2015年10月27日
境界を越える、結ぶ
仕事をしながら大学院に通っている彼らなので、授業がない曜日の夕方に研究室や街中のカフェで会う。そして彼らに今どんな仕事をしているのかとか、これからどんなキャリアを考えているのかなど聞く。
そうした場でときおり、彼らからどうしてビジネススクールの教授がラジオ番組のパーソナリティをしているのか質問を受ける。好きだからやっているという答えだけではどうも納得してくれないようだ。
ぼくの狙いは、大学とメディアを結ぶこと、またアカデミズムとビジネスをつなぐこと。だからラジオ番組を持ったり、企業の社外取締役を引き受けている。思い返せば、昔からマージナルな領域に立つことでひとつの立場に縛られない自分なりの考えを得てきたように思う。
一所懸命というのはどうも性に合わない。自分で自分を揺さぶりながら、その時々の目標を設定していくのがいい。
2015年10月17日
好きだからこその、辛口コメント
4月に続いて2回目のゲスト出演である。相変わらず、歯に衣着せぬ歯切れのいい日本への辛口のコメントをうかがった。
彼はいろんなエピソードを語ってくれたのだけど、煎じ詰めれば彼が感じている「おかしい日本」というのは次の2つかな。それらは、日本人の一貫性のなさ(ご都合主義)と生産性の低さ。
もちろんそうしたところって日本だけの話ではないことを彼はよく知っているのだけど、彼が気になってしかたないところは、それらについていつまでたっても日本人が気付かず、変えようとしないこと。
この本を出した後、ずいぶんと読者から「大きなお世話だ」という反応が帰ってきたそうだ。だけど彼は真の確信犯、それで口をつぐんだりしない。自分はしつこいタイプの人間だと入ってはばからない。そうした点が、僕が強く共感を感じるところだ。
今朝の一曲は、スティービー・ワンダーの「迷信」。
2015年10月6日
多住居生活のススメ
彼女は東京生まれ、東京育ち。ご主人も同様らしい。都会で生まれ育ち、帰郷する田舎を持たずに育ったわけだが、そのことで残念に思ったり、悲しいと感じたことはなかったという。
ところが、彼女の長男が無類の生き物好きで、どうもそうした彼を自然の中に「戻してやりたくて」南房総の中山間地の土地と農家を手に入れたという。
家族5人、平日は自由ヶ丘近くの家で過ごし、金曜日の夜になると家族プラス猫2匹がクルマに乗り込み環状八号線を羽田方向へ向かい、アクアラインを抜けて南房総のもう一つの家へ。
8700坪という広大な土地には小川が流れ、ちょっとした山もあるらしい。田んぼや畑だけでなく、ほとんど手つかずのような自然に溢れている。
今後は、子どもたちが大きくなるにつれて家族5人で毎週南房総へ、とは行かなくなるかもしれない。その時は、馬場さんご夫婦2人だけでその地を訪ねることになるのだろう。しかし、その時はその時でいいように思った。
家を複数持つというと、なんだか金持ちっぽくて贅沢に聞こえるかもしれない。だが、これから人口の減少と高齢者の暮らし方の変化によって、全国津々浦々で大量の無人住居が出てくることが予想される。
そうした家は、これまでになく安く購入することができるようなるはずだ。あるいは、買わずに借りるという手もある。田舎の家だと田んぼや畑が付いてくることも多いだろう。都会人たちは、週末や休みをそうした土のある場所で過ごせばいい。
そして逆に、田舎で普段暮らし、仕事をしている人たち、特に若い人たちは週末を都会の空き屋をうまく使いながら楽しめばいいのだ。
そうして、誰もが多住居生活をもっと簡単にできるようになればといいと僕は考えている。誰も住まなくなった家はあっという間に荒れ果て、一旦そうなるとなかなか人が暮らそうと思う状態には戻せない。
それに何よりも、生活空間を変えるといとも簡単に人の気持ちは変わる。これは僕自身、実証済みだ。リフレッシュできるし、新しい刺激をそのなかで確実に得ることができる。
国は、そうしたセカンドハウスの取得と利用を促すよう税制などを改定すべき時に来ていると思うのだが、どうだろう。もっと多くの人たちが、週末は田舎暮らしを楽しむようになればいいし、あるいは田舎にこだわることもなく、週末はもう一つの暮らし、となればそれはそれでいい。
今朝の番組での選曲は、Jessey Norman Sings Michel Legrandから「おもいでの夏」。
2015年9月19日
全盲の弁護士さんは、勇気と正義のひとだった
大胡田さんは先天性の緑内障の罹患者として生まれ、12歳の時には完全に視力を失った。盲学校の中学生時代に見つけた一冊の点字本と出会ったことから、弁護士を目指す。絶望感の中で見つけた一冊の本が、大胡田さんを今へ導いた。
その本は、日本で最初に全盲で弁護士になった人が書いた本である。現在、大胡田さんは、その弁護士さんが所長を務める法律事務所に所属している。
