2017年8月15日

日本の教育はどこへ行く

大学入試改革で、英語に関して読む、聞く、書く、話すの4技能のテストが導入されるらしい。

日本学術振興会理事長の安西祐一郎氏(前慶応大学塾長)は、その改革の意味について先日の新聞紙上で次のように述べている。
これからの時代には自分の思考内容を明確にし、それを論旨明快に相手に伝える方法の1つとして、英語力を身につけることが肝要だからである。高校や大学では、英語は主体的に思考、判断、表現する方法の1つと考えるべきであり、書く・話す鍛錬が極めて重要になる。
彼が言っている「これからの時代」とは何なのか、分からない。思考内容を明確にすることや、それを相手に伝えることと英語力はどういう関係があるのかも分からないし、なぜそれが肝要であると主張できるのかも理解できない。

英語が主体的に思考、判断、表現する手段の1つ、という彼の考えもまた意味不明である。英語は言語の1つとして表現の1つではあるが、それが思考やまして判断の手段だと述べる意図はどこにあるのだろう。

このように日本語でも何を言っているのか分からない大人が多いのに(たぶん本人はそれに気づいていないのがいっそう残念)、どうして高校生たちに入試で過大な負荷を負わせたがるのか。論理的な思考や判断、その表現は母国語で鍛えるのが基本だろう。

なぜなら、日本語で考えたり表現できない内容を外国語で伝えることができないのは明らかだからだ。

こうした奇妙な「改革」で喜ぶのは、受験業者、英会話学校、帰国子女だ。高校時代の夏休みに欧米に語学留学に出かけることができる親の経済力がある子供と、そうでない子供の格差も確実に拡がってくことが予想される。どんな阿呆でも若い時に英語環境で暮らせば、それなりに聞け、話せるようになる。話す中身は別としても。

このようなしょうもない入試改革を発想する連中は、自らが大いなる英語コンプレックスと白人コンプレックスを胸に抱えて生きてきた人たちなんだと思う。


2017年8月14日

中国からの攻撃が続く

8月11日の早朝、大学のメールシステムから、まもなく割り当てのサーバー容量に達してメールが使えなくなりますというメールが来た。

もともと大学の個人割り当ての容量は2Gバイトと少ないのではあるが、それでもまだそんなはずはないはず。ところが確認してみると、何千というメールが来ている。驚いている間も次から次へと来ているではないか。

件名は長々と漢字の羅列。簡体字が多いので、どうもいずれも中国かららしいと思い調べたら、やはりそれらの多くはqq.com(テンセント)や126.comという中国のフリーメールからの発信だった。


それにしても人迷惑な。それら中国のドメインや件名の共通項をフィルタにしてメールを即時破棄にするように設定したが、どういうわけか大学のそうしたシステムの精度はあまりよくない。今もフィルタにかからず着信するメールが山のようにあるので困ったものである。

さらに困った(つまり「やられた」)のは、大学のアドレス宛のメールを転送している先のGmailのアドレスが、短期間にあまりにも大量のメールを受信したということで、メールの受信に制限をかけられてしまい、一切届かなくなった。

さらに悪いことには、8月11日から20日までは大学が一斉休業に入るため、通常であればこうしたことに対応してくれるITサポートの手助けも21日まで待つしかない。このタイミング、狙ったか?

特定の誰に文句を言えばいいというのではないのが、腹立たしい。

2017年8月5日

意味のない形式主義が日本の生産性を下げる

2か月に一度送られてくる水道料金の支払いをクレジットカード払いにした。

引っ越して来てから2年近く毎回コンビニで支払いを済ませていて特段面倒というほどのこともなかったが、省けるルーティーンの手間は省こうというくらいの考えだった。

水道局の担当部署に連絡して支払い方法変更のための用紙(はがき)を送ってもらった。必要事項を記入して送付。これで完了かと思ったら、簡易書留で送り返されてきた(そのために不在配達書に日時を書き込み、後日自宅待機して受け取った)。

必要事項の記載に漏れがあるので、記入の上で再度送るようにと書かれた添え状が付いている。

記載が漏れていたのは、名前の「フリガナ」欄だった。といっても、名前の欄にはクレジットカードの名義人名を書くようになっていたので、名前はカタカタで記入しておいた。だから、あえてフリガナを振る必要は無いと判断して記入しなかったのだ。

