2020年3月6日

62歳ってどんな歳

2009年から使っている、僕にとっては初代のキンドルがおシャカになった。バッテリーがいかれてしまったんだ。まったく充電できなくなってしまった。

バッテリー交換についてアマゾンに相談したところ、キンドルはバッテリーの交換ができないとのこと。10年以上使っているから、仕方ないか。彼(たぶん中国人)は、割引のクーポンを出すから新しいの買ってはと提案。

その後の対応はアマゾンらしい。そのあと、アマゾンのサイトでキンドルの新製品を選んでショッピングバッグに入れ、そのままチェックアウトしようとすると約束の割引がすぐさま適用されて請求金額が変更になった。実にスマート!!

今度購入したキンドルは防水設計。だから、風呂場に持ち込んで湯船で読書できる。これがなかなかいい。

私立探偵フィリップ・マーロウのその後を描いた Lawrence Osborne の Only to Sleepを湯船につかりながらキンドルで読んでいたら、こんな1節にあたった。
Seventy-two isn't a bad age, but sixty-two is too old to be working.  Your are just impersonating the man you used to be.  Retirement had seemed like the best way not to die ...
62か・・・。

2020年3月4日

停滞し、自らの首を絞める日本

不要不急の外出はするなというのが、いまの日本の考えらしい。

新型コロナウイルスの国内の感染者数は、例のクルーズ船を除くと3月1日現在で239人。この人数をどう見るかはいろいろあるだろうが、人口比での確率は0.0002%である。感染が原因で肺炎などで亡くなった死者数は国内では6人だ。

どこでどういうルートで感染するかが分からないため疑心暗鬼になっているようだが、常識的に考えれば、今われわれがやっていることがどれだけバカバカしいことか分かるはず。

学校は休校になり、各種の催しものは中止。博物館、美術館まで閉館になっている。なんともはやだ。だがその影響で、電車は空いているし、どこも人が少なくていい。いつも混雑している観光地も閑古鳥が鳴いている。どんどん出かけていくチャンスだ。

ところで、テレビで新型コロナウイルスに関しての報道の際にウイルスの顕微鏡写真が映される。これを視聴者に見せることで何が伝わると考えているのだろうか。何か得体の知れないものに人間が襲われているという妙な感覚だけが残る。それ以外の意味はない。学校の理科の授業じゃないんだよ。

国立感染症研究所のクレジットがついた映像

2020年2月26日

ラオスの少年と少女

現地のNGOと一緒に訪問したラオス、ナコック小学校の子供ら。笑顔が不敵で素敵だ。


 

2020年2月23日

ラオス象の水浴び

ラオスの象は思ったよりは小ぶりだった。その分、あまり威圧感を感じさせることがない。象使いにちゃんと調教されているからかどうか知らないが、大きな声を上げて啼くこともなくとても静かでおとなしい。サワラン地区の川で撮影。


2020年2月22日

廃物利用

ここは、ベトナムとの国境近くのラオスの山村。農業以外の産業はない。子供も大人もみんな腕が細い。栄養が十分じゃないからだろう。

痩せた畑に、粗末な小屋がいくつか建てられていた。その高床式の小屋には収穫した作物が収められるのだろうか。よく見ると、建物のその足は木造ではなく鉄製であることが分かる。

かつてベトナム戦争で爆撃された地域。落とされたその爆弾の薬莢を小屋を支える柱にしている。ある種の廃物利用であるが、これなら木と違ってネズミが昇ってこられないというメリットがあるらしい。


村の子供ら。

2020年2月12日

カズ・ヒロは、なぜ日本の文化が嫌になったのか

先の「パラサイト」がアカデミー賞で作品賞他を受賞したニュースの続きだ。

 「ウィンストン・チャーチル」で受賞して以来2年ぶり、カズ・ヒロ(辻一弘)さんが米映画「スキャンダル」で2度目のメーキャップ・ヘアスタイリング賞を受賞した。おめでたい。

ただ、授賞式後の記者会見で彼が話したという、以下の談話が少し気になる。

彼は、記者から「日本での経験が受賞に生きたか」と訊ねられ、英語で「(日本の)文化が嫌になってしまった。(日本で)夢を叶えるのが難しいからだ。それで(今は)ここに住んでいる。ご免なさい」と応えた。その場でそれ以上の詳しいコメントは語っていない。