日本の社会は盲人の方にとって生きやすい社会ですか、との僕の問いに、彼は点字ブロックなどハードな面での支援は進んでいるが、ソフト、つまり人の気持ちの面はまだまだそうではないと答える。
ひとつの例として、彼が同じく全盲の友人とドイツを旅したときのことを話してくれた。白杖を視覚障害者が使用するのは諸外国でも同じ。だから、その時もドイツの町を白杖を頼りに歩いていて、道に迷って困っていると多くの人が寄ってきては手助けを申し出てくれたという。
その旅先でのあるホテルでのこと。浴室に同じ形状のボトルが3つあることに気がついた。触っただけでは違いが分からない。フロントに相談すると、スタッフがすぐにやって来て、シャンプーには輪ゴム、リンスにはクリップをつけて触らせてくれた。そうしたことを自然にやってくれることに嬉しくなったという。
こんな感じで、大胡田さんはどんどん外に出ていく。たくさんの案件を常に抱えながら、精力的に人を救うことに情熱を傾ける頼りになる弁護士さんだ。
今朝の一曲は、オーティス・レディングの The Dock of the Bay。
2015年9月5日
バカにならなきゃ、見えてこないものがある
彼が書いた『バカになれ!』(文藝春秋)は、とても威勢のいい本。水野さんのクルマづくりの哲学をひとことでいえば、「モノをつくるな。感動をつくれ」ということ。
そして、人(会社)から言われたとおりにやって中途半端なものを作るなということ。自分の頭で「バカになって」本気で考えろと。その結果を否定され、叩きのめされる経験を乗り越えろと叱咤する。それが本当のプロになるための必要条件であり、「いい失敗をした人間にしか未来は開けない」と断言する。
水野さんは一昨年に日産を退社し、いまは台湾の自動車会社の役員を務めている。僕は台湾に自動車会社があることを知らなかった。だから、彼の名刺に書かれていた企業名も初見だったのだが、あの水野さんのこと、限られた人と金と時間できっとプロジェクトを実現するだろうと期待している。
番組中の今朝の一曲は、ジョージ・ハリスン「My Sweet Lord」
2015年8月22日
銀座でミツバチ
銀座のビルの屋上でミツバチを飼い始めてもう10年。収穫する蜂蜜は、年間で1トンにものぼるという。ミツバチが生息するのは、その近くに自然が残っている証拠。
地図をながめると、銀座から南に飛べば浜離宮庭園が、北に向かえば皇居、西に進めば霞ヶ関の並木道があり、それらの緑がミツバチにたっぷりの蜜源になっている。もちろん、銀座の街路樹もそのひとつである。
蜂、と聞くと刺されるから危険と連想しがちだが、決してそんなことはない。むやみに蜂は人を刺したりはしない。その意味で決して危険な生き物ではない。
ミツバチは、環境指標生物と言われている。ミツバチは環境の変化に弱い。農薬などにも弱い。豊かな自然が残る里山には、ミツバチが生きている。しかし、ミツバチがいなくなった地域は、環境が良くない方向に進んでいることを示している。
今朝の一曲に選んだのは、デイビッド・フォスターとオリビア・ニュートン=ジョンのデュエットで、The Best of Me でした。
2015年8月13日
避難はしごで避難する
彼女も自分が行くより、相手の会社がカギを持ってくるべきだということはよく分かっていたので、また自分の席に戻って電話をかけてくれた。だが、今度もやけに時間がかかっている。
もちろん、その時は忘れずにベランダ側のガラス戸のカギは開けておいた。
2015年8月11日
東京が壊滅する日は、日本が壊滅する日である
2015年8月8日
自然にひとりぼっちなんだったら、それがいちばんいいのかもしれない
ある日のこと、テレビをつけたらバラエティらしい番組をやっていて、ゲストのひとりが蛭子さんだった。どんな番組か内容はまったく覚えていないが、面白かったのは番組中で蛭子さんがうつらうつら眠っちゃってること。
今朝の一曲は、レイ・パーカー・ジュニアで「ゴースト・バスターズ」。
2015年8月3日
マーケティングは一度解体した方がいいかもしれない
そこは、行き慣れた地下1階にある古くからある本屋さん。本屋というより、ある程度の規模とそれなりの品揃えがあって「書店」と呼んだ方が似合っているかもしれない。
階段を下りていって、その書店に入った正面の場所にはどんな本を平積みにしていているかが自然と気になるのは、本についての番組をやっているせいか。
書店に入ると、まずは各売り場をそこにいるお客さんの層を少し気にしながら全体を一回りする。身についた習性のようなものだ。別に出版社の人間でもないのに、我ながらヘンだとも思う。
なぜだか理由は分からないが、この書店のマーケティングの書棚はある意味でおもしろい。そこに並んでいるのは・・・
『ニャンコと学ぶマーケティング』(どんな風にニャンコと勉強するのだろう?)
