2020年3月22日

三島と東大全共闘

今週の金曜日から、映画「三島由紀夫 VS 東大全共闘」が東宝系を中心に劇場公開されている。

1969年、東大のキャンパスで行われた両者の討論会を収録したドキュメンタリーといえる作品だ。映像は、TBSが撮影したものが局の倉庫に眠っていたのが、1年前に見つかったものという。

そうであれば、TBSはどうしてその映像を自社で番組にせず、劇場版の作品にしたのだろう。放送局でありながら、劇場でかかる映画の方がテレビ番組より格上だと思っているからか。

東海テレビのような地方局が、テレビ番組として制作したものをもとに劇場用映画として配給したものは確かにある。若い女性を中心に多くの観客を集めた「人生フルーツ」などがそうだ。

地方局制作の番組は、基本的にはその地域でのオンエアしか見られない。だから局のプロデューサーが、テレビでの放映後に内容を劇場版に仕立て上げて日本中に流すという手を考えるのは分かる。だが、TBSはキー局で全国にネットを持っているじゃないか。

さてその映画だが、僕はたぶん劇場へはそのためには足を運ばないかな。三島も東大全共闘もいまそれほど興味を感じないから。

映画のポスターやチラシには「衝撃のドキュメンタリー!!」の文字が躍る。映画評論家さんたちの評は、どれもポジティブだ。それもとても。「凄い!」「見逃せない」「必見」と絶賛だ。本当にそうか?

50年以上前の当時の事を理解し覚えているとしたら、70歳以上だろう。何も知らず、また学んでもない若い映画ライターらが、ただ「今とはあまりに違う」ことに驚き、気圧されて<こりゃ参った>といってるだけじゃないのかね。

2020年3月14日

映画と経営学修士

今年30作目の作品が今日から公開される映画監督の神山征二郎さんが、新聞の「ひと」欄で取り上げられていた。78歳になる彼の映画との関わりは60年間におよぶ。

彼は長年の監督業を振り返りつつ、今回の作品が最後になるかもしれないと語る。また韓国映画の「パラサイト」が話題になっているなか、日本の映画界では若い才能が実写で力を発揮する場が少ないことを嘆く。

日本で映画は斜陽産業と言われてきたが、今は産業とさえ呼べず、韓国映画に水を開けられたとその心残りを語っている。
私は若い世代のために何をしたらよかったのだろう。経営学修士を取り、資本主義の勉強したら、産業となりえたのだろうか。
彼は、自分が映画人としてそうした勉強をしたかったわけではないし、また映画監督としてそうしたことが必要だったとは考えていない。むしろ逆だろう。

作り手である自分たちだけでは産業としての映画を残し発展させていくことはできないことを経験的に感じていて、日本映画を産業として成長させるためにはそのためのプロの経営者が不可欠であること、そして今の日本の映画界にはそれが決定的に欠けていることを示唆している。

映画制作の能力で負けているのではなく、産業のマネジメント能力の欠如が敗因であると。これはなにも映画に限ったことではないに違いない。

2020年3月12日

宵の明星

3月12日午後6時半過ぎ、西の空にひときわ明るく輝く金星。

金星が見えるかな?

2020年3月11日

桜の開花

3月11日、横浜市内某所。桜がすでに開花していた。





2020年3月9日

主人公との同化

映画『1917  命を賭けた伝令』。監督のサム・メンデスが、かつて祖父から聞かされた第一次大戦中の体験談をもとに脚本を書き、制作した。


舞台は1917年(ソビエト連邦の成立につながるロシア革命が起きた年だ)、ドイツ軍と英国軍が戦闘を繰り広げていたフランス。そこで重要な伝令を託された英国軍の2人の若者が、防衛線を越えて敵の占領地に分け入り、罠にかけられようとしている味方軍にその事実を届けるというもの。

スーパーマンでも何でもない普通の兵士2人が、まさに命を賭けて(というか、戦場そのものがそうした場所なのだが)敵陣をくぐり抜けていくというサバイバルゲームを見ている感覚。