しかし、そこが空欄だから処理できないと送り返されたきたわけだ。

単に形式的なものをそろえるために余計な時間とコストをかけていることに、どうして疑問をもたないのだろう。

2017年7月15日

即日売り切れ

週刊文春の表紙は、長年にわたってイラストレーターの和田誠さんが描いている。独特の暖かなタッチ。和田さんの絵は、それとすぐ分かる。

きわどいスクープを連発している週刊文春が、一方で常識と普遍性のようなものを読者に感じさせているとしたら、その半分くらいは和田誠の描く表紙が影響しているように思う。

その和田さんの描く表紙が、2000回を迎えた。40年間である。それが、毎週毎週だ。すごいとしか言いようがない。しかも、その表紙の絵を見る限り、和田さんは毎週頭をひねりつつ楽しみながら書いている(に違いないように僕には思える)。

2000回を記念してメモリアルクロックなるものを週刊文春と和田さんが売り出したのだが、申込をしたところ即日「完売」ということだった。

台数限定販売なのは分かっていたが、即日完売とは。全国に大勢の和田誠ファンがいることを忘れていた。しまった。

2017年7月7日

バルミューダ創業者の本

著者の寺尾玄は1973年生まれ。独特の設計で知られる扇風機を生み出したバルミューダ社の創業者だ。 


彼が設計して売り出したグリーンファンという名の扇風機は、値段が3万円以上するにもかかわらず人気商品で売れている。

最小消費電力3Wという一般的な扇風機の約10分の1の消費電力。最弱運転時の動作音はわずか13dB(デシベル)、人間の耳ではほとんど認識できないような圧倒的な静音性能を持つだけでなく、送られてくる風が従来の扇風機とまるで違うらしい。木陰で涼んでいるときに吹いてくるような自然の風らしい。

寺尾は、両親の離婚や母親の死、そして高校の進路進藤のやり方に強烈な違和感を感じて学校を退学、あとはお決まりように海外放浪へ。帰国後はロックミュージシャンを目指して活動を開始。バンドを組み、やがて何とかレーベルデビューを図るという矢先に契約を破棄されるという経験をする。

生きていかなければならない。そうした差し迫った時に、たまたま奥さんが持っていた雑誌でものづくりのデザインの面白さに気がつく。
試行錯誤の末、売れるモノ、つまり必要とされる物をつくらなければと考えた彼の頭に去来したものが扇風機。「なぜ扇風機の風は人工的で気持ちが良くないんだろう」という昔から感じていたという問題意識である。そこから彼の新たな闘いが始まった。

「掃除機はどれもなぜ使っているうちに吸引力がすぐに落ちてしまうのか」という不満を持ったジェームス・ダイソンが、自らそれを解決するためにそれまで誰も不思議に思ってこなかった掃除機という超成熟製品に目を付けてそこにイノベーションを起こそうとしたのと似ている。

ものづくりはおろか、それまで会社員をしたこともなかった寺尾が、そのために身につけなければならないと思ったことを取得していくすべは、そうした技術や経験をもつ人から学ぶしかない。早速町工場をいくつも訪ね、材料のことや加工のことを体で学んでいく。切羽詰まった人間の捨て身と言えるが、これくらいやらなければ考えを形にできないことをよく知っての極めて合理的な行動である。

会社が倒れるかどうかという資金と時間のなかでの闘いは(本人には申し訳ないが)スリリングだ。

自分がやりたいことを自分の手でつかもうとする姿勢と行動には頭が下がった。今の彼はミュージシャンではないが、彼のやり方は実にロックである。


2017年6月30日

ワイダの残像


アンジェイ・ワイダの遺作になった『残像』を観に神保町の岩波ホールへ。英語タイトルは、Afterimage。 


映画の主人公ストゥシェミンスキは、実在の人物。ポーランドを代表した前衛画家で、抽象画を精力的に描くかたわら、芸術大学で情熱的に教鞭を執っていた。

第二次大戦が終わり、ポーランドが旧ソ連の支配下におかれ、そこでは芸術すらも社会主義的イデオロギーを表出したものだけが認められ、社会主義リアリズム以外の芸術作品はすべからず排斥された。

視覚理論について大学の講義のなかで語るシーン、彼は残像について語る。残像に映る色は「実際に見たものの補色なのだ」と語る。

自由な創作活動を主張し、スターリン的な全体主義を標榜する政府官僚とことごとくぶつかる彼は、「無認可」の芸術家というレッテルを貼られ、そのために絵を描く画材すら店で買えなくなる。やがて大学の職を奪われ、作品を発表する場所や機会も完全に失い、日々の食事にも窮するようになる。

