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2020年7月2日

千本ゑんま堂

打合せで久しぶりに京都へ来た。夕方から、北野天満宮の北にある千本ゑんま堂を訪ねた。寺の名前は引接寺。かつての結界に位置しており、閻魔大王を祀っている珍しい寺だ。

午後7時から風祭りという特別祈願会に参加した。梶の葉に願い事を書き、それを祈祷いただいたのち、お堂に貼られた紐に吊して願をかける。これは七夕の時に願いごとを書く短冊の原型である。吊された梶の葉は時間が経つにつれて願いごとを書いた葉の表が丸まり、自然と他には見られないようになる。


2020年2月26日

ラオスの少年と少女

現地のNGOと一緒に訪問したラオス、ナコック小学校の子供ら。笑顔が不敵で素敵だ。


 

2020年2月23日

ラオス象の水浴び

ラオスの象は思ったよりは小ぶりだった。その分、あまり威圧感を感じさせることがない。象使いにちゃんと調教されているからかどうか知らないが、大きな声を上げて啼くこともなくとても静かでおとなしい。サワラン地区の川で撮影。


2020年2月22日

廃物利用

ここは、ベトナムとの国境近くのラオスの山村。農業以外の産業はない。子供も大人もみんな腕が細い。栄養が十分じゃないからだろう。

痩せた畑に、粗末な小屋がいくつか建てられていた。その高床式の小屋には収穫した作物が収められるのだろうか。よく見ると、建物のその足は木造ではなく鉄製であることが分かる。

かつてベトナム戦争で爆撃された地域。落とされたその爆弾の薬莢を小屋を支える柱にしている。ある種の廃物利用であるが、これなら木と違ってネズミが昇ってこられないというメリットがあるらしい。


村の子供ら。

2019年10月21日

ワンコ同伴も当たり前

海外に行き、時間があるとHop-on Hop-off(乗り降り自由)のバスで街の中を巡ることが多い。訪ねた街のサイズや全体的な雰囲気をつかむには、それが一番だと思っているからだ。

ここブダペストには3つの異なるバス会社が運営する市内巡りのバスが走っていて、今回はそのなかのBig Busという名のバスで市内をまわる機会があった。

幸い2階の最前列の席に座ることができ、隣を見ると4人家族が乗り込んできた。両親と子供たちが2人。ラテン系の顔つきをしている。スペインからきた家族かな。それとワンコ。

どうやって連れてきたのか、飛行機に乗せてきたのか、それとも陸路来たのか聞き忘れたが、当たり前のようにそこにいる。

日本だと犬をバスに乗せようとするとだけで、色々面倒くさいことをいわれるかもしれないなあ。




2019年10月20日

古本屋は世界中どこでも同じ匂いがする

ブダペスト市内、国立博物館の向かいの通りには古本屋が軒を連ねている。ハンガリー語は読めないが、神保町の古書街と相通ずる雰囲気を感じて中をのぞいてみる。


うずたかく積まれた古書の山はなかなかのもの。店内は雰囲気があっていい。


2019年10月19日

「いだてん」看板

学会先のブダペストの街中、小さな酒屋の看板に見覚えのあるシンボルが・・・。

2019年9月19日

誰が脱いだのか

昔のデジカメのデータを整理していて、なかから見つけた写真から。



助手席のドアの外に、スニーカーがきれいに揃えられて脱がれている。

独特の環境保護のスタイルで有名なパタゴニア社を取材で訪ねてカリフォルニアに行ったときのスナップだ。パトカーには、サンタモニカ・ポリスとある。

2019年9月14日

キャッシュレスは、人に「金」の価値を感じさせなくさせる

深圳で何か買い物をしようとしたら、まずはスマホ決済(WeChatPay ウィーチャットペイかAliPayアリペイ)が求められる。

店舗とのデータのやり取りは、QRコードが圧倒的に用いられている。スマホを取り出し、アプリを起ち上げ・・・こちらの人たちは慣れているのか特に面倒臭そうにしている人はいない。すべては慣れの産物だろうと独り言つ。

個人的には、キャッシュレスは特段問題を感じないものの、少額の決済の際にも毎回スマホを取り出し、決済するのは思いのほか面倒な気がする。Suicaのような非接触型カードが一番だと思っている。