2人は走る、走る。それを長回しのカメラが、いい距離感で追っていく。まるで自分が主人公の一人になって戦場の中を命がけで駆けている気にさせられる。

近代兵器が生まれることで一気に闘いが凄惨なものとなった第一次大戦の悲惨さが伝わってくる。徹底して敵であるドイツ人は、薄汚いイヤな奴らとして(しっかり)描かれている。ドイツではこの映画、あまり流行らないかもしれない。

それにしても、観るものを主人公に同一化させる映画手法はすばらしい。カメラや美術のテクニックが抜きんでているのはもちろん、観るものの五感に訴えるように計算された細かい演出が心憎い。

主人公の近くで爆裂し、耳をつんざく砲弾の音。ドッグファイトで撃墜された敵の飛行機が主人公たちに迫ってくる息を呑む迫力の映像。そうした典型的な映画的体験だけではない。

ポケットから取り出して2人で分けて食べる固いパンはその食感を観客に伝え、喉が渇いた彼らが農場の跡で見つけた牛乳は、その甘い匂いを漂わせていた。

そして何よりも感覚を共有させられたのが、主人公が自陣を離れ、鉄条網を抜けながら敵陣に入って行くときに手の平に刺さったその鉄の棘の痛さ。立ち止まることができないなか、泥の中を進みながら血が流れる手の平にもう片手で包帯を無造作に巻きつける。

観客が主人公と同化するこうした仕組みがうまく盛り込まれている。だから、主人公は特殊な能力を持つスーパー戦士ではなく、たまたま上官によって指名された普通の兵士がふさわしい。

2020年3月7日

「感謝状」は感謝の気持ちを込めて渡してあげてほしい

航空会社に勤める友人が、定年退職を迎えた。

その会社の定年退職式が2月の末にあったと聞いたが、感染騒ぎの影響で、人の密度を下げるために会議室を分けて実施され、感謝状は社長からの手渡しではなかったとか。

おそらくは式典を取り仕切った人事部の判断なのだろうが、それに従って感謝状を感謝の気持ちの感じられないやり方で渡した、その社長もどうかしている。

2020年3月6日

こんな専門家は、迷惑千万。誰か、何とかしてくれ

いま日本中がコロナウイルス感染対応と、その数々のリアクションで大騒ぎだ。

この1〜2週間が山場だとか、この週末を乗り越えられればとか、この4月以降は収束に向かう模様だとか、メディアでは専門家らしい人たちがそれぞれの見解を述べているが、どれも信用できない。だって、エビデンスが何も示されないんだから。

C.D.C.(Center for Disease Control and Prevention  アメリカ疾病管理予防センター)のディレクターは「この病気はインフルエンザに似ているが、問題は我々がそれが何なのか理解していないことだ」と述べ、ワクチンがまだ見つからず、今の状況はこの季節を越えて続くだろう、あるいは年を越えても続くだろうと語っている。https://www.youtube.com/watch?v=kX5bFqgD3Cs

ええっ!て感じである。日本の専門家が語ってることと見方がまったく異なっている。

日本の感染病の元締めは国立感染症研究所(感染研)であり、厚労省や官邸の政策にそこが多大な影響を与えているようだが、これまで(例えば季節性インフルエンザ)のワクチン製造の音頭取りの不適切さ、つまり国民の命や健康を第一義に据えるのではなく、自分たちの利権を常に最優先してきたやり方からは、今回もまたか、と言わざるを得ない。

客船のダイヤモンド・プリンセスで発生した700人を超える感染者を招いたのは、まさに感染研の不作為による。

いま僕は、コロナウイルス関連の情報について日本のメディアはまったく信用しないことにしている。代わりにCNNやBBCといった海外メディアでの報道を仔細にチェックする。科学的な根拠をもとにしたコメントが聞けるから。そして何と言っても一番頼りになるのは、米国のCDCの責任者から伝えられる情報だ。

日本は未だに自分たちが何をどうしたらよいか分からないまま、目先の対応だけを気分でやっているように見える。日本人が得意な「そのうちなんとかなるだろう」である。

だが残念ながら、コロナウイルスはそうした日本人の気分を忖度してくれはしない。政府の施策は「私たちはやってますよ」という言い訳と証拠づくりだけが目的で、ただ時間と税金の無駄遣いに終わる。僕は、今回の闘いは長く続くとみている。

