2024年2月18日

これが国のシンボル?

ホテルのあるClarke Quayからシンガポール川沿いの遊歩道をたどって河口へ下る。日差しがとても厳しい。なぜ帽子を持って来なかったのかと後悔する。

小1時間ほどでマリーナベイに出た。突端にシンガポールのシンボルとされているあの「有名な」マーライオン像がある(写真)。高さは7〜8メートルほどだろうか。キッチュと言えばキッチュだが、造形的にも意味的にも何も面白くない。端から期待はしていなかったが、あまりの馬鹿馬鹿しさに脱力する。

観光名所か。あたりは、中国から春節に合わせてやって来た観光客で溢れかえっている。

2024年2月17日

シンガポール、チャイナタウン

シンガポール市内のチャイナタウン。路上は、旅行ケースを転がす中国人観光客がたくさん。

2024年2月16日

Coca Cola

シンガポールの街中を走っていたコカコーラ社のクルマ。車体にペイントされたコークのロゴマークがやけに歪んでいる。暑さのせいという訳ではあるまい。どうしたのだろう。

2024年2月15日

人気のない街中の公園は、きれいだが寂しい

ここ、シンガポールの街を歩いていると気がつくのは、意外と公園が多いということ。しかもどの公園もきちんと整備されている。それはとてもいいことだと思う。

ただいささか不思議なのは、そうした公園に誰も立ち入っていないことである。これが(日本も含めて)他の国だったら、芝の上に寝転んでいるひとがいるのは必至だし、犬を散歩がてら引いて歩いている周辺の住人やボール遊びに興ずる子どももいるはず。

それが、そうした人(や犬)をまったく見なかった。きっと公園の芝生に立ち入ったら、行政から罰金が科されることになっているんだろう(未確認)。 

街の中心部にあるホン・リム・パーク

2024年2月8日

学びたければ、退職すること

「退職は一番のリスキリング(学び直し)」という言葉を新聞に見つけた。なるほどそうだな、と膝を打った。

転職などで辞めていく同僚の姿を見ていたのがきっかけで2020年に退職、その後起業し経験を積み、22年にメルカリに再就職したという女性の話が載っていた。

彼女は、会社を離れていたときに多くの事を学んだ、と語っている。そして、いまは充実した気持ちで日々の仕事に打ち込んでいる。

何をやってようが毎月給料をくれる会社というありがたい場所を辞めるのは、誰だってそれなりの覚悟がいる。不安もあることだろう。だからこそ、それを押して辞めたとなれば、ぼんやりとはしていられない。自分を見つめ直しつつ、何をやるべきか高速で考えるようになる。

そこに意味ある学び直しが存在する。会社組織に身を沈めながら言われたことをやってるようでは、本当に何を学び、どう自分を高めていけばいいかなんてそう簡単に分かるものではない。それが一般的な会社ってものだ。

成長したければ、勇気を持ってリスクを取る。多少の賭けにすら出られないようなら、どうせ今いる組織の中でも大したことはできやしないんだから。

2024年2月3日

桐島聡とされる人

1月29日、自称「桐島聡」とされる人物が死亡した。70歳。1974年ごろに起こした企業爆破事件の容疑者として指名手配されていた。

彼は神奈川県鎌倉市の病院に内山洋というクールファイブのような偽名で入院していて、1月25日に病院側に「私は桐島聡だ」「最後は本名で迎えたい」と話したという。警察がそれから捜査に入って、わずか4日後になくなった。末期の胃がんを患っていたらしい。

爆破事件に関与したのは、彼がまだ20歳の学生だった頃。共犯者が海外逃亡しているために時効の適用が止まっていた。

それから逃亡生活を始め、50年である。その間、本名を誰にも明かせず、免許証や保険証、銀行口座を持たず、住民登録などもできず、裏の日常をひっそり生きてきたのだろう。

