom.com/

2013年1月16日

意味のないメッセージ

つかの間の休暇を日本で過ごした。どこへ行くということもなく、やったことは鮨と天麩羅とすき焼きを食ったことくらいだが。

日本出発前日、ニューヨーク行きのフライトを確認するために航空会社に電話を入れた。すると、「ただいま電話が大変混み合っております。順番におつなぎいたしておりますので、このままお待ちいただくか、お掛け直しいただけますようお願いいたします」という応答メッセージが流れてきた。このメッセージ、以前から変わっていない。

しばらく待ってオペレータが出たので、先のメッセージについてかけ直した場合は優先的につながるようになっているのかどうか尋ねてみた。システム上、そうした風にはなっていないという。ということは、場合によってはかけ直したらもっと待たされることがあるわけだ。

この航空会社がやるべきなのは、電話をかけてきた客へ応対できるまで何分くらいかかるか案内できるようにすること。3分なのか、5分なのか、7分なのかーーこれ迄の応対記録と人員から、おおよそのところは自動的に計算できるはず。それを知らせた上で、そのまま待つかかけ直すかは電話をかけてきた客に任せればいい。

そうした情報を何も提示せずにおいて「 このままお待ちいただくか、お掛け直しいただけますようお願いいたします」などいうメッセージを聞かせるのは馬鹿げている。

話は変わるが、日本の電車で聞かされる「足を組んだり投げ出したりすると周りの方への迷惑になりますので、お止めください」という車内アナウンスは何とかならないか。われわれは幼稚園児ではない。ひさしぶりの日本の電車内での一幕。

自分が無価値な人間ではないという充実感

ニューヨークへ戻る機内で読んだ週刊文春のなかで、作家の鹿島田真希がこんなことを述べていた。 
いまでも、夫を介護する私を見て、作家業もこなしながら大変ね、と哀れみの情を示す人がいます。その人たちは、介護は厄災で、介護者ばかりが我慢しているとおもっている。しかし実際は違います。極端にいえば、夫は私がいなくても生きていけるでしょうが、私は生きていけない。夫の役に立てるという実感、自分が無価値な人間ではないという充実感を、夫は与えてくれています。私の日々の喜びは、掛け値なしに介護なんです。(2013年1月17日号)
唸ってしまった。

2013年1月9日

メキシコで幸福について考えた

メキシコの人は人懐っこい。おおかたはとても親切で、ある日、美術館への道を迷って近くを歩いていた人に尋ねた時は、わざわざ遠回りして案内してくれたほどだ。モンゴロイドの血を引き継いでいるのか、なんとなく顔かたちが僕らに似ているところがあるのも、お互いが親近感を感じる所以だろう。

メキシコ人の血は複雑である。現在、もともとのメキシコにいた原住民の血を100%継いでいる人たちはわずか1割(だんだん血が濃くなってきて、そのせいだと言われているが、最近は生まれる子供の8割が女の子である)。純粋な白人(スペイン系白人)が1割。そして残り8割はメスティーソと呼ばれる白人と現地人の混血である。スペイン人エルナン・コルテスによってアステカ文明が破壊され、メキシコが征服されたのが1521年。それから500年ほどかけて血が混じり続けてきた。

ティオテワカンへの観光ツアーは、メキシコシティの日系旅行代理店に申しんだこともあり、ガイドは日本人女性だった。滞墨9年目になるという彼女から、往復2時間半あまりメキシコについて話を聞かせてもらった。

彼女によれば、現在の大統領も閣僚もほとんどが人口では1割しか占めていない白人だという。そして、彼らは特権階級である白人のための政治を行う。例えば、富裕層である白人階級保護のため、この国では相続税は課されていない。

しかし、だ。白人が1割しかおらず、独裁国家でもないのに、どうしてそのような議員構成になるのか尋ねてみた。その理由は、一言で言えば「買収」。貧しい人たちが容易に村単位で買収され、歪んだ投票行動につながっているという。その結果、白人がその人口比に対してはるかに多い割合で議会を占め、自分たちの利益誘導に進む。

そうした現状を一般のメキシコ人(白人以外)はどう考えているのか尋ねたら、「ほとんど気にしていない」という。「最初から諦めているのです」とも。戦おうとも現状を変えようともしない。何百年間にもわたって被征服者として虐げられ服従することで生きてきた結果、将来を自分たちの手で作り上げるという意志はまったく持たず、ただ今日だけを楽しく生きることができればいいと思うようになったというのが彼女の説明だった。