『風俗的マーケティング』(風俗マーケティングならなんとなく想像がつくが、「風俗的」が意味するところは?)
『3分間マーケティング』(カップラーメンができるのを待つあいだで学べるとは便利)
『矢沢永吉に学ぶ 成り上がりマーケティング』(永ちゃんはマーケターだった?!)
『ザ・サンキュー・マーケティング』(感謝の気持ちはいつも大切だよね)、など。
それにしても、マーケティングというのは融通無碍な概念で(つまり、分かったようで分からなく、分からなくても分かった気になれる)、どんな言葉だってくっつけることができる。ウソだと思うんだったら、やってみな。ほら、できちゃうでしょ。
言葉とその意味が厳密に定義されていないから、曖昧なままにどうでも使える。大学の経営学の教授なんかでも、その意味でマーケティングの概念をいい加減に使っている人がたくさんいる。僕は、そのためにも「マーケティング」は一度きちんと解体された方がいいと思っているのだが。
2015年8月2日
和のあかり X 百段階段
百段階段というのは、目黒雅叙園のサイトによれば以下のようなものらしい。
「百段階段」とは通称で、かつての目黒雅叙園3号館にあたり、昭和10(1935)年に建てられた当園で現存する唯一の木造建築です。 食事を楽しみ、晴れやかな宴が行われた7部屋を、99段の長い階段廊下が繋いでいます。 階段は厚さ約5cmのケヤキ板を使用。 階段で結ばれた各部屋はそれぞれ趣向が異なり、各部屋の天井や欄間には、当時屈指の著名な画家達が創り上げた美の世界が描かれています。
"昭和の竜宮城"と呼ばれた目黒雅叙園の建物の特徴は、装飾の破格な豪華さにあります。 最近の研究によると、その豪華な装飾は桃山風、更には日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸文化に属するものとも言え、なかでも「百段階段」はその装飾の美しさから見ても、伝統的な美意識の最高到達点を示すものとされています。 平成21(2009)年3月、東京都の有形文化財に指定されました。一直線に伸びた99段の階段。それらを7つの部屋が分けている。それぞれの部屋が独特の装飾を凝らしていて飽きさせない。
今回のあかりのテーマのひとつが「青森ねぶた祭」で、ねぶたを灯りに見立てたものが間近に見られるというのがウリのひとつである。
それ以外にも、涼しげな灯りをモチーフにした作品が展示されている。この展示会は日本では珍しく、全時間にわたり観覧客による撮影が認められている。ファインダーをのぞき込む若い女性が目立つ。カメラ女子たちはみんな、一眼レフの立派なカメラを抱えている。
僕が個人的に興味をひかれたのは、99段の階段の途中にあった広々とした便所だ。ゆったりとした広さだけでなく、便器のレイアウト、窓からの採光の具合、磨かれた床の質感など、どれもすばらしい。
2015年7月25日
農的な生活に生きる
牧野さんと教え子の方たちが愛知県豊田市で行った里山プロジェクトは、農村に外部から人を入れ、その人たちを通じて新しい生き方を創造するとともに、地域社会の方にも新しい発見の機会をあたえ元気にしようというもの。
僕のように農的というよりノー天気に生活をしている身には、きょうの話はとても新鮮に思えた。
2015年7月14日
文科省はどこへ行く
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筆者がここで引いているJ・S・ミルの言葉を持ち出すまでもなく、「本質を見失っては小手先の目標や計画をいくらつくってみても、そこから良いものは生まれない」。
日本の教育行政は、このところずっと迷走としか言いようがない。しかもそれは、確信犯的に行われている。
コラムの筆者が取り上げている法科大学院がひとつの例だ。交付金をちらつかせて音頭を取って自分たちがつくっておきながら、受験者数や司法試験の合格者率が低い大学には「お前ら、なにやってんだ」とばかりの上から目線の無責任姿勢である。
