2012年12月24日
カサブランカ空港で欺されかける (モロッコ /12 最終日)
空港の出国審査を終えてゲートに向かう途中、現地通貨がまだポケットに残っているのに気付いた。両替所がないか探すが見つからない。仕方ないので、免税店で何か適当に買い物でもして使ってしまえとうろついていたら、空港のインフォメーション・カウンターがあったので、そこで両替所を尋ねることにした。
そこには女性が二人。顔を見合わせて、ここにはない、との返事。そして、一人が隣のもう一人を指し「彼女のベスト・フレンドが両替してくれるかもしれない」と言うではないか。そして、やおら立ち上がったもう一人が両替してくるからと手を出した。僕は金額も確認せずポケットの現地通貨(ディルハム)をすべて彼女に渡した。彼女は金額を数える風でもなく、あそこで待っててと少し離れたベンチを指さした。
僕も一緒に行くと申し出たが、首からぶら下げたIDカードをこちらに見せ、自分しかその友人のところへいけないからと言うや、向こうへ駈けていった。待つこと15分、その女は帰って来ない。カウンターに残っているもう一人にどうなっているのか聞いても、要領を得ない。搭乗は既に始まっている。
インフォメーション・カウンターのすぐ脇で女の帰りを待っていたら、そいつが帰ってきたが、こちらがまだいることに気付くやいなや、踵を返してまた向こうへ駈けていった。僕はやっと状況を理解した。空港職員であるはずの女2人にダマされたのだ。
そのままそこにいても、金を持ってトンズラした女は帰ってこないだろうと思い、諦めたふりをして一旦インフォメーション・カウンターを離れて10分後にまた行ったら、何もなかったような顔で座っている。金をだまし取ってやったトロイ日本人は、てっきりもうモロッコの地上から消えたとでも思っていたのだろう。
突然また現れた僕を見ても、さして驚いた顔をしなかったのはこうした詐欺の常連か。金を返すように言ったが、何を言われているのか分からない振りを始めた。フライトの搭乗時間はほとんど終わりかけている。ゲートまでは5分くらいかかる。
相手を睨みつけつつ、カウンターのテーブルを平手で打ちながら「ゲット・マイ・マネー・バック」とゆっくり大声で5回繰り返した。一体何事かと周りの客が全員こちらを振り向く。すぐにセキュリティーのバッジを下げたスタッフが2人やってきた。事情を手短に話し、その女から金を取り返し、処分は任せてゲートへ走った。間に合ったが、ゲートは閉まる寸前だった。
僕をカモろうとした女たちは、コイツら。
座席についた後、汗を拭きつつ、動き出した飛行機のなかでさっきのことを考えてしまった ーー「こんなことがあるんだ」。結局、残った現地通貨は使われることなく、両替もされず、そのまままたポケットに戻って来た。こんなことなら奴らにくれてやってもよかったかなと思いつつも、こうした客を舐めた真似を許すと他の日本人客もやられることになると自分を納得させた。
モロッコよさらば、である。
2012年12月23日
マラケシュ2日目 (モロッコ /11)
2012年12月22日
マラケシュのフナ広場 (モロッコ /10)
ターバンを巻いたおじさんが吹く笛でコブラが鎌首をもたげるという古典的な大道芸や、民族楽器の演奏に合わせて民族衣装を着た、顔を半分くらい隠した娘がただ踊りまくるという(はっきり言って芸のない)芸が多いなか、僕が気に入ったのは、ただ子犬2匹と鷹とハツカネズミを客に見せているだけという下のおじさん。動物たちに何をさせるというわけでなく、ただ時折子犬にミルクを飲ませてやるだけという平和な「見せ物」である。
宿泊したホテルは、この広場からさらに奥の込み入ったエリアのなか。グーグルマップで確認しようにも、そこにたどり着く道が表示されない。広場にあるコーヒーショップから電話して迎えに来てもらった。
2012年12月21日
ワルザザートで宿泊 (モロッコ /9)
今日はワルザザートのホテルで宿泊。部屋の鍵は南京錠である。中にいる時、もし外から施錠されたら外へ出られない!? 部屋に電話はない。
砂漠の日の出 (モロッコ /8)
2012年12月20日
遊牧民の家 (モロッコ /6)
砂漠の狐? (モロッコ /5)
2012年12月17日
フェズの旧市街は迷路だ (モロッコ /4)
2012年12月16日
巨大なモスク (モロッコ /3)
早朝、敷地を散策していたら、建物の下からモスクのスタッフ(らしき)3人組が手招きをする。中を見せてやる、と言っているらしい。
その中の一人がガイドよろしく、僕をモスク内に先導してくれる。そして、次々に場所を指定しては、そこに僕を立たせ、どんどん写真を撮る。手慣れたものだ。
そして最後に、指先でお札を数える仕草をしてみせ、金をせびる。別れ際には、口にチャックを引く仕草してニヤリと笑ってみせた。