メキシコは米国の隣国であり、歴史的にも経済的にも強いつながりがあるにもかかわらず、メキシコの公立学校では英語は教えられていない(そのためか、現地では思った以上に英語が通じなかった)。英語を学ぶためには大学に進学するか、高額な私立の高校に行く必要があるが、一般のメキシコ人にはそれはなかなか難しい。その結果、外資系企業などの「割のいい」仕事に就けるのは、そうした一部の階級に留まっている。こうして階級と格差が固定化されているわけだ。

彼女の話でもう一つ印象的だったのは、就職は肌の色と賄賂の2つで決まってしまうということ。ただ、それがどの程度のものなのかは正確には分からない。だからこそこうした問題は厄介で、問題として定義することすら難しいままに置かれている。

ブータンのワンチェク国王が来日した際、日本でもGNH(国民総幸福度)指標を導入しようという動きがあった。(2010年6月にその測定方法を開発することを目的とした研究会も発足しているはずだが、どうなったのか。) 

「幸福度」がキーワードとして語られるとき、しばしば議論に現れるのがメキシコである。幸福度に関する調査結果で示されるスコアが極めて高いからである。

細かな議論はここでは避けるが、メキシコを日本のモデルの一つとして検討してはということなら、それは全くのお門違いだろう。先に述べた悲惨な裏の状況が一つの理由だし、また「あなたは幸せですか」と尋ねられてどう答えるかは、やはり国民性に依存するところが大きい。


2013年1月8日

テオティワカンのピラミッド

メキシコシティから約50キロほど北へ行ったところにテオティワカン(Teotihuacan)と呼ばれる宗教遺跡が残っている。紀元前2世紀頃に栄えた都で、6世紀には建物だけを残し忽然と人々が消えたとされていて、その理由はいまだに謎らしい。



遺跡の中に、太陽のピラミッドと月のピラミッドと呼ばれる(のちに発見したスペイン人が勝手に名づけた)2つの巨大なピラミッドがある。階段の平均斜度は45度だから、なかなかだ。その中腹になぜだか犬がいた。


2013年1月6日

フリーダ・カーロ博物館

メキシコを代表する女流画家であるフリーダ・カーロの博物館を訪ねた。ここはもともとフリーダの家だったところで、彼女が生まれ、晩年は夫のディエゴ・リベラと過ごし、そして亡くなったところである。


メキシコ人画家らしい、自由奔放なイマジネーションと神秘性を感じさせる作品や彼女が生前好きだった創作に影響を与えたであろう遺物が数多く展示されている。

庭には、どこから集めたのか分からない、名前など表示のない民間信仰のオブジェがいくつも置かれていた。

左の像は、まるでスターウォーズのヨーダのようだ

2013年1月4日

原因不明のフライトキャンセル

メキシコへ向かうためにラガーディア空港へ。この空港を利用するのは初めてである。

同じニューヨーク市内の空港でもJFKに比べればこぢんまりした空港であるが、到着した時そこはやけに混んでいた。チェックインのための航空会社のカウンター前には恐ろしいほどの長い列。それになかなか進まない。どうしたのか・・・。

実はフライトが何便もキャンセルになり、一人ひとりに対してカウンターでその便の振り替え処理をやっていたのである。僕の乗る予定だった便もキャンセルされている。原因は知らされない。

とにかく列に並ばなければとそうしていると、係員が航空会社の電話番号が書かれたメモを客に手渡して回っている。僕ももらった。再予約のためにここに電話しろということらしい。何だこれは、と思いつつも携帯電話でダイヤルするが、つながらない。


とにかく状況が分からないまま、列に並び続ける。なかなか進まない。およそ一時間ほど並んで、やっとカウンターの順番が来た。空港の一部が安全上の理由で閉鎖されたためにフライトがいくつかキャンセルになったと言われた。その理由も尋ねたが、分からないとのこと。理由を知らされないのが、一番不安感を感じる。

フライトは、ダラス経由だったのがマイアミ経由に変更になり、当初の予定から1時間ほど遅れて出発した。どうも米国ではこうしたことはよくあるらしい。


2013年1月2日

Kindle Paperwhite

12月31日に、アマゾン・ドットコムからキンドル・ペーパーホワイトがニューヨークのアパートに届いた。キンドル・ファイヤーHDとどちらにしようかと考えた末、主要用途とバッテリーの持ちを考えてペーパーホワイトにした。初代のキンドルに次いで、これが2台目である。

