2024年4月2日

どこの国でもリサイクルは難しい(シンガポール)

外出先から宿に帰る途中、少し道に迷い、表通りからいくぶん離れた裏道を通っていたら、トンネル通路のなかにさりげなく設置された廃品回収箱を見つけた。

ここに書かれた説明を読むと、衣料、(柔らかい)玩具、枕、宝石(マジ ?!)、バッグやベルト、靴、カーテンなどの日用品を回収してリサイクルに回しているらしい。なかなか結構な試みである。

若い女性が2人やって来て、この「Let's RECYCLE」の前でお互いに何やら言葉を交わした後、持って来たボストンバッグの中身をザバザバと投入していった。なるほど、彼女たちのような若い人が積極的に環境保全へ取り組んでいるんだなと思った。

ただ、この回収箱の側面には、破棄された衣料品189,000トンのうち、わずか4%しかリサイクルされていないとある。まだまだ、これからという感じ。

2024年4月1日

雨のフォートカニング・パーク

街の中心部にあるフォートカニング・パークは、標高160メートルほどの小高い丘である。そこが見事な公園になっている。

午後、出かけた際にその公園を抜けて目的地へ行こうとしたら突然途中でシャワーに見舞われた。シャワーと行っても、最初はポロポロと来ただけだったので10分か15分かで止むと思い、大木の下で雨宿りをしていたのだけど、急に雨脚が強まりどうしようもなくなり、公園内のホテルに飛び込んだ。

とにかく建物のなかに入らなきゃと一番近い扉を開けて飛び込んだら、その扉はホテルの厨房の裏口(つまり搬入口)だった。そこいた厨房スタッフの人たちにゴメン、ゴメンと言いながら奥へ進み、ホテルのレストランの真ん中を通ってフロントのところへ出た。

雨はなかなか止まず、結局そのあと、40分近くロビーで雨が止むのを待たせてもらった。ただ、こうした天気はこの国では珍しくないわけで、今日の僕のような客、いや正式には客でもなんでもない人間も温かく放っておいてくれるだけでなく、ホテルのスタッフはみんな、僕の前を通るときには軽くお辞儀をしていってくれる。もちろん僕もそれを返す。





2024年3月31日

シンガポールの大学寮を覗く

夕方、英国留学時代の同級生だったシンガポール人が、息子を連れてホテルまでやってきた。彼をシンガポール国立大学のHall(学寮)までクルマで送るので、よかったら一緒に行ってみないかと。

大学2年生になる彼は、6つある大学寮の1つに住んでいる。Raffles Hallという1958年にできた歴史のある寮だ。

他の寮生と同様に、月曜日から金曜日まではそこで過ごし、金曜の夜か土曜の朝に自宅にもどる。そして、日曜日の夜、父親(つまり私の友人)が時間があればクルマで大学まで送り届けてやるらしい。

厚かましくもその寮の部屋の中まで入れてもらった。2人部屋である。かなり狭い。ベッドが壁の両側に2つ並んでいるが、その間のスペースは50センチもないくらい。室内設置型のエアコンが部屋の真ん中に鎮座してフル回転していた。本当はエアコンの設置はだめらしい。けれど、それじゃあ暑くて勉強できない。大学当局も見て見ぬ振りをしている。

その後、広大なキャンパスを彼の運転で見て回った。日曜の夜だけあって、とても静かだ。そのなか、キャンパス内巡回の黄色いバスだけが走っていた。

大学には門がなく、誰でも自由にどこからでも施設内に入れる。クルマでの出入りも自由だ。管理社会の典型であるシンガポールで、大学がこのように運営されているのは意外だった。

完全にオープンにしていて、そのために構内で問題や事件が起こることはないのか訊ねてみたが、ほとんど聞かないという。そうした社会的秩序ができているのかもしれない。それと、確認はしなかったがカメラによるモニタリングが行き届いているからかもしれない。

ところで、自宅から通学しても1時間ほどなのに、なぜわざわざ寮に入るのかーー。彼(オヤジの方)曰く、若いうちに共同生活を送ることでコミュニティの一員としての意識を涵養することに役立つからと。

