プーチンがウクライナへ侵攻したと聞き、ふと谷川俊太郎さんの詩を思い出した。
私の核弾頭付ミサイルどこへ置いた?
と妻がきいた
冷蔵庫の上
と夫が答えた
新聞の「会社人事」欄は、以前は結構よく見ていた方だと思う。企業で仕事をしていたとき、相手先の人事を知ることは必須だったから。
大学に移ったあとも新聞の会社人事欄で、学生時代の同級生や知り合いの動向を知ることが多く、飽きずに眺めていた。
そうした彼らもほとんど現役サラリーマンを終え、僕もその欄に目を走らせることはなくなっていた。
今日、たまたまその紙面を見るともなく眺めていると、こんな肩書きの役職者をふと見つけた。
代表取締役兼副社長執行役員グループ中国・北東アジア総代表兼パナソニックオペレーショナルエクセレンスパナソニックオペレーショナルエクセレンス中国・北東アジア社社長兼パナソニックチャイナ会長、〇間〇郎
だって。本人も、どこで息継ぎしたらいいのか分かんないんじゃないの。
誰か、企業の役員の役職名の長さとその会社の業績の関係について研究してくれると面白いかも。
先日、近くのスターバックスに行った際の出来事である。
次回の読書会で取り上げる本に目を通しておかなければと、上下巻合わせて1,000ページを超える2冊を抱えて店を訪れ、コーヒーを飲みながら活字を追っていた。
ページからふと顔をあげると、店のトイレの前に立っている若い女性が目に入った・・・・・・再び本に目を落とし、何章か読み終えたタイミングでまた顔をあげると、さっきと同じ女性が同じ場所に立っているのに気がついた。十代半ばと思われる、おとなしそうな女の子だ。
最初に僕が気づいてからでも20分は経っていて、よく見るとなんだかモジモジしている。早くトイレに入りたがっている風に見えた。
ちょっと気になり、お節介かとは思ったが彼女のところまで行ってどうしたのかと尋ねてみると、彼女は黙って扉のノブのところを指さした。「使用中」を示す赤い色が見えた。僕は、彼女が中にいる客が出てこないのをずっと待っているんだと思って、ドアをトントントントントントントンと軽く7回ノックした。
7回のノックは、中に誰かいるのを確認するためのノックではなく、早く出てきなさいと促すためのノックだ。すると、間もなく中から若い女性が出てきた。あれっ、店のスタッフじゃないか!
使用済みのペーパータオルが入ったゴミ袋を片手に出てきたその店員は、僕とその後ろにいた少女をちらりと見ただけで何も言わずにさっさとカウンターに入って行った。
女の子はトイレに入り、僕は自分の席に戻ったが、なんか変だなと思った。その店員がトイレのなかでペーパータオルの補充やトイレットペーパーの交換をしていただけではないことは状況から容易に想像がついたからだ。
真面目にトイレ前でモジモジしながら何十分も待っていた子がなんだか不憫で、店員が中で何をしていたのか確認するためにカウンターに向かったとき、その女と目が合った。彼女はすぐさま僕から視線をそらし、奥の部屋に駆け込んでいった。
「逃げられた」と思ったが、カウンターのなかに乗り込むわけにもいかず、仕方ないのでそこにいた2人のスタッフに彼女はなぜ突然奥に入っていったのか訊ねたら、その男女は黙ったままお互いの顔を見合わせて首をかしげるだけ。
帰宅後、スターバックス・ジャパン本社に電話を入れた。店での一部始終を話してやったが、本社担当者の反応は「あ、そうですか」で終わり。
スタバはずいぶんと変わったなと感じた一瞬だった。この会社、どうなっちゃったんだろう。
人魚もしっかりしろと言ってる |
インターネットの利用者情報、例えば利用者アドレスやアクセスしたサイトページ、その日時、回数などはクッキーの仕組みを使って実質的に外部に筒抜けになっている。
そうした事はマズイだろうと、先進国を中心に利用者情報の扱いを規制しネット上での利用者保護を進める考えが一般になっており、日本でもデータの外部送信への制限を設けようとの考え方が整理されようとしていた。