日本国内で販売されている同機の3G接続対応モデルは日本国内のみの対応なのに対し、米国内で販売されているモデルは世界中で3Gが無料で使える。その違いなのか米国内モデルの方が値段が高かったが、海外でも使える方がよいと思いこちらにした。


まず、アマゾンのキンドルサイトで、日本に置いてきた初代キンドルのライブラリーとデータを同期する。とてもスムーズで、あっという間に終わる。

本体は軽く、持ちやすく、そしてEインクは読みやすい。ベッドに寝転がったり、トイレで読んだり、お風呂に浸かりながら使ってみたが、いい感じだ。ただし、電源スイッチは下ではなく上の方に付けた方がよかった。

日本のアマゾンのサイトで、W・アイザックソンの『スティーブ・ジョブズ』をダウンロードしてみた。こちらもあっという間である。

但し、キンドル版の書籍の値段がスゴク高い! 2分冊で、それぞれが1,995円、両方で3,990円。日本語版のハードカバー書と同じ値段だ。ソフトカバー書なら、一冊1,050円である。原著は分冊になってはおらず、価格はハードカバーで18.8ドルしかしない。

日本のアマゾンのサイトでは、わざわざ価格のところに「出版社によって設定された価格です」と表示してある。


講談社のような影響力の大きな出版社は、いまもって顧客の事より書店に対する配慮が欠かせないのか。それとも、版元(Simon & Schuster)との取り決めでもあるのだろうか。アマゾンへのコミッション以外はほとんど限界費用がかからないのだから、もっと安くしてもらいたいものだ。

2012年12月30日

米国Newsweekが廃刊

雑誌のニューズウィークが、今週号(2012年12月31日号)を最後に米国での紙媒体での発行を停止することになった。今後はネットだけでの発行になる。


79年の歴史を持つ、言わずとしれた米国の有力雑誌である。広告収入の減少に歯止めがかからなかったのが主要な理由とされている。時代の趨勢だろう。

昨年の春に米国に来て驚いたことの一つは、雑誌の定期購読料が驚くほど安いということ。例えば、New Yorker誌は店頭で一冊6ドル99セントするのが、年間定期購読だと一冊あたり1ドル49セントだ。ニューズウィークのライバル誌であるタイムに至っては、一冊あたり59セントである。

書店やキオスクへの流通マージンがかからないとはいえ、こうした価格ではほとんど利益はでないはずで、広告収入のための部数確保が最優先されている。しかし、人は雑誌の値段が安くなったからと云って、もともと興味がないものを読もうとはしない(価格弾力性が低い)。しかも、日本のように電車通勤者が多くない土地柄である。この国ではテレビのチャンネルも訳がわからないほど多い。当然いまはネットでもニュースやコメンタリーを探して読める。

ところで、日本版ニューズウィークはまだ健在のようだ。
http://www.newsweekjapan.jp/

Newsweekの現在のロゴマークは2011年に新しくなっている。しかし、最終号の表紙に写真に写っているビルに取り付けられたロゴはそれ以前のものだ。写真が新しいものだとしたら、同社はサインを作り直す金にも事欠いていたということだろうか。

5年後、この国のどれだけの新聞と雑誌が店頭で売られ続けているか、興味深いところである。(個人的には、紙とネットとそれぞれの利点があるので、両方あってほしい)

2012年12月24日

カサブランカ空港で欺されかける (モロッコ /12 最終日)

11時過ぎのマドリッド行きフライトに乗るため、朝6時半にマラケシュで迎えの車に乗り込みカサブランカ空港へ向かう。朝食は前日にホテルに頼んで作ってもらったモロッコ風サンドイッチで道中に済ます。

空港の出国審査を終えてゲートに向かう途中、現地通貨がまだポケットに残っているのに気付いた。両替所がないか探すが見つからない。仕方ないので、免税店で何か適当に買い物でもして使ってしまえとうろついていたら、空港のインフォメーション・カウンターがあったので、そこで両替所を尋ねることにした。

そこには女性が二人。顔を見合わせて、ここにはない、との返事。そして、一人が隣のもう一人を指し「彼女のベスト・フレンドが両替してくれるかもしれない」と言うではないか。そして、やおら立ち上がったもう一人が両替してくるからと手を出した。僕は金額も確認せずポケットの現地通貨(ディルハム)をすべて彼女に渡した。彼女は金額を数える風でもなく、あそこで待っててと少し離れたベンチを指さした。