警察に出頭しようと何度も考えたに違いない。けれどそうしなかった理由は、彼にしか分からない。

ネットには「今頃になって、のこのこと出てくるな」とか「目立ちたいだけだろう」などといった言葉が流れている。本人の50年間の思いを想像したこともない他人が、一知半解な理解でものを言うべきではない。

本名を病院で明かしたのは亡くなる4日前のことになったが、その気持ちたるや察するにあまりある。日々葛藤のなかにいて、さまざまな思いのなかで生きていたはずだ。

彼が20歳の時に行ったことは明らかに犯罪である。では何がその時の彼をそうさせたのか。おそらくそれは、学生時代の人との出会いではないだろうか。もともと本人のなかにいささか歪んだ正義感のようなものがあったのだろうが、その当時の人との出会いが彼をしてこの事件に巻き込まさせ、残りの人生を決定づけたと思っている。

違う出会いがあれば、桐島はまちがいなく違う人生を歩んでいたに違いない。手配写真に写った彼の写真を見て、そう思う。

死を覚悟した彼は、50年間のあいだ封印していた本名を最後の最後に明かして、死ぬ直前にやっと表の世界へ戻ってきた。おおきな胸のつかえが取れた思いがしたことだろう。

2024年2月2日

「他者」への憎しみは、自分自身への憎しみから生じる

パレスチナの人たちを殺し、痛めつけているイスラエル首相のネタニヤフが、どうにもヒトラーに思えてきてならない。イスラエルが殺傷しているのは、あきらかに戦場のウクライナ兵だけではない。街中で、学校で、病院で、なんとか生きのびているウクライナ人の子どもが女性が多数犠牲になっている。

ジェノサイド(集団殺戮)であると世界中の人たちが批判しているにもかかわらず、その発言と行動を止めることをしないのはなぜだ。

ヒトラーは、ラウシュニング(ポーランド生まれのナチス政治家)との対話の中でこう言ったとされる。「私たちの心の中にユダヤ人がいる。しかし、目に見えない亡霊と闘うよりも身体的なかたちでのユダヤ人と闘う方がやさしい」。ヒトラーの人間性の一部が「ユダヤ人」なるものであり、それゆえに彼はユダヤ人を絶滅したかった。ユダヤ人という「他者」への憎しみは、自分自身への憎しみから生じていた。

ネタニヤフのなかにも似た感情があるように思う。長い歴史のなかでユダヤ人を痛めつけてきた数々の国や民族は、今のパレスチナ人ではない。

2024年1月31日

ゴッホ・アライブ

友人に誘われ、天王洲アイルの寺田倉庫で開催されている「Van Gogh Alive」を観てきた。モーショングラフィクスでゴッホの世界を見る者に近づけてくれる。

映像はすべて投影さえれたもので、実際のペインティングは一枚もない。通常の絵画展とはまったく異なった設えになっている。

壁やパネルといった垂直方向だけでなく床にも映写されていたが、せっかくなら天井も投写スペースにしてくれたら、床に寝転がって見れたのだけど。


2024年1月29日

電話に勇気は必要か

作家の青山七恵さんが書いた「電話の贅沢」と題するコラムを読んだ。その中に、こんな1節があった。

・・・私はいま、電話が好きだ。電話には、スリルがある。一度つながってしまったら、やぶれかぶれでも一発勝負でどうにか乗り切るしかないという、綱渡り的、即興劇的なスリル。同じ意思伝達の手段であっても、何度でも書き直しができるメールとはぜんぜんちがう。

やぶれかぶれの一発勝負とまで力まなくてもと思うが、気持ちはよくわかる。電話にはそれなりの緊張感がある。相手が出るのか、出ないのか、話しやすい状況か、そうでないか、機嫌はいいか悪いか、そうした思いが頭を巡る。相手が電話に応えるまでわからない。

若い人たちはもう電話はしないという。理由は、相手にとって電話は突然なので失礼だからとか。それはそうだが、それが電話というものである。

実際のところは、相手のことを考えているようで、自分のことを考えているんじゃないのか。電話をかけられた方が迷惑に思うことがあれば、自分が気が利かない人と思われるのが厭なだけじゃないのかな。

