2015年8月13日

避難はしごで避難する

お盆で大学は一斉休業である。図書館などすべての施設が閉まっており、仕方がないので自宅でいろいろと作業を進める。こういう日は、仕事だけでなく家の中の雑用などもやりつつである。

この時期は、マンションの避難はしごの点検の時期でもある。正しくは「消防設備点検の実施」という。年2回、2月と8月だ。防災管理の会社がやって来て、非常ベルの点検やら、ベランダの避難ハッチの開け閉めの確認をしてくれる。

避難ハッチ、つまり避難はしごの動作確認は人に任さないで、いつも自分でやっている。何かのときに利用するのは点検会社の社員じゃなく、住んでいる住人本人だからね。彼らは仕事としてハッチの開け閉め程度しかやらないらしいが、僕は実際に避難用はしごで下の階まで降りてみる。で、降りたら、そう、昇る。自分で実際にやってみる。

年に2回、もう15年だから慣れたものである。そして、それが実際に役に立った経験がある。昨年2月の寒い日のことだ。

その日は、間近に控えた国際学会での報告の準備を自宅でしていた。部屋の中で暖房を効かせていたため、途中で冷たい空気を吸うためにベランダに出た。その時、冷気が部屋に入らないよう、ベランダ側のガラス戸を後ろ手にしめた。冷たい空気をおなか一杯吸い込み、冷気で目をさまし、しばし一息ついたあと部屋に入ろうとしたら、ガラス戸が開かない。

いくら力を入れて引いても動かない。よく見ると、内側のロックがかかっている。ガラス戸を閉めた拍子に、カギがストンと落ちて閉まってしまったのだ。

家の中には他の住人はいない。平日だから、お隣さん宅も誰もいない。どうするか、しばし考えた。中に入るにはガラス戸を破るしかない。そうすれば中に入ることはできるが、割れたガラスの処理をどうするか、この寒い時期に寒風に室内をさらし続けるのか、思いが巡った。何といっても、手元に道具もなくてガラスを割るのは危険だと思い、そのアイデアはやめた。

次のアイデアは、とにかくこの建物から脱出して、誰かに救助を求めること。幸いに、駅前にマンションの建物管理をしている不動産屋がある。そこに行けば、合い鍵があるかもしれないと考えたのだ。

避難はしごのハッチを開け、これまで練習した通りにスルスルとはしごを降ろし、スタスタと降りる。それをいくつか繰り返して、1階までたどり着いた。着ているものはといえば、ほとんど部屋着のようなペラペラの情けない格好で足下はベランダ・サンダルだったが、人目を気にしている場合ではなかった。ポケットには何もない。当然、携帯電話もなければ、10円玉ひとつ入っていない。

駅前の不動産会社にたどり着き、事情を話し、合い鍵を求めたのだが、建物管理用のカギ(屋上に上るためのカギとか、貯水槽を開けるためのカギ)はあるが、部屋のカギは預かっていないと言われた。住居のカギは、建物の大家である郵船不動産という会社にしかないと。

とにかく、部屋のカギを持って来てもらわないことには、家の中にもどれない。大至急郵船不動産に連絡を取って、カギを持って来てくれるように伝えて欲しいと頼んだ。

話を聞いてくれた女性は、カウンターから少し奥まった席に戻り、電話をかけ始めた。だが、なかなか終わらない。「どうしたんだろう」という疑問と少しばかりの苛立ちが起きる。15分くらいたち、彼女が僕のところにまた来て、申し訳なさそうに「私がこれから行って、カギを借りてきます」と言った。

どうしたのか尋ねると、事情を説明しても郵船不動産の担当者は「いま立て込んでいて行けない」と譲らないらしい。なので、自分が取りに行ってきますと。

親切な申し出ではあるが、何かおかしい。僕は、自分の過失でカギをなくしたわけではない。ガラス戸をしめた折にカギがかかったのは、建物のせいだ。その建物の管理責任は貸し主にある。だいいち、こちらから行って返ってくると、時間が倍かかる。郵船不動産の担当部署はどこにあるのか聞いたら、横浜の馬車道だとか。片道1時間、往復だと2時間くらいかかる。2時間も待てないし、待たされる理由もない。

私が取りに行ってきますと申し出てくれた彼女に丁寧にお礼を述べ、「だけどそれはあなたがする仕事ではないから」と伝え、もう一度電話をしてカギをすぐに持ってくるように言ってくれるように頼んだ。部屋のカギを持って来るだけだ。誰かを使いに送ればすむはなしだ。

彼女も自分が行くより、相手の会社がカギを持ってくるべきだということはよく分かっていたので、また自分の席に戻って電話をかけてくれた。だが、今度もやけに時間がかかっている。

カウンターで待つ僕のところに再度やって来た彼女は、「これからカギを持ってきてくれるそうです」とほっとしたような顔で僕に伝えた。

それから待つこと1時間半、やっと郵船不動産の担当の男性がやって来た。どんな顔をして現れるかと思っていたのだが、平然と、いや「しょうがねえなあ」とでも頭の中で思っていそうな面倒くさそうな顔つきをして現れた。彼は「では行きましょう」とだけ言って歩き始めた。

そのまま何も話さず僕の住むマンションまでたどり着き、玄関のロックをはずして立ち去った。本当に何も言わなかったのだ。「お待たせしました」とも「すみませんでした」とも「ご迷惑をおかけしました」とも。まるで、非は完全にこちら側にあるかのように。非常識。驚くともに、怒りが沸いてきた。

部屋に戻り、気持を落ち着かせるために熱いお茶を一杯淹れて飲んだ。その後、ふと気になって建物の外に出てみた。あ、やっぱりだ。僕の部屋からその真下の1階の部屋まで、各階の避難はしごがすべて吊り下がったままになっている。ため息が出たが、自分がやったことで仕方がないので、今度は建物の1階から避難はしごをよじ登り、各階で回収していった。

もちろん、その時は忘れずにベランダ側のガラス戸のカギは開けておいた。