確かに日本の大学でもかつては寮がたくさんあり、学生ならではの共同体としての役割を果たしていた。そういえば、京大の吉田寮の老朽化に伴う建てかえのために明け渡しを大学側が寮生に求めている件は、その後どうなったのだろう。 

シンガポール国立大学の寮はとても人気で、入寮のための競争倍率が高い。また一旦入寮しても、翌年度にそのまま残れるのは20〜30%で、残りの学生は退寮させられる。残れるかどうかの基準は、その寮での各種活動(寮の運営参加やイベントの開催など)によって「稼ぐ」ポイント数によって決められる。そうした点は、なるほどシンガポール的なのである。

シンガポールのナショナル・ギャラリー

街の中心部にあるナショナル・ギャラリー・シンガポールに行ってみた。15ドル(シニア、教員、学生は割引料金が適応される)を支払ってなかへ。

この建物は、もともとは1929年に建てられた旧市庁舎と1939年建設の旧最高裁判所の建物を改築したもの。広さは十分、シンガポール政府の意欲がはっきりと感じられる。

フロア案内

僕が面白いと思ったのは、建物の入口のところにあった巨大な送風機。シンガポールは暑いからねえ。

目玉のような8つの送風口の下に、送風口の向きを勝手に変えないようにという注意書きが書いてある。

ところで、これって何かに似ているなと思ったら気がついた。あれだよ、大阪万博のあの変なやつ。

国家プロジェクトなら、何でもいいのか

神奈川県の黒岩祐治知事が、品川と名古屋を結ぶ予定になっている中央リニアのことで静岡県の川勝知事に苦言を呈した。

静岡のエリアでは、工事に伴う生態系への影響や水資源がどのようになるかの調査結果が得られていないとして工事を中止させていることを指してのことである。

黒岩神奈川県知事はその際、リニアは「国家プロジェクト」なんだから「責任を果たすのが当然」と言い切ったらしいが、大きな勘違いをしている。

そもそも国家プロジェクトの定義は何なのか。リニアはJR東海という民間企業が始めた取り組みではないのか。

ただその会社には「皇帝」と呼ばれて30年近くもその企業を牛耳っていた経営者がいて、その人物が安倍元首相と連んで事を進めていたから、いつの間にかそれを「国家プロジェクト」と言い始めた連中が出てきただけだ。

リニアは国家プロジェクトではない。また、もし国の金が注ぎ込まれているから国家プロジェクトだという向きがいたとしても、そのことと「責任を果たすのが当然」かどうかは別の問題である。

この黒岩というおじさん、国家総動員法でも日本にまた復活させたいのだろうか。国家がどうのとか、そうした大きな理屈で盲目的に物事を判断するのではなく、もっと冷静に事の是非を考えた方がいい。

無理か。頭の中が「アワビにバナナ」だからナ。
https://bunshun.jp/articles/-/61913

2024年3月29日

だから、人々はチェンマイで長逗留してしまう

チェンマイに4日ほどいて、バンコックを経てシンガポールに戻って来た。

バンコックの宿の宿泊費は、シンガポールのおよそ3分の2から半分。そして、チェンマイはバンコックの3分の2から半分である。つまり、チェンマイのホテルは、シンガポールの半分から4分の1の値段ということになる。

値段が半分から4分の1で部屋の広さは3倍、ホスピタリティのレベルは2倍である。総計すると、チェンマイのホテルの価値はシンガポールの12倍から24倍という計算になる。

シンガポールには、その効率的な社会システムなど優れたところが数多くあるが、海外から遊びで来るところでなく、あくまで金を稼ぐ場。とりわけ今のように安い日本円を財布に入れてやってくる日本人には、そうとしか思えない。



アルジャジーラ

ホテルにもよるが、僕が泊まり歩いている宿ではCNNもBBCも映らない(契約していない)ことが多い。英語でニュースが聞けるチャンネルがないか探すと、ABCかアルジャジーラ(Al Jazeera)に落ち着く。

契約チャンネルにCNNもFOXもないけど、ABCは映ることが多い。CBSやNBCは映らない(だからSNLは見られない)。

そうした状況の中では、ニュースでは断然アルジャジーラが見応えがある。中東カタールのドーハに本拠地をおく放送局だが、イスラム寄りの放送局ではない。僕が見る限り、極めて高い中立性を保っているニュース専門局だ。

