前回、アメリカのICEがなぜあのような暴徒と何ら変わらぬ残虐行為を行うのかについて、顔を知られないで「やりたいようにやれる」からだと書いた。本性が露出されることへのためらいをなくすのがこうした匿名性だ。
SNS上などに飛び交う雑多な書き込みの多くは匿名であり、その根っこはそれとたいして変わらない。言いたいことをただ言うだけで、それが正確かどうかとか、理屈に合っているかどうか、根拠があるかどうかなんてことは、端から気にしない。
人は、面が割れず、自分が誰かを他人に知られない状況では別の人間になれるんだろう。いや、別の人間というより、ジキルとハイドのハイド性という方が相応しい。
そうした側面は理性に抑えられているのが通常なのだが、一旦人に顔を知られない匿名でとなると、一昨年行われた兵庫県知事選でも今回タカ市自民党が歴史的な対象を収めた衆院選でもそうだったように、SNS上では理性が瞬間の感情に追いやられる。
このことは社会にとってのある種の暴力だと定義づけられる。
一方、こうした無名性、匿名性もあるのだと今日の日経新聞「私の履歴書」を読んで感じた。写真家の大石芳野さんが2002年にアフガニスタンへ取材で入った時のことを書いていた。
米国で同時多発テロが発生した翌年のこと。アフガニスタンは、それ以前にソ連の軍事侵攻や内戦、米軍の爆撃など度重なる戦禍で街が破壊されていた。そしてタリバン政権のもとで、女性たちは教育を受けることもできず、まともに働くこともできなかった。
大石さんは「・・・この国では頼る人がいなければ(女性たちは)物乞いになるしかない。こちらが外国人と見ると寄ってきてチャドリ(全身を覆う衣服)の裾から手を出してくる女性が多くいた」そして「顔を隠しているからこんな屈辱に耐えられるのです」と書く。
顔を隠す衣服が屈辱に耐え、生きていくための悲惨なシェルターの一つにもなっているのである。
彼女たちは理不尽この上ない状況の中で自分を守るために、その時、屈辱に自分を殺されないために、自らの人格をその瞬間消し去るため、顔を隠さざるを得ないのだろう。
もちろん、同じ「顔を隠す」ことでもこれらふたつは、まったく異なる行為である。