ところが、楽天が主導する新経済連盟を中心に経団連、経済同友会、ACCJ(在日米国商工会議所)が今回の規制案への反対を表明した。(グーグルやアマゾンまでACCJのメンバーとは知らなかった)
それら団体は声を上げただけでなく、与党政治家へのロビー活動を密かに展開することで政治の面から総務省に圧力をかけて規制案を骨抜きにしてしまった。
自分の情報がどれだけ、誰によって、どこに流れているのか、そうしたことは一般の消費者には分からない。また実際のところ、普段のなかで目に見える形での実害として現れるわけじゃないから、無頓着になってしまう。それが人の心情だ。だから日本では一部の企業によって利用者データの利用が好き勝手が行われ、放置されている。
利用者は、まずはそのことを知っておくことが大切。その上でそうしたことを気にしない人、あるいはポイントなどの対価を受け取ることで了承できる人は、ネット利用の情報が外部でとどめなく利用されることを自分の判断で受け入れればいいと思う。
ただし、それは利用者に知らせられないまま「裏で」行われてはいけないし、また個人のネット利用の情報の扱われ方についての利用者の考えが変わった際には、それに応じたデータの扱いの変更(オプトアウト)ができなければならないはずだ。
利用者は、あくまで自分に関するデータを自分でモニターでき、管理、コントールする権利が確保されてなければならないのが当然のこと。それなのに、情報の収集やその外部利用に関しての本人への同意取得義務もオプトアウトも今回の決定では見送られることになった。
一般消費者の無関心とある種の無知につけ込んで、利用者データを「換金」し続けようとする企業は長持ちしないよ。時間が経てば、日本でもいずれはヨーロッパですでに一般化されているGDPRのような規制への考え方が強くなってきて、「これまで騙されていた」と感じる消費者からそっぽを向かれるようになるのは明らかなのだから。
そのことが分かっていながら、「少しでも長くいまの状況を維持できれば」という企業の短期的思考なんだろうが、感心しない。
アカデミー賞受賞有力作と言われている、スティーブン・スピルバーグ監督の『ウエストサイド・ストーリー』のリメイク版をレイトショーで観た。
リメイクというのも変だな、元々の1961年製作の同映画(ロバート・ワイズ、ジョローム・ロビンズ監督)は舞台がもとで、その元々の話はシェークスピアの『ロミオとジュリエット』が下敷きになっている。
まあ、よくよく考えてみると、およそほとんどの創作物にはなんらかの下敷きがある。明らかなベースと言えるものがなくても、人が創造する限り影響を受けたものがないものはない。
今回のスピルバーグが監督したウエストサイド・ストーリーだが、冒頭に登場する土地開発中(つまり工事中)のニューヨークを映したカメラワークがいい。センスと技術と予算があるな〜、といきなり惹き込まれる。
この作品、広告には「禁断の愛の物語」などと書かれているが、禁断でもなんでなく、どこにでもある普通の男女の物語である。が、それをこのようにドラマ化して見るものの心に強く訴えるものにできる芸術性というか表現力は素晴らしい。
何よりもバーンスタインの音楽は、いまも色あせない。最初にブロードウェイのミュージカルとして公演されたのは1957年のこと。バーンスタインと言えば、『ウエストサイド・ストーリー』の翌年に常任指揮者に就任したニューヨーク・フィルやウィーン・フィルの指揮者として思い出されるが、作曲家やピアニストとしても知られた存在で、ジャズについても詳しかった。
物語の舞台は1950年代、開発が急速に進むニューヨークのアッパー・ウエストサイド。建設中らしいリンカーン・センターが出てくる。映画の撮影は、街のシーンを含めて多くはスタジオセットだろう。今から60年以上前のニューヨークを描くのだから仕方がない。
そのなかで、実際に今もニューヨークにある観光スポットが使われていた。劇中では名前など出てこなかったが、マンハッタンの北部、フォート・トライオン・パークにあるクロイスターズ(The Cloisters)だ。中世の修道院様式の美術館で、ユニコーンのタペストリーを何枚も展示した部屋や小さいながらも雰囲気のある中庭が印象的だった。今回の映画には、主人公の二人がその中庭で語らうシーンが描かれていた。