そういえば以前彼は、日本人の映画ジャーナリストのインタビューでこう述べている。少し長いが引用しよう。
日本の教育と社会が、古い考えをなくならせないようになっているんですよね。それに、日本人は集団意識が強いじゃないですか。その中で当てはまるように生きていっているので、古い考えにコントロールされていて、それを取り外せないんですよ。歳を取った人の頑固な考えとか、全部引き継いでいて、そこを完全に変えないと、どんどんダメになってしまう。人に対する優しさや労りとかは、もちろん、あるんですけど、周囲の目を気にして、その理由で行動する人が多いことが問題。自分が大事だと思うことのために、自分でどんどん進んでいく人がいないと。そこを変えないと、100%ころっと変わるのは、難しいと思います。
また彼は、こうも述べている。
自分が何をやりたいのか、何をやるべきなのかを自覚して、誰に何を言われようと突き進むこと。日本は、威圧されているじゃないですか。社会でどう受け入れられているか、どう見られているか、全部周りの目なんですよね。そこから動けなくて、葛藤が起こって、精神疾患になってしまうんです。結局のところ、自分の人生なのであって、周りの人のために生きているんではないので。当てはまろう、じゃなくて、どう生きるかが大事なんですよ。
ああやっぱり。日本の社会の空気は重苦しく、息が詰まるようなものに感じていたんだろう。今の日本社会の同調圧力やら、くだらないKYやら、忖度やら。

国籍や性別や年齢や、そうした属性に関係なく世界で勝負でき、生きていける人は一様にどこかで彼と同種の思いを持っているはず。

2020年2月11日

「パラサイト」作品賞ほか受賞

韓国映画「パラサイト」がアカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、国際映画賞を受賞した。このハリウッドの祭典で非英語で作られた映画が作品賞を受賞するのは初めてである。


この数年、ノミネートされる候補が白人や男性に偏っているという批判が強く、そのためアカデミー賞を選考する米国の映画芸術科学アカデミーは、会員を急速に国際化、多様化している。 昨年度は、スペイン語映画「ROMA」(確かネットフリックスの製作だった)が監督賞を受賞など3部門で受賞したのもその流れのひとつだろう。

今回、そうした時の利もあったが、ポン・ジュノ監督の手による本作品は、細心の演出が行き届いた、それでいて大胆で想像力豊かに練り上げられたプロットが魅力の一作だった。

受賞後の会見で、同監督は「私が自分の身近なことに没入すればするほど、物語はより大きくなり、国際的にアピールするようになった」と語った。このコメントは、とても大事な示唆を与えてくれる。

たとえ特定の文化や地理、時代を元にした作品でも、そのテーマの純度と作品としての完成度を上げれば、そこには普遍性が浮かび上がってくるということだ。黒澤明監督の「羅生門」を観たときに、なぜこの作品が外国の映画関係者から評価されてヴェネツィア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞できたのか思ったが、その理由が腑に落ちた気がする。

この映画は、現代の韓国社会の経済的格差、二極化、社会の硬直さをその背景としているが、本作品のアカデミー賞受賞を受けて、文在寅大統領が発表したコメントが振るっている。「最も韓国的な話で世界の人たちの心を動かした」だと。冗談キツイよ。

そうした格差を解消できないどころか深刻化させているのは、あなたたち為政者ではないのかーー。それともこの映画に倣ったブラック・ユーモアでもかましたつもりか。

いや、単にこの映画を観ていないだけだろう、きっと。

2020年2月7日

言い間違えも悪くない

今朝、TBSラジオを聞いていたとき、番組で三菱スペースジェットの納入が6度目の延期で2021年以降になるニュースが話題になっていた。

社名がMRJからスペースジェットへ変わった際の話題などを経済評論家の伊藤洋一氏がゲストとして語っていたのだが、彼が「スペースジェットのエンジンは、ホイットニー・ヒューストンで・・・」と言ったのを聞いて、飲んでいたお茶を吹き出してしまった。

故ホットニー・ヒューストンさん

プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)って言いたかったんだろう。

2020年2月6日

増刷の連絡から思ったこと

ダイヤモンド社の編集者から『コトラーの戦略的マーケティング』が増刷になると連絡をもらった。

2000年に出版された本だから、もう20年である。今回で25刷目になるという。ビジネス書でこのように息長く店頭で購入されているのは、珍しいかもしれない。

この本は原題が Kotler on Marketing だったので、『コトラーの戦略的マーケティング』というタイトルにした覚えがある。

その後、本書にあやかったのか、コトラーが書いた本の翻訳はほとんどすべて「コトラーの」という枕詞がつくようになった。検索してざっと数えただけでも、書籍だけで15冊以上。Kotler on Marketing のように元の書名タイトルにコトラーが付いているわけではない。