局のモットーは「一つの意見があれば、もう一つの意見がある(the one opinion and the other opinion)」というもの。オルタナティブの重要性を示すもので、これはすごくいい。

アルジャジーラのニュース番組

それにしても、こちらで視聴できる「NHKワールド」は、一体誰に向けて放送しているつもりなんだろう。編成担当が何を考えて制作しているのか、まったく分からない。これじゃ、誰も見るわけないな。いや、とにかく日本語が恋しくてしょうがない日本人が見るか。

アルジャジーラと比べて、あまりに番組のクオリティが低いのは予算のせいか、制作能力のせいか、やる気のせいか。ともかくNHKの国際放送は、あんまりみっともない番組を外国で流すのは止めた方がいいと思う。

2024年3月28日

チェンマイ( /3)

宿の前に自転車が何台か並べてあったので、1台借りて町に出た。

これなら遠くへ行けそうなので、昨日まで出かけていた市街地と反対の方面にペダルを漕ぐ。 すぐ脇を抜き去っていくクルマの排気ガスを浴びつつ、地面の凸凹に車輪を取られないよう注意をしながら自転車を走らせる。だんだん周囲の人口密度が低くなっていく。

途中で線路に突き当たったので、線路に沿ってその脇を北へ向かって進むとチェンマイ駅に着いた。チェンマイの街は、街を挟んで西にチェンマイ空港、東にチェンマイ駅がある。

駅の構内は静まりかえっている。タイムテーブルを見ると、もともと発着の本数が少ない。駅にはプラットホームが4番まであるが、列車を待っている客はいない。いるのは、ホームのベンチ寝ている若者だけだ。荷物がないところを見ると、旅行者ではなく地元の青年なんだろう。静かにゆっくり昼寝できるとやって来てるのかも知れない。

待合室(といっても正確には部屋ではないのだが)にはバックパックを背負った白人が何人かいた。若者だけでなく、中年の夫婦も。おそらくチェンラーイか、ラオス国境あたりへ行くのかもしれない。

2024年3月27日

チェンマイ( /2)

チェンマイ2日目。昼間に出歩くのはかなり疲れることが分かったので、暑い時間帯は静かに宿で過ごすことにする。日がほぼ沈むかけたころから、街へ。

街の中心部を歩いているとマッサージの店、カフェ、入れ墨の店が多いのに気づく。それとバイクを取り扱う店も多い。前の3つは、明らかに観光客目当て。

マッサージ店で働いているのは、ほぼすべて女性である。若いお姉さんを揃えた店と中年以上の女性を従業員として集めた店と、明らかに店のタイプが分かれている。

僕がフットマッサージをやってもらったのは、後者。アスリートのような筋肉質のおばさん(歳はよく分からない)に揉んでもらった。

店頭のメニューだと1時間が250バーツ。30分でやってくれと頼むと200バーツだと言う。180バーツに値切り、マッサージが終わったあと、担当者に20バーツをチップで渡した。

マッサージ自体は、最初香油のようなものを塗って香りを立て、その後はジョンソン・エンド・ジョンソンのベビーオイルかと思えるオイルを足に塗りながら、さすりながら、揉んでいく。取り立てて何もないけど、気分のせいか、いくぶん足が軽くなる感じがした。

本当はね、しっかり身体全体マッサージしてもらいたいところなんだけど、日本出発前に発症した帯状疱疹で左の胸から脇、背中が刺すように痛い。これをマッサージ師にグイグイやられたら、痛さで間違いなく卒倒しちゃうからね。残念。

フット・マッサージの後、ピン川の畔のガーデン・レストランで、スズキのフライとビール。ステージではバンドが懐かしいアメリカン・ポップスを演奏していた。男性と女性のツイン・ボーカルだが、その女性が上手い。

帰りしな、ステージ近くに寄って「よかったよ」というサインを送った。彼女が唄いながら、ぴょこんと頭を下げた。まだ学生のような感じだった。

2024年3月26日

チェンマイへ

バンコクからチェンマイへやって来た。バンコクは高層ビルが建ち並ぶビジネスセンターのようになっていたが、チェンマイはそれに比べればのんびりした、でも観光客(特にここでも団体の中国人客)にあふれたタイ第2の都市である。