今の若者からみれば、この作品に登場する若者たちは、ちょうど自分たちのおじいちゃんとおばあちゃんの世代だ。だけど、そこで繰り広げられている、ひょっとしたら取るに足らない闘争とそれが生む分断は「今」と驚くほど似ている。米国内でトランプ的な考えが生んだ社会の分断だ。アメリカの映画界には民主党支持者が多いことも考えての映画作りだろうか。
このスピルバーグ版では、リタ・モレノがヴァレンティナという新たな役を演じた。その彼女がトニーに話す台詞 "Life matters, even more than love" には、これまでのシンプルな恋愛至上主義ではない価値観が込められている。
アカデミー作品賞受賞はどうか分からないが、いくつかの部門賞はまず獲得しそうだ。
仕事用のテーブルの上に積まれた書類の山を整理していたら、4ヵ月前の新聞が出てきた。その第一面にあったのは「真鍋さん 言葉濁した日本への思い」と題する記事。
片付けの手を止め、思わず読み直してしまった。そこに書かれた彼の言葉に考えさせられることがあったのでメモしておこう。
昨年、ノーベル物理学賞受賞が決まった日に、真鍋淑郎さんがプリンストンの自宅で日本の報道陣のインタビューに応えた言葉だ。
日本の研究は、好奇心に基づくものが以前よりもどんどん少なくなっていると思う。
⇒ 諸外国(特にアメリカ)で話題になったテーマやネタをカタカナに直して日本で紹介しているだけの研究が多い。これはとりわけ、マネジメント研究の領域で甚だしい。オリジナルなことをやるのが研究のはずなのだけど。
日本で人びとは常に、お互いの心を煩わせまいと気にかけています。とても調和の取れた関係性です。日本人が『イエス』と言っても、それは必ずしも『イエス』を意味せず、『ノー』かも知れません。
⇒ 真鍋さんは、1997年に約40年ぶりに日本に戻って仕事を始めた。当時の科学技術庁が管轄する研究組織の長に就いたのだが、4年後に辞任して米国に戻った。はっきりと考えや意思を示さず曖昧に済まそうとする日本人のスタイルは、そうした玉虫色コミュニケーションに慣れていない人間には苦痛以外の何ものでもないものだ。
なぜなら、誰かの感情を傷つけたくないからです。アメリカではやりたいことができる。他人がどう感じているか、それほど気にしなくていい。
⇒ つまり、日本では人びとは他人の感情を窺うことを優先させなければならないがために、やりたいことができないと。
米国で暮らすって、素晴らしいことですよ。私のような科学者が、研究でやりたいことを何でもやることができる。
⇒ それこそ素晴らしい。真鍋先生だから、というのもある。
私は調和の中で生きることができません。それが、日本に帰りたくない理由の1つなんです。
⇒ とても優しい言い方をされているが、日本に住む我々は自分を生きていないという指摘だろう。
最後のその言葉を彼が発したとき、インタビューの場が笑いに包まれた。そうすると、真鍋さんはしばらくの間、そこにいた日本の報道関係者たちを黙って見渡したらしい。なぜそこで笑いが起こるのか、彼には不可解だったから。
ところで彼の発言を読む限り、真鍋さんは言葉を濁してなんかいないと思うけど、記事を書いた記者はなんでそう感じたのかナ。
メタバースについて見聞きする機会が増えてきた。ネット上に作られたその仮想の3次元空間で、人は日々働き、学び、遊ぶことができるという。
スキーの高梨沙羅選手が混合団体戦の1回目のジャンプのあと、ウェアの検査でそれが失格になった。
コロナ感染拡大以来、国際学会にはどこにも行けていない。これってフラストレーションが溜まるもんだね。
ところで、われわれ大学の研究者が研究を推し進めるためにもらっている代表的な研究費に科研費がある。正式には科学研究費助成金と呼ぶもので、文科省所管の日本学術振興会が仕切っている。