ちなみに、それらの多くはコトラーが中心となって書かれた本でもない。付け足しのように序文だけコトラーで、にもかかわらず、出版社の売らんかな精神で彼の名を書籍タイトルに付けたものが多々ある。

コトラーは1931年生まれなので、今年89歳。少なくともこの10年ほどは、彼の弟と息子が中心の家族経営会社、コトラー・マーケティング・グループが彼を商品としてブランド化し、稼げるうちに稼ごうとビジネスしている感じがする。

 ま、それもひとつのマーケティングではあるんだけどね。

2020年1月25日

その薄ら寒さと理不尽さ

映画『リチャード・ジュエル』は、現在89歳であるクリント・イーストウッドが監督した40本目の作品。1997年に雑誌のヴァニティ・フェアに掲載された一本の記事からイーストウッドが映画化を考えていた。


1996年、アトランタでアトランタの屋外コンサート会場で発生した爆破事件現場から物語が動き始める。そこに警備員として働いていたリチャード・ジュエルは、最初その第一発見者として英雄視されるが、やがて実行犯の手がかりを得られないFBIから容疑者として疑われるだけでなく、捜査官らによって「犯人」に仕立てられていく。

そうした情報がFBIから地元メディアに流され、彼は一夜にしてヒーローから殺人鬼の悪魔へと世間の見方は変わっていく。自然とそうなったのではない、犯人逮捕を焦る捜査官と彼とつるむ女性記者の功名心によって、どこにでもいる普通の国民が獲物にされた。

いったん「第一発見者のヒーローが犯人か?」という報道があるメディアで出てしまえば、他のメディアも一気にその流れに乗ろうとする。いやはや、浅はかというか、恐ろしいというか。ヒーローであろうが殺人犯であろうが、対象がネタになりさえすればいいと考えるメディアの報道の姿勢がよく描かれている。

日本でもかつて、松本サリン事件の第一発見者だった河野さんが報道によって犯人視されたのと同じである。

その薄ら寒さと理不尽さ。映画には、そうしたものへのイーストウッドの静かな怒りが根底に流れている。

2020年1月15日

必要なのは、利用者に選択肢を与えること

マイクロソフト社によるWindows7のサポートが昨日終了した。

日本国内だけでも、Windows 7搭載のパソコンは約1,400万台残っている。マイクロソフトは、このまま使い続けるとウィルス感染などのリスクがあるためウィンドウズ10など最新のOSへ切り替えること、あるいはウィンドウズ10を搭載したPCに買い換えることを推奨している。

もう利用者が少なく、その割に費用がかかるというのなら仕方ないかもしれない。しかし日本国内だけで1,400万台、世界中ならおそらく1億台近くがまだ使われているんじゃないかな。

これらを無視してサポートを中止することに、なぜ批判が出ないのか。僕はマックユーザーだから個人的にはあまり関係ないが、Winユーザーはどうして怒らないのだろう。既に「そういうもの」だと思わされているからだろうか。

マイクロソフト社が、サポートを続けるのには費用がかかるからというのであれば、費用をユーザーに課金すればいい。

この機会にOSをアップグレードしたい、あるいはPCを買い換えたいと考える顧客もいれば、このままサポート費用を払ってでも今のOSを使い続けたいというユーザーもいるはずだ。

そうした選択肢を消費者に与えることが大切なのに。


2020年1月13日

映画「パラサイト 半地下の家族」のブラック・ユーモア

外国のことながら、「こんな家族いるだろうなあ」と思わせてしまうセッティングがうまい。家族の構成とチャラクター設定が絶妙で、ここに樹木希林さんがいたら・・・と鑑賞中にとふと思ったりして。

最初は喜劇だが、最後は悲劇。いや、やっぱり喜劇か。グロテスクさと笑いが、ポン・ジュノ監督の持ち味だ。映画の中で何人か人が殺されたりするが、全編を通じて流れてくる「おかしな」空気に何度も声を上げて笑ってしまった。なぜか劇場のなかで僕だけだったけど。


主人公たちの家族は、キム一家。彼らがパラサイトしていく先は、パク一家。キムさんとパクさんは、日本だと鈴木さんと山田さんか。武者小路や伊集院とは違う。どっちがどっちでも入れかえ可能だ。だけど、この2つの家族は何かの理由でまったく違う家族として、同じ時に同じ町に暮らしている。