2012年12月15日
ろう学校生の喧嘩(モロッコ /2)
歩道で何人かがつかみ合いをしている。喧嘩らしい。小競り合いのような感じだが、彼らは話ができないためにとても静かな争いだ。一人の子が5、6人に虐められ、こづき倒されているように見える。
やられた子が立ち上がり、相手グループの中心的な男の子に向かっていく。胸ぐらをつかみ、肩を殴り、怒りを示した後は、いったん手を離し手話で相手に何か伝えようとする。今度はやられた子が相手を蹴飛ばし、背中を何度もどつく。そして、その手で今度は手話で意志を伝えようとする。
相手に掴みかかりながら罵声を浴びせたりすることができないから、途中で手を止め、手話が交互に入る。子ども同士が喧嘩をするのは、自然なこと。だけど、この喧嘩だけは見ていて切ない思いがした。
モロッコへ 〜 エル・ジャディーダは猫の町だ(モロッコ /1)
どうしようかと思っていると、その職員が「国際電話か国内か」と聞いてくるので、国内と答える。すると彼はやにわに携帯電話を取りだし、相手の電話番号を教えろという。旅行会社にダイヤルした後、こちらに携帯を渡してくれた。ドライバーはゲートで待っているらしいので、こちらがどういった身なりをしているかなど伝え、ドライバーから僕を見つけてくれるように依頼する。
そして、空港職員に礼を言って携帯を返却して立ち去ろうとすると、前を立ちふさがれた。で、親指と人差し指をスリスリして札を数える仕草をする。礼をくれ、ということだ。もともとそれが目的だったのだと、その時に分かった。ジーンズの尻のポケットから1ドル紙幣1枚取り出し渡す。これじゃ少ない、もっとくれと言ってくる。もう1枚渡して、無理矢理押しのけまたゲートへ向かう。ひょっとしたら、公衆電話に貼ってある故障中の貼り紙はウソだったのかもしれない・・・。
これが今回のモロッコ旅行のスタートである。
その後、 カサブランカ空港から大西洋に面した港町、エル・ジャディーダへ向かう。ここはかつてポルトガルが支配していた海辺の町である。猫が多い。
2012年12月14日
12-12-12: The Concert for Sandy Relief
7時半にブルース・スプリングスティーン&Eストリートバンドの演奏で開幕され、ジョン・ボンジョビ、ビリー・ジョエル、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ザ・フー、ピンクフロイドのロジャー・ウォーターズ、コールドプレイのクリス・マーティン、とりはポール・マッカートニー、そしてアリシア・キーという顔ぶれ。
New York Times紙の記事から |
ミック・ジャガーはコンサート前の取材に「こんなに大勢の年配の英国人ミュージシャンを集めたコンサートはなかったよ。もしロンドンが台風に襲われたら、君らは助けに来てくれなくちゃね」と冗談交じりに答えている。
コンサートが終わったのは、午前1時20分頃。6時間近く続いた長いコンサートだった。僕はテレビで見ていたが(チケットはプレミアムがつき、すごい高額になっていた)、会場に集まった観客も大変だったろう。あと、マンハッタン内のいくつかの映画館が映像を生で流した。入館料は無料にしていた。
このコンサートは、米国内だけで37局、世界中で200局ほどのテレビ局で放映された。(日本ではどうだったのだろう?) 視聴者は全世界で約20億人と見積もられている。当日の会場入場のチケット代だけで30億円の収入(募金)があった。放映中ずっと画面には募金への呼びかけが流れていた。最終的にどれくらいの募金が集まるか・・・。
ポール |
2012年12月11日
オープン・ランチセミナー『選択の科学』
今日、コロンビア・ビジネススクールでシーナ・アイエンガー教授を招いてのランチセミナーがあった。テーマは、Global Leadership Challenge for Japanese Companies。
彼女は90年代の半ば、京都大学で動機づけについて研究していた時期があり、日本についてもそれなりによく知っている感じだった。
彼女が2年前に出版したThe Art of Choosing は『選択の科学』の邦題で文藝春秋から翻訳が出ているし、またNHKの番組によっても彼女は日本人によく知られている。そのせいか、教室はほぼ一杯に埋まり、その約7割は日本人だった。
米国人の参加者は、以前日本で勤務をしていたことがあるビジネスマンなどが多かったが、彼女の研究分野についてはほとんどしらないまま、セミナーのテーマにひかれてやってきた連中が多かった。質疑応答で、今度の衆院選の結果がどうなるかなど彼女に聞いても答えられるわけがないのに。
