2022年2月8日

649ページの超重厚マニュアルは役に立つか

コロナ感染拡大以来、国際学会にはどこにも行けていない。これってフラストレーションが溜まるもんだね。

ところで、われわれ大学の研究者が研究を推し進めるためにもらっている代表的な研究費に科研費がある。正式には科学研究費助成金と呼ぶもので、文科省所管の日本学術振興会が仕切っている。

僕もその助成金を受け取って研究の一端を進めているわけだが、コロナで国際学会に一切出かけられなくなりどうしようかと思っていたら、その助成金の使用年限を延長することができる申請の案内が来た。

ありがたい話だ。その申請は日本学術振興会のサイトから行うのだが、サイト利用のための手引き(マニュアル)はなんと649ページもある。https://www-shinsei.jsps.go.jp/kaken/docs/kofumanual-shinseisha_K.pdf

 
おそらく高度に網羅的に記述しているので、サイト上で種々の手続きを行うためにはこのマニュアルを読めば何でも分かるのだろう。一方で時間がないときなどは、目眩がしてしまいそうだ。

2022年2月7日

高校生たち、君らは何に夢中になってもいいけど、株には気を付けろ

「米国のウォルト・ディズニーカンパニーの株をおよそ30年前に買っていたら、今は何倍になっているでしょう。(1)2倍、(2)21倍、(3)119倍」――。21年12月、吉祥女子中学・高等学校(東京都武蔵野市)の教室で、三菱UFJモルガン・スタンレー証券の社員が生徒たちに問いかけた。正解は(3)の119倍。「1万円のお年玉を投資していたら、30年あまりで100万円を超えました」という説明に約30人の生徒が驚きの表情を浮かべた。

という書き出しで始まる記事が、夕刊の一面トップに載っていた。
 
高校の学習指導要領が新しくなって、2022年度からは株式や投資信託などの資産形成を教えることが必修化されるらしい。
 
その是非はここではひとまずおいておくが、それにあわせて女子中高生(なぜ中学生まで集めているのかネ?)を対象にしたクラスで、証券会社の社員が出張授業をしたとか。
 


教室内での先の問いかけだが、学校関係者や取材していた記者はヘンだとは思わなかったのだろうか。
 
普通の感覚であれば、その証券会社の女性社員に対して「あなたは、あるいはあなたの知り合いか誰かで30年前にそのウォルト・ディズニーカンパニーの株を購入し、119倍になった株の含み益を保有している人がいるのですか?」という素朴な疑問がうかぶはずだ。

そうした人物がいれば大したものだが、どうだろう・・・。30年前に一般の日本人の個人投資家で外国株をやっていた人はごく僅かであり、もしその時にディズニーカンパニー株を購入した人がいたとしても、30年後の今も持ち続けているかどうか。

もちろんこの証券会社の社員が言ったのは「たとえば」の話だろうが、こうした極めて特殊な事例を株投資の知識を持ち合わせていない女子中高生にするのは適切ではないはず。それが分かっていてこうした話をしたとしたら、確信犯的でとても悪質だ。
 
国の定めで学校で必修化されたため、各地の多くの高校では投資や資産形成について誰がどう教えたらいいのか戸惑っている。それをいいことに、証券会社の社員らが出張授業や教材提供などの手段で教育の場にスルスルッと入り込み、今回のような子供だましの説明をして生徒たちをミスリードしていく。
 
学校の先生や教育委員会は、株投資に関して自分たちの知識が限られているから、手をこまねいてそれを放置するしかない。親や社会がしっかりしないとね。
 
そもそも「金融教育」とは、高校生に投資を推めることが本来の目的ではないはず。

ディズニー株で大もうけできたはずの話のあとは、株で大損こいて人生を破滅させた人の事例も当然中高生たちにお話してやったんだろうね、三菱UFJモルガン・スタンレー証券の社員さん。

2022年2月6日

なぜ岩波ホールは閉館するのか

今年の年明け、神保町の映画館、岩波ホールがこの7月で閉館されるとの発表があった。東宝や松竹、東急といった大手の興行システムとは異なるスタイルで、自分たちのお眼鏡に適った映画を単館で長期上映するやり方を続けていたが、とうとう立ちゆかなくなった。

下記は岩波ホールが上映したなかでのこれまでの主な作品。僕が観たのを覚えているのは、88年の『八月の鯨』、2013年の『ハンナ・アーレント』、19年の『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』あたりか。

 
『ハンナ・アーレント』
https://tatsukimura.blogspot.com/2013/11/blog-post_24.html
『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』
https://tatsukimura.blogspot.com/2019/06/blog-post_26.html 

