2020年1月25日

その薄ら寒さと理不尽さ

映画『リチャード・ジュエル』は、現在89歳であるクリント・イーストウッドが監督した40本目の作品。1997年に雑誌のヴァニティ・フェアに掲載された一本の記事からイーストウッドが映画化を考えていた。


1996年、アトランタでアトランタの屋外コンサート会場で発生した爆破事件現場から物語が動き始める。そこに警備員として働いていたリチャード・ジュエルは、最初その第一発見者として英雄視されるが、やがて実行犯の手がかりを得られないFBIから容疑者として疑われるだけでなく、捜査官らによって「犯人」に仕立てられていく。

そうした情報がFBIから地元メディアに流され、彼は一夜にしてヒーローから殺人鬼の悪魔へと世間の見方は変わっていく。自然とそうなったのではない、犯人逮捕を焦る捜査官と彼とつるむ女性記者の功名心によって、どこにでもいる普通の国民が獲物にされた。

いったん「第一発見者のヒーローが犯人か?」という報道があるメディアで出てしまえば、他のメディアも一気にその流れに乗ろうとする。いやはや、浅はかというか、恐ろしいというか。ヒーローであろうが殺人犯であろうが、対象がネタになりさえすればいいと考えるメディアの報道の姿勢がよく描かれている。

日本でもかつて、松本サリン事件の第一発見者だった河野さんが報道によって犯人視されたのと同じである。

その薄ら寒さと理不尽さ。映画には、そうしたものへのイーストウッドの静かな怒りが根底に流れている。

2020年1月15日

必要なのは、利用者に選択肢を与えること

マイクロソフト社によるWindows7のサポートが昨日終了した。

日本国内だけでも、Windows 7搭載のパソコンは約1,400万台残っている。マイクロソフトは、このまま使い続けるとウィルス感染などのリスクがあるためウィンドウズ10など最新のOSへ切り替えること、あるいはウィンドウズ10を搭載したPCに買い換えることを推奨している。

もう利用者が少なく、その割に費用がかかるというのなら仕方ないかもしれない。しかし日本国内だけで1,400万台、世界中ならおそらく1億台近くがまだ使われているんじゃないかな。

これらを無視してサポートを中止することに、なぜ批判が出ないのか。僕はマックユーザーだから個人的にはあまり関係ないが、Winユーザーはどうして怒らないのだろう。既に「そういうもの」だと思わされているからだろうか。

マイクロソフト社が、サポートを続けるのには費用がかかるからというのであれば、費用をユーザーに課金すればいい。

この機会にOSをアップグレードしたい、あるいはPCを買い換えたいと考える顧客もいれば、このままサポート費用を払ってでも今のOSを使い続けたいというユーザーもいるはずだ。

そうした選択肢を消費者に与えることが大切なのに。


2020年1月13日

映画「パラサイト 半地下の家族」のブラック・ユーモア

外国のことながら、「こんな家族いるだろうなあ」と思わせてしまうセッティングがうまい。家族の構成とチャラクター設定が絶妙で、ここに樹木希林さんがいたら・・・と鑑賞中にとふと思ったりして。

最初は喜劇だが、最後は悲劇。いや、やっぱり喜劇か。グロテスクさと笑いが、ポン・ジュノ監督の持ち味だ。映画の中で何人か人が殺されたりするが、全編を通じて流れてくる「おかしな」空気に何度も声を上げて笑ってしまった。なぜか劇場のなかで僕だけだったけど。


主人公たちの家族は、キム一家。彼らがパラサイトしていく先は、パク一家。キムさんとパクさんは、日本だと鈴木さんと山田さんか。武者小路や伊集院とは違う。どっちがどっちでも入れかえ可能だ。だけど、この2つの家族は何かの理由でまったく違う家族として、同じ時に同じ町に暮らしている。

日本語の映画タイトルにある「半地下の家族」は、キム一家が暮らす住まい。そこは映画のための想像上の生活空間ではなくて、もともとは北朝鮮からの攻撃に備えた防空壕として作られ、韓国内にはまだそれなりの数が残っている。

半地下だから陽の光があまり差さない。湿気が多く、かび臭い。そして、便器の奥から下水が逆流してこないように、トイレが部屋の中で一番高い場所に設置されているのには苦笑するしかない。

キム一家は誰も定職を持っていない。実際に韓国では定職に就くのは、今は簡単なことではないらしい。先進国はどこも格差が広がる一方だ。だが、この家族4人は立派な学歴や肩書きはなくても、みなが才能揃いとも見て取れる。

3浪中の息子はその経験を活かしてパク家の高校生の娘に受験勉強を教えるのがうまい。美大希望の娘は機転が利き、わがままでパク夫妻が手を焼いている息子もあっという間に手なずけてしまう。元ハンマー投げの選手だった母親は、その家の家政婦として料理や家事に腕を振るう。