僕もその助成金を受け取って研究の一端を進めているわけだが、コロナで国際学会に一切出かけられなくなりどうしようかと思っていたら、その助成金の使用年限を延長することができる申請の案内が来た。
ありがたい話だ。その申請は日本学術振興会のサイトから行うのだが、サイト利用のための手引き(マニュアル)はなんと649ページもある。https://www-shinsei.jsps.go.jp/kaken/docs/kofumanual-shinseisha_K.pdf
「米国のウォルト・ディズニーカンパニーの株をおよそ30年前に買っていたら、今は何倍になっているでしょう。(1)2倍、(2)21倍、(3)119倍」――。21年12月、吉祥女子中学・高等学校(東京都武蔵野市)の教室で、三菱UFJモルガン・スタンレー証券の社員が生徒たちに問いかけた。正解は(3)の119倍。「1万円のお年玉を投資していたら、30年あまりで100万円を超えました」という説明に約30人の生徒が驚きの表情を浮かべた。
今年の年明け、神保町の映画館、岩波ホールがこの7月で閉館されるとの発表があった。東宝や松竹、東急といった大手の興行システムとは異なるスタイルで、自分たちのお眼鏡に適った映画を単館で長期上映するやり方を続けていたが、とうとう立ちゆかなくなった。
下記は岩波ホールが上映したなかでのこれまでの主な作品。僕が観たのを覚えているのは、88年の『八月の鯨』、2013年の『ハンナ・アーレント』、19年の『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』あたりか。
『ハンナ・アーレント』
https://tatsukimura.blogspot.com/2013/11/blog-post_24.html
『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』
https://tatsukimura.blogspot.com/2019/06/blog-post_26.html
日本のほぼすべての新聞(全国紙)が岩波ホール閉館を惜しみ、「なぜ支えられなかったのか」という論調の記事を書いているが、いまさら何を言ってるのかと思わないでいられない。普段ろくに目を向けたこともないくせに、何かあると「どうして閉館するのか?」と問う。
それはそうと、岩波ホールの閉館は日本の組織の失敗の典型例にみえる。神保町駅の真上という集客型ビジネスでは願ってもない最高の立地。九段下駅も近くだ。近隣は日本を代表する古書街、書店街がある。大学も周辺に数多くある。オフィスや商業施設もたくさんある。劇場が入っているビルは、自社ビルである岩波神保町ビル。だからテナント料を心配する必要はないはず。そして、「岩波」という日本の最高の知性ブランドを掲げる。
良質な映画を単館上映する姿勢を守り、「社会情勢の変化とともに観客が減った結果」の閉館決定と伝えられているが、根本のところは経営者の能力とやる気のなさではないだろうか。
自分たちが考える「良質な映画」にこだわり、それを標榜するのは勝手だが「良質」とは何かは個人の、そして時代の価値観によって異なる。
かつては岩波ホールでは高野悦子さんという知る人ぞ知る優れた映画人が支配人をしていたが、そんなことは今の若い人たちは知る術もない。今の時代に自分たちをどう位置づけ、どう社会(映画ファン)に向けて発信していくかの基本的な行為すら経営者は分かってなかった。
自分たちの価値観で「いい映画」を上映するだけではなく、映画館は興行なんだからそれを興味のありそうな人たちに伝え、魅力を感じてもらい、劇場に足を運ぶようさせなければにっちもさっちもいかなくなるのは当然のこと。
コロナ禍の影響は大きかったと思うが、時間の問題だったと言える。
今日の日経の記事。2020年度の日本の広告費は対前年比16%のマイナス、翌21年度は過去最高の伸びの15%プラスだったらしい。で、22年度は3.7%の伸びという見通しらしい。
来週、北京で第24回目の冬季オリンピックが開催される。オミクロン型コロナウイルスが世界的に蔓延してなかでの大会となる。