「産業界の要請に応えて」だか何だか知らないが、彼らが「金にならない」と勝手に判断をくだす文系・教育系学部と大学院に関するリストラ要請など、担当官僚はどれだけ腹をくくってやろうとしているのか。責任は取れるのか。・・・取るわけないか。
官僚が自分の在任中に、次の出世のために何か目立った「功績」を残すがための行いとしか見えない。
同じ新聞紙上に「取締役 半数以上退任へ ー 東芝新体制、社外を過半数に」の見出しがついた記事がある。不適切会計問題を指摘された東芝が、現社長や現会長(前社長)を含む多くの経営陣を退任させるらしい。社外取締役を半数以上にするなど、ガバナンスの改革に着手する。
責任という概念は企業だけでなく、役所にも当然のごとくあってしかるべきだと思うのが、責任者がきちんと責任をとったという話はとんと聞かない。
2015年7月11日
本で床を抜いちゃいけない
本をどう処分するかという問題は、簡単なようで簡単にはいかないから不思議だ。
これは本だけの話じゃなくて、すべてのものに当てはまることだよね。仮にあと4、5年しか生きないんだったら、いつか読めたらとか、書けたら書きたいなんて資料を持っているのがバカバカしくなってしまった。もっと身体が気持ちよくいた方がいいし、気持よくいきたい、と思ったんです。死ぬまで読めないかもしれない本に押しつぶされないようにして、せせこましい空間にいる意味がない。
2015年7月6日
過剰なブックカバーをやめよう
最寄り駅の中に有隣堂書店が入っている。時折、立ち寄る。これまで気づかなかったのだけど、今日、一番はしのレジで精算するとき、下記写真のパネルがカウンターにあるのを見つけた。
書店で付けるカバーの付け方を簡略化するという案内だ。最初、書店のカバーをつけるのをやめたのかと喜んだのだが、そうではないらしい。書店カバーはつけるが、元々の単行本に付いているカバー(ややこしい!)に巻き込むようにつけるのを省略するということ。
以前もこのブログで書いた覚えがあるが、そもそも出版社のカバーがついているのに、さらに書店のカバーなど必要ないというのが僕の考え。本は消耗品だ。もちろん無理に乱暴に扱うことはないが、後生大事にする類のものでもない。
以前、同じ店で体験したはなし。文庫本を2冊手にした僕は、電車の時間があったのでいささか急いでいた。レジに向かっている時、そこに見えたお客さんはひとりだけ。これならすぐ精算できるな、と並んだのはいいが、彼女の手元を見てイヤーな予感が。
当時、日本テレビで放送していた綾瀬はるか主演の「きょう会社休みます。」の原作コミック本を7冊(第1巻から第7巻)抱えている。
予感的中! 店員が(言わなくてもいいのに)「カバーをお付けしますか?」と聞いたものだから、それら一冊一冊について包装ビニールを剥ぎ、それらに書店のカバーを付け終わるのを待たされるはめに。
その時、頭に浮かんが考えは「あとでアマゾンで買おう」。思いついたらすぐに実行してしまうタチなので、本を買わないままさっさと店を出た。
本当は、できれば書店で本を買ってやりたい。だから、自分でも釈然としない気分だった。書店は、店頭で本を買ってくれるお客への「サービス」としてやっているのだろうが、優れたサービスになっていない。
この余計な(過剰な)サービスをするために、レジでは客が待たされるし、店にとってもコストがかかる。
そろそろ他の書店らと声を掛け合って、一斉にこうしたサービスの「有料化」へ進んだ方がいいんじゃないかな。
2015年7月5日
大学院生を子ども扱いしている
学生自らが修士論文を提出しようとしても、受け付けてくれないのだ。 なぜかそうした奇妙なルールがある。学生たちも不思議がっている。
2015年6月27日
ガムと講義
昨日は、勤務先の大学の修士1年生全員に向けての講義を行った。一度きりの特別講座である。
どんな研究に取り組んでいるかを彼らに説明するのが目的である。通常の授業の場合、とにかく学生が分かるように話す、と云うことを心がけてるつもりだ。だが、今回だけは、さほどそれを気にすることなく話をさせてもらった。
ほとんどの学生は(理解しているかどうかは別として)真面目に聞いてくれている。しかし、なかに何名かガムを噛みながらこちらの話を聞いている学生がいた。