そして職を転々とし、やがて事業に失敗して失業中の父親は、IT企業の経営者であるパク家の主人の運転手としての技量だけでなく、雇い主の気持ちに添った会話がしっかりできる人生の経験者だ。

だからこそ、今置かれた貧しい暮らしを恨んだりする前に、どうやてって抜けて出て這い上がるか「計画」をいつも立てて実行している。すこぶる前向きなのだ。映画では、そこにある種の救いとともに不条理さがにじむ。

そして後半に登場する、半地下よりも「下」で続けられていた人物の生活。やがて起こる、半地下生活人と地下生活人の衝突と闘い。社会の片隅に押しやられた人たちに突きつけられる悲しさと可笑しさが最後に残った。

2020年1月12日

懐かしき、壮絶なサーキットの闘いを描いた一作

舞台は1966年。今から半世紀以上も昔のこと。ル・マン24時間耐久レースで、フォードとフェラーリが死闘を演じた。

フォードといえば、T型フォードによって世界で最初の大量生産方式を自動車産業に取り入れた企業。大衆消費者を顧客とし、製品である車の安さをアピールして大企業になった世界的な自動車会社である。

一方のフェラーリは、設立者のエンツォ・フェラーリがかつてアルファロメオのレーシング部門から独立して築き上げた、まさに「走り」のための会社。

当時、モーターレースで連勝を続けるフェラーリ。劇中でそのエンツォ・フェラーリは、自分たちに対しての買収を持ちかけてきたフォード社幹部に「フォードは醜い工場で醜い車を作る醜い会社だ」という言葉を吐く。

怒ったフォードⅡ世がフェラーリに闘いを挑むのだが、レースについては何も知らない彼らが勝てるわけもない。そこで助っ人として、元レーサーのシェルビーにル・マン出場のためのチーム監督として白羽の矢が立てられる。ドライバーは、彼が連れて来たマイルズ。それぞれ、マット・デイモンとクリスチャン・ベイルが見事に演じている。

実話に基づいた物語らしいが、なぜいま1960年代のカーレースなのかーー。

いまや新聞などでクルマの自動運転についての記事を見ない日はないくらいだ。そしてガソリンで走る内燃機関を使ったクルマは、確実に時代の片隅に追いやられている。悲しいかな。

急速に移行しつつあるEV(電気自動車)には、耳をつんざくエンジンノイズも排気ガスの臭いもない。これはかつて、自分たちの青春時代をクルマとともに過ごしてきた連中が、あの頃を懐かしんで作った映画のように思える。

ここでは象徴的に多くの対比が描かれている。まず映画のタイトルの大衆車を大量に製造するフォードと、限られた層にだけ手が届くスポーツカーを生産するフェラーリだ。フォードは大工場のなか、ベルトコンベアの流れ作業で組み立てられ、フェラーリは個々の職人の手で完成まで手が加えられながら生み出される。

2つの自動車会社の経営者も実に対照的だ。時のフォードの経営者は、フォード社創業者の孫。典型的なエスタブリッシュメントで、絵に描いたようなビジネスマン。自分の工場を訪れても高見から現場を見下ろしてものを言うだけで、製造現場へ降りてはいかない。一方フェラーリ社のエンツォ・フェラーリは、経営者というよりアルチザン(職人)の親方という雰囲気を醸し出している。

エスタブリッシュメント対現場という点では、社屋の最上階に位置する重厚な役員会議室ですべてを決めようとするフォード社の重役たちと、ガレージの中で汗を流しマシンの調整を続けるエンジニアやレーサー、ピットでのクルーたちの姿も対照的だ。

レースでは、シェルビーらの手によるフォードGT40がフェラーリを抑え、1位から3位まで独占して勝利するが、フォード社の幹部たちとレースを実際に戦ったシェルビーやレーサーのマイルズの間には心の交流はなにもない。むしろ、フェラーリを破って優勝したシェルビーのチームに静かに称賛をおくるエンツォ・フェラーリの姿が印象的だった。

だが、そうしたいくつもの人間模様を読み解くことにまして、サーキットを時速300キロ以上で疾走するレースカーを追う映像は、観る者の目をクギ付けにする。CGで合成されたものではなく、撮影用のカメラを別のレースカーに積んで走らせ撮影された。「LOGAN/ローガン」(2017年)を監督したJ・マンゴールドの意欲的な作品である。

2020年1月11日

ロング・ショットとは、「高嶺の花」の意味

「ロング・ショット」は、シャリーズ・セロンとセス・ローガン主演のラブコメディ。タイトルになっている「ロング・ショット」は、この場合、高嶺の花という意味。


僕がシャリーズ・セロンを初めて見たのは「サイダーハウス・ルール」(1999年作)。同名のジョン・アービングの小説の映画化で、のちにスパイダーマンの主演を務めることになったトビー・マグワイアの出世作にもなった。この映画は、僕のもっとも好きな映画のひとつだ。