日本のほぼすべての新聞(全国紙)が岩波ホール閉館を惜しみ、「なぜ支えられなかったのか」という論調の記事を書いているが、いまさら何を言ってるのかと思わないでいられない。普段ろくに目を向けたこともないくせに、何かあると「どうして閉館するのか?」と問う。

それはそうと、岩波ホールの閉館は日本の組織の失敗の典型例にみえる。神保町駅の真上という集客型ビジネスでは願ってもない最高の立地。九段下駅も近くだ。近隣は日本を代表する古書街、書店街がある。大学も周辺に数多くある。オフィスや商業施設もたくさんある。劇場が入っているビルは、自社ビルである岩波神保町ビル。だからテナント料を心配する必要はないはず。そして、「岩波」という日本の最高の知性ブランドを掲げる。

良質な映画を単館上映する姿勢を守り、「社会情勢の変化とともに観客が減った結果」の閉館決定と伝えられているが、根本のところは経営者の能力とやる気のなさではないだろうか。

自分たちが考える「良質な映画」にこだわり、それを標榜するのは勝手だが「良質」とは何かは個人の、そして時代の価値観によって異なる。

かつては岩波ホールでは高野悦子さんという知る人ぞ知る優れた映画人が支配人をしていたが、そんなことは今の若い人たちは知る術もない。今の時代に自分たちをどう位置づけ、どう社会(映画ファン)に向けて発信していくかの基本的な行為すら経営者は分かってなかった。

自分たちの価値観で「いい映画」を上映するだけではなく、映画館は興行なんだからそれを興味のありそうな人たちに伝え、魅力を感じてもらい、劇場に足を運ぶようさせなければにっちもさっちもいかなくなるのは当然のこと。

コロナ禍の影響は大きかったと思うが、時間の問題だったと言える。 

https://www.iwanami-hall.com/topics/news/5024

2022年2月4日

3.7% 増えて市場規模はいくらに

今日の日経の記事。2020年度の日本の広告費は対前年比16%のマイナス、翌21年度は過去最高の伸びの15%プラスだったらしい。で、22年度は3.7%の伸びという見通しらしい。


どういった推計を行っているのか分からないが、それにもましてこの記事はここ数年の国内広告費に関するもののはずなのに、金額の実数が一切書かれていないのが不思議。

2022年1月27日

北京冬季五輪のテレビCM

来週、北京で第24回目の冬季オリンピックが開催される。オミクロン型コロナウイルスが世界的に蔓延してなかでの大会となる。

日本ではオンエアされていないが、IOCがUncommon Creative Studioというロンドンの広告制作会社に作らせた北京冬季五輪のCMが世界で流されている。

世界中が冬季オリンピアンとシンクロしていく様を表現するのがコンセプトなんだろうけど、ちょっとね。

2022年1月25日

騙される方が悪い、のがネットの世界か?

動画投稿アプリTik Tokの日本法人が、インターネット上で影響力を持つインフルエンサーたちに金を渡して特定の動画をTwitterに投稿させ、拡散しようとしていたと報じられた。

報道ではステルス・マーケティングではないかと書いてあったが、こうした訳のわからない言い方はやめて、はっきりと「やらせ」と呼んだ方が良いんじゃないのかね。

他にもアドフラウとか、その実態が一般の人にはすぐには分かりようがないアメリカ生まれの用語そのままをカタカナで使うのは、どうしたものかと思う。

そうした用語は日本語できちんと置き換えて表現することで意味とニュアンスもより明確に伝わるはずだ。たとえば、アドフラウは端的に「広告詐欺」と表現すればすむ。

カタカナで表現されると、オブラートで包まれたような印象しか残らない。まずはメディアの人間が意識的に物事を表現するようになると状況は少しずつ変わっていく。
 
ところでバイトダンス社だが、その後「利用者や関係者の皆さまに誤認を与える可能性があることを考慮し、今後このような施策は行わないよう社内に周知徹底し、再発防止に取り組む」との声明を出したが、いったい外部の誰がそれを確認できるのか。

とにかく金で易々と釣られるインフルエンサーがいる限り、こうしたことはなくならることはない。契約に基づいた金銭の支払いでなくても、それを求める連中に対して如何様にでもインセンティブは提供できる。

ここはもう、諦めるしかない。ネット上の不正を厳密に取り締まることはできないし、自浄作用に任せるのも現実的とは思えない。あとできることは、受け手であるわれわれの側がしっかり知恵を働かせて、ウソとマコトを自分で判断するしかない。狐と狸の化かし合いではないが、ネットはそういう世界だ。
 
広告やマーケティング上のやらせは、最近始まったことではない。むかしからあり、これをどう捉えるかは状況や立場によって異なるので簡単ではない。 

プロダクト・プレイスメントという手法がある。たとえば映画やドラマの小道具や衣装などに特定の商品を用いることで間接的に訴求するというやり方だ。これもまた昔から古典的なやり方だが、手法として有名になったきっかけは、1982年のスピルバーグの映画『E.T.』で使われたチョコレートからだ。
 