日本語の映画タイトルにある「半地下の家族」は、キム一家が暮らす住まい。そこは映画のための想像上の生活空間ではなくて、もともとは北朝鮮からの攻撃に備えた防空壕として作られ、韓国内にはまだそれなりの数が残っている。

半地下だから陽の光があまり差さない。湿気が多く、かび臭い。そして、便器の奥から下水が逆流してこないように、トイレが部屋の中で一番高い場所に設置されているのには苦笑するしかない。

キム一家は誰も定職を持っていない。実際に韓国では定職に就くのは、今は簡単なことではないらしい。先進国はどこも格差が広がる一方だ。だが、この家族4人は立派な学歴や肩書きはなくても、みなが才能揃いとも見て取れる。

3浪中の息子はその経験を活かしてパク家の高校生の娘に受験勉強を教えるのがうまい。美大希望の娘は機転が利き、わがままでパク夫妻が手を焼いている息子もあっという間に手なずけてしまう。元ハンマー投げの選手だった母親は、その家の家政婦として料理や家事に腕を振るう。

そして職を転々とし、やがて事業に失敗して失業中の父親は、IT企業の経営者であるパク家の主人の運転手としての技量だけでなく、雇い主の気持ちに添った会話がしっかりできる人生の経験者だ。

だからこそ、今置かれた貧しい暮らしを恨んだりする前に、どうやてって抜けて出て這い上がるか「計画」をいつも立てて実行している。すこぶる前向きなのだ。映画では、そこにある種の救いとともに不条理さがにじむ。

そして後半に登場する、半地下よりも「下」で続けられていた人物の生活。やがて起こる、半地下生活人と地下生活人の衝突と闘い。社会の片隅に押しやられた人たちに突きつけられる悲しさと可笑しさが最後に残った。

2020年1月12日

懐かしき、壮絶なサーキットの闘いを描いた一作

舞台は1966年。今から半世紀以上も昔のこと。ル・マン24時間耐久レースで、フォードとフェラーリが死闘を演じた。

フォードといえば、T型フォードによって世界で最初の大量生産方式を自動車産業に取り入れた企業。大衆消費者を顧客とし、製品である車の安さをアピールして大企業になった世界的な自動車会社である。

一方のフェラーリは、設立者のエンツォ・フェラーリがかつてアルファロメオのレーシング部門から独立して築き上げた、まさに「走り」のための会社。

当時、モーターレースで連勝を続けるフェラーリ。劇中でそのエンツォ・フェラーリは、自分たちに対しての買収を持ちかけてきたフォード社幹部に「フォードは醜い工場で醜い車を作る醜い会社だ」という言葉を吐く。

怒ったフォードⅡ世がフェラーリに闘いを挑むのだが、レースについては何も知らない彼らが勝てるわけもない。そこで助っ人として、元レーサーのシェルビーにル・マン出場のためのチーム監督として白羽の矢が立てられる。ドライバーは、彼が連れて来たマイルズ。それぞれ、マット・デイモンとクリスチャン・ベイルが見事に演じている。

実話に基づいた物語らしいが、なぜいま1960年代のカーレースなのかーー。

いまや新聞などでクルマの自動運転についての記事を見ない日はないくらいだ。そしてガソリンで走る内燃機関を使ったクルマは、確実に時代の片隅に追いやられている。悲しいかな。

急速に移行しつつあるEV(電気自動車)には、耳をつんざくエンジンノイズも排気ガスの臭いもない。これはかつて、自分たちの青春時代をクルマとともに過ごしてきた連中が、あの頃を懐かしんで作った映画のように思える。

ここでは象徴的に多くの対比が描かれている。まず映画のタイトルの大衆車を大量に製造するフォードと、限られた層にだけ手が届くスポーツカーを生産するフェラーリだ。フォードは大工場のなか、ベルトコンベアの流れ作業で組み立てられ、フェラーリは個々の職人の手で完成まで手が加えられながら生み出される。

2つの自動車会社の経営者も実に対照的だ。時のフォードの経営者は、フォード社創業者の孫。典型的なエスタブリッシュメントで、絵に描いたようなビジネスマン。自分の工場を訪れても高見から現場を見下ろしてものを言うだけで、製造現場へ降りてはいかない。一方フェラーリ社のエンツォ・フェラーリは、経営者というよりアルチザン(職人)の親方という雰囲気を醸し出している。