今日は午後早い時間に到着したので、宿にチェックインした後はさっそくコンパスをポケットに街中を歩く。4時間ほど歩き続け、町の中心部を全部とは行かないが、その全体の規模は理解できた。街中の方々に、実にたくさん寺院がある。

チェンマイの真ん中を流れるピン川(Ping River) 

川の畔でくつろぐ若者 


蓮で溢れた市内の小川

髪を切るような感じで入れ墨を入れる

アユタヤへ

バンコクからクルマで北へ1時間半ほど。こちらの人によると、正しくはアユタッヤーと発音するらしい。

ここは14世紀から王朝がおかれ、400年以上にもわたって栄えた古都。その後、18世紀にビルマに攻め入られて陥落し、町は破壊された。多くの寺院は壊され、仏像は首をもぎ取られた。そうした破壊の歴史がこの街のあちこちに残っている。

アユタッヤーを代表するワット・プラ・ラーム、ワット・マハタート、ワット・プー・カオ・トーン、そしてワット・チャイナッタナーラムを訪ねた。

それら4つの寺院の入口にはそれぞれチケット売りのおばさんがいる。4つめの寺院を訪ねたとき「もう3つも同じチケットを買わされたよ」と3枚の半券を見せて苦情を言ったのだけど、何食わぬ顔で「ワン・バイ・ワン」と言われてしまった。ガイドが隣で「ワン・バイ・ワン」とつぶやき苦笑していた。

タイ人は入場無料で、外国人観光客だけが有料となっている。ま、仕方ないけど。

首をもぎ取られた仏像

三輪のトゥクトゥクのドアにUNESCOの文字

傾いている仏塔

暑い日は昼寝をするのが正しい

首のない仏像の列

ガジュマルの木に仏さんの頭が

破壊された数々の寺院、首を取られた仏像が痛々しい。だが、いまパレスチナの地で行われているガザの街の破壊とジェノサイドは、これらを遙かに超えている。

2024年3月25日

ムエタイ

バンコク市内には、ムエタイ(Muay Thai)のスタジアムが2つ。そのなかの1945年に創立されたという歴史的あるスタジアムで試合を観た。

今日のマッチは8つ、午後6時15分に第1試合のゴングがなった。テレビ局が入っていて、中継で番組を流しているが、午後8時で番組中継は終了。試合は第5試合あたり。

テレビ局のカメラマンがいなくなると、一気に会場の空気が変わった。特にセコンドで大騒ぎしていた選手の所属クラブの連中がさっと消えてしまった。

大声を上げるセコンド。リング上の選手には迷惑なんじゃないかね、これ。

試合が始まる前に、念入りに儀式のようなことを両選手が行う。タイのムエタイは、日本の相撲のようなものなんだろう。

2024年3月23日

35年ぶりのバンコク

シンガポールからバンコクは、飛行機で2時間20分。羽田から那覇へ飛ぶより早い。

シンガポールは暑かったが、バンコクはもっと暑く、湿度も高い感じである。昔の感じで街を歩き回ると確実に疲弊する。そんなとき、否応なく歳を感じる。

20代、アジアを旅していたときは疲れなんか感じる暇はなかったけどね。朝から日が暮れるまで街中を歩き続け、一日3リットルの汗をかき、4リットルのビールを体に流し込む。そんなことを連日続けていた。

バンコクだけど、35年経って街が大きく変わったかというと、確かにニュキニョキと高層ビルが市内の方々に建てられたが、王宮を中心とするチャオプラヤ川周辺地域は時間の割にはあまり変わってないように思う。

アクセサリーなど細工物を売っている無数の路上店舗も時間が止まっているかのようだ。

王宮

王宮内で見つけたヒゲの友だち

途中、歩き疲れてワット・マハータート(Wat Mahathat)という「格式の高さはバンコク随一」とガイドブックに書かれた寺院の前で入ろうかどうか思案していたら、その前にたむろしているトゥクトゥクの運転手から、どこから来たんだと声をかけられた。