そのなかで世間知らずな青年のマグワイアと心を交わす、純真な心を持つ若い女性を演じていたのがシャリーズ・セロン。なんだか雰囲気のある女優だと思った覚えがある。

彼女はその後、アカデミー賞を6部門で受賞した「マッド・マックス/怒りのデスロード」(2015年作)に主演してそれまでとは全く違う役の幅を広げた(頭がマルガリータ!)。今回のアメリカ国務長官役は、ひょっとしたらアメリカの女性国務長官はこんな感じかもしれないと思わせるもの。しっかり背筋が伸びている。

相手役のセス・ローゲンはコメディの面ではいい味を出しているが、セロンの恋愛の相手役としてしては魅力不足は否めず、そこには残念ながら構成の無理さを感じざるを得なかった点が惜しく減点。

感心させられたひとつは、字幕翻訳がよく練られたものだったこと。コメディならではの俗語や独特の言い回しも多かったのだが、うまく元の意図をくみ取った字幕がつけられていたと思う。

結構あからさまな下ネタ満載なんだけど、分かりやすい日本語で違和感ないリズムで訳されていたのが幸いしている。こうした優れた字幕があることで僕たちは映画のなかに入っていくことができ、自然なかたちで楽しむことができるのを忘れてはいけないと思う。

スプリングスティーンの I’m on Fire など挿入される80年代、90年代の懐かしいメロディーもストーリーによくマッチしてる。

冒頭で、フレッド(セス・ローガン)が勤務する新聞社を買収し、米大統領ともつながっているメディア王は、あのルパート・マードックを連想させる。マードックはこの映画の製作会社である21世紀フォックの元オーナーで、ディズニーによっての買収が昨年の3月に完了したばかり。アメリカの映画の制作者の自由さ、おおらかさ。

2020年1月8日

ゴーンの記者会見

今日の午後10時からレバノンのベイルートでゴーンの記者会見があった。一部を除き、NHKをはじめとする主要な日本のメディアは会見上から締め出されていたらしい。

CNNとBCCでゴーンが説明をする中継を見たが、その会見は約一時間に及んだ。よほど言いたいことが溜まっていたんだろう。内容はともかく、その気持はよく伝わって来た。こうした会見を日本で、日本のメディアの前で行ってもらえなかったのが残念だ。


当然ながら彼は、自己の正当性をこれでもかと主張する。それも日本人とは違い、自分の非は一歩たりとも認めない。実際はそんなことはあり得ないのだが、外国人は自分の正当性を主張するときは、手段として自己の正当性を完全に主張する。日本人には相容れないところだ。

だから、どうやって日本から忍者のように身を隠して出国審査の目をだましたかといったことには、まったく触れない。自分の非がある領域には、当然のことのごとく目を向けることすらしない。

今回のこの会見に対して日本の司法当局がどう出るか。ゴーンの肩を持つわけでないが、当事者らのことをほとんど省みない司法当局のやり方は指弾されても仕方ないかもしれない。

慎重に審議を重ねているといういかにももっともらしい言い訳で、どうみても必要以上の時間を消費し、関係者に多大な負担をかける裁判制度をあらためようとはしない。裁判官に係争人の当事者意識を持てというのはおかしいかもしれないが、自分たちの都合と保身だけで周りをコントロールしようとするのは間違っている。

今回のことでゴーンは日本では悪人としての烙印を押されたことになったわけだが、日産ははその被害者なのか、あるいは共犯なのか。日産は一所懸命に被害者づらをしているように見えるが、社会の信頼を裏切り、違法行為を追認したという意味では実際は共犯だ。

もちろんゴーンは悪いが、日産という大組織を彼一人がすべて回していたわけではない。そんなことは不可能だ。何百人もの取り巻きがいたはずなのに、そうした連中は批判されないのが不思議である。

ゴーンを担いで大得意になっていた日産の経営者はたくさんいる。ゴーンにすべてをまかせ、称賛も責任も彼に与え、落ち込んでいた業績からの復帰で沸いてきた甘い汁のおこぼれを静かに、だがしっかりとすすっていた日産の日本人幹部らが。

日産を辞めた後、いまも各種団体で役員などに就いていうようなそうした連中に責任がないはずはないだろう。だが、どれもだんまりを決め込んでいる。

技術者や販売の現場は、かつてもいまもボードルームで何が起こっているかなど知らず頑張っているに違いない。ただ、経営者とその周辺が腐りきり、かつての名門企業をおとしめた。今日の多くの日本企業に見受けられる様相である。

言うべきことを言わないという、日本人のシンプルかつ致命的な習癖がそれを形づくっていく。