007シリーズでボンドがしている腕時計なんかも明らかにプロダクト・プレイスメントだろう。自動車メーカーが番組提供しているテレビドラマで主人公が乗る車は当然、そのメーカーの車だ。これらを「やらせ」と呼ぶかどうかだが、そうは受け取らないのが一般的だろう。
 
やらせかどうかの線引きは実に難しい。結局は、受け手の考え方とリテラシー次第ということになる。
 

2022年1月24日

マーケティングは、そこにあった

マーケティングの分野を代表する世界的な学者として、アメリカ人のフィリップ・コトラーがいる。彼が書いた『Marketing Management』は、今も世界中のビジネス・スクールにおいてマーケティングの定番テキストとして用いられている。
 
僕自身、30年ほど前に英国のビジネス・スクールで学んだとき用いたテキストが、同書の第7版か8版だったように記憶している。初版は1970年頃で、今は第16版あたりが最新版として出ている。移り変わりの激しい分野で、これほどまでに長く、そして広く読まれていること自体が優れたマーケティングである。
 
彼はまた、そうしたテキスト以外にもマーケティング分野の多くの本を書いている(ただし、最近の共著書上の彼の名は、ほとんど名義貸しだが)。そして日本の出版社が、それらの翻訳本を売らんがためなのであろうか、彼を書籍広告などで「マーケティングの神様」と称して紹介している。

マーケティングの神様とは何だろうと思うのだが、確かにかつてはセールスの別名としてアメリカで考えられていたマーケティングを整理し、今のマーケティングの体系を築き示してきたのは彼の最も大きな功績の1つだ。

僕自身コトラーの本の翻訳を何冊か手掛けているし、また彼と何度か直接会って話したこともある。そして今も時折メールのやりとりをするのだが、ある時彼にあなたの本が日本で広告されるとき、日本の出版社はあなたのことを「マーケティングの神様」と呼んでいると伝えたことがある。
 
それに対して彼は、自分は神ではない、自分はマーケティングを創造していない、マーケティングはそこにあった、と言う。

神、すなわち創造主としてマーケティングを創ったのではなく、市場現象としてそこにあったマーケティングを彼は様々な分析方法やコンセプトを用いて整理し、体系化したという。
 
確かにその通りだろう。そう、マーケティングは既にそこにあったのだ。

2022年1月23日

老年期の男と少年と動物、そしてメキシコの旅路

映画「クライ・マッチョ」は、クリント・イーストウッドが50年前に「恐怖のメロディー」で監督デビューしてから40作目になる作品である。今や誰もが認める大監督である


監督と主演をつとめるイーストウッドが演じる元ロデオ・スターのマイクは、かつての落馬をきっかけに引退し、今は静かな、そしてある意味で落ちぶれた男として暮らしている。

昔の雇用主からメキシコにいる訳ありの息子を連れて帰ってくれるように依頼されることから物語が始まり、半ば誘拐のような感じメキシコ人の少年を連れて、おんぼろ車で旅しながら彼の父親が待つメキシコとアメリカの国境に向かうと言うロードムービーである。

先日見た『マークスマン』で、リーアム・ニーソンがメキシコ人の少年を連れてメキシコ国境から中西部の街シカゴを目指すスタイルと似ている。
 
『マークスマン』では、リーアム・ニーソンは旅の途中でメキシコ人の少年に銃 (ベレッタ)の使い方を教えるシーンがあったが、本作では元ロデオのチャンピオンだったイーストウッドが国境へ向かう途中で立ち寄った村で少年に馬の乗り方を教えてやる。

それは、マイクにとっても自分自身を取り戻す再生を呼び起こす行為である。『マークスマン』では旅をするのは年老いたリーアム・ニーソン、メキシコ人の少年、そして1匹の犬だった。本作では、年老いたイーストウッドと同じくメキシコ人の少年、そしてその少年が連れている闘鶏のマッチョであるところもなんだかよく似ている。
 
かつての輝きを失った年老いた男と少年、そして動物という取り合わせは黄金のトリオだ。

途中、彼らの旅を阻む連中の存在、そして戦い。それにより少年は成長し、新たな人生への予感を漂わせる。一方、年老いた男はどうなるか。『マークスマン』のニーソンはやるべきことを成し遂げた後、すでに何にも名残はないかのように満足し安らかな表情で息途絶える。

イーストウッドは、その長身の体を少しかがめ、ゆったりとした足取りながらもちょっぴりロマンチックな新たな人生を見つけそこへと静かに入っていく。これは、91歳になったイーストウッドが眺める人生へのひとつの眼差しだ。イーストウッド節といっていい、性根の太さとペーソスを漂わせる。
 
