2020年1月8日

ゴーンの記者会見

今日の午後10時からレバノンのベイルートでゴーンの記者会見があった。一部を除き、NHKをはじめとする主要な日本のメディアは会見上から締め出されていたらしい。

CNNとBCCでゴーンが説明をする中継を見たが、その会見は約一時間に及んだ。よほど言いたいことが溜まっていたんだろう。内容はともかく、その気持はよく伝わって来た。こうした会見を日本で、日本のメディアの前で行ってもらえなかったのが残念だ。


当然ながら彼は、自己の正当性をこれでもかと主張する。それも日本人とは違い、自分の非は一歩たりとも認めない。実際はそんなことはあり得ないのだが、外国人は自分の正当性を主張するときは、手段として自己の正当性を完全に主張する。日本人には相容れないところだ。

だから、どうやって日本から忍者のように身を隠して出国審査の目をだましたかといったことには、まったく触れない。自分の非がある領域には、当然のことのごとく目を向けることすらしない。

今回のこの会見に対して日本の司法当局がどう出るか。ゴーンの肩を持つわけでないが、当事者らのことをほとんど省みない司法当局のやり方は指弾されても仕方ないかもしれない。

慎重に審議を重ねているといういかにももっともらしい言い訳で、どうみても必要以上の時間を消費し、関係者に多大な負担をかける裁判制度をあらためようとはしない。裁判官に係争人の当事者意識を持てというのはおかしいかもしれないが、自分たちの都合と保身だけで周りをコントロールしようとするのは間違っている。

今回のことでゴーンは日本では悪人としての烙印を押されたことになったわけだが、日産ははその被害者なのか、あるいは共犯なのか。日産は一所懸命に被害者づらをしているように見えるが、社会の信頼を裏切り、違法行為を追認したという意味では実際は共犯だ。

もちろんゴーンは悪いが、日産という大組織を彼一人がすべて回していたわけではない。そんなことは不可能だ。何百人もの取り巻きがいたはずなのに、そうした連中は批判されないのが不思議である。

ゴーンを担いで大得意になっていた日産の経営者はたくさんいる。ゴーンにすべてをまかせ、称賛も責任も彼に与え、落ち込んでいた業績からの復帰で沸いてきた甘い汁のおこぼれを静かに、だがしっかりとすすっていた日産の日本人幹部らが。

日産を辞めた後、いまも各種団体で役員などに就いていうようなそうした連中に責任がないはずはないだろう。だが、どれもだんまりを決め込んでいる。

技術者や販売の現場は、かつてもいまもボードルームで何が起こっているかなど知らず頑張っているに違いない。ただ、経営者とその周辺が腐りきり、かつての名門企業をおとしめた。今日の多くの日本企業に見受けられる様相である。

言うべきことを言わないという、日本人のシンプルかつ致命的な習癖がそれを形づくっていく。