そのうち、「昨日、〇〇に電話したらね・・・」なんて言ったら、相手から「あなた、勇気あるね」と感心されるようになるかもしれない。

確かに電話は突然かかってくる。だから、出られるときは出る、出られないときは出ない、でいいんじゃないのかね。メールではうまく伝えられないことだってあるはず。電話をまったくしないという人たちは、そうした思いを何も持っていない人たちなんだろう。

2024年1月27日

哲学本

哲学本が人気だ。ビジネスマンを中心に、そうしたジャンルが今売れているという。ただし哲学書そのものではなく、哲学とは何かをさらっとエピソードや身近な問答を通じて分からせる入門本だ。

どこまで深く入って行くかは別として、哲学に興味を持つのは悪くない。そうした読者がどういった層なのかは詳しく知らないが、みんな悩んでいるのだ。そして、彼らはその答えが<哲学>にはあるのではないかという強い期待感というか、そこにすがっている感じがする。

「哲学って何」かを囓ることで、悩みの解決法を手にできれば楽なんだろうけど、実際それは無理な相談だ。哲学書を数々読みあさっても無理。哲学者自身がそれを分かって、しかも読者を救済するために書いているのではないのだから。哲学者は精神分析医ではない。

タモリは「教養なんてのは、大人のおもちゃである」というようなことを言ったらしいが、それはかなり正鵠を射ている。哲学は悩む人がすがりつくロープでもなく、天から垂れ下がった蜘蛛の糸でもない。

大人にとっての哲学というのは<おもちゃ>くらいの軽い気持ちで付き合うのが正しい付き合い方なのである。そうすると、とても楽しい。

2024年1月8日

リーダーの判断能力

サントリーホールディングスの新浪剛史社長が記者会見で「(震災の被害は)大変厳しい状況にある」「この状況を考えれば、被災者への対応が何より優先されるべきだ」と強調し、大阪万博は延期をすべきことを示唆した。建設人材の不足が能登半島の震災復興の妨げとなってはならないとの認識を示したといえる。

一方で、三菱商事会長で日本商工会議所会頭の小林健は「万博も震災復興も両方やるべきだ」と述べた。同様に語っているのは、大阪府の吉村知事や経団連の十倉会長(住友化学会長)である。

いろんな考えが当然あっていい。しかし気になるのは、どういった前提で彼らが「万博も震災復興も両方可能」と考えているかである。

報道では被災地での死者の数は日々増えている。被害の全容は、いまだ捉えられていない。つまり被害の全体像は、現時点でわれわれが知っている状態より間違いなく大きくなる。そうした被災の全容が分かるまでまだ時間がいくらかかかる。 

意思決定の元になるはずの情報がない状態で、小林や吉村や十倉はなぜ判断できるのだろうか。そこが不思議でならない。つまりは、彼らは被災地のことなど関心がないのだろう。

こうした連中は、データにもとづく合理的な判断を行おうとせず、とにかく万博を絶対やるのだ、と声高に叫んでいるだけ。これはリーダーがやってはいけないドグマ主体の最悪な意思決定のやり方である。

万博を巡っては、建設業界の人手不足と資材価格の高騰が問題になっている。そうした人手と資金を日本はいまどう使うべきかを考えるべき時ではないのか。

2024年1月6日

トイレ問題とDX

報告される能登半島地震による死者の数が日に日に増えている。国や自治体、自衛隊などの力によって全力の復旧がなされているのだろうが、なかなか進んでいないようだ。今後の天候も気になる。

避難所の様子もメディアを通じて断片的ではあるが流れてくる。水や食料、生活物資が徐々に行き渡りはじめた一方で深刻なのが避難所のトイレ問題だ。住む家を失った人たちが身を寄せる場所は地域の避難所しかないわけだが、トイレが足りない。