ところで、先々週の金曜日、早朝のコロンビア大学のキャンパスで彼女とすれちがった。金曜日には補講や特別なプログラムを除き、授業は組まれていない。だから、その朝のキャンパスは人出が少なく、とても静かだった。
白杖を頼りにする彼女は、まるで周りの空気を振るわせないよう注意しているかのようにとても静かに歩いていた。その朝はかなり寒かったせいか、彼女はフード付きのコートですっぽりと頭を覆っていた。注意しないと彼女だと誰にも分からないかのように。だからその時は気がつかなかったのだけど、今日見ると、彼女の耳がとても大きいことに気がついた。(なぜか最近、耳が大きい人が気になる)
セミナーで彼女の話を聞いていて感じたのは、とても聡明で、ユーモアがあり、そして何よりも正直な人だと云うこと。知らないことは、知らないと言う。分からないことは、分からないと返答する。飾らないのである。飾っても仕方ないことを経験的によく知っているのだろう。
彼女の先の本の中に、自分が光を失ったときのことにふれて、「失明に立ち向かうことで、わたしは強い精神力を身につけたに違いない(それとも持ち前の精神力のおかげで、うまく立ち向かうことができたのだろうか?)」というくだりがある。
彼女が、質問に対して "I don't know." と、少し困ったような感じで、しかしはっきりと答えるのを聞いていてその言葉を思い出した。
2012年12月8日
真夜中のカーボーイ
リンカーンセンター内の劇場で『真夜中のカーボーイ』を観る機会があった。
公開されたのは1969年。40年以上むかし。60年代終わりから70年代にかけて作られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品の一つで、学生時代に高田馬場にある早稲田松竹で観たのが最初だったと記憶している。
監督のジョン・シュレジンジャーが英国人だということは、今日まで知らなかった。てっきり米国人と勝手に思い込んでいた。そう考えてみると、どこか Englishman in New York の視点で描かれているような気がしてくる。
ニューヨークを舞台にしていながらエンパイヤステート・ビルのショットやセントラクパークを映した場面などは登場しない。マンハッタンを上から見下ろした空撮など一つもない。ニューヨークという街に対する共感の度合いが低いのである。
ゲイの中年男性や売春婦、マリワナパーティなどの風俗も描かれているが、英国人であるシュレジンジャーがその当時のニューヨーク、あるいはアメリカに見たのは、社会の底辺で喘ぐ下層階層と中産階級の対比だったのではないかと思った。自由の国アメリカは、英国と変わらぬ階層社会だったわけだ。
この映画のなかでもっとも気持ち悪かったのは、ラストの場面で主人公の2人がマイアミ行きのバスの中で乗り合わせる、他のアメリカ人乗客たちである。異端者に向ける冷ややかで醒めた視線が、映画が撮影された当時のアメリカの一般的な「世間」なのかどうか分からないけど、シュレジンジャーにはそう写ったのだろう。
2012年12月7日
秋学期のコンサル授業終了
マッキンゼー出身の講師は、MITで数学を専攻して修士号と博士号の学位を取っているインド人。配布資料を見ても、思考がすごく緻密で論理性が高いことが分かる。インド人独特の英語のなまりが強く、話していることが時々分からないのが難だった。
もう一人は南米の出身。ブーズのNY事務所でシニアVPを勤めていたが、リタイアしようと思っていた頃コロンビアから誘われてビジネススクールに来た(米国の企業では、石を投げればVPに当たる。VPは日本企業で云えば課長あたりのレベル。日本人が思っているところの上級管理職は、頭にシニアかエグゼクティブが付くVP以上である)。
若い頃、ウォートン(ペンシルベニア大)でDoctor candidate まで進んだが、事情があって実務界に就職したと言っていたから、もともとアカデミックな世界に興味があったのだろう。新興市場参入のための市場分析の際に、マクロ経済的な指標を用いた高度な分析手法を採用していたのも頷ける。最終講義が終わった日、彼と食事を一緒しながら彼の奥さんが日本語ができることをなにげなく話された時はびっくりした。
コロンビアでは、コンサルティング会社は投資銀行とならんで学生の人気就職希望先で、コンサル関連の授業には多くの学生が集まる。大学もそのあたりのことをよく分かっていて、コンサルティングの実例を学生に講義できる講師を客員として招き、学生のニーズに応えている。開講講座は、学生と世の中にニーズに合わせて柔軟に変更される。
一方、大学の正規教員はコア(必修)科目を体系立てて教えることが求められている。それと当然ながら、彼らには研究の義務がある。正規教員と客員教員で、役割が合理的に分担されている。