エスタブリッシュメント対現場という点では、社屋の最上階に位置する重厚な役員会議室ですべてを決めようとするフォード社の重役たちと、ガレージの中で汗を流しマシンの調整を続けるエンジニアやレーサー、ピットでのクルーたちの姿も対照的だ。

レースでは、シェルビーらの手によるフォードGT40がフェラーリを抑え、1位から3位まで独占して勝利するが、フォード社の幹部たちとレースを実際に戦ったシェルビーやレーサーのマイルズの間には心の交流はなにもない。むしろ、フェラーリを破って優勝したシェルビーのチームに静かに称賛をおくるエンツォ・フェラーリの姿が印象的だった。

だが、そうしたいくつもの人間模様を読み解くことにまして、サーキットを時速300キロ以上で疾走するレースカーを追う映像は、観る者の目をクギ付けにする。CGで合成されたものではなく、撮影用のカメラを別のレースカーに積んで走らせ撮影された。「LOGAN/ローガン」(2017年)を監督したJ・マンゴールドの意欲的な作品である。

2020年1月11日

ロング・ショットとは、「高嶺の花」の意味

「ロング・ショット」は、シャリーズ・セロンとセス・ローガン主演のラブコメディ。タイトルになっている「ロング・ショット」は、この場合、高嶺の花という意味。


僕がシャリーズ・セロンを初めて見たのは「サイダーハウス・ルール」(1999年作)。同名のジョン・アービングの小説の映画化で、のちにスパイダーマンの主演を務めることになったトビー・マグワイアの出世作にもなった。この映画は、僕のもっとも好きな映画のひとつだ。

そのなかで世間知らずな青年のマグワイアと心を交わす、純真な心を持つ若い女性を演じていたのがシャリーズ・セロン。なんだか雰囲気のある女優だと思った覚えがある。

彼女はその後、アカデミー賞を6部門で受賞した「マッド・マックス/怒りのデスロード」(2015年作)に主演してそれまでとは全く違う役の幅を広げた(頭がマルガリータ!)。今回のアメリカ国務長官役は、ひょっとしたらアメリカの女性国務長官はこんな感じかもしれないと思わせるもの。しっかり背筋が伸びている。

相手役のセス・ローゲンはコメディの面ではいい味を出しているが、セロンの恋愛の相手役としてしては魅力不足は否めず、そこには残念ながら構成の無理さを感じざるを得なかった点が惜しく減点。

感心させられたひとつは、字幕翻訳がよく練られたものだったこと。コメディならではの俗語や独特の言い回しも多かったのだが、うまく元の意図をくみ取った字幕がつけられていたと思う。

結構あからさまな下ネタ満載なんだけど、分かりやすい日本語で違和感ないリズムで訳されていたのが幸いしている。こうした優れた字幕があることで僕たちは映画のなかに入っていくことができ、自然なかたちで楽しむことができるのを忘れてはいけないと思う。

スプリングスティーンの I’m on Fire など挿入される80年代、90年代の懐かしいメロディーもストーリーによくマッチしてる。

冒頭で、フレッド(セス・ローガン)が勤務する新聞社を買収し、米大統領ともつながっているメディア王は、あのルパート・マードックを連想させる。マードックはこの映画の製作会社である21世紀フォックの元オーナーで、ディズニーによっての買収が昨年の3月に完了したばかり。アメリカの映画の制作者の自由さ、おおらかさ。

2020年1月8日

ゴーンの記者会見

今日の午後10時からレバノンのベイルートでゴーンの記者会見があった。一部を除き、NHKをはじめとする主要な日本のメディアは会見上から締め出されていたらしい。

CNNとBCCでゴーンが説明をする中継を見たが、その会見は約一時間に及んだ。よほど言いたいことが溜まっていたんだろう。内容はともかく、その気持はよく伝わって来た。こうした会見を日本で、日本のメディアの前で行ってもらえなかったのが残念だ。


当然ながら彼は、自己の正当性をこれでもかと主張する。それも日本人とは違い、自分の非は一歩たりとも認めない。実際はそんなことはあり得ないのだが、外国人は自分の正当性を主張するときは、手段として自己の正当性を完全に主張する。日本人には相容れないところだ。

だから、どうやって日本から忍者のように身を隠して出国審査の目をだましたかといったことには、まったく触れない。自分の非がある領域には、当然のことのごとく目を向けることすらしない。

