2025年1月29日

エポケーについて考える

先日、フジテレビによる記者会見があった。夕方4時から翌日の2時過ぎまでつづくマラソン会見だったようだ。

第1回目の、報道機関としてのテレビ局が行った会見とは思えない記者会見への批判があったからか、今回は途中で打ち切らずに延々と行われたが、当然ながら長ければよいというものではない。

経営陣の明解さを欠いた発言内容もさることながら、記者たちの説教口調の質問内容にも閉口した。まるで自分のことを取り調べを行う警察か検察と勘違いしているかのような。

その根拠となったのが週刊文春が報道した、フジテレビ社員Aが中居正広による性加害に関与したという特集記事だ。それをもとに、鬼の首を取ったかのような記者らの質問が続いた。

だが、その週刊文春は3回にわたって続けた特集記事のなかで、社員Aの関与のあり方について訂正していた。だがそのことは、記者会見では誰も取り上げなかった。記者側もフジ側もよく知らなかったわけ。

情報の中身の真相のほどは別として、あの場にいた連中は手にできるはずの情報に目を通していなかった。

なんとなく世の中でそうなっている、SNSで多くの人がそう言っているというだけで、あたかもそれが既成事実であるかのように捉えて論を展開する。

一言で言うならば、みんな早とちりなのである。自分で調べたり、考えて納得するのではなく、SNS上でそう言われているからそうに違いないと勝手に決めつけている。

文春が社員Aの関与についての記事を訂正していたと知るやいなや、それまで「フジテレビ、悪」と言っていた多くが今度は「文春、悪」の流れに移った。その変貌というか寝返りは実にすばやい。

兵庫県議だった男性が自死した件。NHKから国民を守る党の党首である立花が、その男性が警察から出頭を命じられているとかなんとか、まったく事実無根の情報をSNSで発信し、それに多くが反応してさらに情報を拡散させた。だけならともかく、県議や彼の家族を執拗に攻撃し、追い込んだ。

立花が県議の男性について言いつのった批判が真実であるならば、それに関してSNS上で批判が拡がるということはあるだろう。それは表現の自由でもある。だが、警察が異例の発表をしたように、立花の言はまったくのデタラメだった。

しかし多くの人が、そうした流言の類について自分で詳しく知る努力もせず、内容の真偽に関して何も考えることなくただ反射的に反応し、攻撃的な行動をとるに至った。

兵庫県知事選に関わる一連の不始末不祥事の根幹の一点はそこにあるように思う。

即座に反応しないこと。まずはそれを心がけるしかない。現象学を確立した哲学者のフッサールが提唱したエポケー(判断停止)の重要性である。各種情報も含め、外からの刺激に対して思考することなく反応、判断するのは危険なことだと知ることが大切だ。

SNSをめぐる現在の未成熟な社会環境のなかでは、われわれは思考停止に陥ることをつねに注意しながら、一時的に判断停止する、あるいは留保することを学ばなければならない。