僕も一緒に行くと申し出たが、首からぶら下げたIDカードをこちらに見せ、自分しかその友人のところへいけないからと言うや、向こうへ駈けていった。待つこと15分、その女は帰って来ない。カウンターに残っているもう一人にどうなっているのか聞いても、要領を得ない。搭乗は既に始まっている。

インフォメーション・カウンターのすぐ脇で女の帰りを待っていたら、そいつが帰ってきたが、こちらがまだいることに気付くやいなや、踵を返してまた向こうへ駈けていった。僕はやっと状況を理解した。空港職員であるはずの女2人にダマされたのだ。

そのままそこにいても、金を持ってトンズラした女は帰ってこないだろうと思い、諦めたふりをして一旦インフォメーション・カウンターを離れて10分後にまた行ったら、何もなかったような顔で座っている。金をだまし取ってやったトロイ日本人は、てっきりもうモロッコの地上から消えたとでも思っていたのだろう。

突然また現れた僕を見ても、さして驚いた顔をしなかったのはこうした詐欺の常連か。金を返すように言ったが、何を言われているのか分からない振りを始めた。フライトの搭乗時間はほとんど終わりかけている。ゲートまでは5分くらいかかる。

相手を睨みつけつつ、カウンターのテーブルを平手で打ちながら「ゲット・マイ・マネー・バック」とゆっくり大声で5回繰り返した。一体何事かと周りの客が全員こちらを振り向く。すぐにセキュリティーのバッジを下げたスタッフが2人やってきた。事情を手短に話し、その女から金を取り返し、処分は任せてゲートへ走った。間に合ったが、ゲートは閉まる寸前だった。

僕をカモろうとした女たちは、コイツら。



座席についた後、汗を拭きつつ、動き出した飛行機のなかでさっきのことを考えてしまった ーー「こんなことがあるんだ」。結局、残った現地通貨は使われることなく、両替もされず、そのまままたポケットに戻って来た。こんなことなら奴らにくれてやってもよかったかなと思いつつも、こうした客を舐めた真似を許すと他の日本人客もやられることになると自分を納得させた。

モロッコよさらば、である。

2012年12月23日

マラケシュ2日目 (モロッコ /11)

早朝5時半にアザーン(Adhan)と呼ばれる礼拝の時間を知らせる合図が近所のスピーカーから流れてきて、いやがおうでも目を覚まさせられる。すぐ近くにモスクがあるらしい。顔を洗ってフナ広場へ向かった。

宿から続く通路

昨晩の喧噪が嘘のように、きれいに屋台が片付けられた広場

マラケシュにも猫がたくさん
人の歯と入れ歯を売っている
夕方になるとまた広場いっぱいに屋台が広げられる
マラケシュのシンボル、クトゥビアの向こうに沈む夕日

2012年12月22日

マラケシュのフナ広場 (モロッコ /10)

マラケシュの中心地が旧市街のジャマ・エル・フナ広場である。だだっ広い広場だが、夕方からさまざまな屋台が建ち並び始める。ヘビ使いなどの大道芸や民族楽器の演奏や踊り、漫談などが繰り広げられる。





ターバンを巻いたおじさんが吹く笛でコブラが鎌首をもたげるという古典的な大道芸や、民族楽器の演奏に合わせて民族衣装を着た、顔を半分くらい隠した娘がただ踊りまくるという(はっきり言って芸のない)芸が多いなか、僕が気に入ったのは、ただ子犬2匹と鷹とハツカネズミを客に見せているだけという下のおじさん。動物たちに何をさせるというわけでなく、ただ時折子犬にミルクを飲ませてやるだけという平和な「見せ物」である。



宿泊したホテルは、この広場からさらに奥の込み入ったエリアのなか。グーグルマップで確認しようにも、そこにたどり着く道が表示されない。広場にあるコーヒーショップから電話して迎えに来てもらった。



2012年12月21日

ワルザザートで宿泊 (モロッコ /9)

砂漠の町メルズーガからワルザザートへ移動。遠くにオートアトラスと呼ばれる山脈を眺めながら、広大な大地の中を車で走る。


今日はワルザザートのホテルで宿泊。部屋の鍵は南京錠である。中にいる時、もし外から施錠されたら外へ出られない!? 部屋に電話はない。



砂漠の日の出 (モロッコ /8)