劇場の観客は、週末だというのに僕ともう一人だけ。下の階のスターバックスは若い連中で溢れているというのに。

2022年1月18日

森友事件糾明の声は再燃するか

もっと本を読もう、映画は映画館で観よう、と思い、先月契約を止めたネットフリックスを再契約してしまった。そして「新聞記者」6話分を一気見してしまった。

一晩で一気に見るつもりはなかったのだけど、次の話がどんどん再生されていくんだもんなあ。うまいというか、ほんとよくできているよ。

ストーリーの中心は、安倍元首相の例の森友学園問題で近畿財務局の職員だった赤木俊夫さんが自殺にいたったことと、それに絡んだ官邸と財務省の作為だ。

本件、関係者はもう終わったと胸をなで下ろしていたかもしれないが、これで再燃するかもしれない。

日本のメディアには官邸や総務省からの圧力がかかっているだけでなく、局の番組スポンサーも政府の意向を気にしてできるだけ波風を立てない考えをもっている。だから報道姿勢も腰砕けというか、見て見ぬ振りを続けているように思える。

だが、ネットフリックスにはそうした忖度は基本的にほぼ無用のようだ。しかも、このドラマの視聴者は日本国内だけでなく、世界中の人間がそれぞれの言語の字幕付きで見ることができるのが何と言っても圧倒的だ。テレビ局も番組スポンサーも、フィルムの配給会社も劇場興行主も関係ない。コンテンツそのものに力があれば、何億人という人がダイレクトに見てくれる。

2022年1月15日

リーアム・ニーソンの新作

もとは米海兵隊員で名うての狙撃兵だった男が、メキシコとの国境近くの田舎町でいまは小さな農場で愛犬とだけ暮らしている。

その彼がある日、訳あってメキシコの麻薬カルテル組織から追われてアメリカに逃げ込んできた親子と出会う。母親は撃ち殺され、彼はメキシコ人の11歳の少年を連れてシカゴを目指すことになる。

ラジエーターの壊れたクルマで北へひた走る彼(リーアム・ニーソン)と少年、ワンコも乗ってる。映画『マークスマン』は、彼らに対して執拗に迫ってくる組織の殺し屋たちとの戦いを描いたロードムービー。


ストーリーはシンプルだが、登場人物の輪郭と彼らの関係がくっきり描かれている。まだ11歳とあどけなさも残るが、利発なメキシコ人少年。息子を心底愛していたその母親。リーアムが最近失った妻と、今は地元の国境警備隊の捜査官として働く娘。そして、愛犬。

本作品でのリーアム・兄さん、じゃなかった、ニーソンが演じる主人公は『グラントリノ』のイーストウッドを彷彿とさせる。

どこか親近感があると思ったプロットは、ジョン・カサベテスの『グロリア』を連想させる。

観客は50代以上がほとんどだった。

2022年1月12日

「ダークウォーターズ」は、アメリカの水俣だ

マーク・ラファロが主人公の弁護士ロブ・ビロットを演じた『ダークウォーターズ』は、ビロットも含め、映画に登場する全員がすべて実在の人物である。

ということは、ストーリーも事実に基づいているということ。アメリカの大化学企業デュポンが起こしたとてつもない環境汚染と、その被害者である多くの住民と、たまたま彼らの側で闘うことになった弁護士を描いている。


物語は1998年から始まる。ビロットが勤務する法律事務所に彼の祖母の知り合いだというウェスト・バージニア州で農場を営む中年男が訪ねてくる。物語はいつもひょんなことからスタートする。これもまた作り話ではなく事実だ。

デュポン社が生んだ巨大なイノベーションのひとつである<テフロン>が製造される段階でPFOA (PFAS) という化学物質が排出され、デュポン社はそれが持つ強い毒性を種々の実験調査で知っていながらたれ流すことで水を汚染していた。多くの住民や従業員が癌で亡くなり、女性は顔面が畸形化した子どもを産んでいた。

何十年も前からその毒性を確認しておきながら、莫大な利益を生む製品を守るために自分たちが犯している犯罪を隠蔽し、誤魔化し、政治力に訴えてもみ消そうとする世界的な巨大化学会社。その存在はどこの国にもあり、珍しい存在ではないかもしれない。

しかし、その犯罪的行為を真正面から糾弾する映画は珍しい。デュポンやテフロンは、実在する企業名、製品名。舞台とされている街(ウェスト・バージニア州パーカーズバーグ)も実在の街だ。登場人物の名前も実在の人びとだ。

アメリカには、こうした映画を作る勇気があることに敬服する。正義を求め、それを真正面から堂々と主張しなければと考えるスピリットが多くの人のなかに生きている。

この映画、僕は個人的に音楽の使い方が気に入ったところがある。たとえば、主人公の弁護士ビロットが実状を確認しようと初めてウエスト・バージニア州を車で訪れるとき、BGMにジョン・デンバーの「カントリー・ロード」が流れる。