災害用トイレの数が足りず、また使い方がよく分からない人がいたらしい。仮設トイレが運びこまれ設置が進んでいるが、まだ数は十分ではない。また避難場所になっている学校などでは断水でトイレが使えないところも多いという。

人は食べて出すことで生きている。災害があったとき、多くの人が心配するのが排泄のことだろう。それがうまく行かなければ健康を害することになるし、ストレスも増す。その場の衛生状態を確保することも難しくなる。 

国はこの数年、デジタル・トランスフォーメーションとか、なんとかトランスフォーメーションという言葉を振りかざして日本のあるべき姿を描こうとしているが、それよりまずはトイレだ。人間、満足に糞もできず、DXでもなかろう。

2024年1月5日

紀信

写真家の篠山紀信が亡くなった。83歳、老衰だった。あの、林家三平風の髪型がなつかしい。

彼は学生時代から頭角を現し、さまざまな新しい写真の表現を見せてくれた写真家の一人だった。彼の仕事でわれわれの目に触れているものとしては、女性のヌードが圧倒的に多い。彼がヌードを撮りたかったのか(もちろんそこが最初だろう)、世間のニーズがそこに強く寄っていたのか。

ある女優はその被写体経験を「魂を吸い取られるような気持ち」と言ったらしい。紀信は催眠術師か、と突っこみたくなるが、人を撮る写真家にもっとも必要な才能はそこにあるのだろう。

カメラを取り扱うテクニックは当然必要だが、それだけであれば誰にでも同じ事ができる。それなのに相手の魂を吸い取る写真が撮れるのは、相手との関係を縮めるコミュニケーション力とパーソナリティか。

ある企業でマーケティングをやっていたときのことを思い出す。ある有名な女優を当時担当していたブランドのキャラクターに据えた。その広告の撮影に立ち会ったときのこと。一度の撮影でCMとスチールの両方をすます段取りで、CMの撮影が進行している最中にスチール隊がスタジオの一角で撮影の準備をしていた。

当時、広告写真の分野で第一人者といわれる写真家と数人のアシスタントがカメラの位置やライティングを決めていた。CM撮影の休憩後、スチールの撮影にかかり、僕はその一部始終を近くで見ていたのだが、その写真家はレリーズを手にしただけで、一度もカメラのファインダーを覗くことはせず、カメラ本体に触ることすらしなかった。

彼が写真家として「写真」を撮ったのは、被写体である女優と何気ない風のおしゃべりをしながらで、広告の撮影らしいと言えば、その間に最低限のポージングを指示しただけだった。数分で撮影は終わった。数日後に僕のもとに届いた写真のあがりは、納得いくものだった。

なるほど、と思った。写真家はいい写真を撮るのが仕事で、カメラの扱いが上手いかどうかの問題ではないと。

物書きでもペンを持たず、キーボードも叩かず「しゃべること」だけで本を書いている人たちがいる。建築家には自分で図面を引くこともなく、「プレゼン」だけで仕事をとる人たちがいる。有名シェフには自分で包丁を握ることもなく、「盛り付け」だけで客を集める人がいる。それらもプロフェッショナルのひとつの姿だ。 

2024年1月4日

トラヴィス

正月の昼間からやけに騒がしい。アリーナから会場整備のハンドスピーカーの声が聞こえる。町のあちこちに若い女性がたむろしている。周辺のコンビニの店頭で何やら立ち食いしている。ドトールもスターバックスもタリーズもすっかり占拠されている。

スマホで今日の公演予定を調べたら、Travis Japanとある。3日から6日まで4日間、連日1日2公演だ。

Travisときくと連想するのは、マーティン・スコセッシの映画「タクシードライバー」でデ・ニーロが演じた主人公の名前だが、それと何か関係があるのかね?