ただ、中国ではいまやウィーチャット上で個人情報を種々のビジネスにつなげることで、利用者は数々の便益を得ることができるのも確かだ。

個人情報との引き換えの上だが、すぐに慣れてしまうのと、国民性として個人情報がどうなっているかなど国民性としてあまり気にしないから平気なのだろう、たぶん。



2019年9月13日

香港の夜

3泊4日でゼミの学生たちと香港〜深圳に合宿に行ってきた。

金曜日に香港入り。その日の夜はCauseway BayにFire Dragon Dance(舞火龍)という100年以上続く催しを見に行く。中秋節を象徴する歴史的な行事で、大変な人混みだった。


日本では十五夜の夜である。この日はデモもなく、平和な雰囲気の香港の夜を楽しむことができた。

2019年4月22日

スリランカでもテロ

スリランカの首都コロンボで、複数の箇所で爆発事件が起きた。今日時点で200名強がなくなり、450名あまりの負傷者が報告されている。日本人の犠牲者も出た。

爆発が起きた箇所の1つの名に目を引かれた。狙われたシナモン・グランドホテルは、2015年2月にJICAの仕事でコロンボを訪れた際、3日間ほど投宿したホテルだったからだ。

滞在中はいろんな人から長年にわたる内戦のこと、民族間の諍いのことを聞かされた。でも当時、それらは落ち着き、昔そうだったような穏やかな暮らしを人々は取り戻していた。

今回の事件はまだ原因が解明されていない。連続的な事件につながらなければいいけど。

後日、スリランカからの留学生と話した際、今回の事件で彼の自国の友人の2人の姉妹が犠牲者になったと聞かされた。

シナモン・グランドホテル近くの幹線道路

2019年3月24日

ヘルメットはベトナム仕様

ベトナムは、モーターバイク社会だ。特に都市部では昼となく夜となく、小型バイクが所狭しと走り回っている。


朝夕の通勤だけでなく、聞くところによると、夕食後は家族で1台のモーターバイクにまたがり街中を走り回ることをよく彼らはやっているらしい。どこに行くというのではない。ただのレジャー、気晴らしだという。

そうした時ハンドルを握るのは、やっぱりお父さん。後ろにお母さんが座り、その間にひとり、あるいはふたりの子供がはさまれている姿が一般的。50ccのバイクに家族4人が乗って街中を走る。端からは決して安全には見えないが、子供らはみんな父親と母親を信頼しているのだろう。眠っている子供すらいる。これが家族団らんの秘訣かもしれない。

ベトナムの若い女性はポニーテールが圧倒的に多い。流行っているのか、ただ簡単だからかしらないけど。

そのためか、ベトナムのバイク用ヘルメットの後ろの部分は、その「尻尾」がちゃんと出るようにカットされている。ベトナムだけじゃないかな。少なくとも、日本にはこんなのない。なかなかかわいい。

ホアンキエム湖の女子学生たち

日曜日の朝、朝食後、ハノイのホテルを出て近くのホアンキエム湖へ散歩に行った。
湖の周辺は週末らしく、若者がスポーツに興じたり、カラオケを楽しんだりゆっくりと時間を過ごしている。
歩いていると、白人のバックパッカーカップルがベトナムの女性たちに囲まれて、何やら立ち話をしている様子。近くを通りすがりにカメラを向けたらその中の1人がこちらにやってきて、5分だけ時間をもらえないだろうか、英会話の練習に付き合って欲しいと言う。
可愛らしいベトナム娘の申し出に心は揺れたが、僕の岡山弁訛りの英語を覚えてもらうのなんだかなと思い丁重にお断りした。
それにしても、日曜日の朝にこうやって大学生たちが観光客を練習台に英会話のトレーニングに励んでいるなんてのは、今の日本じゃほとんど見られない光景ではないか。成長著しいベトナムのエネルギーのひとつと感じた。



2019年3月23日

Cong Caphe コン・カフェ

コンカフェはベトナムで、特に若者たちに今人気のカフェ。コンカフェのコン(Cong)はベトコンのコンだ。

スタッフはみんな迷彩カラーのユニフォームを身につけ、むき出しのレンガの壁には懐かしのプロレテリアアートをイメージしたものが飾られている。

ハノイだけでなく、ホーチミン市やダナンにも支店があるらしい。



2019年3月22日

子供らがかわいい

アジアの少数山岳民族の村を中心に、現地に小学校や中学校を建てる活動をしている NPO団体、アジア教育友好協会(AEFA)の人たちとベトナムを訪れた。

ここは、ベトナムのトゥエンクアン省カンバオ村の小学校。子供たちがかわいらしい。まさに絵に描いたような純真な瞳に、忘れていたはるか昔の懐かしい想いが押し寄せてくるような感じだ。