そうだ、覚えているかな。こんな歌詞で始まる。

♪ Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountains, growin' like a breeze

Country roads, take me home
To the place where I belong
West Virginia, mountain momma
Take me home, country roads

「♪まるで天国、ウエスト・ヴァージニア」と始まる歌で、皮肉が効いている。

ビロットは文字通りその身を掛け、デュポンというゴリアテ相手に何年もの闘いを挑み、やっと裁判に持ち込む。その裁判は、いま現在も続いているという。水俣と同じだ。

映画のラスト、懐かしい声がスクリーンから流れてきた。Johnny Cashが歌う「I Won't Back Down」である。聴いてて泣きたくなったよ。 

2022年1月11日

理解し、重要なポイントを選び、手を使って覚えることから始まる

新聞のサイトでGIGAスクール構想とやらの現実を映す写真を見て、思うところがあった。

GIGAスクール構想は、文部科学省が2019年12月に打ち出した全国の小中学校生に一人一台のパソコン(タブレット)端末を渡し、学校には高速大容量のネットワーク環境を設けるという政策だ。

この写真、教室内で子どもたちが授業の終わりに先生の板書内容を「一人一台」のタブレット端末で撮影している。前の児童の頭が邪魔なのか立ち上がり腕を伸ばして撮影しているようだが、みんながそれをやれば結局は同じ。

これはどこかで見た風景であり、僕が教える大学院(ビジネススクール)でも、数年前まで教室で「カシャッ」「カシャッ」という音が響いていた。

不愉快なので禁止にした。不満の声が出たが、こちらが話をしているときに不遠慮に聞こえてくる撮影音がノイズであるのはもちろんのこと、ノートを取るという作業を放棄して写真さえ撮っておけば安心、という学生の思考放棄に問題があると考えたからだ。

手を怪我していてノートが取れない、だからしかたなく黒板(ホワイトボード)を撮す、そしてちゃんと後で見返す。というのなら、もちろんOKだ。が、そうでもないのにホワイトボードやプロジェクタースクリーンをパシャパシャやって、それで「学んだ」気になっているだけなのが大半である。

確かにノートを取らないという学習スタイルはある。その時に自分の頭で考え、理解し、覚えるべきことは記憶できるという自信があればそれでいい。あるいは、理解することを主眼に据え、記憶も記録も自分には不要だと割り切れば、それもそれで構わないだろう。

だがそうした考えでノートを取らないのではなく、写真さえ撮っておけばなんとなく安心、と思っているのが窺える。

本来、ノートを取る、つまり自分の言葉で記録しておくためには、まず内容を理解し、残しておくために記録するべきことを峻別し、文字や記号などでそれを留めておくことが求められる。そうした当たり前のことをやっているかが問題だ。

ジャーナリストの故筑紫哲也さんは手考足思(もとは陶芸家、河井寛次郎さんの言葉)をつねづね語っていたが、タブレットのカメラでカシャッとやって済ますのは学習することとはほど遠い。

小学生の時からそんなことをさせてどうするのだ。彼らのノートパソコンやタブレットの中にはやがて大量の写真情報が蓄積されていく。しかしそれは、学ぶこととはまったく無関係。

そういえば、ムーンライダーズに『カメラ=万年筆』という傑作アルバムがあったが、これからの小学校は、さしずめ「タブレット=カメラ」と成り果てるのだろう。

2022年1月4日

『ボストン市庁舎』

映画『ボストン市庁舎』(原題:City Hall)は、今年の1月1日に91歳になった映画監督、フレデリック・ワイズマンが制作したドキュメンタリー。


劇場での上映開始が今朝9時で、途中10分の休憩を挟んで終了したのが午後2時前だった。本編274分。鑑賞料2800円。半日仕事になってしまったが、時間をやり繰りして出かけた甲斐はあった。

今回の作品はワイズマンの43本目のドキュメンタリーになるが、彼の作るものはある意味で独特だ。ナレーションなし、BGMなし、インタビューなし。フリルの付いたテレビのドキュメンタリー番組に慣れた向きには素っ気ないだろうが、余計な飾りや制作者の意図を拝した姿が伝わる。

制作の場では、目の前で起こっていることをワイズマンを含めて3人という少人数のクルーが映像と音声に収めていく。監督であるワイズマンは、撮影後の編集はもちろん、現場では音声も担当しているらしい。

 

今回の彼の作品がこれまでのものと違う点は、ある特定の人物に焦点を当てていることかもしれない。それが、当時のボストン市長であるマーティン・ウォルシュ(現在はバイデン政権下の労働長官)だ。