日本の感染症対策の第一人者だというふれこみの賀来満夫(東北医科薬科大特任教授)なる人物が、毎日新聞社のインタビュー(以下のリンク)に答えている。本日付の記事の見出しは「新型コロナ「4~5月がピーク」  感染症対策の第一人者、東北医薬大・賀来特任教授」である。

https://mainichi.jp/articles/20200306/k00/00m/040/020000c?cx_testId=96&cx_testVariant=cx_5&cx_artPos=2&cx_type=collabctx&cx_recsMode=collabctx&cx_testId=96&cx_placement=1000&cx_campaign=5#cxrecs_s

「1~2週間が山場」
「1~2週間が山場」

賀来はインタビューの中で、新型コロナについて何の科学的根拠も示さず「1~2週間が山場」だと言ってのけた。

また、こうも語っている。

SARSは2002年11月に確認され、ピークは03年3~4月で同7月に終息宣言が出た。その例を考えると、今回は19年12月に始まったことから、20年4~5月がピークで、8月まで続くと推測する。

おいおい、ちょっと待ってくれ。現時点で実体がまだ分かっていない新型コロナウイルスについて、なぜSARSを引き合いに出して単純に今後の感染予測が成り立つのか?

日本の「第一人者」とやらがこうだから、他は推して知るべしだろう。とっても不安、そして腹が立つ。頭に浮かぶのは、こうした不見識な「専門家」に振り回されるかもしれない不幸な日本人のこれからである。

SARSは2002年11月に確認され、ピークは03年3~4月で同7月に終息宣言が出た。その例を考えると、今回は19年12月に始まったことから、20年4~5月がピークで、8月まで続くと推測。
「1~2週間が山場

62歳ってどんな歳

2009年から使っている、僕にとっては初代のキンドルがおシャカになった。バッテリーがいかれてしまったんだ。まったく充電できなくなってしまった。

バッテリー交換についてアマゾンに相談したところ、キンドルはバッテリーの交換ができないとのこと。10年以上使っているから、仕方ないか。彼(たぶん中国人)は、割引のクーポンを出すから新しいの買ってはと提案。

その後の対応はアマゾンらしい。そのあと、アマゾンのサイトでキンドルの新製品を選んでショッピングバッグに入れ、そのままチェックアウトしようとすると約束の割引がすぐさま適用されて請求金額が変更になった。実にスマート!!

今度購入したキンドルは防水設計。だから、風呂場に持ち込んで湯船で読書できる。これがなかなかいい。

私立探偵フィリップ・マーロウのその後を描いた Lawrence Osborne の Only to Sleepを湯船につかりながらキンドルで読んでいたら、こんな1節にあたった。
Seventy-two isn't a bad age, but sixty-two is too old to be working.  Your are just impersonating the man you used to be.  Retirement had seemed like the best way not to die ...
62か・・・。

2020年3月4日

停滞し、自らの首を絞める日本

不要不急の外出はするなというのが、いまの日本の考えらしい。

新型コロナウイルスの国内の感染者数は、例のクルーズ船を除くと3月1日現在で239人。この人数をどう見るかはいろいろあるだろうが、人口比での確率は0.0002%である。感染が原因で肺炎などで亡くなった死者数は国内では6人だ。

どこでどういうルートで感染するかが分からないため疑心暗鬼になっているようだが、常識的に考えれば、今われわれがやっていることがどれだけバカバカしいことか分かるはず。

学校は休校になり、各種の催しものは中止。博物館、美術館まで閉館になっている。なんともはやだ。だがその影響で、電車は空いているし、どこも人が少なくていい。いつも混雑している観光地も閑古鳥が鳴いている。どんどん出かけていくチャンスだ。

ところで、テレビで新型コロナウイルスに関しての報道の際にウイルスの顕微鏡写真が映される。これを視聴者に見せることで何が伝わると考えているのだろうか。何か得体の知れないものに人間が襲われているという妙な感覚だけが残る。それ以外の意味はない。学校の理科の授業じゃないんだよ。