今回のこの会見に対して日本の司法当局がどう出るか。ゴーンの肩を持つわけでないが、当事者らのことをほとんど省みない司法当局のやり方は指弾されても仕方ないかもしれない。

慎重に審議を重ねているといういかにももっともらしい言い訳で、どうみても必要以上の時間を消費し、関係者に多大な負担をかける裁判制度をあらためようとはしない。裁判官に係争人の当事者意識を持てというのはおかしいかもしれないが、自分たちの都合と保身だけで周りをコントロールしようとするのは間違っている。

今回のことでゴーンは日本では悪人としての烙印を押されたことになったわけだが、日産ははその被害者なのか、あるいは共犯なのか。日産は一所懸命に被害者づらをしているように見えるが、社会の信頼を裏切り、違法行為を追認したという意味では実際は共犯だ。

もちろんゴーンは悪いが、日産という大組織を彼一人がすべて回していたわけではない。そんなことは不可能だ。何百人もの取り巻きがいたはずなのに、そうした連中は批判されないのが不思議である。

ゴーンを担いで大得意になっていた日産の経営者はたくさんいる。ゴーンにすべてをまかせ、称賛も責任も彼に与え、落ち込んでいた業績からの復帰で沸いてきた甘い汁のおこぼれを静かに、だがしっかりとすすっていた日産の日本人幹部らが。

日産を辞めた後、いまも各種団体で役員などに就いていうようなそうした連中に責任がないはずはないだろう。だが、どれもだんまりを決め込んでいる。

技術者や販売の現場は、かつてもいまもボードルームで何が起こっているかなど知らず頑張っているに違いない。ただ、経営者とその周辺が腐りきり、かつての名門企業をおとしめた。今日の多くの日本企業に見受けられる様相である。

言うべきことを言わないという、日本人のシンプルかつ致命的な習癖がそれを形づくっていく。

2019年12月31日

ゴーンの国外逃亡

暮れのニュースで印象的だったのは、なんといってもカルロス・ゴーンの日本からの逃亡である。いつの間にか国外に脱出し、到着したレバノンで「私は今レバノンにいる」と言う声明を出した。まるで映画の一幕のような話。

どうやって脱出したのか、その詳しい足取りは今現在詳細はわかっていないが、日本の関西の空港からプライベートジェットで出発しトルコに向かったとか、その後トルコからベイルートに入ったという話が日本のメディアではなく、ウォールストリート・ジャーナルやフィガロからの伝聞の形で日本のテレビで紹介されていた。

元々日本での出来事のはずなのに、日本のメディアは一体どうしてしまったのだろうか。年末の休みで機能していないかのように思える。だとすると、ゴーンらはそれもしっかり計算に入れてのプランだったと思ってしまう。

それにしても彼のパスポート、それも3冊(!)を日本の弁護士が保管していながらなぜ出国できたのだろう。そして他国に入国ができたのか。謎は深まる。

外国メディアの報道によると、ゴーンはフランスのパスポートを持ってレバノンに入ったという。ということは、弁護士に預けた以外にフランスのパスポートを持っていたのか、あるいはフランスのパスポートを偽造したということが考えられる。

いずれにしても法的に認められることではないことから、そのことが確認されれば何らかの手段で日本に引き戻しされて裁判を継続するようになるのだろう。

今回のことで指弾される事として、日本の司法制度の問題と出入国管理が挙げられる。またそれにとどまらず、日本のシステムが広く時代遅れであり、前近代的で現代にマッチしていないことを示す1つの象徴的な例として、今回のことが全世界に示されてしまった。司法制度しかり、政治しかり、経済しかりだ。

ガラパゴス化しているのはかつての日本メーカーの携帯電話の話だけではなく、日本という国そのものだった。世界の趨勢から外れていることを全世界に向けて発信することになってしまった。不幸というか、幸いというか。

2019年12月29日

ケン・ローチの新作は日本の将来を予見させる

カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)などの秀作で知られるイギリスの監督ケン・ローチが、一旦映画界から引退したにもかかわらず、やむにやまれず取り組んで完成させた作品が『家族を想うとき』、原題はSorry We Missed You である。