彼が市庁舎や警察などの関係機関はもちろん、市民や各種NPOなどの集会に出かけて話をするシーンがたくさん出てくる。そこでのウォルシュのスピーチ、そして市民などのやり取りが日本人には珍しく映る。言葉の力というものを見せつけられ、実にまぶしい。

行政は何のためにあるのか、市長の存在意義は何なのか、市民との関係はどうあるべきなのか、実にフランクにそして的確に、かつ誰にでも分かりやすく説明をする。

質問や苦情を投げかける市民の方も容赦はない。ストレートに自分(たち)の考えや要望を伝え、対応を求める。成熟した民主主義ってこうなんだろうなって、観ていて感心することしきりだった。

ボストンはアメリカのなかでも歴史のある古い街。だから、さまざまな人種が交錯する。そして格差や不均衡、差別が存在している。性のありかたも多様だ。それぞれのバックグラウンドを抱えた市民やコミュニティが、自らの生を求めるなかでストレートに主張をぶつけ合う。言葉を尽くして相手に訴えかける。

忖度なんて考えていたら何も始まらない。で、当然ながら言葉には言葉で対応する。その力強さと発展性は、残念ながら日本には根本的に欠けているものだ。

ところで、この映画こそ日本の役所で働く連中にも見せなきゃ、と思ったら、今日行った映画館では市役所勤務の人を対象にした「市役所割」をやっていたよ。

いい考えだと思うけど、本当は各自治体が自分たちで上映会を行って、行政のあるべき姿に関して議論などしたらいいと思う。

斎藤幸平のあやしさ

地球温暖化は避けがたい現実である。だが、地球温暖化や気候変動の原因を資本主義に収斂させる単純な思考には首を傾げてしまう。

そもそも、こうしたことは「主義」の問題なのか。地球温暖化や気候変動の原因やそれらへの対応はもっと科学的な議論であるべきだ。

人類の経済活動が地球を破壊するとする人新生の考え方を唱える人は、「主義」の転換が問題解決につながると考えているらしく、具体的にいえば資本主義を共産主義に転換することが必要と言う。

だがそれで何か変わるのか、僕にはよく分からない。中国はCO2を排出していないのか。してる、大量に。

われわれは、環境保全を目的として共産主義の世界で生きるべきか。われわれは、そもそも何のために生きているのか。これは哲学の問題だが、ただ生物として生存するために、そのことを第一義的にして生きることに意味があるか疑問を感じる。

大阪市立大の斎藤幸平の本で「人新世」という言葉が知られるようになったが、そもそもその言葉の定義すらまだ定まっていない。

人新世という用語は、科学的な文脈で非公式に使用されており、正式な地質年代とするかについて議論が続いている。人新世の開始年代は様々な提案があり、12,000年前の農耕革命を始まりとするものから、1960年代以降という遅い時期を始まりとする意見まで幅がある。(Wikipedia)

それは12,000年前からか、それとも60年前からか、という訳だ。これでは議論のスタート地点にも立てない。

60年前から(1960年以降)というのは、以下のグラフからの指摘だろう。確かに異常気温が顕著になっているのはその頃からだ。だが、その当時はソビエト連邦はまだ崩壊していなかったし、多くの東欧の諸国も共産主義を標榜していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%96%B0%E4%B8%96

ところで先日のNHKのテレビ番組で、斎藤がチェコの経済学者で『善と悪の経済学』の著者のトーマス・セドラチェクとリモートで対談していたが、その冒頭で斎藤は、

In my book, I argued for de-growth communism which became very popular currently in Japan ....

とセドラチェクに迫ったが、very popular in Japan はないだろう。彼の本がどれだけ売れたのかは詳しく知らないが、たとえ100万部のミリオンセラーだとしても、日本人の1%以下。そして、その本を購入したからといって、購入者のすべてが彼の主張する<脱成長コミュニズム>に賛同しているわけでもない。

セドラチェクは、かつてソ連に侵攻されたことのあるチェコの学者ということもあって、コミュニズムの復権には注意深さを崩さず、きわめて懐疑的である。

そのチェコからネットで対談参加している彼に対し、日本の実状など分からないからとこうしたハッタリをかますのはいかがなものか。

そうした人間を精神分析の視点から論評することはたやすいが、それはここでは書かない。ただ言えるのは、こうした人物は信用出来ないということである。

2022年1月3日

最初から結論ありきで論じている

今朝の日本経済新聞の一面。「社内の幸福度の低さが企業の成長を阻み、それが社員の不満をさらに高めかねない」とある。その元になっているのは、同紙に掲載されているグラフ化された以下の調査結果だ。

これで分かるのは、せいぜい社員の幸福度と企業業績の間に相関関係がありそうだということだけ。ところが同紙は、「社員の幸福度の低下」が「企業の売上高の低下」を導くという因果関係があると一方的に解釈している。