キャンプ地には何故か猫がいた。その猫はなぜか夜中僕のテントに入って来て、毛布を被った足下あたりに丸くなって寝ていた。

その重さと寒さで朝の5時半に目が覚め、テントの外へ出た。砂漠のなかには人口の光は何も入ってこない。頭上はまさに満天の星だ。いくつも星が流れる。寒さに震えながらも、砂の丘に立ち朝日を待つ。1時間半ほどして、空が明るくなってきた。

東の空に、うしかい座のアルクトゥルスが輝く

朝日を顔に受けながら、砂漠で野xソをする。快感である。


2012年12月20日

砂丘を往く (モロッコ /7)

夕方、1時間半ほどラクダに揺られて宿泊地のテント場へ向かう。


ラクダ引きに導かれて進む

砂漠に沈む夕日

遊牧民の家 (モロッコ /6)

モロッコ、6日目。今朝、砂漠のなかで生きる遊牧民の家を訪ねた。

遊牧民は定住居を持たないものとばかり思っていたが、彼らは年がら年中移動しているわけではないらしい。移動するのは、定住地周辺では羊や山羊が食べる緑がまかなえない季節だけである。

確かに考えるまでもなく、それが合理的なやり方。無目的にあちらこちらに移動しても仕方ない。水も食料も限られた砂漠で生きるには、合理に則ったやり方が自然と求められ、それができた者だけがこうして生き延びていける。

日中、昼寝をしたり、客を迎えるための簡易テント



砂漠の狐? (モロッコ /5)

砂漠独特の生き物がいる。サソリなどがその代表だが、現地の人が「キツネ」と呼んでいるこの動物もそうだ。耳が大きく、目がつり上がっている。イタチとキツネの合いの子のような感じだけど、正しくはなんていう動物なんだろうか。


2012年12月17日

フェズの旧市街は迷路だ (モロッコ /4)

午前中は、フェズのメディナ(旧市街)をガイドを雇って歩く。ここは全体が迷路のようになっていて、住居がひしめき合っている。車などは入ってこれない。道に拠るが、細いところは馬も無理だろう。狭いところでは、人が行き違うのがやっと。そうやって外敵の侵入を防いでいたのだろう。

昼食にラクダの肉を食べる。赤身の肉で、あまりクセがない。美味しいといえば、美味しい。 その後、一人でメディナを3時間ほど隅々まで歩く。当然、自分がどこを歩いているか分からなくなるが、肝心なことは方角を掴んでおくこと。そうすれば、迷路から出られなくなるということはない。







2012年12月16日

巨大なモスク (モロッコ /3)

カサブランカの中心街から車で5分ほど、海に面した場所にモロッコ最大、世界で5番目の大きさを誇るモスクがある。

早朝、敷地を散策していたら、建物の下からモスクのスタッフ(らしき)3人組が手招きをする。中を見せてやる、と言っているらしい。

その中の一人がガイドよろしく、僕をモスク内に先導してくれる。そして、次々に場所を指定しては、そこに僕を立たせ、どんどん写真を撮る。手慣れたものだ。

そして最後に、指先でお札を数える仕草をしてみせ、金をせびる。別れ際には、口にチャックを引く仕草してニヤリと笑ってみせた。

2012年12月15日

ろう学校生の喧嘩(モロッコ /2)

カサブランカのホテルにチェクイン後、近くを散歩に出かけた。夕方の時間、聾唖の子どもたちが建物からたくさん出てくる。ろう学校があるのだろう。歳は中学生くらいの子がほとんど。

歩道で何人かがつかみ合いをしている。喧嘩らしい。小競り合いのような感じだが、彼らは話ができないためにとても静かな争いだ。一人の子が5、6人に虐められ、こづき倒されているように見える。

やられた子が立ち上がり、相手グループの中心的な男の子に向かっていく。胸ぐらをつかみ、肩を殴り、怒りを示した後は、いったん手を離し手話で相手に何か伝えようとする。今度はやられた子が相手を蹴飛ばし、背中を何度もどつく。そして、その手で今度は手話で意志を伝えようとする。

相手に掴みかかりながら罵声を浴びせたりすることができないから、途中で手を止め、手話が交互に入る。子ども同士が喧嘩をするのは、自然なこと。だけど、この喧嘩だけは見ていて切ない思いがした。