ワット・マハータートは、ドレスコードが厳しい

暑さで疲れ、真面目に答えるのが嫌な気分だったので、どこから来たと思うか、と返したら一瞬押し黙ったあと、 "Germany?" と言ったよ。

俺のどこがドイツ人なんだ。"No" と返し、もう一度どこから来たと思う? と相手に聞いたら、隣のトゥクトゥクの運転手と何か相談したあと、"Nepal?"。

近づいて来たな、と少しだけ面白くなり "No" と返したら、今度は "Greece?" と言ってきたよ。また遠くに行ったじゃないか。 

彼らは何十年も毎日何十人という客に「お前はどこから来た?」と聞いているのに、何にも分かっていないみたいだといささか呆れてそのまま立ち去ったが、後で考えてみれば、彼らにしてみれは相手がどこの国出身であろうとそんなこと関係ないのだ。

彼らは国際交流をしたいわけじゃないんだから。ただ客引きのために話かけているだけなのだから、ドイツもネパールもギリシャも同じなんだろう。

2024年3月22日

Grabのドライバーと

シンガポールでは移動手段としてのグラブがとても便利だ。アプリが使いやすく、仕組みがよく出来ていることに感心する。まだ使用経験はそれほど多くなくあくまで個人の印象のレベルだが、運転手は既存のタクシーに比べて全般的に若く、対応やサービスもよい。

これまで乗ったグラブ・タクシーの運転手は、全員が日本で言う「脱サラ」のドライバーだった。

働いている時間が長いことをぼやいたりしているものの、彼らの全般的な仕事の満足度は高い。まず、働く時間も含めて自分で自分の仕事をコントロール出来ること、組織に縛られない気安さをみんな強調する。ストレスが極度に減ったことを喜んでいる。

だから、客に対するサービスも向上する。乗客の満足度も高まる。客は降車後にアプリへ送られてくる領収書を確認し、ドライバーを評価する。乗せた客からの評価がよければ、ドライバーは仕事がさらにやりやすくなるだけでなく、気持も良いはずだ。いいサービスを続けようと考える自然な動機づけになっている。仕組みがよく出来ている。

 
今朝、宿から空港までの移動で乗ったGrabドライバーは、母方の祖父が日本人だと話した。第二次戦争のとき日本軍の兵士としてシンガポールに来て、終戦後そのまま残ったのだという。

彼が小学生の頃に亡くなったらしいが、子供の頃に抱かれた彼の手はまるでアスファルトの道路面のようにザラザラだったと言った。戦争が終わった後シンガポールに残り、ずっと金属を磨く仕事を続けていたからだとか。その人は日本には一度も戻らなかった。母親になぜ彼は一度も生まれた国に帰らなかったのか聞いたことがあるが、教えてくれなかったと話してくれた。

わざわざそんな作り話をするような人物には見えなかった。本当の話だろう。そんな話を助手席に乗って移動中に聞けるのもGrabを選ぶ理由のひとつになっている。

2024年3月21日

シンガポールは、買い物地獄である

かつてシンガポールは、ショッピング天国などと言われていたらしい。今はまったく様相が異なる。

とにかく何でも高い。いや、例えば食事を現地の人たちが普段行くような店で済ませば、その点はそうでもないかもしれない。だが、ちょっと贅沢をしようと思うと、別のモードに入る。

スーパーマーケットに並んでいる商品を見ても、アルコール飲料といった生活必需品以外のものはとても高価。例えばスーパーの棚にあったコッポラのカベルネ・ソーヴィニヨンが、59シンガポールドル(日本円で6600円)だった。日本では2800円だから2.3倍である。

ただし、これはシンガポールに限った事ではない。対米ドルでもユーロでも同じだ。日本政府と日銀がずーと円を安く、日本を安く誘導してきた結果だ。インバウンドと呼ぶようになった外国人観光客を国内に呼び込むのには格好だが、確実に日本人は外国に出て行きづらくなった。

為替レートの推移(SGD対円)
 
政府が短期で懐を膨らませ、大手企業や一部の富裕層をいっそう太らせるには良いのかも知れないが、長期的には国の成長を間違いなく妨げる施策。本来の「成長」を忘れた愚策の結果である。