そうではなく、「企業の売上低下」が「社員の幸福度の低下」を導いている可能性をなぜ考えないのだろうか。あるいは、ここにはない別因子の「経営の拙さ」が「企業の売上高の低下」と「社員の幸福度の低下」の双方を導いているとは。

日本企業では社員の幸福度が低いことが原因で企業業績がはかばかしくない、だから社員にもっとハッピーになってもらうことが肝心である、と読者に向けて言いたいようだけど理屈に合ってない。

そもそも目を向けるべきは社員の心の状態ではなく、企業経営の巧拙の方だろう。

2022年1月2日

ダグラス・アダムズの法則

30代半ばの知り合いが昨年末でそれまで勤めていた会社を辞めた。今年から別の業界に飛び込むらしい。

彼の年齢から、ダグラス・アダムズの法則と呼ばれる考え方があるのを思い出した。

それは、「人は、自分が生まれた時にすでに存在したテクノロジーを自然の世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じる」というものである。

人は35歳までは新しいことを受け入れることができ、そこに魅力的なものを感じる事ができるが、35歳を過ぎると周りに現れた新しいテクノロジーに対しては不安や不自然なものを感じてしまう性向があるということらしい。実は法則といっても科学的な根拠があるものではないのだが。

35歳と云えば、人は35歳までに転職をした方がいい、ということを僕が初めて聞いたのは40年近く前のこと。大学を卒業して初めて仕事に就いた広告代理店の先輩から聞いたのを覚えている。

それは、若いときは人は誰でも自分にいろんな可能性を感じて新しい事にチャレンジしていきたいと思うが、35歳を過ぎるあたりからたいていの人は自分にできることでできないこと、自分に向いてることと向いていないこと、可能性と不可能性のラインのようなものがわかってくるんだよという話だった。

転職をするとしたら、少なくとも35歳までにするべきだというのがその時の彼のメッセージの一つだった。彼自身がその当時30代半ばで、いろいろ思うことがあったのだろうと今にして思う。

そうしたアドバイス(?)があったからというのではないが、僕はその後30歳までその会社に勤め、転職した。それまでにも何度も会社を辞めようと思ったことはあったが、なぜか親身になって入社時から相談にのってくれた彼の顔が浮かび、30歳になるまでその会社で仕事をした。

いま世間では「45歳定年」という話があるが、そのことについて僕は基本的には結構なことだと思っている。いや、正しく述べるなら、制度として45歳で定年にするというより、少なくともそのあたりの年齢でビジネスマンは自らいくつか組織を渡り歩いていた方がいいということだ。

もし仕事は同じだとしても、働く場所や環境を変えた方がいい。新しい環境で、新しい人たちと働くことで新しい発見があり、新しい事を学ぶことができる。だから成長することができる。

同じ会社で定年まで働くのが間違ってるとは言わないが、その場合でもせめて周りの環境を意識的に変更することで人生はより豊かになる、というのが転職を繰り返してきた僕の経験からの考えである。

2022年1月1日

元日の新聞一面から

1月1日の各紙一面トップ記事をさらった。

朝日・・・「未来予想図 ともに歩もう」

毎日・・・「露、ヤフコメ改ざん転載 政府系メディアが工作か」

読売・・・「 米高速炉計画 日本参加へ」

東京・・・「「脱原発」叫び強くなれ」

日経・・・「資本主義 作り直す」

朝日、東京、日経は連載特集の初回記事だ。朝日は「未来のデザイン」、東京は「声を上げて デモのあとさき」、日経は「成長の未来図」というシリーズが始まる。

原発に関連した記事を東京新聞と読売新聞が取り上げているが、論調はきわめて対照的だ。読売は、高速炉計画への参加について、その難しさを指摘しながらも必要性を訴えようとしている。一方、東京新聞の一面は、直接原発に関した内容の記事ではないが、フリーの写真家を取り上げるなかで「脱原発」の意味を読者に語っている。 両社のスタンスがよく分かる。

特に元日だからと気張ったところがないのが毎日だ。ロシアの政府系メディアが日本の雑誌、ニュースサイトの読者コメントを改ざんして転載していることを指摘している。今回、そうした改ざんを毎日新聞が確認したものだけでも「週刊朝日」「ニューズウィーク日本版」「ヤフーニュース」がある。ロシアの主たる目的は、日米分断をあおることだと分析されている。

勝手に記事を書き換えたり、原文に書かれていないコメントを自分たちの情報操作を目的に勝手に付け加えていることが明らかにされた。ロシアのこうした情報操作はソ連時代からのもので、第二次大戦前から世界的に巧妙に行われていて、いわばお家芸なんだろう。