たかがガムだが、僕は気になってしょうがない。どのような状況であっても、人の話をガムをクチャクチャしながら聞くのは不作法なことだと思う。これまで企業経営者や名をなしたマネジャーの方たちに何度も話をしたが、当然ながらガムを噛んでいた人は皆無だ。そうしたことは、常識の範囲だ。
次代のリーダーを養成するビジネススクールで学ぶ学生が、授業中に平気でガムを噛んでいるというはどうも・・・。そこで、研究の話を中断し、ガムを噛むのを止めるように学生に告げた。目があった学生は、決まり悪そうに下を向いてガムをはき出した。
ところが、そのすぐ後、平気でガムをまだ噛んでいる別の学生を見つけた。すぐに止めるように注意したが、力が抜ける感じがした。
教壇は30センチほどの高さにすぎないが、そこから教室内をながめると全員が何をしているのか、どんな顔をしてこちらの話を聞いているのか、一目瞭然にわかる。ガムを噛んでいた学生は、それが分かっていないのだ。これだけ人数がいるのだから、分かりはしないはしないだろうと。想像力の欠如だ。
もう一つ驚いたことがある。そこにいた学生の7割ほどは、今期僕の授業を履修した連中で、その彼らのなかでガムを噛んでいた学生はいなかった。授業のオリエンテーションの時に「ガムはだめだよ」と伝えていたから。
しかし、他の教員はそうした注意を学生にこれまでしていなかったらしい。自分が講義をしているとき、学生がガムを噛んでいても何も言わなかったわけだ。それもまた驚きだ。
なぜ人は、他人の意見を聞かないのか
人は誰でも「他人の意見を聞かない人」の可能性がある。自尊心があれば、程度の違いがあれどそうした傾向になるし、それを完全に排除すれば鬱などになってしまう。ただし、自分がそうした状態にあることが分かっていない人は、要注意らしい。
さらに「困った人」は、確信犯的に他人の意見を聞かない人たち。片田さんの分析では、そうした人たちは人の意見をシャットアウトすることで自己防衛を図っていて、近年はますます増え続けている。
片田さんによれば、「過去と他人を変えることはできない」。
では、我々はどう対応したらよいのか。方法は、ふたつ。まず相手がなぜ人の意見を聞こうとしないか、その理由を分析すること。
その場合、考えられる理由は、通常3つあるとか。まず、そのことで自分が「メリット(利得)」を得ようとするため。あるいは、自分の悪とか間違いの事実を「否認」するため。さらには、他人を無視することで「プライド」を得るため。これらのどれか、あるいはどの組み合わせなのか分析し理解することで、こちらの心の持ちようを保つことができるようになる。
彼女が勧めるもう一つの対応方法は、「プチ役人」になること。少し意地悪目線で相手をながめること。けれど、時にはきちんと言い返すことが肝心。ただじっと我慢だけしていたらダメだと。こちらが壊れてしまうから。
精神科医として現場で日々臨床を重ねるなかで、「他人の意見を聞かない人」のせいで精神を壊されている方々に多く接してこられたのだろう。また、彼女自身、個人的にも「他人の意見を聞かない人」に悩まされてきたのかもしれない。
こうした人格の蔓延というのは、番組の中でも申し上げたが現代の社会病理のひとつだと思う。せめて、自分がそうはならないよう気を付けなければ。
今朝の一曲は、ダリル・ホール&ジョン・オーツの "Private Eyes"。
2015年6月20日
自治体の運営は、経営なのである
2015年6月13日
がんばれ、夕張再生市長
2011年4月、当時30歳で、全国最年少として市長に就任した。その時の市長選の投票率は、83パーセントだった。
乞われて市長になったとはいえ、市民が大きな痛みをともなう政策を実施に移すのは、大変なこと。何度も市民への説明の場でつるし上げのような場を経験したと聞いた。始終落ち着いた受け答えは、そうした決して容易ではない経験の積み重ねから身につけたのだろうか。
今朝の一曲は、先月亡くなったB. B. キングさんの「上を向いて歩こう」。彼の2011年のアルバム、"Dear Japan" から。彼の東日本大震災後の復興への願いが込められている。