やがて、そうした状況は彼を心身ともに追い詰め、最後は自らの芸術家としての誇りもなげうって得た洋装店の店頭ディスプレイの仕事をしている最中に倒れ、息を引き取る。

映画は彼が倒れた後、その娘であるニカ(気丈な娘役をしているブロニスワヴァ・ザマホフスカがいい!)が息せき切って訪れる病院のベッドで、シーツにくるまれたストゥシェミンスキを彼女が見つめているシーンで映画は終わる。

ニカの頭の中には父親の残像が映っていたのだろう。

途中、彼に救いの手を差し伸べようとする政府官僚が現れる。政府への批判をやめ、政府が決めた芸術があるべきとする方針に沿って活動さえすれば、大学に復職できるし、それなりの生活が保障されると囁く。

実際、画家に限らず、詩人などその時代の多くのポーランドの芸術家は、何らかの転向を余儀なくされ、それで生き延びた。しかしストゥシェミンスキは、それを頑なに拒み、自らを貫き通し、最後は非業の死を遂げる。

その生き方の是非を誰も断定することなどできない。ワイダが描いたのは、実際にポーランドに生きた一人の芸術家の、悲惨な時代背景における苦悩と闘いと死である。

これもまた、現代人に突きつけ得られているひとつの「残像」、つまり「補色」なのだ。

全体的に舞台演出のような人物の動きが気になったが、一人の人間が巨大で強固な国家という権力にいかに抵抗しうるのか、いかにもワイダらしい骨太のテーマが描かれた本作は劇場を出た後の足取りを確実に重くするほど重厚で心にズシンとくる映画だった。


ストゥシェミンスキは、学生たちに向かってこう言う−−−「芸術と恋愛は、自分の力で勝負しなければならない」。そうなのだ、芸術と恋愛と○○は、自分の力で勝負しなければならない。誰もがそうした○○を抱えているはずだ。


2017年6月29日

アマゾンとヤフー

先日、大学院のゼミにアマゾンのディレクターを務めている友人に来てもらった。アマゾンのビジネスの進め方や経営方針などについて話をしてもらったのだが、その顧客中心主義の考え方に改めて感心をした。

彼らのモットーは、「世界で最もお客様を大切にする企業であること」。他にない数々のサービスもすべていかに顧客に愛されるか、顧客の欲しいものを欲しいタイミングで欲しいように届けるか、ということを追求したことから生まれた。

かつてドラッカーが「企業の目的は顧客の創造」であると喝破したように、最終的にはどんなビジネスであろうと、一番顧客に求められている企業が勝つのである。シンプルだが、ビジネスの本質をついている。

このこと、多くの経営者が頭ではきっと分かっていてるはずだが、実際にそのために自分たちが何をなすべきか、何ができるのか、どのようにやるのかといったことを常に全力を振り絞って考え、そしてそれらを実行に移してる会社は決して多くない。

アマゾンの凄さは.そうした当たり前の考えを数十万にいる社員すべてが共有し、日々そのために頭も体もフル活動させていることなんだと思う。

先日、大手通販サイトのヤフーショッピングを運営するヤフーが出展者に対してサイト内の広告を出すように働きかけるページに「通常の検索結果と差異のないデザインで表示されるため、いかにも広告という印象を与えずにお客様にアピールできる」と記載していたことがわかった。

つまり広告である事を隠した広告である。どうも今はそうした行為を「ステルスマーケティング(ステマ)」と呼ぶらしい。フリマ(フリーマーケット)ならまだ分かるけど、ステマだって。へんてこりんな、嫌な言葉である。マーケティングの本質を何も理解しない人が作った言葉だ。こうした広告のことは、妙な横文字を使うまでもなく、詐欺広告または詐欺的広告と呼べばそれでいい。

日本で誰が使い始めたのか知らないが、「こういうのってステルスマーケティングって言うんだぜ、みんな」みたいなことを生かじりの浅薄な人物がどこかで言い始めたのだろう。それに乗る連中も連中だが。

ところで、彼からアマゾンについてゼミで話をしてもらったなかで一つ大変印象的だったのは、アマゾンは日々集まる膨大なデータを分析するに際して、決して顧客のプロフィール情報は用いないようにしているということだ。

なぜか。一つには、もしそうした個人情報が漏洩した際に受けるとてつもないマイナスのインパクトを考えてのリスクマネジメントがあるのだろう。そしてもう一つは、あくまで個人のプライバシーを尊重するという創設者であるジェフ・ベゾスの考えの表れである。