日本ではオンエアされていないが、IOCがUncommon Creative Studioというロンドンの広告制作会社に作らせた北京冬季五輪のCMが世界で流されている。
世界中が冬季オリンピアンとシンクロしていく様を表現するのがコンセプトなんだろうけど、ちょっとね。
動画投稿アプリTik Tokの日本法人が、インターネット上で影響力を持つインフルエンサーたちに金を渡して特定の動画をTwitterに投稿させ、拡散しようとしていたと報じられた。
映画「クライ・マッチョ」は、クリント・イーストウッドが50年前に「恐怖のメロディー」で監督デビューしてから40作目になる作品である。今や誰もが認める大監督である
もっと本を読もう、映画は映画館で観よう、と思い、先月契約を止めたネットフリックスを再契約してしまった。そして「新聞記者」6話分を一気見してしまった。
一晩で一気に見るつもりはなかったのだけど、次の話がどんどん再生されていくんだもんなあ。うまいというか、ほんとよくできているよ。
ストーリーの中心は、安倍元首相の例の森友学園問題で近畿財務局の職員だった赤木俊夫さんが自殺にいたったことと、それに絡んだ官邸と財務省の作為だ。
本件、関係者はもう終わったと胸をなで下ろしていたかもしれないが、これで再燃するかもしれない。
日本のメディアには官邸や総務省からの圧力がかかっているだけでなく、局の番組スポンサーも政府の意向を気にしてできるだけ波風を立てない考えをもっている。だから報道姿勢も腰砕けというか、見て見ぬ振りを続けているように思える。
だが、ネットフリックスにはそうした忖度は基本的にほぼ無用のようだ。しかも、このドラマの視聴者は日本国内だけでなく、世界中の人間がそれぞれの言語の字幕付きで見ることができるのが何と言っても圧倒的だ。テレビ局も番組スポンサーも、フィルムの配給会社も劇場興行主も関係ない。コンテンツそのものに力があれば、何億人という人がダイレクトに見てくれる。
もとは米海兵隊員で名うての狙撃兵だった男が、メキシコとの国境近くの田舎町でいまは小さな農場で愛犬とだけ暮らしている。
その彼がある日、訳あってメキシコの麻薬カルテル組織から追われてアメリカに逃げ込んできた親子と出会う。母親は撃ち殺され、彼はメキシコ人の11歳の少年を連れてシカゴを目指すことになる。
ラジエーターの壊れたクルマで北へひた走る彼(リーアム・ニーソン)と少年、ワンコも乗ってる。映画『マークスマン』は、彼らに対して執拗に迫ってくる組織の殺し屋たちとの戦いを描いたロードムービー。
本作品でのリーアム・兄さん、じゃなかった、ニーソンが演じる主人公は『グラントリノ』のイーストウッドを彷彿とさせる。
どこか親近感があると思ったプロットは、ジョン・カサベテスの『グロリア』を連想させる。
観客は50代以上がほとんどだった。
マーク・ラファロが主人公の弁護士ロブ・ビロットを演じた『ダークウォーターズ』は、ビロットも含め、映画に登場する全員がすべて実在の人物である。
ということは、ストーリーも事実に基づいているということ。アメリカの大化学企業デュポンが起こしたとてつもない環境汚染と、その被害者である多くの住民と、たまたま彼らの側で闘うことになった弁護士を描いている。
デュポン社が生んだ巨大なイノベーションのひとつである<テフロン>が製造される段階でPFOA (PFAS) という化学物質が排出され、デュポン社はそれが持つ強い毒性を種々の実験調査で知っていながらたれ流すことで水を汚染していた。多くの住民や従業員が癌で亡くなり、女性は顔面が畸形化した子どもを産んでいた。
何十年も前からその毒性を確認しておきながら、莫大な利益を生む製品を守るために自分たちが犯している犯罪を隠蔽し、誤魔化し、政治力に訴えてもみ消そうとする世界的な巨大化学会社。その存在はどこの国にもあり、珍しい存在ではないかもしれない。
しかし、その犯罪的行為を真正面から糾弾する映画は珍しい。デュポンやテフロンは、実在する企業名、製品名。舞台とされている街(ウェスト・バージニア州パーカーズバーグ)も実在の街だ。登場人物の名前も実在の人びとだ。