国立感染症研究所のクレジットがついた映像

2020年2月26日

ラオスの少年と少女

現地のNGOと一緒に訪問したラオス、ナコック小学校の子供ら。笑顔が不敵で素敵だ。


 

2020年2月23日

ラオス象の水浴び

ラオスの象は思ったよりは小ぶりだった。その分、あまり威圧感を感じさせることがない。象使いにちゃんと調教されているからかどうか知らないが、大きな声を上げて啼くこともなくとても静かでおとなしい。サワラン地区の川で撮影。


2020年2月22日

廃物利用

ここは、ベトナムとの国境近くのラオスの山村。農業以外の産業はない。子供も大人もみんな腕が細い。栄養が十分じゃないからだろう。

痩せた畑に、粗末な小屋がいくつか建てられていた。その高床式の小屋には収穫した作物が収められるのだろうか。よく見ると、建物のその足は木造ではなく鉄製であることが分かる。

かつてベトナム戦争で爆撃された地域。落とされたその爆弾の薬莢を小屋を支える柱にしている。ある種の廃物利用であるが、これなら木と違ってネズミが昇ってこられないというメリットがあるらしい。


村の子供ら。

2020年2月12日

カズ・ヒロは、なぜ日本の文化が嫌になったのか

先の「パラサイト」がアカデミー賞で作品賞他を受賞したニュースの続きだ。

 「ウィンストン・チャーチル」で受賞して以来2年ぶり、カズ・ヒロ(辻一弘)さんが米映画「スキャンダル」で2度目のメーキャップ・ヘアスタイリング賞を受賞した。おめでたい。

ただ、授賞式後の記者会見で彼が話したという、以下の談話が少し気になる。

彼は、記者から「日本での経験が受賞に生きたか」と訊ねられ、英語で「(日本の)文化が嫌になってしまった。(日本で)夢を叶えるのが難しいからだ。それで(今は)ここに住んでいる。ご免なさい」と応えた。その場でそれ以上の詳しいコメントは語っていない。

そういえば以前彼は、日本人の映画ジャーナリストのインタビューでこう述べている。少し長いが引用しよう。
日本の教育と社会が、古い考えをなくならせないようになっているんですよね。それに、日本人は集団意識が強いじゃないですか。その中で当てはまるように生きていっているので、古い考えにコントロールされていて、それを取り外せないんですよ。歳を取った人の頑固な考えとか、全部引き継いでいて、そこを完全に変えないと、どんどんダメになってしまう。人に対する優しさや労りとかは、もちろん、あるんですけど、周囲の目を気にして、その理由で行動する人が多いことが問題。自分が大事だと思うことのために、自分でどんどん進んでいく人がいないと。そこを変えないと、100%ころっと変わるのは、難しいと思います。
また彼は、こうも述べている。
自分が何をやりたいのか、何をやるべきなのかを自覚して、誰に何を言われようと突き進むこと。日本は、威圧されているじゃないですか。社会でどう受け入れられているか、どう見られているか、全部周りの目なんですよね。そこから動けなくて、葛藤が起こって、精神疾患になってしまうんです。結局のところ、自分の人生なのであって、周りの人のために生きているんではないので。当てはまろう、じゃなくて、どう生きるかが大事なんですよ。
ああやっぱり。日本の社会の空気は重苦しく、息が詰まるようなものに感じていたんだろう。今の日本社会の同調圧力やら、くだらないKYやら、忖度やら。

国籍や性別や年齢や、そうした属性に関係なく世界で勝負でき、生きていける人は一様にどこかで彼と同種の思いを持っているはず。

2020年2月11日

「パラサイト」作品賞ほか受賞

韓国映画「パラサイト」がアカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、国際映画賞を受賞した。このハリウッドの祭典で非英語で作られた映画が作品賞を受賞するのは初めてである。


この数年、ノミネートされる候補が白人や男性に偏っているという批判が強く、そのためアカデミー賞を選考する米国の映画芸術科学アカデミーは、会員を急速に国際化、多様化している。 昨年度は、スペイン語映画「ROMA」(確かネットフリックスの製作だった)が監督賞を受賞など3部門で受賞したのもその流れのひとつだろう。