そうしたしっかりとしたポリシーがあり、それが守られているからこそ、アマゾンは信頼され続けているのだと思う。

2017年6月23日

電車の中で

先日、帰宅途中の車内で見かけたサンドウィッチマン風のおじさん。


多くの日本人が同じような考えを持ち、だけどどこにその気持ちをぶつけていいか分からず、鬱屈した思いでいるはず。日本だと駅や電車の中で声高にそうしたこと叫ぶとたちまち警察に通報され、駅員に「ちょっと来なさい」とつまみ出される。

そこでこの男性が考え出した方法が、この自己看板戦法だ。これなら誰からも迷惑だと文句をつけられない。

2017年6月17日

ボウズ1000円

土曜日の早稲田大学正門通り。大学から歩いて5分ほどのところにある床屋の店頭。男性1300円はQBハウスといい勝負だが、女性1400円はどのような仕上がりなのだろう。ちょっと気になる。


2017年6月8日

マーケティング、授業終了

昨日、授業終了後、大隈通り商店街にある店で打ち上げの懇親会があった。

夜7限の授業が終わった後だから午後8時40分から10時すぎまでの1時間半ほどだったが、社会人大学院生らしく限られた時間のなかで濃密に交流した飲み会で面白かった。

学生たちから大きな花束をプレゼントされ、帰りの電車に持ち込むのが小っ恥ずかしかったナ。



2017年5月28日

いつだってフルスイング

今朝の「木村達也 ビジネスの森」は、「週刊文春」編集長の新谷学さんをゲストにお迎えし、新刊の『「週刊文春」編集長の仕事術』をもとにお話をうかがった。


もともとはテレビ局で大人向けのバラエティをつくりたかったという新谷さん。ひょんなことで(ま、ふつう新卒で入社するときはそうだけど)株式会社文藝春秋に入社、いくつかの部署を経て「週刊文春」の編集長になって6年目。

一番興味があるのは、人。その可笑しさや、情けなさや、胡散臭さや、そうしたものすべてを含めて人が好きだから続けられていると。

スクープにしても、大上段から社会正義で人を裁くようなまねはしたくなく、フラットな目線で取材し、掘り下げ、記事にしてい行くのが文春流のようである。しかし、スクープだけでなく記事を載せるときはいつだってフルスイングでいく。

いま話題になっている「週刊新潮」の中吊り広告の件などもダイレクトにお聞きしましたが、そこはオフレコということで放送できませんでした。来週も新谷さんをゲストにお招きします。

編集者は黒子、ということで顔写真なしの記念撮影でした

今朝の一曲に選んだのは、Christina Perri で A Thousand Years。


2017年5月21日

亀とジェット機

先週と今日の「木村達也 ビジネスの森」は、ゲストに元エルピーダメモリ社長の坂本幸雄さんをお招きした。


エルピーダメモリは、1998年に日立とNECの半導体(DRAM)部門が統合してできた会社。設立後うまくいっていなかったその会社に、2002年に再建を託されて坂本さんが社長として招かれ、その後10年間会社を率いてきた。

坂本さんの企業人の原点は、体育大学を卒業後に義理のお兄さんの紹介で入社した日本テキサスインスツルメンツ社。その会社の倉庫番からスタートし、25歳で経営企画部の課長に。それまでの上司が部下になった瞬間だった。最初は双方ともやりづらい感じもあったが、両者ともすぐに慣れていったという。肩書きは単なる「役割」なのだ。

日本企業とアメリカ企業の経営の違い。多くの違いの中でも決定的なのがスピード感の違い。両企業をよく知っている坂本さんから見た場合、その差は亀とジェット機くらい違うと云う。

コングロマリットな事業形態がその根底にある。種々なビジネスについてトップがすべてを理解できるはずがなく、だからこそクイックな判断ができない。社長がビジネスに精通していなくて、なぜ適切な経営判断ができるのか。切り離すべきだというのが坂本さんの考え方である。

スペシャリストとジェネラリストについてもお話をうかがった。日本企業は多くの社員がゼネラリストを目指しすぎるので、部長になったとたんに専門性を鍛えてこなかった人たちはリストラの対象になってしまう。

企業に必要なのは、一部のジェネラリスト。坂本さんが言われるように、その以外の人たちはスペシャリストを目指すべきなのだろう。まずは専門性を磨くこと。その後、組織内のポジションと役割に応じて、ジェネラリストとしてのキャリアを磨いていって経営者になる人材ができてくる。多くの日本のサラリーマンは専門性のひとつも持たないで、最初からジェネラリストを目指すケースが多い。それでは仕方がないのである。