ジャニーズは社名変更をしたはずだが、そのサイト名はいまだジャニーズ(www.johnnys-net.jp)のままのようだ。商売のためか。本気では反省していないみたいだな。

2024年1月3日

「万国博をかんがえる会」

昨年の年末から梅棹忠夫が書いたものと彼に関する本をいろいろと読んでいる。一般には『文明の生態史観』がもっとも馴染みのある書物だろうが、文明論をはじめ、彼が対象とした研究分野は実に多彩で、膨大な業績を残している。

アジアを中心とする探検的な調査や登山はもとより、文系理系といった枠を端から超えた多くの共同研究とその成果は量質ともにめざましい。

研究者としてだけでなく、梅棹はまた優れたプロデューサーでもあった。今日読んだ本の中にあったのだが、彼は東京オリンピックが開催された1964年ごろから「万国博をかんがえる会」という私的なあつまりをもっていたという。

会を立ち上げたのは大阪万博が開催される6年も前のこと。彼を中心に集まったメンバーは、他に林雄二郎、川添登、小松左京、加藤秀俊といった俊英たちだ。

そうしたビジョナリーたちが、いわばボランタリーに集まっては万博をどのようにするか議論を重ねていたという。その結果、やがて岡本太郎をチーフ・プロデューサーとして推薦したのも梅棹だったし、また万博開催にあたっての、当時の佐藤栄作総理の挨拶や万国博協会会長だった石坂泰三の挨拶を書いたのも梅棹だった。

そうやって自ら進んで万博について考え、多くの知恵を出した梅棹はまた、その跡地に国立民族学博物館を建てるという仕掛けをしっかり計画していたという。

翻ってその55年後にまた大阪で開催されようとしている万博は、誰が中心となって構想したかというと、大阪の日本維新のあの連中である。そして、跡地に建てられるのは・・・カジノ。

1970年に「人類の進歩と調和」というテーマで開催された万博であるが、少なくとも日本、それも大阪を見る限り、進歩も調和もなされずに来たことがよく分かる。

2023年12月30日

年齢ではない

「まだまだ伸びしろや改善の余地は多いと思っていますが、10代の頃と違い、意識的に取り組んでいかないと棋力を伸ばすのは難しい」と、21歳の藤井聡太八冠

「より高いレベルで勉強することが必要と考えた(だから韓国に移籍することにした)。強くて尊敬される棋士になりたい」と、14歳の仲邑菫女流棋士

ともに今年10月の発言である。

伸びる人は違う。年齢は関係ない。

2023年12月29日

著作権についてのセンス

ニューヨーク・タイムズが、自社の記事を勝手にAIの学習に利用することで著作権を侵害されたとして、オープンAIとマイクロソフトを相手に米連邦地裁へ提訴した。

具体的な損害賠償金額は訴状では特定していないが、ニューヨーク・タイムズ社は「数十億ドルにのぼる」と主張している。これは日本円に直すと数千億円だ。と同時に、ニューヨーク・タイムズの著作物を利用した学習データを破棄することも求めた。

著作権で思い出したが、先日、日経BPから1冊の本が届いた。『ビジネスマンの基礎知識としてのMBA入門』という本の中国語版である。その著者献本らしい。

日本語の書籍の内容は、2011年の東日本大震災で被災した人たちを支援するため、当時の学生たちが企画した有料セミナーの講演内容をもとにしている。ぼくたち教員の何人かが講演した。

その後、その書籍化の話が出版社から出たとき、ぼくは米国に長期滞在している最中だったが、印税はぼくたちが所属している箇所に入れるという話を聞いてすぐに反対した。

分け前を寄こせというのではない。もとは被災者への支援のために行ったセミナー・イベントだ。それを文字起こしして本にするなら、その印税もイベントと同様に震災の被災者支援に向けるべきではないかと当時の研究科長に主張したのだがスルーされた。

その後は何も連絡がないまま、本は翌年に出版された。ぼくは著作権を誰かに譲った覚えはないにもかかわらず。今度は勝手に中国語版の出版だとか。

なぜそこまで著作権意識が希薄なのか。