子供たちがいま学んでいる校舎は、かつてその村が米を収納しておくための倉庫を改修したもの。設備も教材も、何もかもが我々の目からは間違いなく最低限のものだった。それでも子どもたちの学ぶ意欲の輝きは何ものにも代えがたいものに映った。

2019年3月21日

太鼓がおしえてくれる

ベトナムのハノイ国際空港から北西へクルマで2時間半ほど。トゥエンクアン省のナンリー小中学校。

授業の開始と終わりには、太鼓がどんどんどんと打ち鳴らされる。



2019年3月10日

東日本大震災、沿岸部の工事続く

あれから8年、宮城県の南三陸町を訪ねた。その海沿いをめぐる。

たしかに港湾部はきれいに整備され、一見したところではもう被災の傷跡のようなものは分からない。新しい建物が建てられ、あたり一面きれいだ。だが、人がいない。

浜から少し離れたところには立入禁止のロープがはられ、まだ修復されないまま被害が残された箇所もある。

南三陸町から国道45号線を気仙沼、陸前高田、大船渡方面へ進む。どこもかしこも工事が多い。津波で押しつぶされた家屋や建物があっただろう土地は整備のための工事が、そして臨海部は長大な防潮堤を築くための工事があちこちで行われているのを目にする。

昔からその土地にいる人たちの目からは、風景がどんどん変わっていっているだろう。防潮堤はいざというときの津波を防ぐとともに、人から海の景色を完全に遮断する。高い塀で守られた街は、まるで中世ヨーロッパの城壁都市を連想させる。

普段の景色が変われば、そこに住む人たちの意識も変わっていくのだろう。海の意味も、母なる海というかつての牧歌的なものから、人に牙をむく恐ろしい海へとあり方が変わったに違いない。




2019年2月13日

ジャンボはまだ飛んでいた

ジャンボジェットの愛称で知られるボーイング747機が初飛行したのは、1969年2月。ということは、それからちょうど50年である。

日本到着後に撮影

今回、フランクフルトから乗り継いだルフトハンザ便は、そのジャンボ機だった。まだ飛んでいたのかと、ちょっとビックリした。

日本航空も全日空も、もうジャンボは飛ばしていない。燃費の悪さなど、後続機にその性能や使い勝手で完全に先を越されてしまったからである。だけど、世界の旅行ブームを牽引してきたのは、間違いなくこのジャンボである。エアバスA380が就航するまで、もっとも座席数の多い機材だった。

僕がBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)で働いていた時に日英間を飛んでいたのもすべてこのボーイング747だった。90年前後のバブルの頃は、そのファーストクラスやビジネスクラスから席が埋まっていったのが嘘のように思い出される。

だから、フランクフルトから日本へ向かう飛行機がジャンボだと知ったときは、懐かしい友に会ったような気になった。 

だけど、久しぶりに乗って感じたのは、残念ながらその友はもう時代遅れだということ。最新鋭の機材に比べてなんといってもキャビンの静粛性に欠けている。うるさいのだ。またキャビンの座席の配置も最近のものに比べて工夫がなく、乗客にはとっては快適さにも欠けている。

たくさん(客を)積めるので飛行機会社にとっては今も使い出があるのだろうけど、やはりもう引退させたほうがいいというのが正直な感想。

2019年2月11日

川のある風景

ポルトの街を東西に流れるドウロ川(Rio Douro)。その川によって街は北と南に分かたれている。北側の丘陵地は日当たりが良いからか、斜面に沿って多くの住宅が建ち並んでいる。

一方、川の南側のガイアと呼ばれる地区の斜面はあまり日当たりが良くないので、ワインの醸造所や倉庫が多く並んでいる。温度があまり変わらないから、それがきっと好都合だったわけだ。


リスボンは、テージョ川(Rio Tejo)によって南北に分かれていた。リスボンもここポルトも川があるから港があり、人や物が船で運ばれ、その結果経済が発達し、新しい文化や考えが外から入ってきていたのだろう。

ポルトの下町で

ポルトの裏町で見かけた微笑ましい風景。斜め上のお隣さんが洗濯物をベランダから下の家に落としてしまったのを、いつものことのように物干し竿で器用に拾い上げているおばさん。下町らしいいい光景に見とれてしまった。


「うまいもんだね〜」と下から声をかけたたら、おばさん、手を振って応えてくれた。