今回、そうした時の利もあったが、ポン・ジュノ監督の手による本作品は、細心の演出が行き届いた、それでいて大胆で想像力豊かに練り上げられたプロットが魅力の一作だった。

受賞後の会見で、同監督は「私が自分の身近なことに没入すればするほど、物語はより大きくなり、国際的にアピールするようになった」と語った。このコメントは、とても大事な示唆を与えてくれる。

たとえ特定の文化や地理、時代を元にした作品でも、そのテーマの純度と作品としての完成度を上げれば、そこには普遍性が浮かび上がってくるということだ。黒澤明監督の「羅生門」を観たときに、なぜこの作品が外国の映画関係者から評価されてヴェネツィア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞できたのか思ったが、その理由が腑に落ちた気がする。

この映画は、現代の韓国社会の経済的格差、二極化、社会の硬直さをその背景としているが、本作品のアカデミー賞受賞を受けて、文在寅大統領が発表したコメントが振るっている。「最も韓国的な話で世界の人たちの心を動かした」だと。冗談キツイよ。

そうした格差を解消できないどころか深刻化させているのは、あなたたち為政者ではないのかーー。それともこの映画に倣ったブラック・ユーモアでもかましたつもりか。

いや、単にこの映画を観ていないだけだろう、きっと。

2020年2月7日

言い間違えも悪くない

今朝、TBSラジオを聞いていたとき、番組で三菱スペースジェットの納入が6度目の延期で2021年以降になるニュースが話題になっていた。

社名がMRJからスペースジェットへ変わった際の話題などを経済評論家の伊藤洋一氏がゲストとして語っていたのだが、彼が「スペースジェットのエンジンは、ホイットニー・ヒューストンで・・・」と言ったのを聞いて、飲んでいたお茶を吹き出してしまった。

故ホットニー・ヒューストンさん

プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)って言いたかったんだろう。

2020年2月6日

増刷の連絡から思ったこと

ダイヤモンド社の編集者から『コトラーの戦略的マーケティング』が増刷になると連絡をもらった。

2000年に出版された本だから、もう20年である。今回で25刷目になるという。ビジネス書でこのように息長く店頭で購入されているのは、珍しいかもしれない。

この本は原題が Kotler on Marketing だったので、『コトラーの戦略的マーケティング』というタイトルにした覚えがある。

その後、本書にあやかったのか、コトラーが書いた本の翻訳はほとんどすべて「コトラーの」という枕詞がつくようになった。検索してざっと数えただけでも、書籍だけで15冊以上。Kotler on Marketing のように元の書名タイトルにコトラーが付いているわけではない。

ちなみに、それらの多くはコトラーが中心となって書かれた本でもない。付け足しのように序文だけコトラーで、にもかかわらず、出版社の売らんかな精神で彼の名を書籍タイトルに付けたものが多々ある。

コトラーは1931年生まれなので、今年89歳。少なくともこの10年ほどは、彼の弟と息子が中心の家族経営会社、コトラー・マーケティング・グループが彼を商品としてブランド化し、稼げるうちに稼ごうとビジネスしている感じがする。

 ま、それもひとつのマーケティングではあるんだけどね。

2020年1月25日

その薄ら寒さと理不尽さ

映画『リチャード・ジュエル』は、現在89歳であるクリント・イーストウッドが監督した40本目の作品。1997年に雑誌のヴァニティ・フェアに掲載された一本の記事からイーストウッドが映画化を考えていた。


1996年、アトランタでアトランタの屋外コンサート会場で発生した爆破事件現場から物語が動き始める。そこに警備員として働いていたリチャード・ジュエルは、最初その第一発見者として英雄視されるが、やがて実行犯の手がかりを得られないFBIから容疑者として疑われるだけでなく、捜査官らによって「犯人」に仕立てられていく。

そうした情報がFBIから地元メディアに流され、彼は一夜にしてヒーローから殺人鬼の悪魔へと世間の見方は変わっていく。自然とそうなったのではない、犯人逮捕を焦る捜査官と彼とつるむ女性記者の功名心によって、どこにでもいる普通の国民が獲物にされた。