2024年3月20日

(Part of) My new life has started

大学から1年間の特別研究期間をもらって、外国に出た。

最初の滞在地は、シンガポール。ここで数ヵ月、シンガポール国立大学(NUS)をベースにして活動をする予定だ。

日本を出るときにはコートを手にしていたが、ここでの正しいスタイルは、半袖シャツに短パン。とにかく日中は暑い、そしてムシムシする。夕方には突然、スコールのような雨に襲われる。ただ、天気に文句をいっても仕方ないので、こればっかりは適応するしかない。

今日はこれまでの暑さでいささか疲れ、午後は宿で少し長めの昼寝をとった。そして、夕方からはいつものように町の散策へ。

歩いていると、町の中心部にSMU(Singapore Management University)の広いキャンパスがあった。一般の人たちもそのキャンパスのなかを通り過ぎている。

タウンホール(市庁舎)の方に足を進め、その後近くのラッフルズホテルで夕食をとることにした。Burger and Lobsterというレストランでロブスターロールを。7時までのハッピーアワーにギリギリの時間だったので、ビールとワインを一緒に頼んだ。 

ほろ酔い気分になったので、食事の後はそのままラッフルズホテル内のLong Barへ。カウンター席の目の前に置かれたのは、落花生が入った麻袋。おつまみなんだろうと、遠慮なくいただく。

しばらして、バーのスタッフに「正しい落花生の食べ方を教えてくれ」といったところ、殻は構わず床にそのまま捨てるのが正しいやり方だとか。19世紀からの習わしで、マレー人の何とかがといったその事の起こりも説明してくれたが、頭に入らなかった。ただ、それが今も続くトラディションか、との問いに彼がYesと答えたのは覚えている。

隣の席に女性の一人客がやって来て、グラスを前にして手持ち無沙汰にスマホをいじり始めた。さっき聞いたばかりの(少し記憶が怪しげだが)落花生にまつわる話をしたら面白がってくれた。 

 
 
天井の団扇が扇いでくれる

ここシンガポールには数ヵ月の滞在予定。その間に周辺の国を回るつもりである。夏はロンドンをベースにして、まだ行ったことのない欧州の国をまわりたいと思っている。

もうバックパックは背負っていないが、それに近い形の一人旅だ。高齢者の仲間入りをした身で、果たしてこれからどれだけまだ見たことがない新しいものを見ることができるか。

2024年3月19日

いまどき昭和風の学生の蛮行に苦笑する

神戸大学の学生サークルのメンバーが、合宿か何かで宿泊した旅館の部屋を荒らしたニュースが広がっている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/8b98e41f4446a8260caf5ac846c5807bb642f9c5

部屋の中で、メンバーをみんなして胴上げして、天井に穴を開けたとか。やるね。

部屋の障子をメタクタに破り、その穴から皆で顔を出して記念写真を撮ったとか。おもろいやん。就活でのお前らの証明写真に使うといい。

こちらは顔出ししているウチの猫

 
ただ、どういう気持でそうした事を旅館でやったのか、少し気になる。報道には、

旅館によると、破壊された天井や障子は既に、学生らが加入していた保険をもとに修復されており、警察への被害届は出されていないという。

とある。

やっちまっても、どうせ加入している保険ですべてカバーされると分かっていてやったのなら、鞭打ちだ。

そして、その出来事を知った神戸大学当局のコメントにも首を傾げる。新聞によると、

神戸大はHPで「本学学生による不適切行為がSNS上に掲載されており、関係者の皆さまには大変ご迷惑をおかけし深くお詫び申し上げる」

とコメントしたらしい。

SNS上に掲載されていることにまず言及しているが、そんなことは事の本質には関係ない。ネットで広がっているからといったことではなく、問題は学生が破壊行為をしたという一点にあるんじゃないのか。やれやれ。

2024年3月15日

BSW

大学から特別研究期間をもらい、明後日からシンガポールへ行く予定だ。

シンガポールでは入国の際の入出国カード(紙)が廃止され、代わりに専用アプリによる事前の電子入国申請が求められている。

今し方、スマホでその手続きを済ませた。アプリでできる手続きの種類にはいくつかあって、短期滞在の入国だけでなくて、それを延期するための手続きを行うという項目もある。