アメリカには、こうした映画を作る勇気があることに敬服する。正義を求め、それを真正面から堂々と主張しなければと考えるスピリットが多くの人のなかに生きている。
この映画、僕は個人的に音楽の使い方が気に入ったところがある。たとえば、主人公の弁護士ビロットが実状を確認しようと初めてウエスト・バージニア州を車で訪れるとき、BGMにジョン・デンバーの「カントリー・ロード」が流れる。
そうだ、覚えているかな。こんな歌詞で始まる。
♪ Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountains, growin' like a breeze
Country roads, take me home
To the place where I belong
West Virginia, mountain momma
Take me home, country roads
「♪まるで天国、ウエスト・ヴァージニア」と始まる歌で、皮肉が効いている。
ビロットは文字通りその身を掛け、デュポンというゴリアテ相手に何年もの闘いを挑み、やっと裁判に持ち込む。その裁判は、いま現在も続いているという。水俣と同じだ。
映画のラスト、懐かしい声がスクリーンから流れてきた。Johnny Cashが歌う「I Won't Back Down」である。聴いてて泣きたくなったよ。
新聞のサイトでGIGAスクール構想とやらの現実を映す写真を見て、思うところがあった。
GIGAスクール構想は、文部科学省が2019年12月に打ち出した全国の小中学校生に一人一台のパソコン(タブレット)端末を渡し、学校には高速大容量のネットワーク環境を設けるという政策だ。
この写真、教室内で子どもたちが授業の終わりに先生の板書内容を「一人一台」のタブレット端末で撮影している。前の児童の頭が邪魔なのか立ち上がり腕を伸ばして撮影しているようだが、みんながそれをやれば結局は同じ。
これはどこかで見た風景であり、僕が教える大学院(ビジネススクール)でも、数年前まで教室で「カシャッ」「カシャッ」という音が響いていた。
不愉快なので禁止にした。不満の声が出たが、こちらが話をしているときに不遠慮に聞こえてくる撮影音がノイズであるのはもちろんのこと、ノートを取るという作業を放棄して写真さえ撮っておけば安心、という学生の思考放棄に問題があると考えたからだ。
手を怪我していてノートが取れない、だからしかたなく黒板(ホワイトボード)を撮す、そしてちゃんと後で見返す。というのなら、もちろんOKだ。が、そうでもないのにホワイトボードやプロジェクタースクリーンをパシャパシャやって、それで「学んだ」気になっているだけなのが大半である。
確かにノートを取らないという学習スタイルはある。その時に自分の頭で考え、理解し、覚えるべきことは記憶できるという自信があればそれでいい。あるいは、理解することを主眼に据え、記憶も記録も自分には不要だと割り切れば、それもそれで構わないだろう。
だがそうした考えでノートを取らないのではなく、写真さえ撮っておけばなんとなく安心、と思っているのが窺える。
本来、ノートを取る、つまり自分の言葉で記録しておくためには、まず内容を理解し、残しておくために記録するべきことを峻別し、文字や記号などでそれを留めておくことが求められる。そうした当たり前のことをやっているかが問題だ。
ジャーナリストの故筑紫哲也さんは手考足思(もとは陶芸家、河井寛次郎さんの言葉)をつねづね語っていたが、タブレットのカメラでカシャッとやって済ますのは学習することとはほど遠い。
小学生の時からそんなことをさせてどうするのだ。彼らのノートパソコンやタブレットの中にはやがて大量の写真情報が蓄積されていく。しかしそれは、学ぶこととはまったく無関係。
そういえば、ムーンライダーズに『カメラ=万年筆』という傑作アルバムがあったが、これからの小学校は、さしずめ「タブレット=カメラ」と成り果てるのだろう。