今朝の一曲に選んだのは、スティングで「Shape of My Heart」。



2017年5月13日

「髪型変えた?」

大学時代のサークルの同期会があり、小雨の中を出かけた。会場になった大学近くの鮨屋に集まったのは9名。その内の8人とは、大学卒業以来の再会だ。

36年ぶりだが、みんな意外と変わってない。女性はみんな昔の雰囲気のままだし、男の方も頭がいくぶん涼しくなったり白くなったくらいで、昔の様子そのままなのにちょっとびっくり。

自分自身があの頃からたいして変わってないのに、他人だけ変わっているに違いないと思っていたのがそもそも間違い。

それにしても、「あれっ、木村君、髪の毛そんなに短かったっけ?」と言われ、何を問われているかよく分からず黙っていたら、「長髪だったよねえ・・・」と。

ああなるほど、自分が学生時代のある時期、髪を肩の辺りまで伸ばしていたことがあったのを思い出した。彼女はそれをまるで先週のことのように言う。

十年一昔とは言うが、そりゃあ36年経てば髪型も変わるよと心の中でつぶやきつつ、なんだかおかしくなった。

2017年5月7日

コンセンサスが取れたときには、もう手遅れ

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社)の著者、小林由美さん。大学院時代から数えて36年間をアメリカで過ごしている彼女が、ちょうど帰国しているというのでスタジオに来てもらった。


アメリカで現在発生している問題の1つは「集中」にある。生産財としての情報の集中、それを手にしている一部のアメリカのIT企業、そしてそれらを可能にしている最先端の技術。さらには、その技術を開発している一部の超エリートのエンジニアたち。それらはすべてアメリカにある。

われわれが意識しないうちに、SNSの情報はもちろん、Gメールの内容も、ネットでの買い物の内容やその過程もすべて丸裸で捕捉されている。それらは分析され、ターゲット広告や商品・サービス開発のために売買されているのが現状だ。

日々の個人の生活には具体的な影響は感じないし、システムの向こう側でやられていて見えないだけに普段は意識することすらない。確かに現状では個人的には実害を感じるというものはないので、いいじゃないかと思ってしまいがちだが、気がつくとメールはGメール、SNSはフェイスブック、買い物はアマゾン、と一部企業に大多数の消費者が頼ってしまっている。

それらは便利だが、彼女の本のタイトルにあるように、いつの間にか超一極(ごく一部)に情報(つまり金だ)が集中している社会に僕たちは生きている。

日本と米国の比較のなかでは、教育についても彼女からいくつもの指摘があった。学校教育のレベルは低すぎると斬って捨てる一方で、米国では自由で斬新な発想を生み、それを高く評価する土壌があるということも。

全体的にレベルがそこそこ高い日本社会に対して、米国はおそらくならすと全体のレベルは高くないが、一部のとんがった連中が自由にものを考え、言え、実行でき、評価される環境の中でそれまでなかった新しい仕組みやビジネスを作っていく。

さらにはスピード感も日米で大きく違うという。「コンセンサスが取れたときには、もうtoo lateなのよ」とさらっと言ってのけた彼女の言葉にドキリ。

今朝の一曲は、ドン・マクリーンの American Pie。


2017年4月16日

誰も使わない「だれでもトイレ」にならなければよいが



4月8日の日経夕刊の記事から。
早稲田大学が4月から性的少数者(LGBT)が安心して学生生活を送れる環境の整備に乗り出した。多目的トイレを「だれでもトイレ」と改称してLGBTの学生が気軽に利用しやすくした(後略)。
記事の中で、これまでLGBTの学生たちが、利用者が少ない遠くのトイレを使って膀胱炎になったりしたからとある。しかし、それへの対応になっているだろうか。

「だれでもトイレ」の意図は分かる。だが、そうした狙いで大学によって設置された「だれでもトイレ」を誰が使うのか。誰も使わないんじゃないだろうか。だって、そのトイレに出入りしていることが、まわりへの明らかなひとつのシグナルになるのだから。それを知られたくないLGBTの学生が、どうして使えるだろう。パラドックスだ。

ドラえもん風の馴染みやすい名前をつけるなど、大学の配慮を示す気持はよく分かる。だけど、特別なトイレを設けるんじゃなくて、本人が自分で思う性別のトイレをそのまま使えばいいじゃないか、と僕は思うのだ。個人的にはトイレに誰が入って来たかなんて気にしないし、ましてや個室を使うのであれば、問題にもならない。これって、LGBTの実状を知らない人間の浅はかな考えかな?