  
舞台は英国のイングランド北東部に位置するニューカッスル。フランチャイズの宅配ドライバーとして独立をした一家の父親とパートタイムの介護福祉士として働くその妻アビー。彼らは2人の子供をもつ4人家族。
映画では、彼らが暮らす住居の玄関でのシーンがしばしば登場するが、そこはブレイディみかこが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の中で語っていた、家に入ってすぐのところの壁にコートや上着を掛けるフックが並んでいるという典型的な英国の労働者階級の住まいの作りである。
映画のなか、夫であるニッキーは「ゼロ時間契約」で働く独立宅配ドライバー。いくつかの仕事を経て就いた仕事だったが、彼は最初、それがどのようなものかよく理解してはいなかった。「勝つのも負けるのも、すべて自分次第だ」と言われ、人に雇われ命令されて働くのではなく、個人事業主あるいは一人親方のような自分の腕一本でかせげる仕事ーーーこれこそが自分が求めていた仕事ーーーと思ってしまった。
「契約」である以上、そこには契約関係がある。ここでの関係は雇用と被雇用で、ニッキーは被雇用者だ。しかもゼロ時間契約によって、雇用主は「仕事を提供できない期間が発生した場合においても、仕事および賃金を与える義務を負わない」という業務委託がなされている。
そこでの労働条件は過酷だ。働く者が怪我をしようが、身体を壊そうが、家族に何があろうが、仕事休むとその分の収入が途切れるだけではなく、会社に迷惑をかけたという理由で1日100ポンドのペナルティーが課せられる。
その一方で、病気をしようが怪我をしようが社会保障は何もない、まさに歪められた自己責任という奴だ。そんなシステムになかでニッキーとアビーの2人は人間的な時間をそぎ取られ、やがて4人家族の間で軋みが極限まで増していく姿は観ていて本当に辛い。
フリージャーナリストのジェームズ・ブラッドワースが企業の労働現場に潜入して書いたルポ『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーのクルマで発狂した』(光文社)では、第1章:アマゾン、第2章:訪問介護、第3章:コールセンター、第4章:ウーバーが取り上げられている。

自らその職場に身を置き、そこでの実態を経験したブラッドワースが、理不尽で過酷で人を押しつぶしている再愛知賃金労働の仕事の現場を生き生きと描いてる。
想像するに、ケン・ローチは映画を製作するにあたってこの本を読んだに違いない。ニッキーの働く職場は、ブラッドワースの本の1章と4章が、そして訪問介護士として働く彼の妻アビーの仕事ぶりは、第2章で描かれた悲惨で気が滅入るような仕事環境そのものだから。
かつてはゆりかごから墓場までと言われた社会福祉の制度が隅々まで行き渡った英国が、今はまったくその見る影もない。きっかけは1970年代終わりからマーガレット・サッチャーが政権を握り、国の至る所に新自由主義的な競争原理を一気に持ち込んだこと。

そのことで多くの労働者階級が、その働く土台や拠って立つ労働組合、そして彼らの誇りや人としての自信といったものまで根こそぎ奪われ、叩き潰されていったという歴史的な背景がある。
今イギリスの労働者階級の仕事の多くは、企業から一方的に与えられたり奪われたりするもの、しかもその多くはポーランドやルーマニアといった東欧諸国からの移民あるいは出稼ぎ働者たちと簡単に首をすげ替えられる類になっている。
今回の英国での総選挙の結果、保守党が大きくその議員数を伸ばし躍進した。EU離脱を最大の争点としてこの選挙において、労働者階級の人たちのある一定割合が労働党ではなく、保守党に投票した。

背景には、自分たちの職場や生活が外国からの移民によって奪われているという状況があった。その不安感と危機感が彼らをして、本来は労働党の議員に投票すべきところを移民排斥を唱えEUからの離脱を訴える保守党を後押ししてしまった。
政治の問題といえば政治の問題ではあるが、それにも増して、これは彼らの日々の生き残りに関する問題だった。米国において、トランプ支持を表明する白人ミドルクラスの意識と重なっている。


2019年12月28日

スターウォーズ完結編

映画<スターウォーズ>は、今回の第9作目「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」によって1977年に公開されて以来40年以上を経てやっと完結をしたという壮大なサーガ、叙事詩ともいえる作品である。
映像の出来には相変わらず目を見張るものがあるが、ストーリーは相変わらずストレートだ。まさにアメリカの神話学者、ジョーゼフ・キャンベルが『神話の力』で語っているヒーローズ・ジャーニー、すなわち英雄の冒険譚という世界共通の物語をそのままたどる展開になっている。