いったん「第一発見者のヒーローが犯人か?」という報道があるメディアで出てしまえば、他のメディアも一気にその流れに乗ろうとする。いやはや、浅はかというか、恐ろしいというか。ヒーローであろうが殺人犯であろうが、対象がネタになりさえすればいいと考えるメディアの報道の姿勢がよく描かれている。

日本でもかつて、松本サリン事件の第一発見者だった河野さんが報道によって犯人視されたのと同じである。

その薄ら寒さと理不尽さ。映画には、そうしたものへのイーストウッドの静かな怒りが根底に流れている。

2020年1月15日

必要なのは、利用者に選択肢を与えること

マイクロソフト社によるWindows7のサポートが昨日終了した。

日本国内だけでも、Windows 7搭載のパソコンは約1,400万台残っている。マイクロソフトは、このまま使い続けるとウィルス感染などのリスクがあるためウィンドウズ10など最新のOSへ切り替えること、あるいはウィンドウズ10を搭載したPCに買い換えることを推奨している。

もう利用者が少なく、その割に費用がかかるというのなら仕方ないかもしれない。しかし日本国内だけで1,400万台、世界中ならおそらく1億台近くがまだ使われているんじゃないかな。

これらを無視してサポートを中止することに、なぜ批判が出ないのか。僕はマックユーザーだから個人的にはあまり関係ないが、Winユーザーはどうして怒らないのだろう。既に「そういうもの」だと思わされているからだろうか。

マイクロソフト社が、サポートを続けるのには費用がかかるからというのであれば、費用をユーザーに課金すればいい。

この機会にOSをアップグレードしたい、あるいはPCを買い換えたいと考える顧客もいれば、このままサポート費用を払ってでも今のOSを使い続けたいというユーザーもいるはずだ。

そうした選択肢を消費者に与えることが大切なのに。


2020年1月13日

映画「パラサイト 半地下の家族」のブラック・ユーモア

外国のことながら、「こんな家族いるだろうなあ」と思わせてしまうセッティングがうまい。家族の構成とチャラクター設定が絶妙で、ここに樹木希林さんがいたら・・・と鑑賞中にとふと思ったりして。

最初は喜劇だが、最後は悲劇。いや、やっぱり喜劇か。グロテスクさと笑いが、ポン・ジュノ監督の持ち味だ。映画の中で何人か人が殺されたりするが、全編を通じて流れてくる「おかしな」空気に何度も声を上げて笑ってしまった。なぜか劇場のなかで僕だけだったけど。


主人公たちの家族は、キム一家。彼らがパラサイトしていく先は、パク一家。キムさんとパクさんは、日本だと鈴木さんと山田さんか。武者小路や伊集院とは違う。どっちがどっちでも入れかえ可能だ。だけど、この2つの家族は何かの理由でまったく違う家族として、同じ時に同じ町に暮らしている。

日本語の映画タイトルにある「半地下の家族」は、キム一家が暮らす住まい。そこは映画のための想像上の生活空間ではなくて、もともとは北朝鮮からの攻撃に備えた防空壕として作られ、韓国内にはまだそれなりの数が残っている。

半地下だから陽の光があまり差さない。湿気が多く、かび臭い。そして、便器の奥から下水が逆流してこないように、トイレが部屋の中で一番高い場所に設置されているのには苦笑するしかない。

キム一家は誰も定職を持っていない。実際に韓国では定職に就くのは、今は簡単なことではないらしい。先進国はどこも格差が広がる一方だ。だが、この家族4人は立派な学歴や肩書きはなくても、みなが才能揃いとも見て取れる。

3浪中の息子はその経験を活かしてパク家の高校生の娘に受験勉強を教えるのがうまい。美大希望の娘は機転が利き、わがままでパク夫妻が手を焼いている息子もあっという間に手なずけてしまう。元ハンマー投げの選手だった母親は、その家の家政婦として料理や家事に腕を振るう。

そして職を転々とし、やがて事業に失敗して失業中の父親は、IT企業の経営者であるパク家の主人の運転手としての技量だけでなく、雇い主の気持ちに添った会話がしっかりできる人生の経験者だ。