記事の終わりあたりに「大学にとってダイバーシティー(多様性)の確保が喫緊の課題になってきた」とある。なんか違う気がしてならない。「確保」するとかなんとか力むようなことではなく、自分たちとは違う人も自然と受け入れる、あたりまえの人間性を大切にするだけのことじゃないのかなあ。

2017年4月12日

日本のテレビニュースは死んだか

遅い帰宅後、着替えをしながらテレビをつけ、ニュース番組にチャンネルを合わせた。ある民放局の夜のニュース番組だ。

始まったそのニュース番組のトップニュースは、フィギュアスケーターの浅田真央選手が都内のホテルで記者会見し、引退を発表したことに関連するニュースだった。それが延々と続く。

僕たちが目を向けなければならないニュースは他にあるはずだ。なぜ、浅田選手の引退表明がニュース番組のトップニュースになるのかとまどう。浅田選手が問題だと云っているのではない。

そのニュース番組のプロデューサーがスケートファンなのか。日本にとって浅田選手の動向が重要な意味と価値を持つと感じているのか。浅田選手のことなら話題性のあるニュースになると考えているのか。ニュース番組は、取り上げるニュースの順番とそれぞれに割く時間の配分に、局の報道の姿勢といったもの現れるものである。

たぶんそのニュース番組のプロデューサーはジャーナリズムとはまったく無縁の人物で、もしそうであってもその感覚が極めて希薄で、ただただ視聴者に分かりやすくて、喜ばれると自分が考えたそのニュースをトップに持って来たのだろう。最近に始まったことではないが、日本のテレビ番組の劣化は、悲しくなるほど悲惨だ。

2017年4月9日

誰も行ったことがないから行く

今日と先週の「木村達也 ビジネスの森」は、洞窟探検家の吉田勝次さんをゲストにお迎えした。

これまでに潜った洞窟は、1000とも2000とも。数えたことがないから、正確な数は分からないそう。その中には未踏歩だったものも数多く含まれる。

そこに何があるか分からないのが、洞窟探検の醍醐味のよう。我々が洞窟をイメージするとき、そこは鍾乳洞のような人が立ったまま歩いて進める空間だろう。しかし、吉田さんらがチャレンジする洞窟は、必ずしもそうではない。這いつくばって砂を掻き、目の前の穴に体を押し込み(息を吐いて胸囲を小さくして)、時には空気ボンベを背負い、水の中を進む。

水の中といってもコーヒーのような水。先が見えないどころか、タンクの残りの空気の容量を示すメーターすら見えない。進めるかどうか、ひょっとしたら戻ることもできないかもしれない、そうした状況の中で判断を求められる。

そこでは体力より、メンタルな強さが生きて帰れるかの決め手になる。平常さを失わないこと。パニックになり、平常な精神状態を失うと途端に生還率が低くなる。

冒険と探検は違う、と吉田さんは言う。冒険は無謀であればあるほど価値がある。しかし、探検は冒険とは違い、必ず帰って来なければ行けない。探検した先のデータを持って帰って伝えることが探検には求められているからと。なるほど。

2017年4月4日

機内アナウンスで

イスタンブールからの帰りのフライトは、トルコ航空52便である。

機体が空に上がってしばらくしてからの機内アナウンス。トルコ人のCAの日本語アナウンスの締めくくりに、思わず吹き出しそうになった。

「それでは皆さま、短い時間ではごぜえますが、ごゆっくりと・・・」


2017年4月3日

Up, Up and Away(カッパドキア熱気球)

岩肌を掘って作られた洞窟ホテル(Cave Land Hotel)を朝4時に出かける。カッパドキアは、まだ暗闇のなか。熱気球にガスバーナーの炎が吹き込まれると、気球はその機体をゆっくりとむくむくともたげてくる。準備ができたあと、ゴンドラに乗り込み上空へ。

熱気球のゴンドラから、手持ちのソニーCyber-shotで撮影した。よく聞くと、同乗したいろんな国の人がそれぞれの言葉で話しているのが分かる。

2017年4月2日

カッパドキアのきのこの山

トルコまで来て、カッパドキアの奇岩を見て日本のチョコレート菓子を思い起こすのはどうしたものだろう。



青空と奇岩を背景に、堂々とした野良猫が横たわっていた。


前足、ふんばってます