手に汗握る活劇ではあるけど、終わり方は予想どおりで凡庸。<スターウォーズ>という子供から老人まで、そして世界各国に多くのファンを持つエンターテイメントとしてはその大衆性を重視したところで練りに練った結果として、こうした結末の迎え方にたどり着くのだろうね。
最後に主人公のレイが、悪の化身パルパティーノと対決する。ひょっとして、と一瞬思ったが、やはりそこはそれ。それまでの宿敵カイロ・レン(レイの内面としてのシャドー=影)と手をたずさえて、悪の化身パルパティーノと対決し、打ち負かす。正義は勝つ、ではないが、ジャンジャンで終わった。文学性にはまったく欠けている。
映像はよく作りこまれていて、素晴らしい。確か3年前に60歳で亡くなった、この映画の中でレイア姫を演じていたキャリー・フィッシャーが、スクリーンで甦る。それを実現した、これまでの実写映像と3DCGを組み合わせた映像表現には感心させられる。
今後はこうした方法で、今はなきヒーローやヒロインたちが新たなストーリーの上でスクリーンに蘇ってくることが増えてくるのだろう。AIや先端的なテクノロジーが、かつて制作者が夢見ていたことをすでに可能にしている。
ところで今回行った東宝系のシネマ・コンプレックスでは、この作品が3D字幕版、3D吹き替え、2D字幕版、2D吹き替え版、そして僕が見た2D IMAXとなんと5つのスクリーンで同時上演されていた。最後のスターウォーズ、興行会社もよほど力が入っているのだろう。



2019年12月8日

異端は、正統

「A」や「FAKE」といった作品で知られる森達也監督が撮った「i 新聞記者ドキュメント」は、異端児と呼ばれる東京新聞社会部記者、望月衣塑子記者による辺野古問題、森友、加計学園などの取材風景や官邸での記者会見で彼女が菅官房長官に果敢に質問を続ける姿を描いたドキュメンタリーだ。


「桜を見る会」という間の抜けた名称の集まり。その招待者リストの件で官邸側が国民を馬鹿にした嘘をつき続けるなかでのタイムリーな公開である。

彼女は記者会見で何度も質問を続け、睨まれ、不当な妨害を受ける。彼女がスックと立って質問を始めると菅官房長官の表情がこわばり、目つきが険しくなり、苛立っているのが映像でくっきりと見て取れる。嘘が暴かれるから。

やがて彼女の発言に対しては、記者会見を仕切る広報室長から「質問に入ってくださーい」という質問妨害の声が何度も入って来る。菅官房長官は苦し紛れに「あなたに答える必要はありません」と吐き捨てる。

彼女は異端とされるが、そうとは思えない。彼女がやっていることはジャーナリストとして極めてまっとう。記者クラブ制度の上で取材もせず、新聞社やテレビ局社員というメディアエリートの立場に甘んじている多くの記者の方が普通じゃないのである。

それにしても、記者会見や役人らの説明会では、嘘、欺瞞、捏造が平気で行われる。それが政治家や「優秀な」役人でいられる証明か。あったものをなかったと言い放ち、証拠を平気で改ざんするわ、消滅を図るわ。

官邸の政治家や官僚にだって子供がいて、そうした親が平気でウソをつき続ける姿をテレビなんかで見ているはず。親として恥ずかしくないのかと思ってしまう。

2019年12月2日

答えを教えるか、問いを立てるか

大学で教育をする際に心がけていることが一つある。それは常に学生にむけて問いを続けること。

問い続けることで、彼らに常に考えることを促すことが最も大事なことだと考えてる。さらにはそこから進んで、彼ら自身が自らに問いを立て、そしてそこからその答えを見つけるために努力をするように仕向けること。
しかしその一方で、分かりやすい答えを先んじて示してやることが教育であるという考え方もある。その場合は、こうやって問題を解決した、という事例をどんどん示してやる方法である。一般的に、学生はこちらの方が何か学んだような気になる。前者がプル型とすれば、こちらはプッシュ型である。
しかし実際には、そうした事例と全く同じものが発生するなどということは世の中にはほとんどないから、応用は利かない。だから、根本のところで大した学習にはならない。
一方で、前者の方は学生たちにとっては、何か雲をつかむような形で授業が終わってしまうような感じになるところがある。つまり、自分は学習してるのか、学習していないのか戸惑ってしまうわけだ。
そうしたなかで、習慣として自らが学ぶことを考え、そして「問う」という事を自然に実施するようになった学生は、5年後、10年後も引き続き学ぶということをその体に染み込ませ、大きく自らを成長させていっている。
これは、僕が20年近く学生を見ていて信じることができる一つの法則のようなものである。