だからこそ、今置かれた貧しい暮らしを恨んだりする前に、どうやてって抜けて出て這い上がるか「計画」をいつも立てて実行している。すこぶる前向きなのだ。映画では、そこにある種の救いとともに不条理さがにじむ。

そして後半に登場する、半地下よりも「下」で続けられていた人物の生活。やがて起こる、半地下生活人と地下生活人の衝突と闘い。社会の片隅に押しやられた人たちに突きつけられる悲しさと可笑しさが最後に残った。

2020年1月12日

懐かしき、壮絶なサーキットの闘いを描いた一作

舞台は1966年。今から半世紀以上も昔のこと。ル・マン24時間耐久レースで、フォードとフェラーリが死闘を演じた。

フォードといえば、T型フォードによって世界で最初の大量生産方式を自動車産業に取り入れた企業。大衆消費者を顧客とし、製品である車の安さをアピールして大企業になった世界的な自動車会社である。

一方のフェラーリは、設立者のエンツォ・フェラーリがかつてアルファロメオのレーシング部門から独立して築き上げた、まさに「走り」のための会社。

当時、モーターレースで連勝を続けるフェラーリ。劇中でそのエンツォ・フェラーリは、自分たちに対しての買収を持ちかけてきたフォード社幹部に「フォードは醜い工場で醜い車を作る醜い会社だ」という言葉を吐く。

怒ったフォードⅡ世がフェラーリに闘いを挑むのだが、レースについては何も知らない彼らが勝てるわけもない。そこで助っ人として、元レーサーのシェルビーにル・マン出場のためのチーム監督として白羽の矢が立てられる。ドライバーは、彼が連れて来たマイルズ。それぞれ、マット・デイモンとクリスチャン・ベイルが見事に演じている。

実話に基づいた物語らしいが、なぜいま1960年代のカーレースなのかーー。

いまや新聞などでクルマの自動運転についての記事を見ない日はないくらいだ。そしてガソリンで走る内燃機関を使ったクルマは、確実に時代の片隅に追いやられている。悲しいかな。

急速に移行しつつあるEV(電気自動車)には、耳をつんざくエンジンノイズも排気ガスの臭いもない。これはかつて、自分たちの青春時代をクルマとともに過ごしてきた連中が、あの頃を懐かしんで作った映画のように思える。

ここでは象徴的に多くの対比が描かれている。まず映画のタイトルの大衆車を大量に製造するフォードと、限られた層にだけ手が届くスポーツカーを生産するフェラーリだ。フォードは大工場のなか、ベルトコンベアの流れ作業で組み立てられ、フェラーリは個々の職人の手で完成まで手が加えられながら生み出される。

2つの自動車会社の経営者も実に対照的だ。時のフォードの経営者は、フォード社創業者の孫。典型的なエスタブリッシュメントで、絵に描いたようなビジネスマン。自分の工場を訪れても高見から現場を見下ろしてものを言うだけで、製造現場へ降りてはいかない。一方フェラーリ社のエンツォ・フェラーリは、経営者というよりアルチザン(職人)の親方という雰囲気を醸し出している。

エスタブリッシュメント対現場という点では、社屋の最上階に位置する重厚な役員会議室ですべてを決めようとするフォード社の重役たちと、ガレージの中で汗を流しマシンの調整を続けるエンジニアやレーサー、ピットでのクルーたちの姿も対照的だ。

レースでは、シェルビーらの手によるフォードGT40がフェラーリを抑え、1位から3位まで独占して勝利するが、フォード社の幹部たちとレースを実際に戦ったシェルビーやレーサーのマイルズの間には心の交流はなにもない。むしろ、フェラーリを破って優勝したシェルビーのチームに静かに称賛をおくるエンツォ・フェラーリの姿が印象的だった。

だが、そうしたいくつもの人間模様を読み解くことにまして、サーキットを時速300キロ以上で疾走するレースカーを追う映像は、観る者の目をクギ付けにする。CGで合成されたものではなく、撮影用のカメラを別のレースカーに積んで走らせ撮影された。「LOGAN/ローガン」(2017年)を監督したJ・マンゴールドの意欲的な作品である。