シンガポールは継続的な滞在が1ヵ月を超える場合はビザが必要になる。そのためだろう。試しにそのボタンをクリックしてみた。いくつかの記入項目が現れたと同時に、見知らぬアクロニム(頭文字語)がいくつも出てきた。UOB、DBS、OSB、OCBC、NIR、MOHなどだ。最後のものだけMinisitry of Healthだと推測できた。その言葉の近くにCOVID-19についての記述があったから。それ以外は分からない。

こういったものは、シンガポール人には自明のものなんだろう。日本人が、NHKを日本放送協会の略称だと知っているような感じだ。だが、他国の人間はおそらくほとんど知らない。

外国の人がそれらを知っているかどうかは、ちょっと頭を使えばわかるようなもの。不親切。ベースに傲慢さがある。

結局、このアプリの画面はとってもBSWだ。僕には(B)さっぱり(S)分からない(W)。 

2024年3月14日

みんなで叫ぼう、「クソ野郎!」

「クソ野郎」とツイッターに投稿されたことで名誉を傷つけられたと、元TBS記者山口某(ジャーナリストの伊藤詩織さんに性暴力を加えた)が、れいわ新選組共同代表の大石晃子議員を訴えていた件の判決が出た。

東京高裁は損害賠償金の支払いを認めた東京地裁の1審判決を取り消し、山口の請求を棄却した。

1審での東京地裁の裁判長は、「クソ野郎」を「攻撃的かつ激しい侮辱」だとして名誉毀であるとした。一方、2審の東京高裁の裁判長は、「直ちに人身攻撃となり、意見や論評の域を逸脱したとは断じられない」と判断した。

この違いは面白い。裁判長2人の価値観と言語感覚が、大きく異なっている。それにしてもツイッターでの「クソ野郎」との投げかけを「攻撃的かつ激しい侮辱」とまでネガティブに受け取る東京地裁の裁判長は、ずいぶんお上品な育てられ方をしてきた人物なんだろうナ。


とにかく、ある意味で「クソ野郎」に裁判所のお墨付きが出たようなもの。世の中を見回すとそこかしこに「クソ野郎」がいるじゃないか。さあ、ソイツらに向かって、みんなで叫ぼうじゃないか、クソ野郎って。

2024年3月13日

映画「オッペンハイマー」

96回目になるアカデミー賞では、「オッペンハイマー」が作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、編集賞、撮影賞、作曲賞の7部門で受賞した。

 
原爆の開発責任者だったJ・ロバート・オッペンハイマーについて描いた作品である。僕は先月、この映画を2回観た。飛行機の中、行きと帰りだ。他に観たいものがなかったからだけど。

さて、昨年7月に米国などで公開されたこの作品は、まだ日本では公開されていない。原子爆弾の本質、原爆でのヒロシマ、ナガサキでの被害や被災者の姿などがきちんと描かれていない、という批判がすでに多く寄せられていることがその理由の1つだ。

日本人の一般感情としてそれは分かるが、この映画はそれを目的に作られたものではない。「ゴジラ」とは違う。

焦点は原爆そのものではなく、その開発の中心人物で原爆の父と呼ばれた(呼ばれてしまった)人物の思いや葛藤が中心のストーリーだ。映画として世界中に配給され、商業的に成功するものをと考えたならそうなる。しかたない。だから、日本人がこの映画に「NHKスペシャル」のような作りを期待したら間違っている。

映画で描かれた原爆の「向こう側」にいたわれわれ日本人が考えるべきこと。それは、この映画がヒロシマ、ナガサキの被災者の状況をきちんと描いていないことに対して不満を募らせることではなく、なぜ原爆の投下を相手に許してしまったのか、なぜそれを止められなかったのか、つまり大戦の負けを認めるべきタイミングでそうした対応(降参)を国の中枢部が決められなかったのかだ。

僕は米国による日本への原爆投下を認めているのではない。しかし、もし日本が原爆を大戦中に先に開発していたなら、日本の軍部は間違いなくそれを敵国に対して使用していただろうこと、そして、そうした戦争にともなう開発競争のなかで、大局的にどのように国民と国を守っていくかという考えが、日本の中枢部には決定的に欠けていたことは確かである。