人のいい日本人たちは、これまでこうした旧ソ連やロシアによる情報操作と不正な手口でどれほど不利益を被ってきたことか。毎日新聞はいい仕事をしている。

その一方でノー天気としか思えないのが、朝日新聞だ。12月に横浜アリーナで行われたDREAMS COME TRUEのコンサートを引き合いに、ともに手を携えて未来に進もう、とのご託宣だが、まるで朝日中学生新聞かと思った。

元日の新聞一面は、各紙、自分たちの姿勢を読者に表明する場としてそれなりに時間をかけて考えられているはず。いまそれらの新聞各紙が何を考えているか、何に依っているかを知る手だけになる。

2021年12月29日

古めかしいエスニック・ジョークのようなCM

政府はよほど国民にマイナンバーカードを持たせたいらしい。何人ものタレントを使い、複数バーションのテレビCMでその取得を熱心に促している。

そのCMのひとつがこれ。

 
「いまもう国民の3人に1人が持っているっていうから・・・」

と、佐々木蔵之介が話すこのテレビCMに、なんだか馬鹿にされていると感じた視聴者も多いことだろう。理屈はなく、ただ<船に乗り遅れるよ>と相手を不安がらせようとしているだけ。

船と言えば、「沈没船ジョーク」と呼ばれる各国の国民性を揶揄した鉄板ジョークがある。こんな話だーー。

様々な民族の人が乗った豪華客船が沈没しそうになる。それぞれの乗客を海に飛び込ませるには、さてどのように声をかければいいか?

イギリス人には、「こういうときにこそ紳士は海に飛び込むものです」と伝える。

ドイツ人には、「規則ですので飛び込んでください」と伝える。

アメリカ人には、「今飛び込めば貴方はヒーローになれるでしょう」と伝える

イタリア人には、「海で美女が泳いでます」と伝える。

フランス人には、「決して海には飛び込まないで下さい」と伝える。 

中国人には、「おいしい食材が泳いでますよ」と伝える。

日本人には、「もうみなさん飛び込んでますよ」と伝える。

総務省が作ったこのテレビCMが言わんとしていることは、これと同じ。「何も考えなくていいから、さっさと右へ倣えでカード作れ」って。

深層心理の部分で国民に向かって「海に飛び込めー」って言ってる。

2021年12月26日

立ち上がる女

映画「たちあがる女」は2019年作のめっぽう元気で、気が利いたアイスランド映画である。

主人公ハットラを演じるハルズ・ゲイルハルズドッテルを見ていて、「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドを連想した。

現代のアイスランドを舞台に、その環境破壊を食い止めるために立ち上がった一人の女性を描いたユニークな作品で、自然にあふれたアイスランドの地にも環境汚染の波が押し寄せていることが分かる。中国資本が注がれたアルミニウムの製錬工場である。

アルミニウムの製錬には大量の電気を必要とするが、アイスランドは火山の国、すべての電力は地熱でまかなわれていて電気代が安い(タダ)からだ。

平原に延びる送電線をショートさせ、鉄塔を一人で爆破する彼女は一人で立ち上がり、戦いを続けている。

警察などから追われる彼女を赤外線カメラで執拗に追うドローンは中国の象徴だ。姿を捉えられないように死んだ羊の皮をまとって逃げるハットラ。途中、彼女を追うドローンをハットラが弓矢(!)で仕留め、手に握った石で叩き潰すシーンは「これが私たちのあんたへの回答よ」と聞こえた。その時、彼女は彼女のヒーローであるネルソン・マンデラの写真で作ったお面を被っている!

彼女にはオルガンと太鼓、スーザフォンの謎の3人からなる音楽隊が寄り添っていて、時に彼女の気持ちを象徴するように、時に彼女を励ますかのようにリズムを刻む。さらに3人の若い女性からなるコーラス隊もあちこちのシーンで登場する。不思議なユーモラスさを醸し出している。

映画のなか、自転車でアイスランドを旅するスペイン人の若者が方々のシーンで登場する。彼はその都度、ハットラが巻き起こす騒動に巻き添えを食わされる。気の毒だったり、情けなかったり。でも可笑しい。

太古の土地が残り、原始性豊かな自然のなかで暮らすアイスランドにも、外国からの資本が容赦なく流入し経済発展の名の下で環境破壊が行われていることへ、この映画は警告を発している。快作である。

2021年12月19日

鳥と落花生

昨日、千葉から遊びに来た友人が持って来てくれた煎り落花生をバッグに放り込んで南の島へ。横浜とは気温が10度以上違う。

ベランダでその落花生をむきながら本を読んでいると、次々と鳥がやって来る。豆の匂いなのか、殻を剥いている音なのか、それとも食べてる様子に誘われてなのか。 

人に慣れているらしく、落花生の実を投げてやると器用にキャッチする。